第29話:バルバール軍出陣
まもなく春という時期、ランリエル王国が王都に軍勢を集結させている。その報がバルバール王都にもたらされた。
住民達は慌てふためいたが、これありと準備を進めていたバルバール軍総司令部の者達には、今更驚く事ではない。だが緊張は駆け巡った。
「サルヴァ王子は擬態を行わず、正面から堂々と侵攻してくるようだね。もっとももはやどう小細工したところで、狙いがバルバールというのを誤魔化せる状況でもないが」
総司令部の会議室で、幕僚、諸将達を前に総司令官フィン・ディアスがそう口火を切った。
それに続き、参謀の1人が壁に掛けられた地図を差し棒で示しながら現状を説明する。
「先の戦いで大打撃を与えたとはいえ、ランリエルとの戦いが長引けばコスティラもどう動くか予断を許しません。その備えを残すとすれば、ランリエル国境に展開出来る我が方の軍勢はおよそ4万です」
「ああ。コスティラにして見れば、我がバルバールは長年恋焦がれている想い人。それを横からランリエルに寝取られるとなれば黙っては居られないだろう。ずいぶん一途に想われ、ありがたい話じゃないか」
総司令の不謹慎な表現に眉をひそめる者も皆無ではなかったが、大半の者はいつもの事と受け流す。そして気を取り直した将軍の1人が挙手しつつ発言した。
「現在コスティラが介入すると想定した場合、どの程度の戦力をバルバールに向ける余力がありますでしょうか」
その問いかけに、ディアスは別の作戦参謀に視線を向け説明を促した。その参謀は進み出て説明を始める。
「は! コスティラの海軍戦力については、ほぼ壊滅状態に追い込みましたので、回復には数年掛かると想定されます。こちらは10隻も海峡の入り口に展開させれば封じ込める事、間違いありません。陸戦戦力についても、最後の決戦だけでコスティラ軍は3万5千の死者を出しておりますが、それ以前の段階でも多くの損害を出し、文字通り戦力は半減。そしてコスティラとて国境を接するはバルバールのみではありません。今までは充実した国力でそれらの国とは争い無くすんでおりましたが、半減した戦力をさらにかき集め、全軍こぞって我が方に攻め寄せるのはあまりにも無謀。我が方に向けられる戦力は精々2万程度かと」
するとその説明に、武門の血筋だけならばディアスを超えるシルヴェンが疑問の声を上げた。椅子から立ち上がり、参謀にではなく総司令ディアスを睨み付けながら口を開いた。
「しかしコスティラの陸戦戦力はそもそも10万を超えよう。そして以前はそのほぼ全軍の10万を差し向けて来ていた。半減なら5万ではないのか」
この発言に幕僚、諸将はざわめき、誰もが反射的に口を開こうとし、慌てて口を噤んだ。腐っても武門の名門の当主である。無用に恥をかかせ恨まれてはたまったものではない。
みなの視線はついこの場の最高責任者、ディアスへと集中した。みなから責任を押し付けられた総司令官は内心舌打ちした。
「コスティラ軍10万が我がバルバールと戦っている隙を狙い、その背後を他国が攻め寄せたとしてどうなる? 緒戦を優勢に進められても引き返してきたコスティラ軍10万に巻き返される。彼らもそれが分かっているから今までは空となったコスティラを攻めなかった。だが現在の5万のコスティラ軍ではその巻き返しは難しい。バルバールに攻め寄せるとしても、国内を空にする事が出来ず十分な戦力を国内に残さねばならない。その為、コスティラの軍勢は精々2万と推定されるんだ」
このディアスの言に、シルヴェンは
「ならば初めから、もう少し分かり易く説明して欲しいものですな」
と憎まれ口を叩き不満げに腕を組んだ。諸将は密かに冷ややかな視線を彼に送る。
ディアスはシルヴェンにかかわってはいられないと、気を取り直し参謀に視線を送り先を促した。
「それでは、続けさせて頂きます。最大2万を想定されるコスティラ軍に対し、我が軍は王城に3千。国境の砦には7千を篭城させます。砦には武器、食料、燃料など必要な物は十分蓄え、たとえコスティラ軍が砦を尻目に国境を越えようとも、討っては出ず立て篭もり続けさせます」
敵軍を素通りさせようという作戦に、武将の1人が表情を歪ませ懸念を口にする。
「それでは、領内がコスティラ軍に蹂躙されるではないか」
だがその危険性に参謀は落ち着いて答える。発表しているのは彼だが、その内容は総司令官ディアスが入念に検討したものである。武将の指摘も想定の内にあった。
「はい。勿論そうなりますが、国境付近の住民にはすぐに避難出来るように勧告を出します。それに後背に7千の我が軍を残したままでは、コスティラ軍も我が領内深く進攻する事は出来ません。物資の輸送も困難となり、住民に避難させれば現地調達もままなりますまい」
そこにまたもやシルヴェンが口を挟んだ。彼は今度こそはと自信に満ちた表情で口を言った。
「我らがランリエル軍と対峙している間に、コスティラ軍が国境でもたもたせず一気に王都を突いたらどうする積もりか! 我らは進退窮まり窮地に陥るではないか」
その顔はバルバールの危機を訴えているはずにもかかわらず、下品な笑みを浮かべていた。シルヴェンの本心が母国への愛情からではなく、単にディアスへの揚げ足取りの発言なのは誰の目にも明らかだった。そしてまたもディアスへと視線が集中する。
「確かにそれをやられると、我が国は窮地に陥るだろうね。だがコスティラ軍がそれを行って、誰が得すると言うんだい?」
「誰が……」
単に、それを行われては危ないとだけ考えていたシルヴェンは、その問いに答えられない。ディアスは返答を待っても無駄、と話を続ける。
「コスティラ軍2万に王城を突かれても、王城に3千が立て篭もればしばらくは持ち堪えられる。だがそうなれば、国境でランリエル軍と対峙する我らも王城へと引き返さざる得ないだろう。コスティラ軍は、背後を7千の軍勢に塞がれつつ、引き換えしてきた4万の我が軍と戦う事になる。全滅は必死だ。勿論、そうなればランリエル軍は国境を突破する。我が国は滅亡し、ランリエルの物となる。コスティラ軍の犠牲の元にね。シルヴェン将軍。コスティラが多くの犠牲を出してまで、ランリエルに利する行動をする理由を聞かせて貰えるかな?」
シルヴェンはその質問に答える事が出来ず、絶句した。ディアスは大きく溜息を付いた。もはや馬鹿馬鹿しさを隠そうともしない。
「我が国に2万しか派遣できない状況では、コスティラはランリエルに勝って貰っては困るんだよ。万一コスティラに損害無く我が軍が消滅しても、10万を超えるランリエル軍と、コスティラは2万でバルバールの覇権を争う事になるんだからね。彼らが考えているのは、精々国力が回復したその時に備え、国境付近に足場を作る。それくらいなものさ。我が軍がランリエルに負けてしまわないように気を付けながらね」
そして幕僚、諸将を見渡す。今言った事などシルヴェン以外はわきまえているとは思うが、一応他に意見を述べる者が居ないのを確認し、改めて参謀に目をやった。
「さて、コスティラへの備えは以上として、ランリエルへの対応を説明してくれ」
軍義の後、総司令の執務室で疲れきって椅子に座るディアスにケネスが労いの言葉を掛けた。
「無駄に沢山説明させられて、大変でしたね」
結局ランリエルへの対応の説明時にも、シルヴェンからの的外れな追及は連発され、その度に総司令としてディアスが説明をせねばならなかったのだ。
慰められた上官は、忠実な従者に力なく答える。
「なに、表面上は分かっているふうに装っていても、本当はシルヴェンのように分かって居ない者もいるだろう。その者の為にも、ちゃんと説明する事も必要だよ」
「なるほど。そういう事もあるんですね」
感心するケネスに、ディアスは肩をすくめて見せた。
「いや、そうとでも思わないとやってられないだけさ」
そして、ランリエル国境に向け出陣を翌日に控えたある日。
いつも通りにミュエルと共に寝床に着いたディアスは、目を瞑りながらも明日の出陣を考え眠れずに居た。すると隣で寝ているはずのミュエルの身体が近寄って来るのに気付いた。
夫が翌日には出陣するのだ。妻が心配のあまり寝付けなくとも仕方あるまい。そう考えていたディアスだったが、その幼い妻は近寄るばかりか恐る恐る自分に触れて来たのだった。
ミュエルの指先がディアスの腕に微かに当たり、慌てて引っ込むかと思うと次には軽く触れ、そして遂にディアスの腕に手を置いた。
ミュエルの身体がさらにディアスに近づく。小さな手は、今度は襟の隙間からディアスの胸の辺りに置かれる。
何の積もりかと妻の好きにさせていたディアスだったが、その意図を察し口を開いた。
「どうした。ミュエル?」
その言葉に慌てて手を引きかけたミュエルだったが、すぐにまたディアスの胸に手を置いた。
「私は……ディアス様の妻です」
やはり……。妻は、夫ならば出陣する前に自分を抱けと言っているのだ。
ディアスは、標準的な12歳の少女に比べてもさらに小さなミュエルの体を抱き寄せると、自分の体の上に乗せた。
そして力を入れれば折れてしまいそうな薄い体を抱きしめ、小さな唇に己の唇を重ねる。ミュエルはされるままになっているが、緊張の為腕を胸の前で縮込ませ微かに震えていた。
純粋な愛情以外の成分を僅かながらに含んだ口付けを終えた後、ディアスはミュエルを見詰めて口を開く。
「今日はここまでだ。続きはまた今度にしよう」
「どっ、どうしてなのです!」
勇気を振り絞りディアスに触れ、そして夫も応じてくれるのかと思っていたにもかかわらずの言葉に、ミュエルは取り乱した。
自分はフィン・ディアスの妻のはず。それが今まではともかく、夫の出陣を前にしても抱かれないなんて。
ディアスは幼き妻をなだめるように優しく語りかけた。
「どうして今お前を抱かなくてはならないんだい? まさか出陣すれば私が死んでしまうなんて思ってるんじゃないだろうね」
「いえ……そう言う訳では……」
だがそうは言ってもミュエルの声にはまだ不安な響きが含まれていた。戦いに出るのならばやはり危険なのではないかとディアスの身を案じていた。
そして……万一の事がある前に、ディアスの妻である証が欲しかったのだ。
「いいかい。お前の夫はバルバール軍史上最高の総司令官フィン・ディアスなんだよ。そう簡単に死ぬ訳が無い」
妻を安心させる為とはいえ大言壮語が過ぎるな。とディアスは内心苦笑した。そして自分の身体の上に乗る軽い身体を改めて左手で抱きしめ、右手は妻の真っ直ぐな黒髪を撫でる。
「お前にはちゃんと私の子供を産んで貰う積もりだ」
「本当でございますか?」
ディアスに抱きしめられさらに頭を撫でられているミュエルは、動く事が出来ずディアスの胸に顔を埋めたまま言った。
「ああ。勿論だとも。だがまだお前は幼い」
「はい……」
世には13歳、14歳で子を産む女も居る。世間体を考えなければ12歳のミュエルが今妊娠しても、産むのは13歳の時になるであろう事を思えばおかしい話ではない。だがミュエルは一般的な12歳と比べても身体が小さい。それはミュエル自身自覚していた。
「でも、いずれお前には沢山子供を産んで貰うんだから、覚悟しておきなさい」
ミュエルは抱きしめられて首が動かせない為、心の中で首を傾げた。何をどう覚悟するのだろう?
だが、幼く知識の少ないミュエルは、それが沢山お前を抱くのだと遠まわしに言われていると気付かず、とにかく夫がそう言うのだからそうしなければならないのだろうと判断した。
「分かりました。がんばります」
と自分の腕の中で素直に返事する妻を抱き寄せて、改めて軽く口付けた。
そして夫は考えた。さて、このままミュエルを身体の上に抱いたまま、寝る事は出来るだろうか。
翌朝目を覚ましたディアスは、ミュエルが自分の身体の上ですやすやと寝息を立てている事に、案外寝れるものなのだな、と我ながら感心した。
むしろそれより、眠りの浅いらしいミュエルが大人しく寝ている事の方が意外だった。だが、実はやはりミュエルは何度も目が覚め、朝方になってやっと眠りに付いた所だったのである。
もっとも夫の上で寝るという事が嫌だった訳ではなく、夫に抱かれながら寝るというのは彼女にも嬉しい事だった。
ディアスが起き、僅かながら身じろぎするとミュエルも目を覚ました。
「おはよう」
「おはようございます」
間近で行われた挨拶の後、妻は夫の上から降り夫は体を起こす。
「いててっ」
30歳半ばのディアスに、いくら幼いとは言え、人一人を乗せたまま眠るのは体勢に無理があったらしく、身体のそこかしこが痛い。
だが幼い妻に年齢の事で弱音を吐くのは躊躇われ、
「どうなさいました?」と心配そうに聞くミュエルに
「いやなんでもない」と強がって答えた。
そして二人は部屋を出て朝食を取るべく食堂へと向かうと、そこにはすでにケネスが先に座っていた。
「おはようございます」と挨拶するケネスにディアス達も挨拶を返す。
だが椅子に座る時ディアスはつい、また
「いててっ」と声を出し、寝不足のミュエルは小さく欠伸をした。
その二人にケネスは不審に思い問いかける。
「大丈夫ですか?」
「ああ。昨日の夜ちょっとな」
ディアスは何気に答えたが、その答えにケネスは赤面した。そして視線をミュエルに移す。さっきから頻繁に欠伸をし明らかに寝不足の少女に。
ミュエルは何の事かと首を傾げたが、その夫は従弟の勘違いを敏感に察して慌てて口を開く。
「ケネス。誤解するなそういう事じゃないからな」
ケネスも急いで首を振る。だがその顔は赤面したままだ。
「いえ。そんな僕は別に……。それにお二人は御夫婦なんですから特におかしい事じゃないですし」
するとやっとミュエルもケネスの言っている意味を理解し、狼狽して弁解する。
「ちっ違います! ディアス様の上で寝ただけです!」
その言葉に夫と年上の従弟の動きが止まる。そして自分の発した言葉の意味気付いて、幼き新妻も固まった。
結局三人は、使用人が朝食を運んでくるまで終始無言でお互いに目を合わせることもなく、その後も続いた気まずい空気の中で黙々と朝食を食べたのだった。
自邸の前でディアスが馬に跨り、その轡を従者であるケネスが持つ。
「では行って来る」
馬上から妻に声を掛けるディアスにミュエルも答えた。
「行ってらっしゃいませ。御武運をお祈りしております」
と武人の妻らしい挨拶をした後、
「必ず生きて帰ってきて下さい」と付け加えた。
「分かった。必ず生きて帰ってくる」
ディアスは妻に微笑みそう答えた。
そして視線で合図を送るとケネスは轡を持って歩き出し、彼が率いる幕僚達が待つ王城へと向かったのだった。




