第28話:王子の結婚(2)
ヴァレリアは駆けつけた警護の者にすぐに拘束された。そしてセレーナは急いで部屋に運ばれた。
「セレーナ! 気を確かに持って!」
部屋へと向かいながらアリシアは懸命に彼女に声をかけた。だが微かに意識はあるものの、セレーナにはその声に応える力はない。そして部屋に着くと間もなく医師も到着した。
「出来る限りの事は行います。今夜が峠となるでしょう」
医師の言葉により部屋から追い出されたアリシアは、部屋の扉に張り付くようにして立っていた。中の様子を窺う為にではない。少しでもセレーナの傍近くに居たいが為だった。
冬ももう過ぎようとしていたが木製の扉は冷たく、張り付いた彼女の頬と手を容赦なく凍て付かせた。だがアリシアはそれを意に介さず、むしろ抱き締めるかのように手の平に力を込めた。それはまるで扉を暖めれば、血を失い冷たくなっていくセレーナの身体を、温める事が出来ると考えているかのようだった。
ヴァレリアは何故セレーナを刺したのか? 彼女への嫉妬なのか? それとも寵愛第一位の座は自分の物と思い、それを奪ったセレーナへの憎しみか。それとも道連れの……心中の積もりだったのか。
だがアリシアには、ヴァレリアがセレーナを刺した理由などどうでも良かった。どのような理由を聞かされても納得など出来ないのだから。
そこに報告を受けたサルヴァ王子が、副官のルキノを従えやって来た。
「セレーナは無事か!?」
アリシアの姿を見止め問いかけた王子に、彼女は扉から身を離しその問いに答えた。
「今夜が……峠との事です」
「そうか」
王子は呟くように言うと、彼女を押しのけ部屋に入ろうとした。だが扉に伸ばした王子の手を、アリシアは押し留めた。
「殿下。今殿下が部屋に入っても邪魔になるだけです」
そのアリシアの言葉に王子は激し
「どけ!」
と彼女を改めて押しのけようとした。だがアリシアは頑として動かない。
王子に対して不敬なアリシアの振る舞いに、いつもなら王子に加勢するはずの忠実な副官はどうすべきか態度を決めかねた。彼女の言動はあまりにも無礼。しかしその内容は彼女の方が正しいのではないか。そうルキノにも思われたのだ。
王子とアリシアはしばらく睨み合っていた。だが……不意にアリシアが身を引いた。この思いがけない行動に、傍観者であったルキノは思わず目を見開いた。
今まで王子が部屋に入るのを拒んでいたアリシアが何故身を引いたのか。もちろん、王子の地位や剣幕に今更恐れをなした訳ではなかった。彼女はある可能性に思い至ったのだった。それは考えたくも無い事だったが、無視出来ない事でもあった。そしてアリシアが今更自分に恐れ入る事などないと知る王子も、何故突然彼女が身を引いたのかを察した。
僅かでも音を鳴らさぬようにそっと扉を開けると、サルヴァ王子は静かに部屋に入った。そしてゆっくりと愛する寵姫の傍へと歩み寄る。震える唇からその名を呼んだ。
「セレーナ」
その声は治療の邪魔にならぬように小さく、それでいて彼女からの返答を期待するようにはっきりと聞こえた。その声に、王子の意にそってか意に反してか、セレーナは微かに瞼を持ち上げた。
だが、その彼女の反応に王子がさらに傍に寄ろうとした瞬間、また瞼は閉じられた。近寄る事も出来ず、離れる事も出来ない王子はしばらくその場に間立ち尽くしていたが、不意に数歩後ずさったかと思うと、背を向けた。そして扉をもくぐり廊下に出る。
「殿下! セレーナの様子は?」
部屋から出たサルヴァ王子にアリシアは声をかけたが、王子はその問いに答えず、ほとんど駆けるようにして部屋から遠ざかる。その後をルキノが慌てて追いかけた。
王子の背を見送ったアリシアは、扉に寄りかかると崩れるようにその場に座り込んだ。
その夜遅く、アリシアが見るとも無く部屋の一点に視線を向けて椅子に座っていると、ノックの音も無しに扉が開け放たれ、黒衣の男が部屋に入ってきた。そしてその後にサルヴァ王子が続く。どこに置いて来たのかルキノの姿は無かった。
黒衣の男は無理やり連れて来られたようで、この部屋にも入ったというより、王子に押込められたという方が正しかった。
アリシアは、何をする積もりなのだろう? とは考えたが、それでも特に声をかける必要を感じず、黙ってその2人を見ていた。王子はなにやら黒衣の男にさせたい事があるようだが、男はそれを必死で首を振り拒んでいる。
しかし、王子が腰の剣に手をかけると遂に男は屈した。そして重い口を開き、王子が望む通りの口上を述べ始めた。その男の言葉に、今まで思考が停止していたかのように無関心だったアリシアの目が次々と変わった。はじめは驚愕の色を呈し、次に恐怖が広がったのだ。
「殿下……。何をなさるお積りなのです?」
サルヴァ王子は、その声に顔を向けずに応えた。
「決まっているだろ。セレーナとの結婚式を行うのだ。セレーナは私との結婚を望んでいたからな」
アリシアは、横たわるセレーナの傍に立ち、黒衣の男。神父に顔を向けるサルヴァ王子の背に言葉を掛けた。
「ですが……セレーナはもう……死んで……亡くなっております」
それは彼女の認めたくはない、目をそらし続けていた事実だった。だが口に出したその言葉は、彼女自身の耳を打ち、それが現実だと認めさせた。そして気付いた時にはすでに涙が頬を伝っていた。
セレーナの両親であるカスティニオ公爵夫妻の元には、セレーナが刺されてすぐ早馬が発していた。だが折悪く公爵夫妻は避寒の為別荘で過ごしており不在だった。その為セレーナの最後を見取ったのはアリシアだったのだ。
すでに医師達は引き上げ、今セレーナの部屋には、アリシアとセレーナの侍女、そしてサルヴァ王子と王子が連れてきた神父のみ。いや、もう1人と言うべきか、セレーナがベッドの上に横たわっている。白い肌を透けるほど白くして。
セレーナと傍に立つ王子の前に神父は居たが、アリシアの言葉に、自分は無理やりさせられているのだと目で訴えた。侍女達は、王子の所業に部屋の隅で身を竦ませ、アリシアに救いを求めるかのような視線を投げかけた。そして王子も部屋に入って初めてアリシアに顔を向けた。
その顔にアリシアはぞっとした。サルヴァ王子は笑みを浮かべ言った。
「アリシア、あまり私を馬鹿にするのではないぞ? まさか私がセレーナが生きていると勘違いしていると思っているのではあるまいな? セレーナは死んだ。だが、だからどうしたというのだ? 死者と結婚しては行けないと誰が決めたのだ?」
サルヴァ王子は気が狂った。アリシアがそう思った瞬間、王子の表情は激したものに変じ、怒声を発した。
「誰が決めたのだと聞いている! セレーナはそう望んでいたのだ! その通りにして何が悪い!」
宿敵カルデイ帝国を打倒し、三ヶ国鼎立の一角をなしていたベルヴァース王国をも従え、さらに領土を広げんとバルバール王国への侵攻を目論む稀代の英雄。だが今の彼には、それらをなしえるに発揮した、理性と知性の欠片も存在しないかのようだった。
死者との結婚。その忌わしい行為に、それを行う神父もそれを見守る侍女達も恐怖に怯えていた。単にその儀式に携わる事への恐怖ばかりではなかった。
今や並ぶ者無き英雄にして大国の次期国王たる第一王子。それが後宮の一室で死者と婚姻したなどと知られれば大問題では済まされない。次期国王の座からの失脚すらあり得た。この儀式の事を少しでも漏らせば命は無い。いや、場合によってはこの儀式の後、口封じに人知れず殺される事すら考えられる。
自らの命に執着しないアリシアにしても、この儀式はすべきではない。そう思えた。このような事をしてもセレーナは喜びはしない。この事によって誰も幸せにはなれない。その程度が分からぬとは、やはり王子は気が違ったのだろうか?
だが返答をしないアリシアから背を向け、神父に向かって儀式の再開を促す王子の背を見詰め、アリシアはある事を悟った。王子は気が違ったからこのような儀式、セレーナとの結婚をしようとしているのではない。こうしなければ気が違ってしまうから、セレーナとの結婚をするのだ。
セレーナは王子との結婚を夢見ていたはずだった。だが、己の妃の座の政治的価値を知る王子はそれを拒み、あくまで寵姫の1人としての立場に彼女を留めた。その結果がセレーナの死だった。
王子の妃とする。そうなればセレーナは後宮には居なかっただろう。後宮から結婚の儀式の場へと向かうなどあり得ない。その準備を行う為、一旦実家である公爵家へと返されていたはずだ。
もちろん、それでもヴァレリアの凶刃から逃れられたかは怪しい。たとえセレーナが王子の妃になったとしても、何かしらの理由をつけてセレーナに面会する事は可能なのだ。だが、セレーナが王宮に居ないその間に、ヴァレリアも現実を見詰め冷静になっていた可能性も否定は出来ない。
王子はその可能性に気付き、己の意思でセレーナの死を回避しえたという思いに囚われているのだった。重く、深く。
居なくなってから大切な人だと気付く。その誰もが聞き飽きるほど聞き、それだけに間違いの無いその言葉は、今、王子の心を実体として引き裂いていた。それはその言葉の悲しみゆえ、涙が重ねられたかのように、その先端は鋭利ではなかった。
こうすれば良かった。そうすべきだった。そう思うたびに、その鋭利ではない物体は、王子の心に、完治し得ない傷跡を穿っていくのだ。
それを止める為の行為。王子の精神が逃げ込んだ、今からでもセレーナと結婚する。その行為。それを理性に寄らず直感によって悟ったアリシアは、この忌わしい行いを止める言葉を失い、元の椅子に倒れ掛かるように座り込んだ。そして両手で顔を覆った。
万人に見守られ、祝福されながら、サルヴァ王子とセレーナは結婚すべきだった。そうでなければならなかった。なのに何故……。このような場所で、僅かの人の前で、忌わしげな視線を受けながら……。アリシアの嗚咽が響く中、サルヴァ王子と死せるセレーナとの結婚式は静かに進められた。




