第28話:王子の結婚(1)
ランリエル王国では反乱も戦火無く収束し、次期国王たるサルヴァ王子の名声はさらに高まっていた。
そしてその妃には、寵姫のセレーナ・カスティニオ嬢がなるべき。民衆はこぞって持てはやした。
そもそもアリシアは例外とするとしても、寵姫という身分の女達は家柄も良く教養もあり、宮廷内では評価され敬意もはらわれている。だがそれを理解せぬ民衆達からすれば、王子の寵姫といえど市井の金持ちに媚びる妾と区別はつかず、蔑む者も多かった。
当然、サルヴァ王子の寵愛第一位というセレーナに対しても、王子が一番お気に入りにしている妾。ただそれだけの認識だったのだ。
それが先の反乱を機に一変した。セレーナは「ランリエル一有名な妾」から「王子の危機に、公爵令嬢にもかかわらず身の危険を冒し王子の元に駆けつけた、神話に出てくるかのような賢婦人」とみなの認識が変わったのだった。
そしてセレーナら寵姫達が暮らす後宮でも、セレーナの地位はさらに不動のものとなった。他の寵姫達にしてみればもはや張り合うのも馬鹿馬鹿しい。ある寵姫は次期王妃など望まず本当の意味での妾として暮らすしかないと諦め、ある者は将来の王妃たるセレーナに媚びようと群がった。
とはいえ、それらの者達の前には突破すべき障害があった。以前からのセレーナの取り巻き達にしてみれば、今更彼女に媚びようと近づいてくる者達など厚顔もはなはだしい。せっかく苦労して耕し芽を出し実をつけた果実を、その苦労をせずのこのこと現れた者にどうして分け与えてやらねばならないのか。
新参者達はセレーナに媚びる前に、古参の者達に媚びてその仲間に入らなくてはならなかったのだ。
だが、その早くからセレーナと競う事を諦め取り入った「未来の王妃の古くからの友人達」にも、目の上のたんこぶと言える者が居た。
セレーナが行った「賢婦人の険路行」に力を貸し、一躍その「親友」となりおおせたアリシアの存在だった。彼女達はそのアリシアにさんざん嫌味を言い苛めの標的にしていたのだ。しかしそれが「大切なお友達」であるセレーナの親友になりおおせてしまった。
彼女達にして見れば、セレーナがアリシアを敵視していると思ったからこそアリシアを標的にしたのだ。それが突然手を取り合って後宮を抜け出し、王都を脱し、帝国で孤立していたはずのサルヴァ王子の元に揃ってはせ参じた。青天の霹靂と言っても生ぬるい状況の変化である。
いつの間にアリシアはセレーナに取り入ったのか? それどころかセレーナの方から「アリシア様。アリシア様」と彼女を慕っているように見える。その為セレーナとアリシアは共に過ごす事が多く、セレーナの古い友人達は彼女を独占出来ない。
彼女達はセレーナに大切な話があるのに、その話がいっこうに進まない。セレーナが王妃になったあかつきには、セレーナからサルヴァ王子にお願いして貰い自分の父を大臣にして貰わなくてはならないし、自分自身の嫁ぎ先も、お声がかりとして名門の子息を選んで貰わなくてはならないのだ。
それはまさに彼女達にとっては死活問題であり、自身が王妃になる事を諦めた今後宮にいる存在理由だった。いくらサルヴァ王子が、才能が有り自信に満ち溢れ、純粋に男としての魅力があったとしても、妾として抱かれるだけでは意味は無い。次期国王として得られる利益が重要なのだ。利益を望まず、純粋に王子からの寵愛のみを望む寵姫など誰も居ないのだ。
いや唯一1人だけいた。その唯一の寵姫は、後宮の中庭で侍女に用意させた紅茶の味を、姉とも慕う親友と楽しんでいた。ティーカップに軽く口をつけ、彼女にすれば珍しく苦笑の表情を浮かべる。
「みなさん。私を王妃になるとおっしゃっておいでですけど、殿下は私を王妃とはしないと思います」
彼女の対面に座る姉と慕われる女性は、その言葉にティーカップを持った手を止め、カップをソーサーに戻した。
「どうして? 殿下も貴方を愛していると……そう思うけど?」
「そう言ってくださるのは嬉しいのですが……。ですが、殿下は大望のあるお方です。その大望をなす為に必要な方を王妃になされるでしょう」
「それって、たとえば手を組みたい国の王女様とかって言う事?」
「……はい」
カップに視線を落としそう呟くセレーナの姿に、アリシアは心の中で舌打ちをした。今のセレーナの言葉は彼女にそぐわない。知能は低くないセレーナだが、その能力は貴族令嬢としての教養と王子への気配りに注がれている。今語ったような政治の話は彼女の発想には無いはずだ。
「サルヴァ殿下がそう言ったの?」
セレーナはその予想通りに頷いた。アリシアは大きく息を吐き、テーブルに肘を付いた右手で額を押さえ俯いた。その様は「まったくあの男は!」と言う台詞を態度で表していた。
聴覚によらず、視覚によってその言葉を聞いたセレーナは、慌ててアリシアをなだめる。サルヴァ王子に遠慮ない態度を自然に取れるアリシアを羨ましく思うこともあるが、あまり人目のつくところでそれを行うべきではない。ここは後宮の中庭なのである。
「アリシア様。良いのです。考えてみれば当たり前なのです。それに……」
その言葉に、アリシアは額に手をやったまま微かに顔を上げ、上目遣いにセレーナを見た。
「それに?」
「前までと何が悪くなったという訳ではありません。今までも私は殿下の傍に居れて幸せでした。それで……十分なのです」
アリシアはまた、大きく息を吐き額に手をやったまま再度俯いた。その態度は「まったくこの子は!」とセレーナにぶつけるものだった。
セレーナは困ったような表情で、俯くアリシアの額を見つめ、その視線を感じたアリシアが視線を上げると2人の目が合った。
セレーナの表情を見止めたアリシアは、彼女を困らせてしまったと顔を上げ、気を取り直すように口を開いた。
「さあ、お茶が冷めてしまうわ。頂きましょう」
そしてすでに冷め始めてしまっているお茶を口にしながら、まあ、お似合いと言えるのかも。と、無理やり自分を納得させたのだった。
同じ王宮にある軍部の執務室で、サルヴァ王子は配下の猛将ララディと面会していた。
ランリエル軍全兵を指揮する者が使用するに相応しい重厚な机に座るサルヴァ王子は、その机を挟んだ対面に直立する猛将にねぎらいの言葉を掛けた。
「今回の反乱ではお主も色々と大変だったであろう。何かと言う者も居るだろうが、気にすることは無い。今まで通り励んでくれ」
「は! お心に添えるよう、精進いたします」
軍部では虎とも称される男は、まるで猫のように縮こまり低頭する。勿論虎が猫に変ずるほど恐縮しているのには理由があった。
長年王子の配下として仕え、その片腕とも称されていたにもかかわらず、虎は恩知らずにも理性を発揮せず、先の反乱時にはなんと反乱軍側に身を投じたのだ。万事抜け目ない王子にしても予想外の事態であり、わが耳を疑った。
王子と共にカルデイ帝国内でその報を聞いた諸将の中には、ララディと戦う事になったと戦慄した者も数多く
「ララディならば相手にとって不足なし!」
と口々に勇ましく、或いは強がって吼えたのだった。
もっとも、反乱はサルヴァ王子の指示の元暗躍したカーサス伯爵等により戦闘無く鎮圧された。その為それは現実のものとはならなかった。
だが戦闘にならなかったとはいえ、ララディが反乱軍に組した事実に変わりない。他の武将達は、ララディへの処罰を訴えた。
サルヴァ王子は反乱軍の首謀者であるガリバルディ公爵、アラビーソ侯爵らの首は差し出させたが、反乱に組した他の貴族達に対しては不問としている。ゆえに彼らの意に反し、ララディに対しても処罰は行われない事となった。
しかし諸将の追及は止まらない。敵対行為をとったと言う事もあるが、ララディが失脚すれば彼に代わってサルヴァ王子の片腕と呼ばれる地位を狙えるのである。せめて幕僚からの更迭。当然といえる要求だった。
だが王子にララディを更迭する意思は無かった。反乱に組した事から分かるように思慮には欠けるが、そこは王子自身が補えばよい。王子の指示に従い、突撃せよ! と命じられれば突撃し敵を粉砕する。それが彼の役目なのだ。
とはいえ、ララディを幕僚に残留させるにしても、諸将の感情をまったく無視する訳にもいかない。たとえ次期国王であるサルヴァ王子と言えどもである。諸将の間に遺恨が残れば組織として正常に機能しない。
諸将がいがみ合った結果、抜け駆けが横行し作戦が崩壊する。疎まれている武将が率いる部隊への物資の補給が滞る。例を挙げれば枚挙にいとまない。
それゆえサルヴァ王子は手の者を使い、ララディの血縁関係を数世代にさかのぼって調べ上げさせた。そして望んだ結果を得たのだった。
反乱の首謀者であるガリバルディ公爵、アラビーソ侯爵は名門の当主であり、その一族は多い。当主を討たれたその者達が敵対すれば無視できぬ勢力となる。王子はそれらを封じる為に手を打った。
彼らとて当主を打たれた恨みだけで王子に敵対しようと考える訳ではない。当主が反乱の首謀者として処罰されたのだから、その一族もいずれ家を取り潰されるのではないか。その恐れが大きいためだ。
彼らのその不安を取り除いてやる為、むしろ「当主からの要請では、断りきれなかったのは仕方が無い」と労わりの言葉を掛けたのだ。その為極一部の心から当主の仇を討とうと考えていた者すら、他の大勢の者達から
「せっかくの殿下の御温情を無駄にし、家を絶やす気か!」
と一喝され、矛を収めるしかなかったのだ。
サルヴァ王子は、ララディの母方の祖父の従兄弟が、反乱の首謀者の1人であるアラビーソ侯爵の妹の夫の叔母の夫の父である事を探り当てた。このララディ本人ですら把握していなかった「アラビーソ侯爵家の一族」という事実に、王子は他の一族と同じようにララディにいたわりの言葉を掛けた。
「いかなランリエルの虎といえど、一族当主からの要請ならば断りきれぬのも仕方が無い。すでに済んだ事と気に病まず出仕せよ」
自邸で自ら謹慎していたララディの元を訪れた使者は、そう王子からの言葉を伝えたのだ。他の幕僚達にもそれを公表し、これ以上のララディへの批判は無用と申し渡した。そしてその後同僚の武将もララディ邸を訪れ言った。
「サルヴァ殿下の御温情を忘れず、これからも忠勤に励む事だな」
猛将ララディは感激し、そして今日の出仕となったのだった。勿論同僚の武将がララディ邸を訪れたのは王子からの依頼によるものなのは言うまでもない。
結局反乱は王子にとってなんら損失とはならず、それどころか利益のみをもたらした。
国内の不満分子は核を失い分裂しその力を失った。さらに大きいのは帝国諸侯が王子の求めに軍勢を出陣させた事だ。もはや彼らも未来を王子に託すしかあるまい。帝国貴族達はカーサス伯爵のように続々とランリエルに鞍替えするだろう。
カルデイ帝国は徐々にやせ細り、従う貴族の居ない名ばかりの帝国となる。勿論カルデイ帝室は残してやる。帝室と名乗るのもはばかられる小国としてではあるが。
かつてカルデイ帝国と共に、ランリエルと3国鼎立の一角をなしていたベルヴァース王国にしても、ランリエル王国第三王子ルージが、ベルヴァース王女第一王女アルベルティーナ・アシュルと結婚する予定だった。王女は国王夫妻の一人娘。その夫が国王となるのだ。ベルヴァース王国もいずれランリエルの傀儡となる。
そして次の標的は西に国境を接するバルバール王国。総司令官フィン・ディアスは強敵だ。指揮能力に優れ、ランリエルにさほど劣らぬ国力のコスティラ王国との戦いに常勝を誇っている。戦いはコスティラからの攻勢を防ぐというものがほとんどであり、戦いとは守る側が有利と言われるが、それでも尋常な事ではなかった。
だがサルヴァ王子には、その総司令に勝利する算段があった。その準備は着々と進められている。
すべて順調だった。もはや王子の進み行く道を阻む物は何も無い。
ララディ将軍が退出した後の執務室で、一息付いていたサルヴァ王子の元に1人の男が飛び込んできた。服装から軍人ではない。後宮を管理する役人の1人と思われた。
まさかまた寵姫同士の諍いでも起こったのではあるまいな。と、王子は自らの後宮が整えられた当時の騒動を思い出し、懐かしく思った。
当時はセレーナすら、王子にとって他の寵姫と違いは無く、大勢居る女の1人に過ぎなかった。それが……。王国の次期国王として育ち、傲慢の気がある王子にして、自分がセレーナを愛していると認めざるを得なかった。
だが、たとえそうであっても彼女を妃には出来ない。自分には大望がある。今はバルバール王国との戦いに心を砕いてはいるが、それで終わりではない。バルバールの次にも征服すべき国々は存在し、その時次期ランリエル国王の妃の座は高い値で売れる筈だ。
なに。セレーナは自分の傍にいる。ただそれだけで満足する女だ。よい条件の妃を迎えた後も、セレーナの元に通ってやればよい。この時王子はそう考えていたのだった。
後宮の中にはでお茶を楽しんでいたセレーナとアリシアの元に、同じく後宮の寵姫であるヴァレリア・ダルベルト侯爵令嬢が近寄ってきた。
ヴァレリアは、かつて自分こそはサルヴァ王子の寵愛第一位と吹聴し、一時は多くの取り巻きを従えていた。だがそれだけに現在の状況を考えれば、滑稽な事この上ない。
かつての取り巻きは、むしろ彼女との関係をなかった事にするかのように手の平を返した。そしてセレーナの取り巻きの、さらに取り巻きに転落していた。そればかりかセレーナの取り巻きに取り入る為、彼女を笑い話の種としたのだ。
「よく殿下の寵愛第一など言えたものですわ」
「まったくです。私など初めて殿下がこの後宮にいらっしゃった時、セレーナ様を見つめる殿下の目を見て、ピンっと来たものですのに」
「それをどう勘違いしたのか」
その後、上品に、おほほほ。と笑う彼女らの声はヴァレリアにも聞こえた。その笑い声は一日中耳から離れず、常に誰かに嘲笑されているかのような幻覚にヴァレリアは襲われた。彼女はそのような日々を送っていた。
そのヴァレリアはセレーナの傍に来ると、
「こんにちは。セレーナ様」
と上品に挨拶をしてきた。
勿論セレーナも
「こんにちは。ヴァレリア様」
と行儀良く、椅子から立ち上がって挨拶を返した。
「おめでとう御座います。殿下との御結婚が近いと聞いております」
微笑み祝辞を述べるヴァレリアにセレーナは、慌てて否定した。
「いえ。みなが言っているだけで、そのような事は無いのです。殿下にはしかるべき王国の王女を妃に迎えるのが相応しいのですから」
「そうなのですか?」
「はい。ですから、私は他の方々となんら変わる事はありません」
その言葉にヴァレリアは見る見る間に目に涙を浮かべさせ、溢れた雫は頬を伝った。
「お優しいセレーナ様……。思えばいつも貴女は優しかった。私が貴女を敵視している時ですら……」
「いえ。そんな事は……」
「申し訳ありませんでした。貴女には酷い事ばかり言って……」
顔を覆って泣くヴァレリアをセレーナは抱き寄せた。
セレーナを敵視しているはずのヴァレリアの出現に、アリシアも内心身構えていた。しかしこの光景に胸を撫で下ろし、和解できたのだと喜んでいた。
ヴァレリアはセレーナの胸に顔を埋めたまま、か細い声で言った。
「お優しいセレーナ様。最後に……一つだけお願いがあるのですが聞いて頂けますでしょうか?」
「私にですか? ええ、私に出来る事でしたら」
「いえ、貴女にしか出来ない事です。それに簡単な事」
「ええ、それでしたら喜んで」
この光景を微笑みながら見ていたアリシアはふと気付いた。最後に一つだけお願い? それはどう意味なのだろうか。
「居なくなって下さい」
そのヴァレリアの言葉の後、現在の寵愛第一位の寵姫は地面に崩れ落ちた。そして顔を涙で濡らした、かつての寵愛第一位の寵姫が立ち尽くしていた。その手を血で赤く染めながら。




