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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
427/443

第331:妻の決意

 そのころアルベルドが不在のデル・レイではフィデリアが暗躍、というには派手に動いていた。


 ある日の朝、留守を守る大臣たちを招集するとフィデリアは彼らの前で宣言した。


「アルベルド陛下が兵を率いて出陣なされ、このデル・レイ王都も警備が手薄になっています。ですので、今、客人となっているリンブルクの方々に警護をお頼みすることにしますわ」


 実際にはリンブルク兵は客人ではなく捕虜なのだが、フィデリアにそれを指摘する者はいない。ただ、控えめに懸念を口にする者はいた。


「彼らの祖国であるリンブルクは、現在、ランリエルの支配下にあります。彼らがランリエルに味方する危険があるのではないでしょうか」


 フィデリアはそう発言した大臣に向かい微笑みを浮かべ、さらに他の大臣たちの顔も見渡した後、口を開く。


「私を裏切る者が居るというのですか?」


 我ながら随分なことを言っていると思いながらもフィデリアは平然な顔をしている。自身の神格化、女神化はアルベルドが意図的に仕組んだことだ。因果応報の言葉の通り、アルベルドを追い詰めるのにせいぜい利用させて貰うまでだ。


「確かに! そのような者が居るわけがありませぬな。これは失礼いたしました!」


 発言した者はそう言って、床にぶつからないか心配になるほど頭を下げた。その様子に他の者たちも大きく頷いた。


 頭がお花畑になっているデル・レイ首脳部の面々だが、それもこれもアルベルドが引き起こしたことだ。彼がフィデリアの神格化を進めたのは、それによって自身の権威も強めんが為だが、彼はフィデリアがここまでの行動を起こすとは思い至らなった。それはまさに彼が想像するよりも遥かにフィデリアが気高く清廉だったからだ。


 彼は自分がフィデリアを犯そうとも、彼女はユーリの為に、いうなれば泣き寝入りすると考えていた。しかし、それが出来ぬほど彼女は気高く清廉だった。


 こうして捕虜であったリンブルク兵がデル・レイ王都を警備するという、本来ならあり得ぬ事態が発生した。もちろん、正門などの警備を受け持つのはデル・レイ正規兵が受け持つのは当然だか、裏門はデル・レイ兵が受け持った。しかし、だからこそフィデリアは行動の自由を得た。


 裏門を警備するなら、その裏門からこっそりと人を出入りさせるのも思いのまま。もちろん、自身が出入りするのもだ。これが正門ならば警護の兵達以外の者の目も多い。裏門だからこそ暗躍するのに都合の良い。


 このあからさまなフィデリアの行動も彼女を女神と崇めたてる者たちには、それが分からない。なぜなら女神の行いは全て正しいに決まっているからだ。完全なる思考停止。しかしそのようなデル・レイ国内でもフィデリアの行動に疑問を持つ者もいた。


 フレンシスは、フィデリアの行動に疑問を持っていた。しかも、以前にフィデリア邸を訪ねた時に聞いたフィデリアの言葉。


 彼女がフィデリアに、お腹の子の父親を問うた時にフィデリアは、

「それが、私にも分からないのよ」

 と答えたのである。


 まったく悪びれるもなく微かに笑みを浮かべさえしていた。それだけに、間違いなく事実だとフレンシスは確信したのだ。


 しかし、その恐るべき事実を抱えたフレンシスは、その事実を持て余していた。当然、夫に伝えるべきだろうかとも考えたが、彼女にはまた別の確信があった。


 夫は、絶対に私の言葉を信じない。


 あの女神フィデリアが、どこの誰だか分からない男の子を腹に宿している。そんな事を伝えたところで、

「何を馬鹿なことを」

 そう一笑に付される。これが確信できた。


 だけど、その夫が不在の時にあからさまに活動するフィデリアを止められるのは自分しかいない。フィデリアが大臣たちを招集した数日後、フレンシスも彼らを招集した。


 しかし、その日の朝、フレンシスの前に並んだ大臣たちにフィデリアの前に立った時のような覇気は感じられない。フレンシスもその時の様子を見ていたわけではないが、何か自分に対する敬意がないのは感じられた。それでも、意図的にそれに気づかない態を装う。


「先日、フィデリア様から捕虜となっていたリンブルク兵に王宮の警備を任せるとの話があったようですが、私はそれはあまりにも危険と考えます。即座に撤回し、リンブルク兵には元のように収容所にて留まるように命じて下さい」


 デル・レイは現在ユーリが国王ではあるが、その後継人は前国王アルベルド。しかも皇国の副帝。そしてフレンシスはその妃。フィデリアがユーリの母親とはいえ、地位的には前国王の愛人という扱いのはず。


 皇国圏内の権威では、フレンシスがフィデリアより遥かに格上だ。フレンシスの言葉に大臣たちは即座に命令を実行する。そのはずだった。しかし、彼らの口から出たのはまったくの逆。


「何をおっしゃるのです。フィデリア様が命じたものを今更撤回することなど出来ませぬ」

「その通りです。すでに彼らは収容所を出て王宮の警備を始めているのです。今更、収容所に戻れなどと命じては、それこそ反乱を起こしましょう」


 大臣たちは副帝の妃を差し置いて、地位としては愛人でしかないフィデリアの命令を優先した。そもそも、フィデリアに彼らに命令する法的根拠などまったくないにも関わらずだ。


「ア、アルベルド陛下の妃たる私が命じているのですよ! 貴方たちはそれに従えば良いのです!」


 フレンシスは思わず声を荒げた。本来、彼女は大臣たちに対しこのような態度をとる女性ではない。にもかかわらず彼女にこのような態度をとさせたのは恐怖。この王国の王女として生まれ、そして今は副帝の妃。その彼女に取って大臣たちが自分の言うことを聞くのは当然。もちろん普段は彼らに対しこのような態度はとらない。


 しかしそれも、いうなれば無意識にでも思い通りに動く乗馬を大切にするようなもの。


 彼女は王族だが、それだけに己1人では生活すらままならない。今まで大臣たち、臣下たちが自分の言うことを聞いてくれるという前提で生活が成り立っているのだ。しかし、今、彼らはあからさまに自分の命令に反する。それは乗っている乗馬が、突如、勝手に走り出す恐怖に似ていた。


 彼女は今、大声を張り上げて懸命に乗馬を制御しようとしていた。


「確かに貴女様はこの国の王女であり、前国王の妃です。ですが、だからと言ってこのような理不尽な命令は聞けませぬ」

「その通りです。アルベルド陛下がご出陣なされ、この王宮の警備が手薄になったのは事実。油断したアルデシアがフィン・ディアスの急襲により、落とされた事例が間近にあります。その件を戒めとし、警備を強化するのになんの問題がありましょう」


「そ、そのようなことは分かっております!」

「で、あるのならば、そのような命令は撤回なされませ」


「ですから、私が問題にしているのは警護の問題ではなく、リンブルク兵が信用できないと言っているのです」


 いくら警備が手薄でも、信用できない者に守らせるのは逆効果。フレンシスの言い分には十分な理があるはずだ。しかし、それでも大臣たちの耳は届かない。なぜなら、女神が彼らは裏切らないと言っているからだ。


「フレンシス王妃のおっしゃることは分かりました。で、あるならばそれこそ不要な懸念で御座います。彼らが裏切ることはありますまい」

「左様。不要な懸念で命令を出すものではありませぬ」


 議論が成り立たない。議論とは、相手の言い分を聞く耳をお互い持っていてこそ成り立つものだ。相手の言い分を聞く気がないのなら、それは一見議論でも、それはただの我慢比べ。お互い相手の意見など聞き流し、自分の意見を言い続ける。一見、議論をしているようでもそのような言葉の応酬に意味など全くなく、これ以上は付き合ってられないと根負けした方が負けるのだ。


 そしてフレンシスの相手は、フィデリアを女神と崇める何人もの大臣たち。夫を守ると決意したフレンシスとて、フィデリアの狂信者である彼に対し、勝ち目があるとは思えなかった。


「わ、分かりました。ですが、リンブルク兵の動向にはくれぐれも気を付け油断せぬように」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。そして、これ以上ここに居ても屈辱を感じるだけと背を向けたフレンシスの耳に、ある言葉が聞こえた。発言した本人はフレンシスの耳に届かぬように小声で言ったつもりであろうが、他の者が退出するフレンシスに対し、一応の礼儀として無言で頭を下げている時のつぶやきは、思いの外響いた。


「女が政治に口を出すとは」


 その瞬間、その理不尽な言葉にフレンシスは激高した。女だからと言われたからではない。


「フィデリア様も、女ではありませんか!」


 同じ女なのに、どうして自分だけ、女だからと言われなけらばならないのか。彼女の怒りは当然のものだ。しかし、その”正論”も大臣たちの心に響かない。


「お言葉では御座いますが、フィデリア様はただの女性ではありませぬ」


 そう言った大臣は、聞き分けのない子供を相手にしているように笑みさえ浮かべ、他の大臣たちも苦笑を浮かべている。


 恐怖。この時、フレンシスが感じたのは理不尽さではなかった。純粋な恐怖だ。


 人は悪夢を見る。現実よりもはるかに恐怖を感じる。常識が通じないからだ。当たり前のことが当たり前として通じず、今まで歩いていた道の足を踏み出す先が、突然、谷底になる。今まで平穏にお茶を飲んでいた部屋が、次の瞬間には火の海になる。常識が通じない世界。


 そして今、フレンシスを取り巻く環境は、まさに悪夢。正論がまったく通じず、矛盾を当然のように口にする大臣たち。


 アルベルドの抜擢した者が多くを占めるとはいえ、フレンシスが子供だった時からの大臣も居る。それに、アルベルドに抜擢された大臣も大半の者たちは、フィデリアがこの国に来る前に就任した者だ。それが完全にフィデリアの信者。いや、狂信者と言っても物足りず、それどころか悪夢に出てくる化け物。フレンシスの目には大臣たちがそう見えた。


 怒りの言葉を発したフレンシスだったが、その怒りが霧散するほどの恐怖を感じ、思わず後ずさった。そのような彼女を大臣たちは笑みを浮かべて見ている。


 フレンシスはさらに後ずさり、恐怖に耐え切れず彼らから背を向けた。その歩みも足早で、さらに速くなりいつの間にか駆け足のように速くなっていた。


 駆けるように進む廊下に侍女たちの姿が見えた。通り過ぎるフレンシスに対し、頭は下げるものの口元には嘲笑が浮かんでいる。それは、あるいは彼女の幻覚だったのかも知れない。この王宮に味方は居ない。その恐怖が彼女の心を占めていた。


 逃げるように私室に戻ったフレンシスは、扉を閉めたとたん、その場にへたり込んだ。気づくと背中が汗でびっしょりと濡れている。


 味方がまったく居ない。その状況に心が折れそうになる。王族として生まれた彼女だ。彼女自身に何ら責任なく、王族として育てられた。王族とは自分ではないもしない者のことだ。


 やるとしても、一番おいしいところだけ。王女がお茶会をするにしても、どのようなものにするかと構想はしても、実際に準備するのは侍女たち。王女自身はお茶を飲むだけ。王子が狩りをするにしても、どこに狩りに行くかは考えても、道中の準備、後始末はお供の者仕事。王子は獲物に矢を放つだけ。戦いにしてもそうだ。たとえ剣を持って戦うにしても、その剣の準備を自分ではしない。


 フレンシスは、夫であるアルベルドを助けようと考えていた。しかし、結局は、誰かに命じてアルベルドを助けさせる。としか考えていなかった。彼女自身、そのつもりはなくとも結局はそうだった。


 しかし今。自分の命令で動く者は居ない。それを思い知った。もちろん、侍女や侍従たちが彼女の命令を逆らうとは思えない。だが信用は出来ない。


「フレンシス王妃から、このようなご命令を受けたのですが」

 とフィデリアを信奉する大臣たちに報告されるのではないか。


 あるいはそれは、被害妄想に過ぎるのかも知れない。しかし、今、謁見の間で対峙した大臣たちの異様さが、彼女にそれだけの恐怖と猜疑心を植え付けたのだ。


 夫をフィデリアから守る。彼女が夫の子を腹に宿し正妻の座を望んでいる。それを聞いた時には、産まれてくる我が子可愛さに、夫へ阿ったのかとも思った。しかし、その子の父親が夫ではない。フィデリアは、悪びれる様子もなくそう言ったのだ。


 彼女がそれを自分に伝えた以上、いずれ夫にもばれるのは時間の問題。そうは考えなかったのだろうか。私に話しても、夫にばれるはずはない。そんなことはないはずだ。彼女は、それがばれるのを覚悟しているはず。


 そしてばれた時には彼女の破滅だ。それが彼女1人の問題なら、自暴自棄になっただけとも考えられる。しかし彼女にはユーリが居る。彼女の破滅はユーリの破滅。それを彼女が望むはずがない。


 もしかすると、彼女は夫と刺し違える気なのではないか。


 その考えに至った時。フレンシスの背筋は凍り付いた。


 人が人を殺そうとする時、刺し違える気でやれば成功率は高まる。特に社会的地位が近ければ近いほど成功率は高まる。


 民衆でも命を捨ててかかれば、馬車に乗る王族に対し、護衛の一瞬の隙を突いて馬車の窓から手を伸ばし、毒を塗った剣で王族に掠り傷を付けられるかもしれない。もし騎士ならば、もっと簡単になるだろう。貴族ならば舞踏会で居合わせた問いに切りかかれば良い。王族同士なら会談でも申し込めば、相手の方からのこのこやってくるだろう。その後、自分の身の安全を考えないなら、どうとでもなるのだ。


 そしてデル・レイでは国王アルベルドと女神フィデリアはどちらの地位が上なのか。常識で考えれば、いかに女神と言われようと所詮は国王の愛人でしかないフィデリアなど、比べ物にならない。しかし、このデル・レイではその常識が通用しない。


「いかに国王陛下と言えど、女神の前では、その地位に何の意味がありましょうか」


 現実にそのような発言を聞いたわけではない。しかしフレンシスにはその言葉が、現実のもののように脳内で再生された。そして、このような状態に至ったのは、アルベルドの自業自得と言える。


 フィデリアが本気で刺し違える気で夫の命を狙うなら、間違いなく成し遂げるだろう。


 あの人は……夫は、フィデリア様を侮り過ぎたのだろうか。フィデリア様を神格化することは自身の権力を強める為のものだったはず。しかし、結果を見れば敵の力をせっせと強めてやっていたに過ぎないのだ。


「憐れな人……」


 思わず呟いた。今まで一度も夫に対して覚えたことのない感情だった。

 勿論、第三者から見ればアルベルドの手によって遥かに憐れな目にあった人間は無数にいる。アルベルドを憐れに思うくらいなら、その者たちを憐れに思い、救いの手を差し伸べるべきだ。


 だが、彼女にとってそのような憐れな者たちとアルベルドとの決定的な違いがある。アルベルドは彼女の夫。その一点において、彼女にとって救うべき対象と足りえた。


 とはいえ現実的に、自分に夫を救えるのか。この王宮には味方は居ない。すべてのことにおいて、下々の者に指示をして暮らしてきた王族の自分に何が出来るのか。


 今までの彼女ならば、部下に対して夫を守るように、夫を助けるように命じる。それだけで済んだ。それで彼女は夫を守った気になれていた。それは、いうなれば子供にとって人を助けるとは、頼りになる大人を呼んでくる事というものに似ている。王族として生まれ育った彼女の行動力は、その程度にしかないのだ。


 しかし今、それは出来ない。己の身体を動かし夫を救わねばならない。味方の居ないこの王宮で、1人の人間を守り切るなど武勇の騎士でも難しいだろう。それを子供程度の行動力しかない自分がなさなければならないのだ。

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