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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
422/443

第326:対決

 元デル・レイ王国王妃にして、現グラノダロス皇国副帝夫人であるフレンシス・エルナデスは現在の状況に困惑していた。本来ならば苦悩すべきなのかも知れないが、それよりも事態の不自然さが彼女には気にかかった。


 多忙な夫、アルベルド・エルナデスは深夜近くにならなければ帰ってこず、日々の大半を一人で過ごす彼女には、考える時間はあり待っている。この日も侍女に用意させたお茶を前に思考していた。時折、機械的にお茶を口に運ぶも、その香りや味は彼女の脳に到達せず、それどころか飲んだ。という意識すら彼女には無い。無意識に口に運んだ。というだけだ。


 彼女の思考の大半を占めるのはフィデリアについてだ。彼女が多くの大臣達に、自分を正妻にと口添えを頼んでいる。それはフレンシスの耳にも入っていた。


 フィデリアは、夫を殺そうとしている。のではないか。と、フレンシスは以前から感じていた。いや、以前はそう感じていた。


 夫がユーリを盾にフィデリアの身体を奪った。そう確信して彼女に会いに行った日に、彼女は自分に「貴女は、貴女のなすべき事をなさい」。そう言った。それは、自分は自分のなすべきことをする。その宣言でもあった。そして、彼女の最も重要なことがユーリを守ることである以上、彼女のなすべきことは推測できた。


 ユーリを盾に彼女の身体を奪ったならば、夫はユーリを害する手段を持っているということ。それを無害とさせるためには夫を亡き者にするしかない。自分が従っている間は息子は安全なのだから。と安心は出来ない。相手の気が変わらない保障など無いのだ。


 だが、自分はアルベルドの妻。夫を殺そうとする者が居るのを知って、それを放置は出来ない。夫を殺される前にフィデリアを殺すか。と考えるべきだが、そもそもの発端が夫が彼女を強引に奪ったから、という引け目がある。それに、フィデリアが生来の優しさを持つ女性ならば、フレンシスは生来の人の良さを持つ女性だ。いかなる事情があろうとも人を殺すという発想にはならない。


 故に、妻である自分は、妻として夫を守る。それが彼女の決意だった。


 しかし、フィデリアが夫の子を懐妊し、正妻の座を望む。最近のフィデリアの行動にフレンシスは困惑した。フィデリアが夫を殺そうとしているというのは、自分の思い違いだったのか。そう思うほどだ。


 いや、そうではない。間違いなく、あの時のフィデリアは夫を殺そうとしていたはずだ。それは確信している。ならば、フィデリアの心情が変わったのか。


 そもそもユーリのため。というのは己の子のため。という事だ。懐妊した夫との間の子のために夫の死を望まなくなった。夫を殺すのではなく、夫の子として認めさせ、我が子を皇国の跡継ぎとする。それを望むようになった。筋は通る。だが、違和感を禁じえない。


 フレンシスの知るフィデリアは、そのような俗な人物ではない。我が子を権力闘争の渦に巻き込ませるのを望むとは思えない。ある程度の裕福さを持てば十分。それで我が子が平穏に幸せに暮らせればよい。そう考える女性ではなかったか。


 対外的にユーリは夫の実の息子ということになっているが、それは事実ではない。とフレンシスは確信している。夫に、ユーリが本当に自分の子なのかと聞いたことがある。夫は、お前の知ったことかと答えた。それで違うと確信した。


 なぜこの問答で違うと確信したか。フレンシス自身も上手く説明できない。だが、もし、思春期の子供を持つ夫人に相談していたとすれば、その夫人はこう答えるだろう。


 うちの息子も、図星を突かれたら、関係ないだろ。と逃げようとすると。その言葉を聞けばアルベルドは激怒するであろうが、フレンシスは大きく頷いただろう。


 だが、今のフレンシスにはそれよりもフィデリアの思惑の方が気にかかる。


「やっぱり、お腹の子のためなのかしら……」


 他に、誰も居ない部屋で、あえて呟いた。


 お腹の子のために違いない。いや、彼女はそのような人ではない。その堂々巡りで思考がぶれる。口に出すことで、思考の支点を置いた。一旦、お腹の子のために違いない。それを前提に考える。


 実際、現在のフィデリアの行動を説明するには、その方が筋が通るのだ。


 我が子を庶子にしないため。我が子に高い地位を与えたいため。正妻の座を求める。世の母親の大半は、そう考えるに違いない。彼女がそれに納得し難いものを感じていたのは、女神フィデリアは、そのような世間一般の母親とは違う存在だ。という認識だからだ。


「フィデリア様も、母親の立場となれば、世の多くの女性と同じ。ということかしら」


 また、呟き、思考の支点を打った。


 その前提で考えて、自分はどうすべきか。実は、自分が潔く身を引けば全て丸く収まるのではないか。そう思えなくも無い。正妻の座。それに固持しているかと自問すれば、自分でも驚くほど、その意識が希薄なのに気付く。


 自分は、アルベルド・エルナデスの妻。そこから引くつもりは毛頭ない。だが、正妻。ということにどれほどの意味があるのか。どうでもいい。という己の感情に自身で戸惑うほどだ。


 しかし、それこそが彼女の妻としての意識の高さだった。正妻というのは制度でしかない。自分が、アルベルドの妻であるという事実の前には何ほどのことがあるだろうか。


 ただ、なぜ、自分がアルベルドの妻であるという事実に安心出来ているかと言えば、そのアルベルドがフィデリアを正妻にしようとせず自分を正妻のままにしている。という逆説的な理由による。アルベルドがフィデリアの求めに応じて、彼女を正妻にすると言えばフレンシスは大いに取り乱すであろう。


 その己の精神的安定を保ち、全てを丸く収めるにはフレンシス自身から、アルベルドに、フィデリア様をご正妻に。と言えば良い。


 だが、夫がそれを望んでいない。そう信じたい。


「フィデリア様にお会いしなくては」


 言葉に出した。しかし、今度のそれは、思考の支点のためではない。決意をゆるぎなくするためだ。結局は、フィデリアに本心を問うしかない。フィデリアの行動の答えを知るのはフィデリアのみだ。


「出かけるわ。準備をして頂戴」


 侍女に命じつつ、フィデリアの屋敷に訪問するとの使者を出した。貴族の訪問には事前に相手に伝えるのが礼儀だ。しかし、じっとしていては決意が鈍ると、いてもたまらず返事を待たずにフレンシス自身もフィデリアの屋敷に向かった。先に向かった使者の馬車とはフィデリアの屋敷の前で落ち合った。


「フィデリア様は、お出かけになっているとのことで御座います」


 訪問の使者を仰せつかった執事は、フレンシスの馬車の扉の前で己の所為かのように恐縮している。


「そう……。それは仕方ないわね」


 呟くフレンシスだったが、内心、安著の溜息をついていた。自分はフィデリアと対決したかったが、相手が居ないのだから仕方が無い。無意識のいい訳だ。


 だが、屋敷の前で行われたこのやり取りをフィデリアの屋敷の少年従者が目ざとく見つけた。フレンシスが引き返す前にと慌てて駆けて来た。


「フィデリア様ならば、もう少しお待ち頂ければお帰りになられると思います。よろしければ、屋敷でお待ちになられませんか?」


 屋敷の主人が不在にもかかわらず、従者の判断で、客を屋敷に入れる。親族というならともかく、かなり異例だ。長年王族として生きてきたフレンシスも聞いたことが無い。だが、少年従者の態度に何の躊躇もなさそうなところを見ると、この屋敷ではこれが普通らしい。


「いかがなさいますか?」


 フレンシスの屋敷の執事が戸惑いながら主人に問うた。執事から見てもあまり例のないことなのだ。だが、フレンシスとて主人の居ない屋敷に入るなど初めてのこと。数瞬の間、躊躇したがフィデリアが不在だと聞き消えかけていた決意の残り火がまだ残っていた。


「せっかく、そう仰ってくれているのですから、待たせて頂きましょう」


 執事は戸惑いながらも小年従者に主人の言葉を伝えた。少年従者はフレンシスの馬車に向かい一礼した後、門を大きく開けて馬車を招き入れた。


「貴方達は、ここで待っていなさい」


 連れて来た執事や侍女にそういい付けたフレンシスは少年従者の案内で居間に通された。彼女の身分ならば他者の屋敷といえど自分の執事や侍女の1人や2人を引き連れるのは非礼ではないが、フィデリアとは内密な話がしたい。他人の屋敷で自分の執事や侍女に、下がるように命じるのはおかしい話だ。ならば、最初から連れてこない方がいい。


 だが、居間で一人残されたフレンシスは、せめて執事の1人は連れてくるべきだったかと後悔しはじめていた。主人が居ない屋敷の居間に通される。という、この初めての状況は、思いの外、彼女を心細くさせた。


 いや、それだけではない。この屋敷は何かおかしい。何かと問われても即答できないが、何かがおかしいのだ。


「お待たせ致しました。フィデリア様は、もうしばらくすればお戻りになられると思います」


 そう言って部屋に入って来たのは、先ほど門で会ったのとは別の少年従者だ。手にしたお盆の上には紅茶を乗せている。フレンシスの前にそれを置いた。


 ぞわり。とフレンシスの背に冷たいものが奔った。フレンシスが座る長椅子の前のテーブルに紅茶を置く、その時にフレンシスをちらりと見た少年従者の目。それが、何か得体の知れないもののように感じた。


「フィデリア様は、どちらにお出でなの?」


 反射的に問うた。なぜだかは分からない。だが、何かしなければやられる。無意識での行動だ。そして、何をどう’やられる’のかも分からない。


「はい。イサベル皇太后陛下のお屋敷で御座います。もうしばらくすればお戻りになられると思います」


 皇太后とは、退位した皇帝の皇后の称号。イサベル皇太后とは、フィデリアの夫ナサリオの母だ。その意味では、お義母君のお屋敷に、と言っても良いはずだが、この皇国ではフィデリアとナサリオとの結婚は存在しなかったものとして扱われている。故に、フィデリアとイサベルも義親子関係ではないのだ。


「そう。分かったわ。ありがとう」


 少年従者を下がらすため、明確な会話の終了宣言。少年従者は一礼し下がったが、顔を上げる時にちらりとフレンシスを見た少年の瞳に、また、背筋が寒くなった。


 フレンシスにとっては、反射的に出た問いであり、その答えに意味を見出さなかったが、注意深く聞いていれば、フィデリアが頻繁にイサベルの屋敷を訪問している事に気付いただろう。そうで有るからこそ、少年従者がフィデリアの帰ってくる時間を、いつもならば、と予測できるのだ。


 この会話を、もう少し注意深く聞いていれば。将来、フレンシスはそう思い悔やむのだが、今の彼女にその余裕は無かった。


 この屋敷は何かおかしい。それだけの彼女の意識は満たされていたのだ。


 そういえば、どうして少年がお茶を運んできたのか。普通は侍女の役目ではないのか。この屋敷には男しかいない? 不意に、それに気付いた。


 フィデリアとは当然、見知っている。しかし、その執事、従者などまったくの他人。しかも、主人たるフィデリアは不在。その見知らぬ男達の中で、女は自分1人。慎みある淑女として、避けるべき。いや、絶対に避けねばならない状況だ。


 この時代。ある意味、やった者勝ち。という面がある。意中の女性が居れば無理やり犯し。訴えられれば、じゃあ、責任を持って嫁にする。そう宣言すれば罪に問われず、女性の意思を無視して意中の相手と結婚できる。そのような世界なのだ。


 だが、ここは女神フィデリアの屋敷。そのような不埒な者が居るはずがない。しかし、あの少年の目。年頃の少年が女性に向ける好奇心に満ちた。というには邪なもの含んでいた。


 不意に視線を感じた。思わず気配のする方に振り向いた。だが、気配を感じたところに視線を向けても誰も居ない。気のせいだろうか。だが、大勢の男の前で全裸で立たされているかのような恐怖とも羞恥ともいえる感情がわきあがる。そして、事実、少年従者達は、フレンシスからは見えにくいところに身を隠して彼女を観察していた。


 額に汗が浮かぶ。何か、とんでもないところに足を踏み入れたのではないか。息が苦しくなる。何かに耐えるように両腿の上で拳を握り締める。やはり、視線を感じる。


 鑑賞されている。いや、比べられている。この女の身体はどうなんだろうか。視線は感じる。だが、誰も居ない。にもかかわらずフレンシスはそれを感じた。そして、誰と比べられているのか。


 いや、考えるまでも無い。この屋敷には男しか居ない。今は不在の女主人を除いてはだ。


 フィデリア様は、いつもこのような視線にさらされているのだろか。身の危険を感じないのだろうか。


 まさか少年の視線の発端が、フィデリアと少年達との毎夜の乱交の結果。フィデリアを毎夜抱く少年が、この女性ならばどんな痴態を見せるのか。そう想像して視線を送っている。とはフレンシスは夢にも思わない。フレンシスは、屋敷を訪問した本来の目的すら忘れフィデリアの身を案じた。


 フィデリア様にご忠告しなければ。今はまだ少年達も大人しいかも知れない。だが、いつ間違いが起こるか。逃げ出したい衝動に懸命に堪えた。身体中が汗ばむ。


「フィデリア様が、お戻りになられました」


 どれくらいの時間が経っただろうか。思いの外近くから少年の声が聞こえた、その声に我に返った。いつの間にか視線も感じなくなっている。気付けば廊下から別の少年従者の足音が聞こえ、その足音の主が部屋に入ると、その後ろから歩く音すらなく屋敷の主人が姿を現した。


「フレンシス様、お待たせいたしまいて、申し訳ありません」

「いえ。こちらこそ、突然の訪問。申し訳ありません」


 そういいつつ、少年従者の様子を観察した。先ほどまで自分に向けていた視線とは打って変わって、フィデリアに向ける少年従者達の瞳に邪なものは感じない。自分の気のせいだったのだろうか。


 きっとそうなのだろう。屋敷に女は自分一人。その心細さが過剰な反応を起こしたのだ。今は主人たるフィデリアも帰って来てその心細さが無くなった。改めて見れば、少年の視線も、ただの素直な少年の瞳だ。


 そうなれば、この屋敷に来た本来の目的を思い出した。


 フィデリアの真意を問う。漠然とした問いだが、一言で表すとそういう事だ。


 夫との子を本当に皇帝にしたいのか。その為に正妻になりたいのか。それを問……。


 また、ぞくり。とした。視線を感じた。邪な視線だ。反射的に気配がする方に視線を向けた。少年従者の瞳。邪な視線。自分にだけ向けられる視線だ。


 フィデリアが居るにもかかわらず、自分だけに向けられる。なぜ、彼らはフィデリアにはその瞳を向けないのか。フィデリアに興味がないとでも言うのか。一緒に暮らしているうちに家族のような情を感じて、そのような対象とは見なくなった。あり得ない。年頃の少年が、女神とまで称される女性と一緒に暮らす。そのような状況になれば、むしろ、襲い掛かりたい衝動に駆られるのではないか。


 にもかかわらず、少年はフィデリアにそのような視線を向けない。彼らが、とても素直で純粋で、女性にそのような視線を向けない少年。というならば、フレンシスにはなぜその視線を向けるのか。


 不意に、嘔吐感がこみ上げてくる。懸命に耐えた。分かった。なぜのなのか分かった。


「いかがなさいました?」


 突然、苦悶の表情を浮かべたフレンシスにフィデリアが気遣いの声をかけた。あまりの突然さに思わず手を差し伸べた。


「いえ。大丈夫です。それよりも、お人払いを」


 挨拶もそこそこの、この言葉にフィデリアは素直に従い、少年従者達に下がるように言いつけた。自分とフレンシスとの関係を考えれば、わざわざ会いに来て話す内容など深刻なものに決まっている。


 少年従者達はフィデリアの言葉には従順だ。隠れて除いているような事もない。フレンシスも、先ほどのような視線を感じないのを確認した。改めてフィデリアに向き直った。


 フレンシスがこれから吐こうとしている言葉は、もし、間違いであったなら取り返しがつかない非礼な言葉だ。だが、フレンシスは確信を持って口を開いた。


「そのお腹の子は、誰の子なんです?」

「それが、私にも分からないのよ」


 フィデリアはそう言って肩をすくめた。それは、その寝癖は、いつ付いたのですか? とでも問われたかのような口調だった。

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