第312:孤独な皇帝
如何に優れた者でも重い荷物を背負っていては自分より劣る者にも負ける。シモンによって一族との連携方法を聞きだしたシュバルツベルク公爵からすれば、その管理、歪曲は難しくは無く、ランリエル側にそれを防ぐ手立ては無い。
その公爵の工作も、連絡を取り合う手紙の隠し場所を聞き出し入手する。更にシモンの警護を厳重にするという極単純なものだ。しかし、単純だからこそ小細工が使えない。妨害するには公爵の敷地に人を忍び込ませるしかなく、現状では公爵の手の者と争うのは得策ではない。
早急に対グラノダロス皇国へ軍勢を集結させたいランリエル皇帝サルヴァ・アルディナは、回避可能な混乱をあえて起こすのには消極的だ。
「シュバルツベルク公爵にリンブルクの采配を任せるしかないか」
王子の呟きに傍らに直立不動で控える副官代理のベルトーニが僅かに頷く。王子が同意を求めていないであろう事は分かっているが、王子の言葉に全く反応しないのも精神的には負担。その心理が動作となった。
実際、公爵に任せるのはランリエルにとって悪い話ではない。それで公爵が納得するならばリンブルクは思ったより早く纏まる。だが、良い話ばかりではない。纏まり過ぎるという懸念だ。
リンブルクは国外遠征可能な兵のほとんどを皇国領に派兵し、その者達は今、デル=レイで捕虜となっている。戦時の敵国の正確な情報を入手するのは困難だが、隙間に綿棒を差し込むようにしてかき集めた情報では、リンブルク兵の大半が死傷し当初の1万から相当減少しているという。
従軍した当主、跡取りなども生死不明な者が多く、そうなれば領地の相続問題にも発展する。貴族にとって国家の存亡よりも己の領地が大事。時には血縁よりも。そもそも王家に仕え要請により兵を供出するのも、いざともなれば己が領地を保護して貰わんが為。よほどの浪漫主義の者でなければ領地を失ってでも王家を守ろうという酔狂は居ない。
その大事な領地が相続問題などで揉めた時に調停役となるのも王家である。逆に言えば領土問題を調停出来る者が王。そもそも政務に不慣れなフリッツ王子とシモンでは、血縁関係が複雑な相続問題を解決するのは困難だ。そこにシュバルツベルク公爵が後ろ盾となる。リンブルク貴族社会に絶大な力を持つシュバルツベルク公爵が領土問題を一任される。フリッツ王子は名目のみ。実質的な王はシュバルツベルク公爵だ。
いや、それ自体は良い。リンブルクが公爵の所有になろうとランリエルに悪影響が無ければどうだって良いのだ。ランリエルは正義の国ではなく、リンブルクを正当なる王家が統治しなければ我慢出来ない。などという気はさらさらない。
しかし、リンブルクの国力を100とし、その内の50を持つ勢力が全体を纏め他は小勢力。というならば、ランリエルは60の勢力を置けばリンブルクを抑えられる。しかし、リンブルクが100で纏まれば、それを抑えるには110、120の勢力が必要だ。勿論、単純化した話であり、実際はもう少し複雑だが考え方は大きく変らない。逆に全く纏まっていなければ、その状態で安定させるのは難しく、場合によっては110や120でも足りないくらいだが。
「そういえば、ルキノ……。いや、ラルフ王への親書と贈呈の目録は送ってあるのだろうな?」
突如、先ほどの言葉とは全く関係なさそうな台詞を王子が吐いた。
「は、い。滞りなく送っております」
突然のふりにベルトーニがかろうじて、どもらずに応える。
退位するルキノには労いの言葉と退位後の領地。当座の生活費(過度に浪費しなければ一生食うに困らない)。それらを記した贈呈品の目録を送った。腹の底では思うところは山ほどあるが、ルキノへの叱責はフリッツ王子への王位禅譲の批判と同義語だ。ルキノを平和裏に、むしろ祝福して送り出す事がフリッツ王誕生をランリエルが祝福している事になる。
尤も、無断での退位を聞いた時には怒りに床を蹴ったが、今では王子も冷静になっている。王子がそもそもルキノに命じた任務はベルトラムとの交渉。リンブルク王への即位は完全な偶発事故。しかも、誰も予想できなかった。通りすがりの旅人が襲われているお姫様を助けたら国王になった。まさにお伽噺の世界。お伽の国の責任をルキノに求めるのは酷だった。
「無理をさせてしまっていた。しばらくはゆっくりするのも良いだろう」
ベルトーニが一瞬、奇異な視線を王子に向けたが、不敬と感じたのか慌てて視線をそらす。
ルキノはリンブルクの王位を退位し隠居性活に入る。ならば舞台から退場し、その後の役割はないはずだ。では、しばらくとはどういう意味なのか?
各国の王族にランリエルの政務を任せて名実共に臣下にする。その構想を持つ王子からしてみれば、元国王のルキノを登用するのも選択肢の一つだ。無論、ルキノが望めばではあるが、隠居するにはルキノは若過ぎ、有能過ぎる。己の力を発揮したくなったのなら、その場を与えてやるのはやぶさかではない。
ルキノの退位をフリッツ王誕生に繋げてランリエルとの友好を示すのは当然だが、王子としては今一歩進めたい。ルキノが如何に自分はルキノ・グランドーニではなくラルフ・レンツであると主張したところで、傍から見ればランリエル皇帝の元副官である事実は変らない。ならばルキノの人事権をサルヴァ王子が握っていると考えるはず。
王子としては、ルキノのリンブルク王退位を’承認’し、フリッツ王子をリンブルク王に’任命’したい。正式には無理でも実質的にはそうしたい。更に言えば、それを代々の慣例にしたいのだ。
言うまでも無く、この世界は身分社会である。身分社会とは規律であり、慣例である。かつては爵位にも明確な格差があった。力の大きい者が爵位も高く、力の小さい者や新興の貴族は爵位が低かった。しかし、爵位や領地の売買が繰り返された今では、爵位が高くても古くからの名門や大領の当主とは限らない。それでも、爵位が高ければ一目置かれるのは慣例であり秩序だ。
公爵が伯爵より偉く、伯爵が男爵より偉い。その秩序が乱れれば、そもそもなぜ貴族が偉いのか? という話になる。実際、貴族に勝る財力を持つ商人など幾らでも居るのだ。そして、王族はなぜ偉いのか?
サルヴァ王子は、リンブルク王退位や即位はランリエルから承認、任命を得るもの。それの慣例化を望んでいる。慣例はやがて秩序となる。リンブルクで王位継承問題が起こったとき、ランリエルの承認を得られた者が勝つ。それこそが秩序とリンブルク貴族が認める。やがて、それは法にすらなるだろう。
すぐにそこまで持っていくのは不可能としても、フリッツ王の対外的な後ろ盾はランリエル。それが明確になればリンブルクを抑えるのに60すら不要だ。残り半分はリンブルクとの信頼関係が埋める。
「信頼関係か……」
思わず呟き苦笑を浮かべた。ベルトーニはどう反応して良いのか分からず視線を泳がせている。
新たにランリエルの影響下に置こうというリンブルクどころか、ランリエル体制下の国々で無条件に信頼を置ける国など一つもない。バルバールは言うまでも無く、カルデイや実弟であるルージ王子が次期国王であるベルヴァースですら、いざともなれば危うい。両国とも地理的にランリエルに隣接。しかも、皇国から見ればランリエルを挟み反対側にある為、皇国に寝返っても防衛に皇国からの支援が期待できないから裏切っていないだけ。ともいえるのだ。
地理的に見てもランリエルから一番遠く皇国にも近いコスティラが、負けたなら潔く従うという、その国民性により一番信頼出来るという笑い話のような状況である。それも、過度の期待は禁物ではあるが……。
そのコスティラよりも更に皇国に近く衛星国家のデル=レイと接するリンブルクから信頼を得る。綺麗事ではなく実利の面でだ。
その実利とはリンブルク王やリンブルク王国へではない。近々、即位するフリッツ王子には力がなく権力を握るのはシュバルツベルク公爵。ならばシュバルツベルク公爵を実利で釣るか。順当に考えればそうだが、今回の件でサルヴァ王子は公爵の手腕を高く評価していた。
公爵は、目先の利益よりも政権の安定を目指すのではないか。領民の政治への参加など無かった時代。政治の安定とは貴族からの支持を意味する。シュバルツベルク公爵を釣る実利とは、リンブルク貴族からの支持。それを与える。ランリエル皇帝がだ。
常識的に考えてランリエル皇帝がリンブルク貴族へ、シュバルツベルク公爵を支持せよ。と命じたところで何の拘束力も無い。しかし、王子はリンブルク貴族を操る魔法の壷を持っていた。その壷に入っているもの。それは人命である。
「早急に捕虜名簿を作成せよ。特にセルミア王都で捕らえた捕虜の名簿は何としてでも手に入れろ」
「は、はい」
ベルトーニは、今度は噛んだが、サルヴァ王子も気にしない。ベルトーニ本人のみが赤面している。
封建社会の軍隊とは貴族の私兵の集合体。部隊長は貴族の当主や嫡子がほとんど。今までの戦いで皇国の貴族も幾人か捕虜にしている。当然、こちらの貴族も捕虜となっている。その双方の捕虜引渡しを行う。
捕虜の引渡しは珍しい事ではない。特に身分の高い者を捕らえれば身代金と引き換えに交渉するのも頻繁に行われる。国王が捕虜ともなれば、莫大な身代金が支払われるのだ。
かつて殺傷能力抜群の兵器が発明されたが、あまりにも非道な兵器として各国の宗教組織がその兵器の使用を反対し、やむを得ずその兵器を封印したという事があった。まことに人道的な話ではあるが、その裏には、殺してしまっては身代金が取れなくなる。という事情があるからとも噂されている。
通常は戦争が終わってからだが、戦いが長期化すれば戦争中の捕虜引渡しも行われる。しかも、今回の戦ほど長期化したのはこの大陸では稀だ。捕虜も食わせねばならず、双方、負担になっている。捕らえられている貴族を取り戻したい気持ちもある。捕虜交換を交渉する余地は十分にある。
当然、取り戻す捕虜はランリエル貴族や以前からの傘下国の貴族が優先となる。ここでリンブルク貴族を優先すれば、今まで従ってきた国々の反発を招く。王子は皇国に捕らえられているリンブルク捕虜は眼中に無い。
サルヴァ王子の狙いは、ランリエルが捕らえているリンブルク捕虜である。捕虜交換の交渉時にセルミア王都からのリンブルク捕虜移送の許可も得る。戦場への食料の移送は両軍負担だ。前線に捕虜を留めていれば負担は更に増す。皇国も捕虜を後方に輸送できると賛成するだろう。
と、言う話をシュバルツベルク公爵と行うのだ。公爵には捕虜名簿を渡せばよい。貴族とは領地の安定こそが大事。当主や嫡子が居なくなった混乱が、今後の方針が決まりやっと一安心。今更、戻って来られても困る。という貴族も多い。
しかし、人は善人でありたいものだ。帰って来るなとは口に出来ない。いや、帰って来るなと考える事すら言語道断。シュバルツベルク公爵が捕虜名簿を入手した。という話を聞いた貴族が、たまたま舞踏会で公爵と雑談を交わすのだ。
「出兵した本家の当主が戦場で行方不明となり生きているのか死んでいるのかも定かではなかったのですが、このたび我が息子が本家の養子となり家名を継ぐ事になったのですよ」
たわいも無い近況の話だ。不幸な事に後日、公表された捕虜名簿に当主の名が無い。ただそれだけだ。勿論、舞踏会の世間話など関係ない。不幸にも当主は既に戦死していて捕虜となっていないのだから、誰も悪くないのである。きっとそうなのである。
実際、皇国の将軍に捨て駒のように使われたリンブルク将兵は、城壁の前に屍の山を築いた。捕虜など数えるほどだ。しかし、可能性はゼロではない。名簿が公表されるまでは名前が有ると言えるし、無いとも言える。
その名簿を公爵がどう扱うかで、その器量が知れる。
貴族の’世間話’の通りに手を加えるか。
名簿に手を加えない。繰り返すが生きて捕虜になっているリンブルク将兵は少ない。更にその中で、相続問題に発展しそうな貴族が何人居るか。その僅かな貴族の為に毒を飲むのか。
ランリエルが公爵に与えた名簿と公爵からこの者を開放して欲しいと返された名簿。それに差が有ればランリエルには一目瞭然。それが公爵の負い目となる。シュバルツベルク公爵はそれほど愚かではないはずだ。
名簿に手を加えなくても、ほとんどの貴族は世間話の通りになるのだ。僅かな捕虜が帰って来た後、捕虜が帰って来なかった貴族からなぜか感謝される。それで十分のはずだ。
部屋を出るベルトーニの背を見送り、サルヴァ王子はルキノやウィルケスなど歴代の副官の顔を思い浮かべた。特に前任のウィルケスとは大きく違う。王子はベルトーニに不満を持っていた。
別の副官代理を任命するか。それとも、いっその事テッサーラ王国軍を率いてリンブルクに駐屯するウィルケスを呼び戻すか。リンブルクが安定するのなら、それも選択肢の一つとなる。各国の王族を部下にするのはこの大戦の後と考えていたが、それも視野に入れるか。条件が整えば前倒しにしても、なんら問題ない案件だ。
自分を尊敬し神格化すらしているベルトーニだが、それも過剰になると辟易する。不敬な事を言わないようにと配慮するあまり、無駄口をきかなさ過ぎだ。ずっと独り言を喋っている気分になってくる。




