第309:女優再び
シモン。彼女はそう呼ばれる。本名ではないが、ここ数年はそう呼ばれている。以前は別の名で呼ばれていたが、その名も本名ではない。更にその前は別の名で呼ばれ、その前は別の名だ。では、本名というものがないのかと言えば、産まれた時に付けられた名があり、それが本名といえるはずだが本人も覚えてはいない。
彼女はダーミッシュの一族。現当主の妹だ。かつてベルトラムと手を組んでいたシュバルツベルク公爵にはダーミッシュの娘と紹介されたが、その当主が代替わりした。尤も兄弟、姉妹の数は多く家族として育った記憶はない。
彼女自身も優れた諜報員であり、驚異的な記憶力を持っているが、どんなに記憶力が良くても不要なものは記憶しない。自分の本名などより、任務で使う名前の方が遥かに重要であり、本名などを覚えるくらいなら、調査対象者の襟元のしわの数を覚える方が遥かに有益だ。
彼女には子供が2人いる。それも任務。2人産めと言われたので2人産んだ。男女の双子が良いという指示だったのでそうした。一族の者は任務の対象者やその関係者に子を産ませ、産む。男児を産ませる。女児を産む。その研究もなされている。
産まれる子の性別は男の精が決める。それは実験により分かった。ならば、男女の産み分けは男次第なのかと言えば、そうとも言えない。世の中には男腹。女腹。という言葉があり、男児ばかり産む女。女児ばかり産む女。そういう事が確かにある。
一族の研究では、男児の元となる精と女児の元となる精には性質の違いがある。男腹の女性は男児の元となる精が活動しやすい体質なのだ。女腹はその逆である。その体質は食生活で変える事が出来る。だが、女性の体質だけでは産み分けは成功しない。性交の時期も重要である。
子供は女性が排卵し、その卵子に男の精が受精すれば妊娠する。男児の元となる精は動きは活発だが短命。女児の元となる精は動きは鈍いが長命。つまり、女性が排卵した直後に性交すれば男児が産まれやすく、排卵する数日前に性交すれば、排卵までに男児の精は死滅して生き残った女児の精が受精しやすいのだ。
双子を産むには2つの精子を卵子に同着させる必要がある。しかし、男児の精と女児の精では性質がまるで反対だ。男女の双子を産めという難解な指令を受けたシモンは、自身の体質を男児と女児の好む体質の中間にあわせた。そして、排卵の2日前と排卵当日の2回性交を行う事により、この難解な指令を成功させたのである。
そこまでは良い。問題は、それ以降、何も指令が出ない事だった。
屋敷で軟禁されているとはいえ、当然、ベルトラムが亡くなった事は一族から連絡があり、夫からも、驚くなよ。という前置きを経て聞いている。更に、一族がランリエル皇帝サルヴァ・アルディナに身売りした事も連絡はあった。
そもそも双子を産めという指令も、それを命じたベルトラムは無作為に種を蒔き、結果的に咲いた花を組み合わせて策にするという思想が元。それは、全てのものに意味を見出そうという知者の読みをくらますには有効だが、無駄になる種も多い。しかも当のベルトラムが死んだ。一族の党首ダーミッシュは先代も当代も、双子を政治的に使うという知恵を持たず、シモンは完全に放置されたのだ。
尤も、一族に彼女を放置しているという認識はない。シモンにもなかった。工作対象の近くの村に潜伏し、村の一員として暮らすという任務もある。百年以上も前に村に流れ着いた者が実はダーミッシュの一族であり、何代にも渡って村に溶け込みながら指令を待っていたりもするのだ。一族も、役に立つ時が来れば指令を与えようと考えていた。
それまでは以前の指令を厳守する。その指令とは前リンブルク王の本来の後継者フリッツ王子と結婚し、良き夫婦として暮らせというものだ。フリッツ王子は、王位継承権を捨てて彼女を選んだ。そう言われている。
「フリッツ様。王位を捨ててまで侍女であった私を……」
彼女は涙を流し夫に抱きつく。王子も愛の言葉を囁き彼女を抱きしめ、その夜は激しく彼女を求めた。夫婦仲を保つには必要な事だ。尤も、3人目を産めと指令されていないので、一族の技を持って妊娠しないようにしている。酒をかけた後に更に煮て殺菌した豚の腸を伸ばしたものを子宮の入り口に特殊な糊で貼り付け蓋をすれば妊娠しない。
「お父様は立派な方なのですよ。王位などより遥かに大事なものがあると知っているのです」
言葉も喋れぬ我が子に毎日言い聞かせている。それを傍ら聞く王子はなんとすばらしい妻かと目を細める。もし、我が子が物心付いた時に、こちらの意図せぬところで王位を望むなどと言えば面倒な事になる。逆に、そう言い聞かせていても、王位に就けろと指令が来た時には難しくない。王位よりも大事なものはあるが、その大事を成す為には王位に就く必要がある。そう説得するのは難しくない。
しかし、次の指令が来ない。廃嫡になり軟禁という扱いで王家の領地のほとんどは没収されたが、僅かに残った領地からの収入もある。衣食住の心配はない。
「私はお前と暮らせて幸せだ。愛する妻と可愛い息子と娘。それ以外の何が必要なのか」
「私もで御座います。貴方さえいれば、他の何もいりません」
「息子と娘は? いらないというのではないだろうね?」
「息子と娘は勿論大事です。私の命よりも。ですが、貴方は……」
シモンは愛する夫への心を表現する言葉を見つけられないのを誤魔化すように夫に抱きついた。夫もそれに応える。
「悪い母親だ」
そう言いながら妻に口付けた。新たに指令がなければ、シモンは良き妻。良き母を演じ続ける。夫は良き妻と可愛い息子、娘に囲まれ、権力闘争とも無縁な穏やかで幸せな生涯を終えるだろう。
サルヴァ王子としても、リンブルクは貴族達がランリエルに付くことを了承するかが焦点であり、今更、リンブルクの王位が問題化することはない。そう見ていた。故に、前国王の遺児フリッツ王子が軟禁されていると報告を受けてはいたが、お気の毒なので出来るだけ便宜を図るように、との指示を出すに留まっていた。
全てが丸く収まり、問題は解決しつつある。しかし、世の中には問題が解決するかより、正しいかどうかを重要視する者がいる。
その日、フリッツ王子夫妻は久しぶりに客の訪問を受けていた。とはいえ、厳密には訪問と言えるかどうか、その人物の要件とは、我が主の元に訪問して頂きたいというものだった。数日後、夫妻は幼い双子を乳母に預けて馬車である場所へと向かった。
「申し訳御座いません。本来ならば、こちらから出向くところなのですが、妻には城から出られぬ事情があるのです」
公式な面会ではないので応接室に通された。そこでフリッツ王子夫妻を待っていたのは現リンブルク王ラルフ・レンツと女王クリスティーネ・シュレンドルフ。リンブルク王の本名はルキノ・グランドーニというがラルフ・レンツを名乗り続けていた。
以前の経験から夫が傍に居なければ他の男が視界に入るだけで精神が不安定になるクリスティーネだったが、今では少しはマシになっている。それでも、移動には夫の同行がないと難しい。国王が夫婦揃っての外出など大事であり、密かに人に会いたければ相手を招くしかないのだ。
落ち着いて見えるルキノと、その隣で硬い表情のクリスティーネ。逆にフリッツ夫妻は夫よりも妻シモンの方が落ち着いている。
国王が何の用だろうか? シモンは感情を隠した顔の裏でそう思案していた。まだ一族からの連絡も新たな指令もない。サルヴァ皇帝からの指示ならば、皇帝の部下になった一族から連絡があるはず。一族も国王夫妻からの招きを把握していないという事だ。
こちらからの連絡は所定の場所に手紙を置くという方法でなされるが、長期潜伏状態の為に毎日手紙があるかは確認されない。月に3回は手紙が置いてあるかを見に来るが、今回はその時期に合わなかった。一応、手紙は置いてきたが、それもまだ回収されていない筈だ。
「屋敷での暮らしは不便ではないですか?」
「いえ。不自由など何も。妻と息子と娘。穏やかに暮らしております」
国王からの気遣いの言葉に夫が答える。夫が同意を求めるように視線をシモンに向け、微笑んで同意を表す。彼女の中の完璧なる妻の人格がなす自動反射行動の裏で思考を巡らせるが、彼女の思考はあくまで諜報員のものだ。
何かを探ろうとするのに国王夫妻が直接尋問するなどあり得ない。特に女王クリスティーネが尋問に立ち会うはずがない。と、諜報活動としての意義に思考が傾く。
シモンが思案を巡らせる間も現国王と前王の王子との会話は続き、時折、振られる話題に作られた人格が自動反射で応える。私的に招き、こちらの何かを探ろうというのではないなら、国王としての内密な話があるはず。そこまでは推測できるが、一族に共通する政治的センスのなさから、それ以上の推測は困難だった。
「それで、実は、フリッツ殿下にお頼みしたいことがあるのです」
場をほぐす為の会話が一段落すると、ルキノが本題への扉を叩いた。フリッツが頷いて扉を開けた。
「殿下は驚き、今更とお考えになるとは思いますが、妻とも相談し考えた事です」
「なるほど。かなり重要なお話のようで御座いますな」
フリッツ王子もシモンと結婚し廃嫡される前は、年齢に比べて精神が幼く軽率なところもあったが、今では権力から離れ達観したのか落ち着いた人格となっている。現国王の回りくどい言葉にもせかす様子はない。
「実は、私は退位を考えております。フリッツ殿下に次のリンブルク王となって頂きたい」
そんな指令は受けていない。真っ先にシモンの頭にそれが浮かんだ。
彼女の今までの経験では、このような話がリンブルク王から言い渡されるなら事前に一族から連絡があるはず。サルヴァ王子の命令で一族の監視対象からリンブルク王夫妻が外れた事など知らないシモンが不思議に思うのも無理はない。彼女の経験では、敵は勿論、味方の動向すら探るのが当然だからだ。
諜報員の思考をしつつ妻としての演技を続け、怯えて夫に助けを求める視線を向けた。とはいえ、その夫も驚愕の表情を浮かべるのみ。夫は頼りになりそうにない。
諜報員としての思考に沿えば、夫が頼りにならないのは望むところ。こちらの都合の良い方向に誘導するのが容易になる。だが、命令がない。誘導するにしても、どちらに誘導すれば良いのか分からないのだ。
色々と考えてはいるが、結局、シモンには判断する能力がない。彼女自身は考えている積もりなのだが、行動方針を構築する思想がこのような状況を想定していないのだ。
要するに彼ら一族の思考は、どうしろという指令があれば、どんな手を使ってでもその目的を達成するというものだ。その目標到達への臨機応変さは常人には到底まねが出来ない。例えば、女王クリスティーネを守っていた一族の少女達は、女王を守る為に剣を持って懸命に戦ったが、勝てないと悟ると剣を捨てた。剣を捨て、女王を殺さないで下さいと自らの首を差し出しすらしたのだ。
決して無能ではない。しかし、その臨機応変さも肝心の到着地点が明確でなければ迷走するのみ。馬鹿の考え休むに似たり。ではないが思考した積もりでも、結局は状況を見守る。という結論しか出てこないのだ。
「申し訳御座いません。返事には、しばらく時間を頂けますまいか」
「勿論です。奥方と十分に話し合って下さい」
フリッツ王子は、帰りの馬車の中でも無言だった。時折、妻への視線を向けるがその度に妻は微笑み返した。夫を気遣い、それを和らげよう。そう思わせる包容力すら感じさせる笑み。決して夫をせかせず、どこまでも見守る。男ならば誰しも、このような妻を得たいと思うだろう。
命令がない。自動反射で完璧な妻を演じるシモンの心の中では、それのみが心を占めていた。だが、現状の指令はある。良き妻を演じる。ならば夫を支えるべき。そう判断するのが順当だが、夫が国王になるというのは、新たな指令が発行されるべき大事のはず。だが、現実に新たな指令がない。
軟禁されている(といっても外出も自由なのだが)屋敷に戻ってもフリッツ王子は黙ったままだ。その横では妻が乳母に預けていた我が子を抱いている。
自分は夫として妻を、父として我が子を守らなければならない。妻も言っていた。王位よりも大事なものがあると。私はそれを分かっている男なのだと。確かに、事故とはいえ父を殺し王位への道を絶たれ王位への執着心を失った。妻と我が子。それが今の自分の全て。ならば、王位は辞退すべきだ。
しかし、フリッツ王子にも夫、父として家族を守るという心とは別に男児としての心がある。このまま穏やかに暮らそう。そう考えていた。そう考えたのも王位を諦めたからこそ。しかし、その王位が目の前に転がっている。
自分は前王の嫡子。次期国王として育った。それが当然。そう育った。しかし、その王位より妻を選んだ。その選択に悔いはない。これほど素晴らしい妻に比べれば、王位などに何の価値がある。しかし、その両方が得られるならば……。
我が子をあやす妻を見つめた。夫の視線に気付いたのか妻が顔を上げる。その妻が微笑む。
「貴方は、貴方の信じる道をお進みください。私は、どこまでも貴方について行きます」
まさに良妻の鏡。その実態は判断の丸投げだ。夫を支え仲睦まじく暮らす。という一族の指令にも沿う。だが、彼女はその自身の言葉が、言外にどのような意味を持つかまでは考えが及ばなかった。普段のシモンならば、もっと相手の心の機微に敏感であったかも知れない。
この重大事に指令がないという状況が、彼女の行動を鈍らせた。表面的には落ち着いているものの、作られた人格の自動反射にゆだねた。本来の彼女であれば、作られた人格に自分の判断を加えて言葉を選んだはずだ。
「分かった。お前がそこまで言うならば、私はリンブルク王になろう」
夫が決意の視線を妻に向けた。人は自分の都合の良いように物事をとらえる。妻の言葉を、国王への道について行きます。そうとらえたのだ。
言ってない! そんな事は言ってない! どうしてそうなるのか? 自分の言葉が揺れていた夫への後押しになるとは思い至らなかった。しかし、諜報員としての人格が破綻すればするほど、作られた人格の自動反射が一人歩きする。
「はい。どこまでも貴方について参ります」
素晴らしい妻は、夫の決断を微笑んで受け入れた。夫も妻を抱きしめる。その時、微かに諜報員としての彼女の理性が動いた。今日は避妊の準備をしていない。指令に反して3人目が出来てしまうかもしれない。
ダーミッシュの一族シモン。歴史に埋もれるはずの、埋もれるべきはずの諜報員の一族の彼女が、リンブルク王妃への道を歩み始めた瞬間だった。




