第307:政道
攻めるには守る側の数倍の兵を必要とする。
当たり前のように信じられている軍事上の常識。しかし、兵法書には、こうも記されている。守るには攻める側の数倍の兵を必要とする。
一見、相反する言葉に読めるが、この2つの言葉は矛盾しない。なぜならば状況、視点、思想が違うからだ。確かに城塞に篭る敵を攻めるには相手の数倍の兵がいる。それは当然だ。しかし、守るにも多くの兵を必要とする場合がある。
そして、軍勢同士の戦いでも一つの法則がある。背後を取られれば負け。というものだ。
背後を取られれば退路、補給路が断たれる。その実質的な不利もあるが、それ以上に心理的なものも大きい。前面の敵と矛を交えている最中に、後ろにも敵が居るとなればその重圧は計り知れない。兵達はその心理的重圧に耐えかね瞬く間に敗走するだろう。
後ろを取られるのは絶対に阻止しなければならない。守備側が敵に背後を取られない為には、長大な防御線を構築し、どこから攻められても敵を防ぐだけの兵力が必要だ。
逆に攻めるには少ない兵力でも、その長大な防御線の一点を打ち破りさえすればよい。防御側の多くの兵は戦闘に参加しない遊兵と化し、局地的には戦力で優位に立てるのだ。
これは戦場が広範囲になればなるほど顕著であり、戦史を紐解けば、意外と少数の軍隊による侵略が成功しているのが分かる。数倍の兵を擁する敵国に数万の軍勢で攻め込み数年にわたって侵略し続けた名将。都市の一つずつを比べれば、こちらの兵力が多いという理由で数十からなる都市国家同盟を圧倒した都市国家。というものが存在するのだ。
ランリエルとバルバールとの戦闘時に、バルバールが寡兵にもかかわらず海上からの攻撃でランリエル、カルデイの2ヶ国を翻弄出来たのも、この思想による。長大な海岸線のどこから攻めてくるか分からないバルバール軍を、兵力で勝るランリエル、カルデイが防ぐ事が出来なかったのである。
つまり、点を攻めるには守備側が優位であり、面を攻めるには攻撃側が優位と総括出来る。
ならば、面を攻める側が兵力でも勝っていればどうなるか?
ランリエル本隊が守るセルミア王都方面への皇国軍の攻撃が激化した。ベルトラムを倒しリンブルクを引き込んでゴルシュタットを無力化したランリエルだが、更にゴルシュタットを自陣営に引き込む為にはカルデイ帝国軍らを派遣する必要があった。
ランリエルとしてはゴルシュタットを味方につければ皇国への牽制になる。との思惑があり、兵力分散の愚策。と評するのは酷だが、現時点で兵力が減少しているのは事実であり、皇国軍はその間隙を縫いランリエル本隊が守る地域に10万の兵を増強した。
現在、ランリエル本隊は広範囲に兵を分散し過ぎている事もあり、掌握できている兵は10万ほど。それに対し皇国軍は衛星国家の兵を合わせれば30万に達した。
兵100万を号する皇国ではあるが、今まで皇国に敵しえた国など存在せず、戦闘とは名ばかりで逃げる敵を踏み潰すだけならまだ良い方であり、実際は100万の軍勢を前に敵軍は戦うまでもなく恐れをなして散り散りに逃げ去り、敵国を蹂躙するだけだった。
ランリエルに利するとすれば、皇国軍とて、この規模の戦闘は初めてであり、勝手が分からないというものだったが、皇国軍の将軍、参謀達も無能ではない。徐々に「世界大戦」とはどういうものか? を学習しつつあった。
「今までの戦いは、多くの兵を集め、その軍勢を運用するに適した地を決戦場と定めて敵と雌雄を決する。そのようなものでした。しかし、現在、ランリエルは、他の地域の戦場を睨み、本来、主戦場たる、この地では守りに徹しています。彼らに決戦の意思はありません」
皇国軍の若い青年参謀は将軍達を前に、そう現状を分析してみせた。将軍達からは、それでどうすれば良いか? という、当然の質問を得て先に進む。
「敵が守りを固めていられるのも、物資の調達が十分になされているからに他なりません。兵を敵の後方に回し、その物資を絶つ。そうなればランリエルも撤退するか、短期決戦を望み打って出るかの選択に迫られます」
「なるほど」
若い参謀の言葉に皇国の将軍達は頷いた。
一見、物資の調達を妨害するなど当たり前の戦略とも思えるが、実は、この当たり前が今までの戦いでは当たり前ではなかった。城塞を攻めるならともかく、兵を集めての決戦主義の戦いでは長期間の対陣を想定していない。ゆえに、敵主力との戦いで物資を絶つ。という作戦も想定されなかった。
物資を絶っても即効性はなく、今までの軍事思想では、その効果が現れる前に決戦が行われる。敵の背後を突く兵は、それだけに危険性が高く、にもかかわらず成功させても効果が薄いならば、決戦に備えて兵を温存するのが当然なのだ。
しかし、戦闘の規模が大きくなり、今までの思想が通用しなくなった。それにより皇国軍の迂回作戦が決行された。ランリエル側は10万の兵を南北に広げるように防衛戦を敷き、皇国軍は全線に渡って攻勢を強めているが、その上で更に北へ北へと攻撃の手を伸ばしたのである。
別働隊を組織し、更に戦場を大きく迂回してランリエル側の背後に出る作戦も検討されたが、少数の兵での奇襲は効果がない。というこの大陸の軍事思想から却下された。大兵力をランリエル防衛戦の北の端に叩き付けて敵を釘付けにしつつ、その点を軸に北から兵を回り込ませようというのだ。
それに対しランリエル側は、敵の猛攻に耐えつつ東北方向に新たに防御線を構築し抵抗を続けた。しかし、防御線が長くなればなるほど薄くなるのも当然である。ランリエル側は、薄い兵幕を持って、何とか暴風を支えているような状況である。
この戦況にグラノダロス皇国副帝アルベルドは満足していた。
「まあ、元々の国力が違う。サルヴァ・アルディナに小細工をさせる隙を与えねば勝って当然か」
彼が、そう声をかけたのは、腹心の部下であるコルネートだ。デル=レイ王時代の前。皇国の皇子であったころからの部下であり、副帝就任以前からアルベルドの野心を察していた数少ない男だ。尤も、現在ではアルベルドの野心を察している者の数は多く、その意味での貴重性は薄れている。
「どういたしますか? 更に兵を動員すれば、薄くなったランリエルの防御線を突破するのは可能かと思われますが」
軍事の専門家ではなく外交官である彼だが、ある程度の知恵のある者なら、これくらいは判断できる。むしろ、現場の職業軍人達の方が日々の激戦に意識が集中し素人でも気付きそうな事に気付かなかったりするものだ。
「うむ……」
アルベルドが小さく頷き思案に入った。コルネートを待たせるのには遠慮せず、彼の沈黙はしばらく続いた。
「いや。止めておこう。それよりも、今、注力するならばバルバールに落とされたアルデシアの奪還だな」
「アルデシア。で御座いますか?」
アルデシアは皇国の衛星国家。大グラノダロス皇国の威信を考えれば、最優先で奪還を目指すのが当然だが、それならば、そもそもランリエル本隊と対峙する戦線へ兵を増強せず、そちらに兵を回せば良かったのではないか。
確かに目標を明確にし、その目標に対し戦力を集中するという戦略の基本。それからすればアルデシア奪還を優先させるならば、初めからアルデシアに兵を向かわせるのが道理。しかし、これは世界大戦である。世界大戦には戦略を超えた大戦略が必要だ。
大戦略とは政治までを含めた戦略。と定義できるが、現在、その言葉は存在しない。しかし、戦においては戦争の天才たるサルヴァ王子に一歩譲るものの戦争に政略を絡める事にかけては王子よりも優れているのではと思われるアルベルドだ。まだ概念が存在しない大戦略を無意識に想定していた。
「アルデシアを落としたフィン・ディアスの望みはバルバールの平和のみ。それは彼が普段から公言している事だ」
それは駆け引きではなく本心からであり、他者からもそう見られるようにディアス自身、意識している。人とは不思議なもので、普段から公言していればある程度の無茶をしても許容され、逆に許容しない方が責められさえする。
あいつがああなのは前から分かっていたじゃないか。というやつである。ディアスは普段からバルバール王国軍の存在意義はバルバールとその民を守る為に存在する。そう公言しているのだから周りもそれを踏まえて行動すべき。しかも、間違った主張ではなく通常の感覚でも常識的であり、非難されるものではない。
故に、フィン・ディアスがバルバールを最優先に考えるのは周知の事実。周りの者こそがそれを考慮して対応すべき。という雰囲気があった。
「しかし、現在のバルバール王国軍の動きを見れば、ディアスは己の信念を忘れたかのようにランリエルに尽くしている」
その為、評価の逆振りもあって、あのディアスがここまでランリエルに尽くしているのだからランリエルもそれに応えるべき。という世論が出来つつある。
「バルバール王国軍の危機をランリエルが見捨てれば、それはサルヴァ王子にとって政治的に痛撃。ランリエルに余裕がない今こそ、バルバール王国軍を討つべきだ。政治的にはな」
「ですが、相手はあのフィン・ディアスです。兵を増強したとしても、そう簡単に討てるでしょうか?」
「まあ、簡単には行くまいな。だが、ディアスの策略も、こちらに付け入る隙があればこそ。その隙さえ見せなければ、実際の戦闘は前線の指揮官達が命運を握る。我が軍の指揮官達がバルバール王国軍に劣らぬと考えるのは過剰な期待ではあるまい」
確かにディアスは自ら前線に出て兵を鼓舞する総司令ではない。総司令への信頼は兵士達の粘りに現れるが、現実として兵が消耗していくのを止められるものではないのだ。
「それは確かにそうかも知れませんが……」
「どうした? 歯切れが悪いな。言いたいことがあるならばはっきり言え」
「か、確証がある分けではないのです。お聞き流し下さい」
「構わぬ」
「は。あのサルヴァこうて、あ、いえ、サルヴァ王ですら敗北寸前まで追い詰めたというディアスが、自らの退路を絶つような篭城をした挙句、敗北するなどという事があるのかと。いえ、らちのない事を。お忘れ下さい」
グラノダロス皇国ではランリエルの皇国成りを認めていない。故に皇国でグラノダロス皇帝以外を皇帝と呼ぶのは極刑になりかねない不敬罪なのだが、アルベルドも他者が居ないところならば聞き流す度量は持っている。それよりもディアスだ。
「そうだな。ディアスほどの男が死ぬと分かっていて篭城などするものか。とは、誰しも思うだろうな。だが……」
奇策の天才サルヴァ・アルディナ。その彼を敗北寸前にまで追い詰めたバルバール王国軍総司令フィン・ディアス。カルデイ帝国軍総司令ギリス・エティエ。彼らに匹敵するであろうベルヴァース王国軍の元総司令セデルテ・グレヴィ。その誰一人として、大差ある劣勢を覆し勝利したことなどないのだ。所詮、戦いとは戦力が勝る方が勝つのである。
コスティラ王国軍が数は少なくとも勝利する事があるが、あれは数は少なくとも個々の兵士、騎士達が並外れて強く、数は少なくとも戦力では勝っていた。例外と言えるのはバルバールとランリエルとの最終決戦での戦いだが、それにも事情がある。バルバール、コスティラ連合軍はランリエル、カルデイ連合軍に数で優位にいたにも関わらずバルバールが降伏した為、ランリエル側が勝ったとされているが、それはディアスが、戦いに勝つだけならば勝てるがサルヴァ王子を殺すという彼にとっての絶対条件が不可能と悟ったからだ。
つまり、フィン・ディアスだろうが、サルヴァ・アルディナであろうが、倍ほどの戦力で攻めればほぼ間違いなく勝つのだ。問題は、その結論をディアス自身が分からないのだろうか。そのようなはずはなく何か策があるのでは。というのがコルネートの懸念だ。
「しかし、ディアス自身が滅ぼされるのを願っていれば」
コルネートが思わずアルベルドの顔を見直した。ディアスは勝つつもりではなく、滅びる積もりでアルデシアに篭った? そのような事があるだろうか。だが、バルバール王国とその民を護る為にバルバール王国軍は存在する。それがディアスにとっての常識。そしてディアスとは、その常識を非常識なまでに徹底する男。それを理解すれば、バルバール王国とその民を護る為にバルバール王国軍を全滅させる。それも選択肢の一つだ。
ランリエルが勝てばバルバール王国軍は、最大の功労国として賞される。皇国が勝てば、最大の戦犯国として断罪される。それは当然だ。しかし、それから逃れられる方法が一つある。あれだけ尽くしたにも関わらずランリエルから見捨てられ滅びる。世論の同情はバルバールに集まる。その同情を受け、大手を振ってバルバールはランリエルを裏切る。バルバール王国は、ランリエル本隊とランリエル本国とを分断する位置にあり、退路を絶たれたランリエル本隊は滅び、バルバールは同情と功績を持って皇国に受け入れられる。
「まあ、ディアスが死ねば、立派な石碑を建てて、奴を賞賛する碑文でも刻んでやるさ」
古今比類なき智謀の名将。数倍の兵に耐えるもランリエルの裏切りによって滅ぶ。その石碑の前でアルベルドが嘆いて見せる。陳腐な文言だが、万人に訴えるには万人に分かりやすく有ればよく名文は必要ない。敵国の名将に敬意を払う名君とアルベルドの名声は上がり、それほどバルバールの総司令の死を悼んでくれるならとバルバールも寝返りやすくなるというものだ。
絶句し言葉を発せられなくなったコルネートに、改めてアルデシア方面への兵力増強を命じた。本来、コルネートの役割は外交官であるが、独裁国家では役職を超越した命令の発行はよくある事だ。それに今はまだ内示の段階。正式な命令書は軍部から発行させる。
コルネートが退出すると、アルベルドは満足げな溜息を漏らした。ランリエルとの戦いは長期戦となっているが、それもアルベルドにとっては有利に働いている。現在、皇国は戦時体制となっている。本来なら皇帝の代理人でしかないアルベルドが法案の成立や軍勢の動員を行うには議会の承認が必要だ。戦時体制ならば、それらの独断が許される。
そのアルベルドの独断が長期間になればなるほど、周囲もそれに慣れる。アルベルドの独裁が日常となる。ランリエルとの戦いをアルベルドが長期間にわたり指導し、当然、最終的には勝利する。その功績と独裁への慣れ。それによってアルベルドの皇帝への道に反対するものは少なくなるのだ。
現皇帝カルリトスとアルベルドは親子ほどの歳の差があるが、その父ほどの年齢のアルベルドがカルリトスの養子になる。という強引な手段すら可能となってくる。皇帝の息子ならば次の皇帝になるのに何の不都合があろうか。
全てが順調だ。梃子摺っていると見えるランリエルとの戦いすら、アルベルドの手の平の上。そして、この日の夜。アルベルドは彼の妻から、愛人の妊娠と、その愛人が正妻の座を望んでいると告げられたのだった。




