第21話:償えぬ過ち
後宮の寵姫であるアリシア・バオリスは、カーサス伯爵を歓迎する宴でサルヴァ王子の最も寵愛あつい寵姫セレーナと衝突し、その後、彼女の取り巻き達からの嫌がらせに辟易していた。
取り巻きとはどのような者達かといえば、王子からの寵愛をセレーナと争うのは諦め、その代わり彼女に取り入り、そのおこぼれに預かろうという者達である。
セレーナはかもすれば王妃にもなろうかと言われ、もし王子が他国の王女を娶り王妃としても、王妃よりセレーナを寵するのではないか、とも噂されていた。
もはや後宮でセレーナと寵愛を競おうなどという大それた者など存在せず、ある者はならばせめておこぼれに預かるべく近づき、ある者は万一の逆転に望みをかけ彼女より先の懐妊に望みを託した。
その為、過去には他の男に通じて妊娠し、それを王子の子と偽った寵姫すら存在したのである。もっともこのたくらみは、その寵姫と男との間で成功報酬について折り合いが付かず事が露見した。
「次期国王の子を産むとなればたんまり金が入るんだろ?」
そう言って金をせびる男に、始めはその寵姫も大人しく金を払っていたのだが遂には払いきれなくなったのである。
確かにその寵姫の実家は裕福な伯爵家ではあったが、まさか妊娠している子供の本当の父親に払うので金を送って欲しい。と言える訳も無い。手持ちの金がなくなると支払いに窮したのである。
男と寵姫の、払え、払えない、というやり取りは何度も繰り返され、そして始めは慎重に連絡を取り合っていた2人だったが、長期のやり取りについ緊張の糸が切れ通常の手紙として相手に返事を送ってしまったのだ。
そして、後宮でやり取りされている手紙は、すべて後宮を管理する役人によって検閲されていたのである。
尊厳の侵害もはなはだしいが、万一重要な国家機密を漏らす事も考えられるし、また今回のように王子以外の男と通じていないか見張る為もあった。
役人は寵姫が出す手紙と寵姫宛てに届いた手紙の封印を、職人技ともいえる手際で痕跡を残さず開け、手紙を謁見し内容に問題がなければまた封印をおこなって、何食わぬ顔で手紙を元に戻すのである。そして寵姫が孕んだ子供が、サルヴァ王子の子では無いという事実を掴んだのだった。
他の男の子供を王子の子と偽るなど、本来死罪となってもおかしくない大罪である。
しかし王子は事態をあまりにも馬鹿馬鹿しく感じ、また他の男の子供を自分の子と偽られたなど、自身の物笑いの種になると事を秘匿するように命じたのだった。
結局、王子の子は死産だったと公表され、寵姫は「その後」死産したショックから他の男と通じたとして後宮を追放され、男は、王子の寵姫に手をつけたとしてその罪を問われたのだった。
ある時アリシアが、今日は冬にしては日差しが暖かく散策するにはちょうど良いと珍しく庭に出てみると、遠くからクスクスという笑い声が聞こえる。声のする先へと目を向けると、着飾った数人の女性が自分を見ていた。
「あれが地味で有名な……」
「私、下賤の娘が迷い込んで来たのかと思いましたわ」
「殿下も物好きな事でございますわね」
アリシアは、わざと自分に聞こえるように喋っている女性達に一瞥をくれたが、相手をせずに無視をする事に決めた。セレーナとの事もあり、自分とは相容れない人種なのだと判断していたのである。
せっかくの良い気分が台無しとなったと後宮にある自室へと向かったが、嘲笑を与えてくる寵姫達はなおも彼女の後を追った。アリシアと同じように後宮へと足を向けながらも、繰り返し彼女を嘲笑し続けているのだ。
気分を害して後宮へと進んだが、ここで足を速めるのも逃げるようで癪に障る。あえて急がず歩を進めていると、そこになんと親玉が現れた。
後宮へと向かうアリシアに対し、今まさにセレーナが後宮から出来てきたのである。思わず舌打ちをしそうになったが、それはさすがに下品すぎると我慢する。挟み撃ちにされる形になったが、我関せずとセレーナの横を通り過ぎようとしたのである。
しかし意外にも、アリシアとセレーナの距離が縮みお互い間近まで近寄るとセレーナは立ち止まった。しかも笑顔で、とは言えないが丁寧に
「こんにちは、アリシア様」と挨拶までしたのだった。
アリシアにとっては予想外と言っても生ぬるい。とてもとっさには反応できず、セレーナの顔にちらりと視線を向けただけで、つい無言でその横を通り過ぎてしまった。だがこの事は、嘲笑を向けてきた寵姫達より遥かに彼女を傷つけた。
自分を嘲笑した寵姫達には、彼女達に対して「なんて嫌な女なんだ」そう思うだけだった。しかしセレーナの行動は、自分こそ嫌な女なのではないか。そう思わせるに十分だったのである。
アリシアはセレーナの横を通り過ぎた後、苛立ちの表情で後宮へと入ったのだった。
一方セレーナの方はと言えば、たとえ関係はどうあれ挨拶くらいはすべき。そう考えたのだが、どうやら差し出がましかったらしい。と表情を曇らせていた。
そして改めて前を向くと寵姫仲間というべき女性達が居たので、彼女達へと近づき改めて笑顔で挨拶を行った。
「こんにちは、皆様」
すると寵姫達もセレーナに対し、口々に挨拶をする。
「セレーナ様。こんにちは」
「相変わらずお美しい事ですわね。羨ましいですわ」
「今日はいい天気で御座いますわね。セレーナ様も散策で御座いますか?」
「はい。そうです。皆様はもうお帰りですか?」
彼女達の足は後宮へ向かっていたのでセレーナはそう思ったのだが、実際はアリシアを追いかけていただけであって彼女達も後宮へ帰る積もりはない。
「いえ。セレーナ様が散歩なさるならご一緒しますわ」
と、セレーナの取り巻きとしての存在意義を発揮する。
「それではご一緒しましょう」
こうしてセレーナを加えた一団は改めて庭へと向かったが、アリシアがセレーナの挨拶を無視した事を目ざとく見逃さなかった一人の寵姫が早速それを話の種とした。
「セレーナ様が折角挨拶をして下さっているのに、まったくあの娘はなんて無礼なのでしょう」
「まったくですわ。下賤の身分の癖にサルヴァ殿下の寵を盾に身の程も弁えず、セレーナ様に無礼を働くなんて」
「いえ。殿下の寵などと言ったものではありませんわ。ただのもの珍しさに関心をお持ちになっているだけに決まっておりますのに」
彼女達はアリシアを扱き下ろすのは、セレーナに対しての点数稼ぎになる。そう考えているのである。
もっとも彼女達にも誤解があった。実際サルヴァ王子がアリシアの部屋へと足を向けたのは一度きりであり、寵愛しているとはとても言えない状態だった。
セレーナがアリシアに危機感を持ち、侍女へアリシアを調べるように依頼して、そこから侍女達の情報網を伝ってそれぞれの侍女の主人に王子がアリシアを寵愛している。という情報が伝わったのだ。女達の情報伝達の速さは、男には計り知れないものがあるのだった。
その情報を元に寵姫達のアリシアへの攻撃はさらに続いたが、彼女達の追従にセレーナは眉をひそめた。
セレーナとてアリシアは敵と認識している。
しかし戦うというならば本人と直接対決すべきであるし、サルヴァ王子からの寵愛を奪い合うというならば、アリシア以上に尽くすなり、王子の好みに合うように努力するなりすべき。それがセレーナの考えるアリシアとの戦いだったのである。
だいたい本人の居ないところで悪口を言っても何も変わる訳がない。むしろ自分の良心が痛むだけ。だが寵姫達に彼女の考えは理解できず、セレーナが表情を曇らせたのも自分達の都合の良いように解釈をした。
「あら。セレーナ様とあの女を比べるもの失礼でしたわね」
「これは失礼致しましたわ」
「セレーナ様には、あのような女の話を耳にするのもご不快ですのにね」
実際はアリシアの話と言うよりも、本人の居ないところでの悪口がセレーナの心に沿わないのであるが、寵姫達にとってアリシアの話はすなわちアリシアへの悪口である為、同じ事である。
「ええ。まぁ……」
とセレーナにしては礼儀正しいとはいえない曖昧な返事をする事しか出来なかった。
そして話題を女性らしいお菓子やお茶の話へと変え、庭にたどり着いた彼女達は庭に備えられた椅子に座り、侍女に運ばせた話題通りのお菓子とお茶を楽しんだのだった。
挨拶をしてきたセレーナに比べ自身の心の狭さに自己嫌悪に沈んで自室に戻ったアリシアを、お付の侍女のライヤが待ち受けていた。
アリシアも一応は後宮の寵姫の一人である為、専任の侍女が付けられている。
もっとも他の寵姫達は実家から侍女を呼び寄せており、王宮から侍女を派遣されている寵姫はアリシア一人だけだった。しかもこの侍女は従順とは言い難く、隙を見ればサボってばかりだったのである。だがライヤにも言い分はあった。
「どうして自分より身分の低い者に仕えなければならないのかしら」と。
王宮に勤めるにはたとえ侍女といえどもそれなりの身分と教養が必要である。それなりと言っても、爵位のある貴族の子女とまでは行かないが、下級貴族や裕福な家などの「身元のはっきりとしている家」の出の者に限られている。
確かにアリシアのような、下級貴族のさらに遠縁の両親も居ない娘と比べれば、身分が上と言えた。
もっともアリシアにしてみれば、ずっとお付の侍女が傍に居る事の方が煩わしく、必要のない時はどこかに行ってくれていた方が気が楽だった。基本的に自分の身の回りの事は自分で出来るアリシアに取って、侍女が必要な事など殆どないのであるが。
その滅多に必要で無い侍女が部屋で待っていたのは、やはり滅多にない侍女にしか出来ない役目を果たす為だった。とはいえ難しい仕事ではない。王宮に届いたアリシア宛の手紙を届けに来ただけである。
「お手紙が届いておりました」
どうやら自分より身分の低いアリシアを様を付けて呼ぶのも嫌らしく用件のみを口にするライヤから、アリシアは手紙を受け取り、あえてにこやかに口を開いた。
「それはありがとう御座います。ライヤさん」
我ながら人が悪いと思いながらも、先ほどセレーナからの挨拶を無視し自分の狭量さを思い知らされたアリシアは、ライヤに同じ攻撃をしてみたのである。
ライヤはまさか丁寧にお礼を言われるとは思っても居なかったのか、目を逸らし
「いえ……」とだけ言うと、微かに頭を下げて部屋を後にした。
その背を苦笑しながら見送ったアリシアが手紙の送り主を見ると、婚約者だったリヴァル・オルカの母親からだった。
彼女は、後宮に入った事で貰える年金の殆どをオルカ家へ送っていたのである。そのお礼の手紙だった。リヴァルの母親は筆に優れた人と言う訳でもなく、送金について淡々と礼を言うのみのありふれた内容である。
にもかかわらずアリシアは、その手紙に書かれた些細な事に、目に涙を溢れさせた。手紙の最後に「アリシア・オルカへ」と書かれていただけの事に。
アリシアが手紙を受け取る前日、ランリエル王国第一王子であるサルヴァ・アルディナは、執務室で後宮を管理する役人からお伺いを受けていた。
「私に確認したい事だと?」
役人は王子の問いかけに低頭し答える。
「はい。その通りで御座います」
「どのような事だ?」
「はい。実は寵姫の一人であるアリシア・バオリス様の事で御座います」
「アリシアが何かしでかしたとでも言うのか?」
彼女にあまり良い感情を持っていない王子は、偏見を持ちつつ役人に問いかけた。その口調もそれに相応しく若干きついものだ。その声に反応したのか、役人は頭を下げたまま遠慮がちに口を開いた。
「いえ……。しでかしたと言いましょうか。殿下がご認識していらっしゃるのかと思いまして……」
「ほう。私がどのような事を認識しているというのだ?」
「はい。アリシア様は独身とお聞きしておりましたが、実は結婚しているのではと。殿下がそれを承知していらっしゃるならよろしいのですが……」
後宮には未婚の女性だけではなく、未亡人や時には人妻まで入る事もある。アリシアが未亡人でも人妻でも問題はない。王子がそれを認識しているならば。後宮の主であるサルヴァ王子が未婚と認識しているにも拘らず、そうでないなら大問題だった。だが彼女の婚約者だったリヴァル・オルカは帝国との戦いで命を落とし、彼の兜は今も執務室に飾られている。
「いや、間違いなくアリシアは独身のはずだ」
と、返答したが役人は納得しかねるように困惑した表情を見せた。
「しかしそうとは思われぬ手紙がアリシア様のところに送られてきたのです」
「アリシアへ手紙が?」
「はい。これがその手紙です」
役人はそう言ってアリシア宛の手紙を差し出し、王子が受け取った。人の手紙を読む後ろめたさを感じぬ訳ではないが、後宮とは、いや王宮とはそういうもの。個人の尊厳などよりも王族の知る権利の方が優先されるのだった。そして、手紙を一読した王子の顔色が蒼白に変わる。
常に泰然とし動じない王子の動揺に、役人はやはりと思いながら口を開いた。
「どうで御座いましょう。宛名の性がバオリスではなく、オルカとなっているのです。これは結婚しているか未亡人であるか。という事ではないかと……」
「……あ、ああ」
「いかが致しましょう? アリシア様は独身ではないかも知れないのですが宜しいでしょうか?」
「ああ、構わん」
と、返答したものの、王子の動揺は収まらない。声も僅かに震えていた。
「かしこまりました」
役人はそう言って一礼したが、頭を上げた後困惑気味に王子へ視線を向けた。
「手紙をお返し頂けますでしょうか……。問題が無いのならばアリシア様へ届けなければなりません」
「そうだな。すまん」
王子はそう言いながら微かに震える手で手紙を役人へと返した。知略、武勇に優れたサルヴァ王子ともあろう者が、手紙を返さなくてはならないという事を失念していたのである。
「それでは失礼致します」
役人は再度一礼し王子の執務室を後にした。そして王子の態度について次のような感想を持ったのだった。
やれやれ、サルヴァ王子のあの様子では、きっと本当はアリシアが独身で無いとは知らなかったに違いない。それをあそこまで取り乱しながらも許すとは、そこまでアリシアに溺れているのか。
執務室に残されたサルヴァ王子は、アリシアに行った自分のさまざまな仕打ちを思い出していた。
アリシアが後宮に来たのは金に目が眩んだ為と思っていたのだ。だがそれは両親を、それもリヴァル・オルカの両親を養う為だったのである。にもかかわらず王子はアリシアの身体を汚し、さらに売女と罵倒し、廊下ではその衣服を引き裂いたのだ。
王子の胸中に飛来したのは、深い慚愧の念だった。決して犯してはならない愚かな過ちに、戦場の雄であるサルヴァ・アルディナは全身を苛まれていた。
拳を握り締め、唇を噛み締める王子の背後に、リヴァル・オルカの兜が鈍く光っていた。




