第18:総司令の日常(2)
軍議の後、ディアスは軍務大臣のエドヴァルドに対し上申書を書き上げた。内容はシルヴェンの無能を訴えた解任要求である。だがディアス自身効果を期待している訳ではなかった。
そもそもシルヴェンの無能は軍部でも有名なのだ。軍務大臣も、それを分かった上でシルヴェンを幕僚に加えるように言って来た以上、いくら無能を訴えたところで意味は無い。それでも上申書を書くのは、半分は腹立ちを紛らわす為と、残り半分は万一の場合の保険だった。
「だからシルヴェンを解任する、上申書を提出していたではないですか!」
もしシルヴェンの無能が原因で問題が発生した場合、そう主張する為である。
ディアスも、我ながら狡い手とは思うが、それ以上にシルヴェンに引きずられて被害を受けるのはごめん被る。という気持ちが強かったのだ。
「ではケネス。これを軍務大臣に届けて来てくれ」
そう言って上申書を従者であるケネスに託し、軍務大臣へと提出した。その後揃って邸宅へと向う。
「今日も大変でしたね……」
邸宅へと帰る道すがら、ディアスの乗馬の轡を引きながらケネスが口を開いた。勿論今日の軍議でのシルヴェンに付いてである。
「ああ。まったくだよ……」
と応じるディアスの声も力ない。
「やっぱりシルヴェン将軍を解任する事は難しいのですか?」
「元々の任命権は私にあるが、一旦任命した後の解任はそう簡単には出来ないからな」
ケネスが轡を引きながらもディアスへと顔を向け、驚いたように言った。
「そうなのですか?」
任命権があるという事は、解任も自由と思っていたのだ。
「ああ、あまり自由に任命、解任が出来るとなると、やろうと思えば意図的に特定の人物を閑職に追いやる事が出来てしまうからね」
「閑職?」
「そうだ。みなそれぞれ役目が決まっている。それをその役目から引き抜き幕僚に加えて、他の者がその役目を引き継いでから幕僚を解任したらどうなる?」
「仕事がなくなりますね……」
「そう言うことだ……」
その為に軍務大臣に、シルヴェンを解任する上申書を提出してるのだが、その上申書の効果は期待できない。シルヴェンが失敗した時の保険としての役割もあるとはいえ、実際その失敗で軍勢に被害が出るとなると見過ごせず、結局は全力でその失敗を回避させなくてはならない。そう考えるとディアスの気はますます沈む。
総司令と従者は、しばらくしてディアス邸へとたどり着いた。
「ディアス様。ケネス様。お帰りなさいませ」
ミュエルが玄関で2人を笑顔で出迎えた。すると、突然ディアスがミュエルを抱き上げた。
「ディッ、ディアス様!」
普段とは違うディアスの行為にミュエルは赤面したが、ディアスは構わずそのまま玄関を潜った。ケネスもあっけに取られつつその後に続く。
「あの……どうしたのですか?」
戸惑いディアスに問いかけるミュエルにディアスは
「いいから。いいから」と聞く耳を持たずそのままずんずんと進み続けた。
結局ディアスはミュエルを抱き抱えたまま自室まで進み、そこでベッドの上にミュエルをちょこんと置いた。
「ディアス様。本当にどうなさったのです?」
不思議そうに問いかけるミュエルのその問いには答えず、彼女の頭を少し強く撫でその横に座った。
シルヴェンへの不満が鬱積していたディアスは、笑顔で出迎えるミュエルに心弛び、つい抱き寄せてしまったのだ。だが、なにぶんミュエルの身長はディアスの胸の辺りまでしかない。抱きしめるには高さが合わず、いっその事と抱き上げたのである。
「ミュエル、私は本当にお前には感謝しているよ」
「本当ですか?」
「ああ。本当だ」
ディアスがそう言ってミュエルのほほに口付けると、ミュエルは恥ずかしげに身を竦ませた。だが決して嫌と言う訳ではない。ディアスがこのように触れてくれる事は、自分がディアスの妻であると意識させ彼女を安心させるのだ。
ディアスに妻として見られない事で傷を負ったミュエルの心には、やはり微かな傷跡を残していた。時折ディアスに対し、妻としての扱いを求めて止まらなくなるのである。
ディアスは改めてミュエルを抱き寄せると、ミュエルの頬に自らの頬を擦り付ける。ディアスは髭が濃い方ではないが、それでも35歳の男として相応に髭は伸びる。仕事が終わり邸宅に帰る頃になると、それなりに伸びている。
その髭の感触にミュエルの頬はちくちくと微かな痛みを感じたが、それだけにディアスが自分の夫である事。自分の男である事を意識させた。
もっともディアスには、まだミュエルを性的な意味で抱く積もりはなく、ミュエルにしてもそれ以上を望んでいる訳ではない。だがこのような行為により、ディアスとミュエルの間に夫婦なのだという意識が強まっていく。
ミュエルは優しく素直な少女である。ミュエルにはそのまま優しく素直で、美しい女性に「育って欲しい」と願っていた。それは自らの心を韜晦せずに言えば、娘に対する愛情だった。だがミュエルを「幸せになって欲しい」とは思っていない。ディアスは、ミュエルを「幸せにする」そう考えていた。そしてそれは妻に対しての愛と言えた。
ディアスはミュエルを、娘に対するように愛情を注ぎ、妻として愛していた。ただし女として欲するのは、まだ少し先になるだろうが……。
思えば不思議な関係である。世の夫婦の関わりとはかなり違っていた。普通は女として求めて愛し、そして妻とし、生まれてきた子供に、娘なり息子なりの愛を注ぐものだ。だがミュエルとの関係は、それとは順番がまったく逆になっている。
ディアスは目を細めてミュエルに微笑みかけると、改めてその頭を撫でた。
「では、そろそろ夕食にしよう。ケネスもお腹を空かせているだろうからね。今日はどんな料理なんだい?」
総司令の奥方ともなれば、毎日使用人に料理させる事も可能ではある。だがいざという時の為、ミュエルも料理を習いだしたのだ。もっとも、まだ下ごしらえを手伝っている段階なのであるが。
「鶏肉のオレンジソース煮とチーズスープです」
ミュエルは目を輝かせて答えた。自分がディアス家の家事を手伝う事も、彼女には嬉しい事だった。
「それは旨そうだ」
とディアスはミュエルを抱き寄せたまま立ち上がり、その場にミュエルを下ろした。ミュエルと共に食卓へと向かうと、ケネスはすでに待ち構えていた。
ディアスはミュエルも作るのを手伝ったという料理に舌鼓を打ち、
「美味しいよ」とミュエルに言うと、彼女は嬉しそうに喜んだ。
そして晩餐も済むとディアスは書斎へと向かう。そこで本を読むなり思案にふけるなりするのがディアスの日課だった。
ミュエルはと言えば、これから半刻ほどケネスに見てもらいながらの勉強である。ケネスがディアスの従者として勤めているので、夜に勉強する事となったのだ。
そしてそれが終わるとミュエルは自室に戻り、ディアスもそれに合わせて自室へと向かう。
その後2人は、一つのベッドで眠るのだ。だがミュエルは眠りの浅い体質で、夜中に時折目を覚ます事がある。そのような時横で寝るディアスを見ると、バルバール軍総司令官の夫はいつもだらしなく口を大きく開けているのだ。
ミュエルはクスリと笑うと、微かに乱れた寝具を夫にかけ直してやりまた眠りに付いた。