第206:失陥
折角得た領土の大半を失ったバルバールでは、ディアスが槍玉に上がっていた。
会議室に居並ぶ幕僚、将軍達のディアスに向ける視線は穏やかとは言い難い。別に顔で部下を選んでいるのではないが、皆一様にディアスより強面である。次席に座るグレイスの頬には、先の戦いで受けた大きな傷があり更に凄みを増している。ただ幸いな事に、唯一ディアスへの視線が冷たくない者が居るとすれば、それは彼だった。
「ディアス総司令。総司令のご指示通り、軍勢を撤退させたらロタの正統王朝などと称する者共に全てを奪われてしまったではないですか」
「確かに言ったが、我が軍が放棄した城を彼らが占拠する事もあり得ると言ったはずだ」
いつもは比較的従順な部下達の反乱に、ディアスは顔色を変えずにその考えは読めない。
「それは確かにそうですが、あの時は、僅か2千の奴らでは戦力が分散し、取り返すのは訳がないという話だったではないですか」
「その通りです。しかし現実には、各地に潜んでいた元軍人や義勇兵が集まり1万を超える軍勢に成長しました。民も奴らを支援しております。これでは、ロタ攻略を一からやり直すようなものです」
冷静に考えれば予測できる事態だった。しかし、あの時は、ディアスの言葉により軍事と政治が絡み合い、軍事にしか頭のない彼らは精神的盲目となっていた。ディアスに、そうだ、と言われれば、そうなのか、という精神状態だった。
そこにディアスにも反論の余地がある。
「そうは言っても、君達も指摘しなかったじゃないか。全て私が決めるなら、君達は何の為に居るんだい。軍儀で決まった事は参加者の総意。そうじゃないのか?」
その言い草は、作戦に関してはディアスに全幅の信頼を置くグレイスから見ても図々しい物言いだったが、確かにそう言われてしまえば将軍達も、ぐうの音も出ない。不満を感じつつ、うぐぐ、と黙り込んだ。
仕方がないとグレイスが、建設的な話を向けた。ランリエルとの停戦時にもディアスは軍部から非難を受けたが、それでも将軍達の反抗が最小限に抑えられたのは、猛将グレイスがディアスを支持しているからだ。
「しかしこうなれば、取り返すしかないでしょう。なんなら私が先陣を勤めますが」
その時一瞬、ある男の姿が頭を過ぎった。必ず決着を付ける! とまでの決意はないが、いずれ付けねばならんな。程度には考えている。そして、時間を与えるほど奴は強くなっていく事も理解している。
そしてグレイスがロタに出撃となれば、その男を連想するのはグレイス本人だけではなかった。
「グレイス殿と虎将ブランとの対決か……」
それを想像すれば軍人の血が騒ぐ。将軍達はディアスへの不満すら忘れさり汗ばむ手を握った。面の皮は薄くはないが被虐趣味もないディアスだ。これ以上部下からの追求は望まない。この機を逃さず話を戦略レベルへとすり替えた。
「サルヴァ王子に打診していたコスティラ通過の件だが、了承が得られた。我が軍は陸路にてコスティラ経由でロタに入る」
「おお。それでは十分な戦力を投入出来ますな」
現金なもので、実戦的な話に将軍達の顔付きが変わった。
「ああ。ただし、軍勢は国境付近でしばらく待機だ。殿下がデル・レイの動きも見たいと言っている」
「しかしそれでは、もしデル・レイが動けば遅れを取るのではありませんか?」
「そうです。ロタでの状況をランリエルにおわすサルヴァ殿下が判断し我が軍に命令を出すとなると、幾日の時を無駄にするか」
確かに、ロタからコスティラ、バルバールを経てランリエルのサルヴァ王子。そこからまたバルバールに出発の命令を出すとなると如何にも迂遠だ。
「それは心配ない。殿下は、我が国を通過しコスティラに入るという事だ。そこで状況を見る」
「なるほど」
「一応、名目としてはコスティラ王との会談という事だが、軍勢2千が同行するという話だ」
通常、友好国への訪問なら護衛は騎兵2百に歩兵が5百程度。それを大きく超えるが、軍事的脅威というほどではない。ロタへの介入の意思ありかと抗議されても否定出来るぎりぎりの線だ。馬鹿正直に、現時点で旗色を鮮明にする必要はない。
「念の為に、艦艇の用意もさせておく。海軍本部に連絡しておいてくれ」
「はっ!」
コスティラ国境に2万の軍勢を配置し艦艇も国境付近の港に集結させておく。コスティラの通過許可が確定すれば2万を陸路で、万一サルヴァ殿下の方針が変わり陸路が駄目になれば、艦艇で1万を送る。そう命じたディアスは、自身への追及を有耶無耶にして乗り切る事に成功したのだった。
そしてデル・レイでもアルベルドが態度を決めかねていた。執務室を出て私室の机で1人腕を組む。心を落ち着かせる為、以前皇帝から、いや、前皇帝のパトリシオから貰った珈琲を飲みたいと思ったが、すでに尽きている。その事についてだけ皇帝を殺したのを後悔した。副帝となったアルベルドには取り寄せるのは訳はないが、無用な贅沢で名声を傷つけるのは馬鹿げている。
今はランリエルとの戦いは回避すべきだ。だが、それを表に出せば皇国の権威が失墜する。その狭間で対応に苦慮していたところに、思わぬブラン達の快進撃だ。
総合的な能力。実質的な力。両方を比べてもアルベルドはリュシアンより勝る。だが、いかな強者といえど、その力が発揮できなくば弱者に敗北する。リュシアンの行動は予想外過ぎた。いや、その予想外の元はブランだ。そして、そのブランの判断の元が、匂いが気に食わない、などという事を、予想出来る筈がない。
とにかく、ブランら正統王朝軍が、アルベルドの指示を裏切った。百歩譲ってアルベルドの指示書が届く前なら言い訳も通用した。しかし、その後の、戦線の拡大を控えられたし、との指示を破ったのは言い訳できない。
一応、弁明の言葉も届いているが、荒唐無稽な拡大解釈だ。真面目に考える必要すらない。奴らは、命令に背き軍勢を動かし続け占領地を拡大したのである。
だが、怒りに任せて利益を捨てるほど愚かではない。ただでは済まさん。という怒りはある。しかし、それを実行するかは別の話だ。人間には理性というものがあり、感情を理性で制御するからこそ人間なのだ。感情の赴くまま行動するのは獣と変わらない。
事実を事実として受け止める。大きく息を吐き、それと共に怒りの感情も吐き出す。デル・レイが支援するロタ正統王朝がバルバールが支配するロタ北部の大半を占領した。それが事実だ。
これを傷口が広がったと見るか、勝負する金貨の枚数が増えたと取るか。それによって舞台が変わる。アルベルドとしては後者を演じたいが、相手がある事だ。
酒を傍らにカードを切っているところに、包帯を片手に看護婦が現れては喜劇である。ぜひ、相手にも同じ台本を選んで欲しいところだ。表紙が同じであれば良い。台本の中身は白紙で構わない。後は出演者が即興の演技で結末を決める。
アルベルドの武器はその名声。それを損なう事は、軍勢の1万や2万を失うより深刻だ。しかし、大きな矛盾も抱えていた。今のアルベルドは副帝として皇国の権威を背負っている。だが、皇国は今まで多くの国々を踏み躙って来た。皇国の権威は、慈悲ではなく強大な武力による恐怖で構成されている。それはアルベルドの名声とは相反する。皇国の武力を前面に押し出し交渉すれば、アルベルドの名声に傷が付くのだ。
しかし、交渉の主導権は握りたい。現在、ランリエル側からも交渉の打診はない。あるいは、ランリエル側もこちらの動きを見守っているのかも知れない。確かに、自分がサルヴァ王子の立場でもそうする。
正統王朝だけを相手にすれば良いのか、デル・レイを相手にすれば良いのか。無論、正統王朝だけを相手にしたいところだろう。それを、下手にデル・レイに交渉を持ちかけては藪蛇だ。
その意味では、こちらもランリエルに交渉の打診は出来ず、更に皇国の権威を考えれば、こちらから停戦しましょうとも言えない。今までの皇国のやり方なら、いきなり軍勢を動かす。少なくともその宣言をする。慌てた相手が交渉を持ちかけてくる。それが慣例である。
とはいえ、無言で相手を交渉の場に引きずり込むには行動しかない。軍勢を動かすしかない。だが、恐怖を伴わぬ武力があるだろうか。
「まあ、あるか」
長い沈黙の後、呟いた。その時、まるで待ち構えていたかのように控えめに扉が叩かれた。
「陛下。まだ、お休みではないのですか」
いつもの自分を苛立たせる女の声だ。だが、何となく来るのではないかとも予感していた。そして、どうして自分は執務室ではなく、私室で思案していたのか。それは考えないようにした。
3千のデル・レイ軍がロタ北部に入った。そして、その名目にサルヴァ王子やディアスですら驚きを隠せなかった。そう来たか。というのが正直な感想だった。
戦いに敗れれば略奪など当然。ましてや侵略者として乗り込んだのを追い出されたのだ。逃げ遅れた者など何をされても文句は言えない。それが、この世界の常識だった。だが、アルベルドはその常識を覆した。
「民に罪なし! 逃げ遅れ、隠れているバルバールの民を保護し、安全にバルバールの占領地域に送り届ける!」
アルベルドはそう宣言し、3千の軍勢を派遣したのだ。
バルバール軍は計画的に撤退したのであり、多くの民も無事に撤収している。だが、1人残らずかと言えば、そうではなかった。バルバール軍の占領時に逃げ出したロタ人も多い。持ち主が居なくなった農地も多く、それを分け与えられると聞いた、バルバールの農家の次男坊、三男坊が多数移民していた。
親から相続する農地を兄弟で分け合えば、2代、3代の内に細切れとなる。それを防ぐには長男1人が全てを継ぐ。次男以下は、小作人扱いである。嫁を迎えるのすら難しいのが現実だ。
それが当然であったのが、自分もこれで一家の主と夢見てきた。ここは俺の土地だ! と退去を拒絶した者も多い。しかし、実際に軍勢が迫ってくれば、死への恐怖から山に逃げ込んだ。それに加え、軍と一緒に逃げようとしたが途中ではぐれた者もいた。
デル・レイ軍は、その者達に呼びかけた。3千の軍勢は数十の部隊に分かれ、食料や薬を満載した荷駄を引いて各地を回り、民が隠れていそうなところに到着すると大声で叫んだ。
「我々は敵ではない! お主達を安全にバルバールへと送り届ける為に来たのだ!」
出て来たくなければそれでも良い。食料は置いていくと更に叫び、その通りにした。
それを何度か繰り返し、警戒心を解いた民が恐る恐る顔を出すと、すぐに暖かいスープを差し出した。民は、まさか敵国の兵から、こんなにも優しくされるとはと、涙を流すのだ。
正統王朝の占領地の彼方此方で、デル・レイの’人道支援部隊’が駆け回った。しかし、軍隊は軍隊。戦闘力は有している。武力であるのに違いはない。だが、バルバール軍の陣地にまで臆せずにやって来た。
「君達の民を送り届けに来た」
そう微笑み、更に
「これを使って欲しい」
と薬まで置いていく。
そういう者達を非難、ましてや攻撃など出来るだろうか。
中には逃げる時にはぐれた兵士の家族もいた。抱きしめ合い涙を流して再会を喜ぶ兵士とその妻と娘。
「ありがとう御座います。ありがとう御座います」
兵士は繰り返し礼を言い。妻は夫の胸に顔を埋め娘はしがみつく。周りの兵士達の目にも涙が浮かんでいる。
確かに領土を巡って問題が発生した。軽い問題ではない。大きな問題だ。しかし、戦いによらず解決できないのか。その機運が、なんと戦いの最前線にいる兵士から上がって来た。そしてバルバール本国にもこの話は伝わり、アルベルド王万歳と叫ぶ者まで出る始末だ。
現在、コスティラ王との会談が名目とはいえサルヴァ王子は2千の軍勢を率いコスティラに進出。バルバールは2万を国境に配置した。国家間の高度な外交戦略としては牽制段階なのだが、民衆の目には一触即発の状況に映り、憂いている。
領土を奪われた当事者たるバルバールの民が戦いを望んでいない。それでは兵士の士気も上がらず、ましてやその援軍となるランリエル兵にしてみれば尚更だ。話し合いによる解決。誰もがそれを望む。アルベルドは、その状況を作り上げたのである。
しかもアルベルドの巧妙なのは、実はランリエルすら救っているところだ。しかも、微妙にランリエルより立場を上にしている。
双方、今は戦いたくはないと考えつつ、剣を抜かなくては面目が立たない。その一触即発の状況で、お互い剣を引く名分を与えたのだ。しかも、アルベルドの人道支援部隊の行動範囲が、正統王朝の領土という線引きも認識されつつあった。
その上で、ランリエル側は、同盟国の民を救ってくれた事については礼を言わざるを得ない。しかも、デル・レイ側は、当然の事をしたまでという態度で自主的な行動なのだ。礼を言うならばランリエルから接触するしかなかった。
それからしばらくし、ランリエルからデル・レイに打診した。
支援への感謝を含め、領土問題についても協議がしたい。アルベルドはその申し出を了承し、会談の地であるディールへと向かうべく白馬に跨った。
真紅の籠手に赤い羽根の兜。白馬に乗り軍勢を進む姿は、出陣のたびに見慣れているはずの民衆の心を高揚させた。稀代の聖王が民衆に手を振ると大歓声が巻き起こった。
さて、それでは久しぶりに、サルヴァ王子の顔でも拝みに行くか。