第204:愚策
誰が北ロタに攻め込めと言ったか!
人払いした執務室で、アルベルドは音声にせぬ怒声を発し樫の机を叩いた。拳に血が滲んだが怒りに痛みは感じなかった。
シェブール城を攻めると言っていたではないか! シェブールは南部だ!
南部を攻めろと念を押すべきだったか。だが、南部にあるシェブールを攻めると言ったものを、何を念を押す必要がある。
報告では、ブランらの軍勢は、当初は確かにシェブールに向かっていた。それが、斥候を放ち進むうちに攻略は不可能と判断し北東に転進。そのままロタ北部に入り、城兵百人程度の小城であるアラソンを急襲したのだ。城兵の被害は逃げ遅れた数名だけで、残りは遁走。正統王朝軍側は数名の軽傷のみだという。
しかも、そのアラソン攻略後は、更に進軍するという報告もある。
落としどころ。アルベルドの脳裏にその言葉が浮かんだ。
今、ランリエルと事を構えるのは避けねばならない。現在でも国力、戦力でランリエルを上回る。だからこそ、皇国との対立姿勢を鮮明にしたランリエルも、彼らからは攻めては来ないのだ。しかし、皇国とて今は纏まりを欠いている。
戦いは博打ではないのだ。万全の準備を行い勝つべくして勝つ。少なくともその算段を立てる。それがまともな軍略というものだ。勝てるかどうか分からない賭けにでる。それは痴呆の軍略だ。勝ち目がなくても戦うのが許されるのは、攻められた時だけだ。
北ロタを支配するバルバールはランリエル側だ。ランリエルとの戦いは避ける。そして皇国の権威は守らねばならない。
とにかく、正統王朝の軍勢は撤退させるか。しかし、どういう名目でだ。ランリエルとの戦いを避けたいからとは言えぬ。本来なら、奴らこそが分をわきまえデル・レイ、そして皇国の立場を考え配慮すべきなのだ! それを、配慮どころか城を攻め落とすとは!
だが、今、戦端を開くのを避けたいのはランリエルも同じ。向こうから停戦の打診があるかも知れぬ。ならば、皇国の権威は守れる。迂闊に、こちらから停戦を提案するべきではないのだ。
アルベルドの頭は鈍くはない。間違いなく、この大陸有数の知者である。だが、その知力も十分な情報があればこそ活きる。バルバールの動向は。ランリエルの反応は。それらの情報を集めるのにどれほどの日数が必要なのか。その間に、ブランらが更に動けば、それらの情報もカビが生え、意味を成さなくなる。
かつて負けを覚悟でランリエルに戦いを挑んだアルベルドだ。しかしそれは、負ける事自体が策略の内だった。今回もその道を探せないか。それも一つの手だ。だが、それを考えるにしても、やはり情報不足だ。
仕方がない……。今は、取り合えずの指示しか出せなかった。そしてそれは、抽象的なものにならざるを得なかった。
「深追いは禁物である。バルバール軍の逆襲に備え、戦線の拡大は控えされたし」
「と、いう事らしい」
リュシアンが、アルベルドからの指示書をひらひらと揺らした。
「あの男も、流石に慌てたようだな」
「ああ。南部を攻めると印象付けるように誘導したからな。まさか、北部の城を攻めるとは予想していなかっただろう」
ブランとリュシアンが共に杯に満たした葡萄酒に口を付けた。衛生的とは言えぬ世界だ。生水を飲むくらいなら、酒を飲んだ方がマシなのだ。葡萄酒などは子供ですら口にする。一杯や二杯で酔っ払う者等ほとんど居らず、任務に支障が出る事もない。
彼らは今、アルフォールという城を落としたところだった。城兵を全て追い払い、城主の部屋を漁って探し当てた葡萄酒である。他の兵士達も、城の彼方此方を探って戦利品を手に入れているはずだ。
アラソンを落とした後、更に彼らは急進し、アルベルドの元にアラソン陥落の方が届いた時にはすでにベルダン城攻略に取り掛かっていた。そして、アルベルドの指示書を携えた使者は、すでに移動していたブラン達に追いつくのに手間取り、その間にベルダンを落としてアルフォールに向かっていたのだ。
全てが小城である。速攻では落とせなさそうな堅牢な城や砦は避けて進撃していた。
普通は出来ない。自殺行為だ。敵国内の重要拠点にある堅牢な城を放置して進めば、簡単に背後を突かれ、包囲され壊滅する。
だが、ロタ北部は誰にとっての敵国か。ブラン達はロタ人。バルバール軍は無論バルバール人だ。そしてロタ北部に住む人々はロタ人である。どちらの味方に付くかは自明の理。バルバールによる統治は比較的上手くいっていたが、それとこれとは話が別だ。
ブラン達は敵国内を駈けずり回る蟻の群れではなく、バルバールの城々こそが、敵国内で分断された陸の孤島。民衆が敵に回ればと考えれば、連絡を取り合う為の伝令を放つ事すらままならず、援軍を出すにも躊躇する。
「ところで、アルベルド陛下からのご指示はどうする?」
「流石に無視は出来まい。進撃はここまでだ」
ブランが一気に杯を空にし、葡萄酒の瓶に手をかけた。
「ああ。ランリエルの動きに注意しつつ、次の指示を待つ。そんなところだな」
だが、これである程度の戦果は得た。更に侵攻する力はあったが、アルベルド王の要請で進軍を停止した。これで戦果が不十分とデル・レイの民に言われる筋合いはない。もし不十分というなら、責められるのは侵攻にまったをかけたアルベルド王だ。
その責任を回避するには、アルベルドは正統王朝の戦果は十分と民に宣伝するしかない。民は、正統王朝への援助を認めるだろう。
「いずれ撤退命令も来るはずだ。それまで精々、ここ飲んでいるさ」
リュシアンも苦笑し、葡萄酒の瓶に手をかけた。
だが、その数日後、深夜、アルフォールに1人の男が訪れた。その者の出現により、舞台は次なる展開を迎えるのだった。
ブランらの侵攻に、バルバールも手をこまねいていた訳ではない。アラソン城が落とされ逃げ出した兵士から事態を知ったロタ北部を守る将軍は、すぐさまバルバール本国へと伝令を走らせた。
麾下の兵力は1万を数えたが、各地の城を守るのに分散し、纏まって動かせるのは2千ほど。ブランらと互角の戦力だが、博打は打てない。もし、ブランらが更に動き新たな城攻めに手間取るなら、その後背を突く。その体勢を維持しつつディアスの指示を待ったのだ。
彼の動きは早く、その伝令がディアスの元に辿り着いたのは、まだベルダン城が攻められている最中だった。そしてディアスが対策を練る為に軍儀を重ねていると、ベルダン落城の報告が到着した。そのような状況だ。
「さてと、彼らは何を考えているのだろうね」
幕僚、将軍達を前にとぼけたディアスだが、大凡の状況は理解していた。
ロタ北部から追い出した元軍人達がデル・レイに渡り、正統王朝の戦力が増大したからだ。そして追い出した張本人は、当のディアスである。
とはいえ、今はそれを馬鹿正直に発表する積りはない。それを知るのは、部下の中でも信頼できる極一部の者のみ。多くの者達は知らない事だ。原因を隠しつつ、状況だけを説明した。
「まあ、推測できない訳じゃない。我らが支配するロタ北部の者達が散々騒いだ後、デル・レイに逃げ込んだらしいと報告があった。それによって戦力が増大したロタの正統王朝を主張するランベール王が、領土奪還に動いたというところだろう」
「領土奪還……で御座いますか?」
「しかし……彼らの戦力は2千程度と報告にありますが……」
幕僚達は戸惑いを隠せない。確かに周辺各国から見れば大国とは言えぬバルバールだ。しかしそれでも軍勢は5万を超える。それに僅か2千で挑もうというのだ。
「我らを見くびっておるのか」
と不快げに吐き捨てる者もいた。
「勿論、彼らも自分達だけで勝てるとは思ってはいないだろう。だが、彼らには支援者がいる」
当然、それはデル・レイであり、ひいては皇国。その大軍の前にはバルバールなど路傍の石ころ。戦えば一たまりもない。だが、将軍達の顔から困惑の雲は晴れなかった。
「それは分かってはおりますが、それを言うならば我らの後ろにはランリエルがおりまする。皇国も現在は国力の充実に力を注ぎ、ランリエルと戦う余裕はないはず」
「今、ランベール王にそこまでの肩入れをするでしょうか」
彼らも選ばれてバルバール軍の高位高官を得る者達だ。中には家柄を傘に地位を得る者もいるが、ディアスはそれらの者達は実権のない名誉職を与え追いやった。どうせその者達も、危険な戦場に出ずに済み喜んでいるのだ。
その有能な彼らの現状認識は全く持って正しい。確かに皇国とランリエルの衝突は必至だ。だが、戦いは数年先であり、今は皇国もランリエルも内部を固める時。それが双方の共通認識だ。
「確かにそうだ。皇国は戦う積りはない。だが、それはランリエルも同じだ。正統王朝の軍勢が攻めて来たはランリエルにも報告済みだが、それですぐにランリエルが動くものじゃない。戦争は回避しようとするはずだ」
「では、皇国もランリエルも動かず、結局、我らと正統王朝とで解決せねばならぬと?」
「それならそれこそ、2千で我らに挑むなど無謀な話ですぞ」
優れた彼らも政治がかかわると困惑気味だ。尤も、ディアスとて政治家ではないが、高度の戦略と政治は切っても切れない関係。大陸有数の戦略家であるディアスは、政治を考慮する必要も感じている。とはいえ、それは政治家としての能力があるという意味ではない。料理を評価できる美食家が、優れた料理人であるとは限らないのだ。
「ところが、実は我々が不利な面もある。我が国とドゥムヤータとの同盟について、ランリエルは関与しないという立場だからね」
確かに表向きはそうだ。数年前のロタによるドゥムヤータへの侵攻。その時にバルバールとドゥムヤータは同盟を結んだが、それはランリエルを含まない独自外交だった。無論、建前としてはだ。
外交は、虚々実々の世界であり、建前と本音、幻と現実が交錯する。明らかにドゥムヤータとランリエルが繋がっていようとも、外交上、いまだドゥムヤータとランリエルは断交状態だ。
皇国軍によるランリエル征伐時にドゥムヤータはランリエルとの国交断絶を宣言し、それを撤回していない。ドゥムヤータがブランディッシュと戦った時にランリエルから受けた借款の支払いも停止したのだ。それに対し、返済が滞った時の担保としていたタランラグラをランリエルは制圧した。タランラグラ産の塩を巡ってシルヴェストル公爵が、ランリエルを抗議した事もある。
そしてバルバールによるロタ侵攻は、ドゥムヤータとの共同作戦。その成果であるロタ北部の領有にランリエルは支援しない。という政治的判断も十分あり得るのだ。
「ラ、ランリエルが我らを見捨てると仰るのですか!?」
「いくらなんでも、そのような事が……」
悲観的な意見が続出したが、中には楽観的な者も居る。
「待て、そのように慌てるな。ランリエルが介入しなくとも、2千の敵に対し我らの戦力は圧倒的。恐れる必要はない」
しかしそれも、すぐさま否定された。
「いや、正統王朝はデル・レイの承認を得ている。ディアス総司令は、それを言っているのだ」
「そうだ。敵には援軍があり、我らにはない。という事だ」
ランリエルも、バルバールを完全には見捨てないだろう。だが、ロタ北部の失陥には目を瞑る。その可能性は否定できない。
将軍達のありさまは狼狽に近い。軍事に優れた彼らだが、政治という霧がかかれば道を失う。こうなれば先の見えぬ事、素人と変わらない。その間にも、ディアスが思案を重ねていた。
さて、実際どうするか。デル・レイの思惑、ランリエルの動き。正統王朝はなぜ2千なのか。未来はともかく現在デル・レイの後詰はない。2千で領土奪還を目指すのはあまりにも無謀だ。そしてバルバールの立ち位置。それらを考え、バルバールが生き残るにはどうすべきか。
ディアスの思案は続いた。皆の狼狽が収まってもまだ続き、幕僚の1人が、
「ディアス総司令。如何致しましょう」
と問うても
「今、考えているんだ」
と素っ気なく応じる。
そしてやっと開いた口から出た言葉も、建設的とは言えなかった。
「更に問題がある。ランリエルの一員としての我らと、我らのみの我らとでは動かせる戦力も違ってくる」
「そ、それは、どういう意味なのでしょうか」
「ランリエルの一員として動くならば、我らはコスティラ領を進む陸路を取れる。だが、そうでないならロタに兵を送るには内海を艦艇で横断せねばならない。動かせる軍勢も1万が限度だ」
ロタ北部には現在1万。合わせて2万。正統王朝軍だけなら一蹴でき、デル・レイが動けば対抗できない。
将軍達が唸った。コスティラとはランリエル側として繋がっているに過ぎない。それを取り除けば、コスティラとバルバールは不倶戴天の敵同士。バルバールはコスティラに長年攻められ続けた恨みがあり、コスティラはバルバールに裏切られた怨嗟があった。それを、軍勢を通らせて欲しいと要請しても拒絶されるのは必定。無理に通れば、それこそ戦争にもなりかねない。
「な、何とか、ランリエルに支援を要請する事は出来ないのですか!」
「せめて、コスティラ経由での行軍をコスティラに認めさせるように嘆願を」
最悪、バルバールだけで対応せねばと思っていたら、更に両手を縛られた状態で戦えと言われたのだ。幕僚達が狼狽する事、先刻以上だった。
「分かった。すぐにサルヴァ殿下に使者を送ろう。しかし、デル・レイが介入する事を考えれば、現地の軍勢もこのままでは危険だ。ロタ北部に分散している軍勢をコスティラ国境付近まで後退させる。最悪コスティラに逃げ込む。まさかコスティラも、逃げる者達を追い返したりはしないだろうが、念の為、これもサルヴァ殿下にお伝えしておく」
そうか。確かに、流石にコスティラも逃げる時には拒みはすまい。狼狽していた幕僚達も胸を撫で下ろした。しかし、そうなると新たな心配も出てくる。
「しかしそれでは、我らが放棄した城塞を敵に取られてしまうのではないのですか?」
「う、うむ。確かに」
「一度取られては、取り返すのは困難だ」
「それは考慮しても仕方がない。デル・レイが出て来てはどうせ持ち堪え切れない。デル・レイはロタの真横にあるんだからね。支援するなら我らが動くより遥かに早い。そして、デル・レイの支援がないなら正統王朝軍は僅か2千。放棄した城を奪っても、どうせ守りきれない。もし、それをしようとすれば、ただでさえ少ない彼らの戦力は薄く引き伸ばされ、我らに各個撃破の機会を与える事になる」
「なるほど」
将軍達はディアスの言葉に納得し、陸路、海路、両面の援軍の準備を進めたのだった。
ランリエルのサルヴァ王子の元にディアスからの使者が到着したのは、時期とすればブランらがアルフォールを落としたころに当たる。ロタからバルバール、バルバールからランリエルまでの距離を考えれば、驚くほどの迅速な対応といえた。
アリシアとの間に一人娘のジュリアも産まれ、幸せに相貌を崩していた王子だが、この報告に覇者の顔へと変わった。使者から受けた取ったディアスからの書面に目を通す視線も鋭いものだ。
ディアスのデル・レイを含めた敵の思惑の分析。コスティラとの関係を考慮した援軍の経路の配慮。流石ディアス殿と頷き読み進んでいた王子だったが、ロタ北部、現地のバルバール軍への指示の箇所で目が泳いだ。
額に手をやり、こみかみを指で突き、どういう意図かと必至で考えたが否定的な結論しか出ない。しかし、ディアスは自分を追い詰めるほどの者。そんなはずはないと更に思案しても結論は同じだ。
挙句の果てに
「お主はどう考える?」
と口の悪い副官に読ませてみた。すると、やはり副官の口は悪かった。
「あの人って、こんなに頭が悪かったでしたか?」