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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
291/443

第199:女達の思惑

 その部屋は僅かに空けられた窓、小さく炊かれた暖炉によって、寒くはなく暑過ぎもせず、まさに快適。というに相応しい室温に管理されていた。部屋の中央にある寝具には清潔なシーツが掛けられ、照明も不快でない程度の明るさを保っている。豪華という点ではともかく、快適さという面では国王の部屋ですら及ぶまい。


 寝具ベッドの傍らには木目美しい台があり、その上に置かれた籠の中には小さな生き物がすやすやと寝息を立てていた。


 赤ん坊である。名前はまだない。母親に似たのか頭髪は赤みがかって見えるが、赤ん坊の髪は色が薄いものだ。成長すれば変わるかもしれない。目はまだ開かず、瞳の色は分からなかった。


 アリシアは女の子を産んだ。男の子が産まれれば鳴らされるはずだったラッパはその役目を果たさず民衆は落胆したが、下賜金は配られた。民衆は残念だといいながら酒を飲み踊ったのだった。国王、王妃は民衆以上に落胆したが、それを顔に出さぬだけの分別はあり、笑顔でアリシアの労をねぎらった。


 何、これで息子のサルヴァがちゃんと子供を産ませられるのがはっきりした。次を期待すればいいのだ。それに、跡継ぎとなる男の子でなかったのは残念だが、孫はやはり可愛いものである。若い祖父と祖母の目元が自然と緩んだ。


「よし! ワシが良い名をつけて進ぜよう」

 クレックス王が言い

わたくしも考えましょう」

 と王妃が頷く。


「嬉しいですわ」


 笑顔で赤ん坊を覗き込む国王と王妃にアリシアもそう答えるしかない。ゆったりとした服を見に纏い、はち切れんばかりだったお腹も少し膨れたままだ。出産したからといって直ぐには縮むものではない。徐々に細くなっていくのだ。


 そういえば、この人達は私の義父や義母という事になるのだろうか? 笑みを浮かべつつ疑問が頭を過ぎる。


 サルヴァ王子とは結婚していない。身分は未だ寵姫である。庶民の生まれだが爵位だけはセルミア男爵となっているので平民ではない。とはいえ大国ランリエルの王妃となるには、問題外だ。


 国王も王妃もアリシアの出産を喜んでくれているし、男の子が産まれていれば、これで跡継ぎが出来たと踊りだすだろう。だが、国家への責任もある。


 喉元過ぎればなんとやらで、中々サルヴァ王子の子供が出来ないので、アリシアの妊娠に王子の子供は彼女しか産めないのではないかとまで考えた国王だが、産まれてみれば欲も出てくる。


 サルヴァ王子の妃には、家柄は勿論の事、外交まで考慮し相応しい相手を選ぶべきだ。もし先にアリシアが男の子を産んでも、その妃との間に男の子が産まれれば、その子が世子であり跡継ぎなのだ。アリシアの子は庶子として、あくまで予備。


 とはいえ、それもまだ未来。しかも、やって来ないかも知れない未来だ。今は産まれて来た女の子の話である。


「ジュリア、というのはどうだろうか」


 サルヴァ王子の提案である。赤ん坊の前に立ちはだかる国王と王妃の壁を越える事が出来ず、2人の隙間から覗き込んでいた。更に部屋の隅では出産に立ち会ったナターニヤが控えめに佇んでいる。


「可愛らしい名前ですけど、どういういわれがあるんですか?」


 アリシアが首を傾げた。赤い髪は纏められていたが、零れていた一房が揺れる。


「私の曾祖母の名だ。聡明な方で、しかも92歳まで生き天寿を全うされたのだ。我が子には健康で長生きをして欲しいからな」


 悪い人ではない。彼なりに一生懸命考え、産まれた子が健康で長生きするようにとの思いなのも分かる。しかし、どうして産まれて直ぐに寿命の話になるのか。アリシアは内心頭を抱えつつ、しかし、どこかでそれを面白がってもいた。


 洗練された貴族社会で育ったはずのサルヴァ王子の、この意外な純朴さこそを愛していた。東方の覇者。100万の大軍を打ち破った名将。比類なき知者。とまで言われる王子を、恐れ多くも、馬鹿な子ほど可愛いという母性を感じているのだ。


 それに、祖先の名前を我が子に付けるのも一般的だ。特に貴族社会では代々名前を継承したりもする。父と息子が同じ名前なのも珍しくない。親子で同じ名前では混乱しそうなものだが、そこは知恵がある。父親がチャールズなら、息子が幼い時はチャールズの短縮形であるチャーリーと呼び、大人になり家を継げばチャールズを名乗らせるのだ。


 サルヴァという名の祖先もいる。なので正式にはサルヴァ二世なのだが、それは公式文書にそう記されるだけで、普段は誰もサルヴァ二世とは呼ばない。反対に過去のサルヴァをサルヴァ一世と呼ぶのだ。


 ちなみに、皇国とロタだけは名前にかかわらず初代皇帝、国王を皇祖あるいは一世と呼び、二世、三世と続くが、それぞれ理由は異なる。皇国は皇帝の偉大さを示す為であり、近年まで貿易大国だったロタは他の大陸の王朝の影響と言われる。


「でも、陛下も王妃様もお名前を考えて下さりますが、どの名前にすれば良いのか、迷ってしまいますわね」


 王子の返答への感想をはぐらかし素朴な疑問をぶつけてみた。とはいうものの、王子が考えた名前を付けたい気持ちはあるが、国王が考えた名前になるのだろうと予測していた。


「何を言う。父上と母上から頂いた名前も付けるに決まっているだろ」

「え? では、名前を3つも?」


「いや、祖父や祖母からも名前を頂くかもしれん。そうすればもっと多くなる」

「そんなに?」


 夫と妻の実家が同程度の格の場合、双方の親から贈られた名前を付けるのは珍しくない。時には、先祖代々受け継ぐ名前を併せて付けたりもする。友人が贈ってくれた名前まで全て付け、名前が覚えきれないという笑い話もあり、それが事実だったりもするのだ。尤も、笑い話ですむのは、普段はその中で1つだけを使い、それで不便がないからだ。


「そんなにも何も、私だって5つほど名前があるだろ。普段は父が付けてくれた名前だけを名乗っているがな」


 母であるマリセラ王妃は当時権力を振るっていたフォルト公爵の孫娘だ。母の事は敬愛しているが、フォルト公爵家の事は王家をないがしろにしたと良い感情はない。とはいえ公爵から付けられた名前だけを使わないという露骨な事は母の手前出来ず、父が付けてくれた名前以外は全て封印している。重要度の低い書類なら署名にすら使わない。


「そういえば、そうでしたわね」


 愛する男の本名を知らなかったとは言えず、咄嗟に答えた。

 そういえば、本に出てくる貴族の名前って、なんたら、かんたらの、なんたら、って妙に長かったりするわね。そうか、そうか。親や親類に貰った名前を全部くっつけてるから長かったのか。

 笑みを浮かべつつ心の中で大きく頷き、王子の名前は後で調べようと心に決めた。公式文書なら全部の名前で署名しているはずだ。


「あ、あの……」

「なんだ?」


「でしたら、私にも1つ名前を付けさせては頂けませんか?」

「ああ。それは、無論かまわない」


 名前をいくつも付けられるなら、そう重い話ではない。これが世子で跡継ぎならば話は違うが、庶子であり女児である。格差が出るのは仕方がないが、この場合はそれが幸いした。国王や王妃も反対はしないだろう。本来、この場にいる資格がなさそうなナターニヤの存在も黙認されているのもその為だ。だが、それまで笑みを称えて親子三代の光景を眺めていたナターニヤの視線がアリシアの次の言葉に鋭くなった。


「では、セレーナと」

「セレ……良いのか?」


 女心に疎い王子だが、この時は瞬時に察した。


 セレーナはかつて王子が愛した女性だ。そして今も。もしアリシアが、私とセレーナ、どちらを愛していますか? と聞けば、王子は不機嫌に黙り込むだろう。気の利いた男ならば嘘でも、お前に決まっている。と答えるが、王子にはそれが出来ない。


 それでも人の心は変わるものだ。セレーナへの想いも、いずれ薄れゆく。それは軽薄なのではない。人とはそういうものであり、そうでなくては生きてはいけない。無論、時には過去に生き、それで幸せを感じる者もいる。


 しかし、王子はアリシアを愛した。未来に進んだ。セレーナを愛している。アリシアと同じほどに。しかし、アリシアと我が子ほどに愛しているのか。愛していけるか。愛するものがあるのか。


 サルヴァ王子は父となった。女の男ではない。父としての王子の心にセレーナの居場所はないのだ。そして家庭を持てば、男としての自分より父としての自分が大きくなっていく。セレーナへの気持ちが薄れていくのも事実だ。だが、娘にセレーナの名を付ければ……。


 普段は使わぬ名だ。しかし、それでも娘を見るたびに心に過ぎる。セレーナという女性の顔を、髪を、肌をだ。娘にセレーナを見るのだ。娘の中にアリシアを見るように、父である自分を見るように。


 娘は、自分とアリシア、そしてセレーナの子になる。父となった王子の心にセレーナの居場所が出来るのだ。父としての王子もセレーナを想い続ける。


 セレーナはいつまでも王子の心の中に残る。アリシアを愛しながらセレーナを忘れずにいる王子にしても、アリシアから免罪符を得たようなものだ。だが、アリシアはそれで良いのか。王子が愛する娘に、自分以外の女の面影を見るのだ。


「ええ。構いません」


 王子の問いに微笑み答えた。



「本当に良かったの?」


 王子、そして国王、王妃が引き上げた後、赤ん坊の柔らかい髪に手を伸ばしながらナターニヤが言った。子供の名前の件だ。部屋の外には護衛の騎士が並んでいるが、彼らに聞こえぬ程度に声は抑えている。


「ええ。良いの」


 アリシアは微笑みを返したが、その中に潜む影をナターニヤは見逃さなかった。あの朴念仁は素直に喜んだだろう。娘にセレーナの名を付けるアリシアの心の広さに、改めて惚れ直したに違いない。


 愚かな男だ。言われた言葉をそのまま受け取る。


 そして女も愚かである。自分で言ったにもかかわらず、それの否定を望むのだ。


 大丈夫かと聞き、大丈夫と答えられれば男は大丈夫と思う。そして、大丈夫と答えながらも、本当は助けて欲しかったのにと女は言うのだ。


 アリシアが子供にセレーナの名前を付けるのを、本当は反対して欲しかったのかはナターニヤにも分からない。ただ、純粋な気持ちで提案したにしてはアリシアの顔には影がある。それは、なにか罪を犯したかのような後ろめたさを感じさせるものだった。


 それを察したナターニヤだったが、ここでそれに踏み込むのは避けた。無事出産し一安心だが、まだアリシアの精神が安定しているとはいえない。あまり負担はかけない方が良いだろう。


 今は、産まれた赤ん坊が無事成長する方が都合がよい。無闇に混乱させる事はない。


 赤ん坊の髪を弄んでいたナターニヤの形の良い指が赤ん坊の首筋に伸びた。少し押す。赤ん坊がむずがった。もう少し強く押した。赤ん坊が身じろぐ。指を離すとその指を柔らかいほほに沿わせた。


 ナターニヤは出産に立ち会った。アリシアは陣痛に耐え、医者が励ましつつ産まれて来たのは女の子だった。その時、ほっとしたのも事実だ。男の子が産まれていれば少し面倒な事になっていた。男の子だったら……。

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