第197:暗躍
皇国の内乱から始まった一連の戦乱はほぼ終息を見ていた。各勢力の色分けも大きく塗り替えられた。
ケルディラ東部を支配していたランリエルは、更にその中央部も抑え、バルバールを介してロタ北半分も得た。南部はドゥムヤータがリュディガー王を擁しての間接統治となっているが、そのドゥムヤータもランリエル寄りである事を考慮すれば、ロタ全土を塗り替えたと言って良い。
ゴルシュタットはリンブルクを属国としたのに続き、ケルディラ西部にも進出した。
反ランリエルとしてデル・レイと共にあったケルディラとロタはここに脱落したのである。
ならば、反ランリエルの勢力範囲は激減したのであろうか。いや、そうではない。反ランリエル同盟の盟主アルベルドは、ケルディラ、ロタなど塵芥≪ちりあくた≫。そう言えるだけの勢力を得た。皇国。この大陸に君臨する大皇国を手に入れた。
ここ数日、アルベルドは、デル・レイ王宮でその身を休ませていた。副帝となり皇都に詰める事が多い彼にしては珍しい。虎将ブランがデル・レイに来たとの連絡に馬を飛ばして帰国した後、そのまま皇都に戻っていない。
当初、すぐに取って返す予定だったが、一旦、離れたところから全体を俯瞰する気になった。
ベルトラムなどからサルヴァ王子と共に知者と称されるアルベルドだが、いかな知者とて濃霧の中では盲目となる。一度、その場から離れ客観的にものを見ようというのだ。そして、それに思い至った事こそが彼が知者と呼ばれる所以である。
その日アルベルドは、執務室に部下を呼び寄せ大きな地図を机に広げていた。前国王から使われていたドゥムヤータ胡桃の高級な机は倉庫にしまい込み、高級ではあるが豊かな庶民ならば手が届く程度の品だ。
皇国の建て直しにデル・レイは多くの負担を行っている。民にも増税を命じた。民からは不満が出そうなものだ。しかし、アルベルドはこう宣言した。
「民にだけ苦しい思いはさせぬ。我が王宮にある美品、美物は私には不要。お主達と同じ物を使い、お主達と共にあろうではないか」
民衆は賢王の英断を褒め称え、アルベルド陛下が我らと苦楽を共にするならばと増税に耐える決意をしたのだった。所詮、演出である。座る椅子が多少安かろうと死にはしない。使う食器が陶器だろうと銀だろうと何だというか。だが、庶民はそれで喜ぶのだ。
机の上の地図に目を向けた。大陸の国々が描かれている。それぞれの国名、戦略上重要な地名は赤く記されていた。軍勢が行軍できる主要街道も書かれている。支配する面積を見れば、すでにランリエルの勢力範囲は皇国に匹敵する。だが、面積が国力を現すものではない。大陸中央部の穀倉地帯を有する皇国は人口も多く、その国力はランリエルの2倍に達する。だが、問題もあった。
「皇国南部のグラゴナ地方が、近年稀に見る大凶作に見舞われております」
「大凶作? 大雨や旱魃などの報告は受けてないぞ?」
納得のいかぬ報告にアルベルドが鋭い視線を向けた。起こった事態も深刻だが、必要な報告がなされていなかったなら、それも見過ごせぬ。しかも、グラゴナは皇家の直轄領。その被害は国庫を直撃する。
「それがなのですが……。大雨や旱魃が起こったのではなく、原因が不明なのです。しかも、隣接する地域では全く被害はなく。それどころか豊作となっているところすらあるのです」
困惑顔の部下に、鋭い視線のまま口元に手をやった。部下が居心地が悪そうに身じろぎした。
「大雨や旱魃でもなく農作物に被害か……」
他に考えられるのは稲の病だが、それも他の地域に被害が広がっていないとなると考え難い。
「しかも、不思議なのは稲が育たないのではなく、蒔いた種籾のほとんどが芽すら出さなかったのです。その代わり、芽が出た僅かな稲は健康そのもの。役人を派遣し原因を調べさせているのですが、訳が分からず頭を抱えております」
彼らはデル・レイ人だが、皇国に役人として派遣されている。決して高い地位ではない為、副帝の地位を利用して高位高官を部下に与えているとの批判はないが、真に国を乗っ取るには、実際に国を運営する役人、官僚こそを抑えるべきだ。
「芽を出さなかった種籾は全て鳥や虫に食われたか、腐りはてております。種籾に問題があったのは確かなのですが、これでは調べようがありませぬ。時期になっても芽が出なかった時に、農民共がすぐに訴えて来ていれば良かったのですが……」
確かにその通りなのだが、芽が出ている稲もあった。芽を出さぬ苗も、しばらくすれば芽を出すだろうと農民達は考え、これは不味いと気付いた時にはすでに手遅れとなっていたのだ。
まさか役人も、それどころかアルベルドも、これがベルトラムの仕業とは夢にも思わない。ダーミッシュの一族に命じ、蒸し殺した種籾と健康な種籾を混ぜた物を農家の納屋に忍び込み摩り替えさせたなど推測するのは不可能だ。
「この凶作で被害を受けた農家は十万戸に及びます。農民は大家族ですから、何十万人になるか……」
「原因が不明でも、起こった事は事実だ。国庫から支援してやるしかあるまい」
「しかし、よろしいのですか? 皇国の建て直しに影響が出ますが」
「やむを得まい。苦しむ民を捨てては置けぬのだからな」
優しく微笑を浮かべる王に、部下達も笑み頷く。彼らも以前は民の事など塵芥と考えていた。だが今では、この賢王に感化され、民を第一と考えるようになっていた。この王の為ならば命を捨てても惜しくはないと改めて誓う。誰に誓うのか。己自身にだ。その誓いを破る時は死ぬ時と心に定めた。
頭の悪い為政者ならば、それでも来年分の種籾まで年貢として取り上げ、農民達が餓死しても眉一つ動かさない。だが、長期的に見れば国力を減退させる愚策である。それにアルベルドの権力基盤はデル・レイではなくその名声なのだ。逆に、名声の為ならば誰が死んでもかまわない。
「いずれランリエルには正義の鉄槌を下す。だが、その為に民に負担を強いては本末転倒だ。皇国を安定させ、十分に力を蓄えランリエルを討つのだ」
「は」
賢王アルベルドに従えば間違いなし。部下達の頭には一点の疑念も浮かんではいない。自分が考える事など賢王には全てお見通しだ。その上での決断に決まっているのだ。ならば王の言葉に従うのみである。
「ベルグラード、バリドットの様子はどうだ?」
「は。ベルグラードは前王の従弟であるイサーク様が王座に就かれておりますが、人臣の鎮撫に励んでいらっしゃいます。目立った混乱もなく国内は安定しております」
反抗的なベルグラード、バリドットを攻めたが、その王統を廃する強攻策は取らなかった。あくまで実利を求めた。今後、意のままに操れさえすれば良いのだ。それで都合が悪くなれば、その時はまた首を挿げ替える。
イサークは、王の従弟といってもその血は遠く領地も小さい。王座に就く前の爵位も子爵だった。討った前王の領地から幾分は分け与えたが、それでも力は小さいものだ。国家の運営は基本はその王家の領地からの収入のみ。貴族の領地の徴税権は貴族の物。王家とは貴族達に担がれた調停役でしかないともいえる。貴族はその代わりに軍役などを課されるのだ。
しかしそれだけに王家の領土が小さければ、調停役としての重みに欠ける。それでも成り立つのは皇国の後ろ盾があるからだ。これからは皇国、ひいては副帝アルベルドの意向は無視できない。
「しかし、バリドットの方は表立っては従っているものの、反発を感じている貴族達も多いとか」
「そうか。やむを得ぬところもあるが、王家と貴族達の心が離れては統治にも問題があろう。対応を考えねばならぬな」
バリドットの王位は、前国王の叔父の姪セレスティナに与えられた。つまり女王である。この大陸では、女性の王位継承権は認められていなかった。今まではリンブルクのクリスティーネ女王がこの大陸唯一の女王だったが、2人目となる。だが、それだけに反発も大きい。
それほどの大改革なのだが、実は、彼女の頭に王冠を載せたのは高度な政治的判断や、セレスティナが性別を圧してまで有能な人材という訳ではない。言うなれば、意識改革の為だった。衛星国家の王座が女性の物となる。それだけ時代が変わったのだ。それは現状の打破を目論むアルベルドにとって重要なのだ。
それに、貴族達の反発が大きいだけに女王セレスティナはイサークに比べても権力基盤が惰弱だ。自然、アルベルドの後ろ盾が必要となり、意のままに扱いやすい。
「まあ、良い。いずれ折を見て皇都で舞踏会でも開き、セレスティナ殿をお招きしよう」
「それはよろしゅう御座いますな。殿下がセレスティナ陛下と一曲でも踊りになられれば、反発する貴族達も大人しくなりましょう」
部下達から笑い声があがるが、これが冗談ではなく事実なのが貴族社会というものだ。会議など開かず、地位ある者の考え一つで物事が決まるのだ。並べられた料理の上で重要な政策が議論され、決定するのも珍しくない。
伝手や人脈も重要だ。同じ条件ならば、日ごろ親しくしている者を優先させるのが人の情というものではないか。舞踏会で、誰それと誰それが親しく話していた。というのが貴族の政治なのだ。
「いっその事、このデル・レイにて舞踏会を開き、セレスティナ陛下をお招きになられては如何ですかな?」
「なるほど。それは良い」
「フレンシス陛下も、お喜びになりましょう」
アルベルドの視線が、誰も気付かぬほど一瞬鋭くなった。しかし、直ぐに苦笑を浮かべた。
「いや、やめておこう。セレスティナ女王を招くならば、他の衛星国家の王達も招かねばならぬ。今は民にも負担を掛けている。その私が、盛大な舞踏会などを開けば、彼らに申し訳が立たぬからな」
「そ、それは確かに……」
「今のは失言と、お忘れ頂ければ嬉しゅう御座いまする……」
皇都に残す積りだったフレンシスだが、アルベルドがデル・レイに長期間留まると知ると自ら帰国していた。折角、顔を見ずに済むと考えていたところに、この帰国だ。
挨拶に訪れた彼女を押し倒し乱暴に犯したが、以前ほど堪えていないように見えた。意地になって犯し続け、苦悶の表情を浮かべるフレンシスが、お許しを、という言葉を吐いた時にはすでに朝方となっていた。疲れ切って眠りに落ち目を覚ました時には、すでに彼女の姿は消えていた。
気に食わなかった。何故だが分からぬが気に食わない。なぜ、これほどまでと自分でも分からないほど気に食わない。そのアルベルドの心を知る者はいない。フレンシスも分かっているかどうか。
フレンシスと違い、フィデリアとユーリはアルベルドの意志でデル・レイに呼び戻した。皇都に留め置こうかとも考えたが、やはり、皇都では人々の視線が冷たい。特にフィデリアにだ。それは皇帝殺害の大罪人ナサリオの妻だからだが、女神とまで称された彼女だからこその反発の大きさともいえる。彼女を妻にと望むアルベルドに取っては、捨て置けぬ問題だ。その為の一時的な避難である。
フィデリアとナサリオの婚姻は記録からは抹消したが、人々の記憶からそれが消えるものではない。尤も、皇国の威光を恐れて口にする事もない。このまま十数年が過ぎれば、真なる意味でフィデリアがナサリオの妻だった’事実’は消える。事実とは記憶と記録である。それがなければ存在しないのだ。
逆に、記録、記憶があれば真実でなくとも事実となる。それは、人々がそう思えばそうなのだ。とも言える。アルベルドは、人々に自分を聖王と思わせてきた。人々がそう思うなら、それは事実である。
フィデリアとの関係も事実とする。その情報操作をしている最中だ。
ナサリオは男として不能であり、子供が出来ない。故にナサリオがアルベルドに乞うて、フィデリアと通じさせユーリを産ませた。そう広めさせていたが、更にナサリオの醜聞を流布させている。
ナサリオが、自分が命じてさせたにも関わらず、アルベルドの子を産んだフィデリアの不貞をなじり、虐待したという醜聞だ。夫が命じたからといって他の男と寝たという話を信じてフィデリアを非難していた人々も、徐々にフィデリアに同情するようになってきている。もうしばらくすれば、悪逆な夫がふさわしい罰を受け、本来あるべき夫の胸に、やっと飛び込む事が出来たのだ。そう言われるようになるだろう。
「なに、舞踏会は皇都で開けば良い。そうすれば費用は皇国持ちだ」
彼らを責めぬ優しき王の優しい冗談に、部下達は笑い目尻に涙さえ浮かべた。
それからも次々と報告がなされ、各国の情勢へと議題が移った。皇国外から全体を俯瞰しようと考えるアルベルドに取っては、ここからが本題である。
ロタ、ケルディラについても議論がなされたが、アルベルドの瞳が最も鋭く光ったのはそのどちらでもなく、ゴルシュタットの名が議題に上がった時だった。
「ランリエルのケルディラ侵攻に乗じて西側からケルディラに進出したゴルシュタットは、ケルディラ西部を占領しました。そのまま軍勢を留め、ランリエルと対峙しております」
アルベルドは反射的に頷いたが、この程度はすでに承知している。問題はその先である。
「どうやら、ランリエルのサルヴァ王子とゴルシュタットのベルトラム殿が会談を行ったようなのです」
「会談?」
「は。ケルディラ西部に進出したゴルシュタットへのランリエルの抗議と思われますが、ゴルシュタット軍が西部に居座っているところを見ると、交渉は決裂したものと思われます」
その報告にアルベルドの知性が、警告を鳴らした。
ゴルシュタットの国力は、精々ランリエルの4分の1。多く見積もっても3分の1に届かない。どうしてベルトラムはそこまで強気になれるのか?
いや、単純な国力の比較に惑わされなければ、無理な話ではない。
力がある事と、その力を発揮出来るかは別だ。現実に、ランリエルに倍する国力を持つ皇国が建て直しに追われ動けないのだ。近年、戦いを重ねるランリエルが、更にゴルシュタットまで敵に回すのは避けるはず。そう判断した上でのベルトラムの強気。そう見えなくもない。だが、それでも何かが引っかかる。
現在、この大陸は戦国時代といえる。
僅か数年でサルヴァ王子はカルデイを屈服させ、ベルヴァースを抑え、バルバールを従え、コスティラを支配した。そして今、ケルディラの大半を版図に加えたのだ。
更に他に目を向ければ、ベルトラムはゴルシュタットリンブルクの王座を息子と娘に与え、ケルディラ西部にまで進出。
一見、受身にも見えるドゥムヤータの選王侯達も侮れない。ブランディッシュ、ロタと制し、その領土の広がりは驚異的である。国力でいえばベルトラムに匹敵する。
そして聖王、賢王と称され副帝となったアルベルド自身、冷静な視点で見れば、幼き皇帝からお家簒奪を目論む叔父といったところだ。
覇者に奸雄。侵略に簒奪。それらの中にあってベルトラムは一級の人物だ。サルヴァ王子と違い、直接対決した事のないアルベルドだが、今までのベルトラムの動きを見てもそれを感じ取っていた。
ベルトラムはケルディラ西部だけで満足したのか。否か。そこまではアルベルドにも判断出来ない。しかし、自らの血に反応するかのように、疼くものを感じていた。