第182:残された者
テレス川を渡りケルディラ中央部に出たランリエル勢に対し、ゴルシュタット、リンブルクの軍勢がケルディラ西部から侵入した。貴族達を懐柔しつつ制圧するランリエル勢に比べ、ゴルシュタット、リンブルク勢の進撃は早かった。瞬く間に支配地を広げ、テレス川以西の地域を北西部を中心にランリエル勢と2分する勢いだ。
ゴルシュタット勢の速さには、ランリエル勢がケルディラ軍を引きつけている事も大きい。対ランリエルに根こそぎ兵を集めたケルディラに、ゴルシュタット勢を防ぐ力は無いのだ。
サルヴァ王子は、ゴルシュタット勢を率いるベルトラムに抗議の使者を送ったが、ベルトラムは使者に会わず、対応したのはリンブルク王ラルフ・レンツである。
「今回のゴルシュタット、リンブルクの振る舞い。ケルディラ軍が我が軍と戦っている時にその背を討つとは、余りにも卑怯では御座らんか。直ちに撤兵を要請する」
確か、使者もベルトラム殿とサルヴァ殿下の秘密裡の取引を知らぬという話だったな。
顔を真っ赤にし泡を飛ばす使者を前に、ルキノはベルトラムの言葉を思い出していた。
「ランリエルの使者はお主が対応せよ」
「ちち……ベルトラム殿」
ベルトラムに認められるまで、2人きりの時には義父と呼ぶなと言われていた。
「ですが、ベルトラム殿が対応しないとしても、ご子息でもあるゴルシュタット王のオスヴィン殿が使者に会うべきなのでは」
ベルトラムとの関係。そして国力から見てもゴルシュタット王はリンブルク王より格上である。
「俺が、お主に重きを置いてると内外に示す為だ。我が息子オスヴィンが俺の片腕なのはいうまでもない。俺のもう片方の腕だと、お主が示せば娘との関係も許そう」
ルキノが微かに唇を噛みしめた。妻は父であるベルトラムに忠実だ。必ず父も貴方を認めて下さいます。と言いベルトラムの言い付け通り、寝所を別にしている。それには、どうせすぐに認めてくれるはず。という夫への信頼もある。
「この戦いで活躍すれば、きっとお父様も貴方を認めて下さいます」
そう言って妻は自分の手を両手で握った。自分以外の男には決して触れない。触れさせない手だ。抱き寄せ口付けるとその手が背に回され豊かな胸が身体に押し付けられた。無邪気な妻は、久々の肌の触れ合いを楽しんでいたが、如何にもお預けを食らっている新婚の男の心情を察せぬふるまいである。
その事ばかりではないが、やはり義父には早く認めて貰いたい。この役目を果たせばすぐに認めてくれるものでもないが、信頼とは積み重ねである。
「承知いたしました」
と頷いたのだった。
そして使者への対応である。
「しかし、前から獲るのは良く、後ろから獲るのが悪いというものではなかろう。敵の隙を突くのも軍略。出し抜かれるのは自らの失態。覇者と名高いサルヴァ王子が、この程度を理解せぬはずはあるまい」
ルキノは意図的に尊大な口ぶりだ。セルミア国王となったサルヴァ王子だ。その意味ではサルヴァ王子ではなくサルヴァ王なのだが、ランリエル側からあえて指摘されない限り、サルヴァ王子で通す。そうなれば国際的な地位は、リンブルク王であるルキノが上だ。
表面的にはあえて両勢力は敵対し、その実、裏で手を結ぶ。ベルトラムからはそう聞いている。いや、サルヴァ王子からも手紙でそう伝えて来ている。そして、ルキノは騙されている。
この時代、筆跡は本人確認の手段として重要である。ルキノもラルフ・レンツになり切るためにその筆跡を必死で会得した。にもかかわらず、サルヴァ王子の筆跡の手紙を本人からの物と信じて疑っていなかった。
それは、ただ筆跡を真似るだけではなく、サルヴァ王子からの手紙の内容。ルキノからの返答。そして現在の状況。そのすべてが辻褄が合うように計算しつくされているからだ。疑念なくば看破もない。
「ラルフ王! それは余りにも盗人猛々しいお言葉では御座らんか。サルヴァ殿下は武人ならばこそ、名誉を持って敵を正面から打ち破っているのです」
使者のサルヴァ王子への敬称も陛下ではなく殿下だ。セルミアとしての使者ではなくランリエルの使者なので当然といえば当然だ。そして、ならばルキノの優位は動かない。
「正面からと言うが、サルヴァ王子も戦いの最中には敵の背を討っておろう。今回のケルディラ攻めでもテレス川の渡河で敵の背後に軍勢を回している。ご使者は、自らの主人の事も分かっていないようだ」
ベルトラムからは、開戦も覚悟のように対応しろと言われている。無論、実際に開戦はしない。
サルヴァ王子のものは戦略、戦術の話であり、今回のゴルシュタット勢の出兵は、政治的な不意打ちだ。次元が違うのだが、軍人でない使者には反論出来なかった。おぼろげに話が違うのではないかとは分かるのだが、反論の言葉が出ないのだ。
「どうなっても知りませんぞ!」
返答に窮した使者は引き上げるしかない。国力の差を背景に捨て台詞を吐いたが、外交的には敗北である。この結果を持って戻れば、良くて叱責、悪ければ降格だ。そう思うとルキノも後ろめたさを感じる。このような言動は、本来の彼の性質にあわない。かなり苦労して演技していた。
「お疲れ様でした」
使者が姿を消すと話しかけて来たのは秘書官のカミル・グリームだ。リンブルクではいくつかの役職が世襲制であった。その大半が、ベルトラムによる支配で廃止されたが、権力を持たない役職は放置されていた。秘書官もその1つで、代々、グリーム家が王の秘書官を務めている。秘書官と言えば王に近く権力を持ちそうなものだが、近年のリンブルクは、そもそも国王に権力が無い。
だがこのカミルは、役職を世襲制にする事による弊害の1つの具現者でもあった。先代である父が病で急死してしまったので彼が継いだのだが、まだ14歳の少年なのだ。
そばかすを残す幼い顔を精一杯引き締め、ルキノの後ろで不必要なほどの直立不動を保っていた。身体の横の腕は指先までまっすぐに伸ばし、足もぴったり閉じている。ルキノにかけた声も堅かった。ルキノも、何度か気楽にせよと言ったが、分かりました、と言うだけでいっこうに変化はない。
「ランリエルと矛を交えるかも知れんな」
事実を知らぬ少年は、その言葉に目を見開いて驚く、固まった身体は身じろぎ1つしなかった。この少年も、本当はランリエルと戦う気がないのは知らないのだ。
「国王親衛隊に警戒を厳重にするようにと伝えてくれ」
「はい!」
カミルは、必要以上に大きな声で返事し駆けて行った。少年が姿を消すとルキノは一通の封書を取り出した。妻であるクリスティーネ女王からの手紙だ。
妻は純粋ではあるが世間知らずでもある。自分の善意が、相手には迷惑となる事があるとも考えない。なんと、元の婚約者であった前リンブルク王の遺児であるフリッツ王子に手紙を出したという内容だった。
私を裏切りシモンという侍女と通じたフリッツ王子を一時は恨んだが、私も貴方という愛する方を得て、フリッツ王子の心も理解できた。私ももう王子を恨んではいないので、その侍女と末永くお幸せに。という事を書き送ったという。
妻から見れば自分を裏切った男だが、フリッツ王子から見ればリンブルクを奪った相手からの手紙に激怒するのではとルキノは思ったが、幸か不幸か、事故とはいえ自らの手で父王を殺めた事が王子から王位への興味を失わせていた。
愛するシモンと平穏に暮らしている。しかも、妻が妊娠しお腹の大きさから双子であろうと思われる。私は幸せであるので、クリスティーネ女王もラルフ王と幸せになるように、と返事が届いた。と妻が伝えて来たのだ。
妻の純真さを愛しているが、それが万人に受け入れられるものではないとも理解している。やれやれ、とルキノは息を吐いた。
そして妊娠と聞いて頭に浮かぶのはサルヴァ王子だ。ついにサルヴァ殿下に御世継が産まれるかもしれない。しかも相手は、あのアリシア・バオリスだ。今この大陸でもっとも注目を集めていると言って過言ではないサルヴァ王子だ。その情報は、瞬く間に大陸全土を駆け巡っていた。
何を置いても駆けつけたいところだ。それが、この状況では祝辞の一つも贈れない。サルヴァ王子への連絡は、王子が派遣するカーサス伯爵の手の者を介するしかないが、この戦いの最中にその者が来る事はないだろう。焦っても仕方がないが、仕方がないで感情は抑えられない。早くランリエルとの関係が、表だって友好的にならないかと思ってしまう。
しばらくするとカミルが息を切らせ戻ってきた。
「連絡して来ました」
「ご苦労だった」
「はい! それと、ヴェルシニフ子爵の御領地が分かったそうです」
「そうか」
前回の戦いののち、周囲のルキノを見る目が変わっていた。
あの時は知らなかったが、一騎打ちを行ったケルディラのヴェルシニフ子爵は、ケルディラでも名の知られた勇者だった。それをルキノが討ち取った。流石、王妃様が身を託したお方と褒め称える者も増えた。しかし、認めぬ者もまだ多い。それでも、たまたま上手くやっただけの男から、強いだけの男には変化している。
一騎打ちの後、子爵が高名な騎士だったと知りルキノは胸を撫で下ろした。自分も腕には覚えがある。サルヴァ王子の副官としての期間が長かったため、前線で名を上げる機会を得なかったが、勇者と呼ばれる者達にも引けは取らぬと考えていた。それが、一介の騎士にわざと負けて貰わねば死んでいたなどとなれば、己の自信が崩壊するほどの衝撃だ。
ヴェルシニフ子爵はわざと負けた。その考えはルキノの中で確信に変わっていた。子爵の槍は、ルキノに当たるほとんど直前まで、間違いなくまっすぐルキノの顔面を捉えていた。にもかかわらず最後の最後で逸れた。
リンブルク王を討ち取れば戦況が変わると考えなかったのか。ベルトラムが全権を握っている以上、お飾りの王を殺しても大勢に影響なしと見たのか。子爵がなにを考えていたのか。それは分からない。しかし、リンブルク王を殺せる機会を逃した。自ら死んだ。
子爵は、自分と、リンブルク国王と一騎打ちすることで、既に満足していたのではないのか。それどころか、リンブルク王に殺されたかったのではないのか。
子爵の領地は既にゴルシュタット勢の支配下に置かれている。数名の騎士達と共にルキノは子爵の城へと向かい、子爵夫人と娘と会った。
子爵の城に到着したリンブルク王を夫人と娘は平伏し出迎えた。この母娘がリンブルク兵に乱暴を受けたとは報告を受けていた。また乱暴をされるのかと恐れおののいている。夫人と娘は目を伏せ、人と目を合わせようとしない。特に男とはだ。心の大きな傷を負っていた。自分の召使いにすら自らは声をかけず侍女を介するのだ。
人の目とは不思議なものだ。時には罪のない被害者を蔑む。涎を垂らすような上等な肉の塊でも、汚物が擦り付けられれば、汚物を洗い流しても誰も口に入れようとはしない。その上等な肉の塊を汚物のように見る。
「お主の夫であるヴェルシニフ子爵が亡くなった」
「夫が!」
平伏していた夫人が驚き顔を上げたが、すぐにまた平伏した。娘は平伏したまま拳を握りしめる。ルキノと子爵の一騎打ちの話はゴルシュタット勢内で持ちきりとなっていたが、この母娘にわざわざ伝える者はいなかった。
「私との一騎打ちだった」
夫人がまた顔を上げた。今度は娘も顔を上げる。美しい母娘の顔に悲しみの影が落ちている。2人の美しい瞳にみるみる涙が溢れ零れ落ちた。夫人の顔は悲しみが深くなり、娘の顔には怒りが浮かぶ。
「では、貴方が父を殺したのですね」
親の仇のように恨む。という言葉がある。激しい恨みを表現する時に使う。そしてルキノはまさに親の仇なのだ。
「お、お前。何を言うの!」
夫人が慌てて娘を制止した。
「申し訳ありません。娘は、父が死んだと聞き、気が動転しているのです。どうか。どうかお許しを」
一瞬、ルキノの足に縋りつこうとしたが、触れる瞬間怯えたように手をひっこめ、次には娘の頭を押さえつけた。
「貴女も無礼を詫びるのです!」
愛する夫を殺した相手。だが、その男に逆らえば娘をも失う。夫人は必至で娘の押さえつけるが、娘は地面に手をついて身体を支え抵抗する。視線はルキノを睨んだまま外さない。
「どんな卑怯な手を使ったのですか。父が、負ける訳がないのです」
娘が父をどれだけ知っていたのかルキノには分からない。少なくとも彼女の中で父は絶対なのだ。男の姿を映すのすら怯えていた瞳が怒りに燃える。
「お、お前、なんて事を! 謝りなさい。陛下に謝るのです!」
夫人は、娘を愛するがゆえに、その娘を守ろうと頭を押さえつけ背中を叩く。その娘の前にルキノが片膝を付いた。
「お前のお父上は確かに私より強かったが、卑怯な真似はしていない。私が勝てたのは運が良かったからだ」
ルキノの意外な言葉に母娘は驚きに目を見開いた。娘は更に涙を溢れさせ唇を噛みしめて嗚咽を堪えた。母が、娘に縋りつく。娘は王に浴びせる罵倒の言葉が思い浮かばず、開きかけた口を噛みしめた。
「子爵のご遺体を運ばせた。弔って……いや。確かに送り届けた」
殺した張本人が、妻と娘に弔ってやってくれとは余りにも馬鹿げた言い草だ。殺した者がかけられる言葉などないのだ。そして、夫を、父を殺された母娘からも殺した相手にかける言葉は無い。
ルキノは立ち上がると、母娘に背を向けた。直立不動で事態を見守っていた騎士達も後に続く。
ルキノ自身、何の為に母娘に会いに来たのか。それが分からないでいた。子爵の遺体を送り届けた。それが理由と言えば理由だ。しかし、それだけならば自分で来る必要はない。
子爵が、自ら負けたからか。なぜ、子爵が自ら死を選んだのか。それを知りたくて来たのか。子爵は、自らが死ねば自分が母娘に会いに行くと分かっていたのだろうか。子爵はなぜ自分と母娘を会わせたかったのか。
数歩、歩いたところでルキノの背を女の声が打った。
「ありがとうございました」
その声は若かった。
その瞬間、悟った。王との一騎打ちに勝てば、妻と娘は怒り狂ったリンブルク兵に更に汚されていた。しかし、王と一騎打ちし破れ、王が自ら遺体を送り届けた者の妻と娘を汚す者などいないのだ。