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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
260/443

第169:芽生え

 来ないな……。


 アリシア・バオリスは、ぎりぎり音声にならぬ音量で呟いた。

 本当に数を打って当たったのだろうか?


 サルヴァ王子は、寵姫を均等に回っている。寵姫の数は30名を越え、しかも、後宮に足を向けるのは月に2、3回。そうなると、1人の寵姫が王子に迎えるのは年に1、2回が精々だ。これで戦で王宮を開ければ、それすらも叶わない。


 しかしアリシアはその回転の枠から外れている。友人として会っているだけ、という態で王子がアリシアの部屋に足を運ぶのは、年どころか月に片手の指では足りない。他の寵姫から見ればズルとも言える存在だ。


 生理が来ない。出来たのかな。出来たんだろうな。喜ぶべきなんでしょうけど。とは思いながらも、素直に喜べないところがあるのも事実である。


 どこか冷めたところがある彼女だ。愛する男の子供を身に宿した喜びは勿論あるが、つい、その影響も考えてしまう。


 流石にお腹が大きくなってきたら誤魔化せないわよね。そしたら、王子との子供だって言うしかないわよね。そうすると、殺されちゃうんじゃないかしら。


 サルヴァ王子はナターニヤから、もしアリシアが妊娠すればセルミアに避難させれば良いと助言されていたが、それを王子はアリシアに伝えていない。実際にアリシアが妊娠してから言えば良いと考えていた。前もって言って置けば、彼女の気も休まるという考えが浮かばない。なぜかと問われれば、それがサルヴァ王子という人だからである。


 そして、ナターニヤもアリシアに言ってはいない。サルヴァ王子に話しているのだから、王子がアリシアに言うと信じていた。王子が言った時に、もうナターニヤから聞いていますよ。と返されては王子の面目を失わせると考えていた。この点、ナターニヤも王子の朴念仁ぶりを甘く見ている。


 でも、もう少し殿下には黙っていよう。駄目になっちゃう事もあるし……。


 生理が来るはずの時を2回ほど過ぎた。妊娠期間としては3ヶ月と言われる時期だ。安定期と言われるのは6ヶ月、せめて5ヶ月を過ぎたころ。まだまだ安心は出来ない。彼女とて初めての妊娠。図太いように見えても不安が大きい。それに、王子に伝えた後に駄目になったとなれば、王子を深く傷付けるだろう。


 その間にどうするか考えないと。


 産むかどうかなら産む。それは揺るぎ無い。冷めたように見えても、愛する男の子供を宿した事に、喜びで打ち震えているのだ。堕胎するなど夢にも思わない。問題は、どうやって身を守るかだ。セレーナは嫉妬に狂った寵姫に刺され亡くなった。自分が王子の子を宿したと知ったら、同じように狙われる可能性は高い。口の軽い専属侍女にも話せず、孤立無援の彼女である。身を守るには、すぐにでも王子に妊娠を伝えるべきだ。


 矛盾である。気持ち的には王子にはまだ伝えたくはないが、自分とお腹の子供の安全を考えれば王子に伝えるのが最善である。目の前に危険が見えぬので、まだ王子に言わなくても大丈夫。もう言った方が良いのかな。じゃあ、明日。じゃあ、明日。と考えながら、ずるずると引き延ばしているのだ。


 不幸中の幸いなのが、妹のように可愛がっている機密厳守に関しては全く信用できない侍女が、彼女の妊娠に気付いていない事だ。普通ならば、絶対に気付くはずにもかかわらずだ。


 あの子、私の月のものが無いのをどう考えているのかしら?


 他の寵姫と違い自分の事は自分でするアリシアだが、それでも洗濯は侍女の仕事だ。汚れた下着が無ければ、彼女の妊娠を疑いそうなものである。


 まあいいわ。どうして気付かないの? なんて聞ける訳もないし、気付かないっていうならほおって置きましょう。


 現実は、口が軽いと同時に1つの事で頭が一杯になると他に目が行かなくなる侍女の頭の中が、今はナターニヤで一杯だからなのだが、それはアリシアの知るところではなかった。


 とにかく、こけちゃ駄目なのよね。尻餅を付いちゃ絶対に駄目で、後は何が駄目なんだっけ? 揺らしても駄目なんだったかしら。じゃあ、馬車も駄目ね。


 まず医者に相談すべきなのだが、それが出来ない状況だ。自分の身と、そしてお腹の子供は自分で守るしかない。


 そんなある日、アリシアはあるお茶会に招かれた。以前は誰とも交際せず1人で過ごしていたのだが、エレナの為にやむを得ずナターニヤのお茶会に参加し、それ以降なし崩しに交友関係が広がった。


 お茶会の誘いなど断りたいのだが、そこは御令嬢達が逃がさない。彼女達は自分自身ですら気付かぬ無意識の甘えの達人である。


 アリシアが出席を渋ろうものなら、ナターニヤ様のお茶会にはご参加なされたのに、私のお茶会には参加して下さらないなんて……。およよよ。と泣き崩れてアリシアの罪悪感に訴え、うんというまでそれを止めない。そしてそうなると次の令嬢が、何々様のお茶会には参加したのに……。およよよと、永久機関のように終わりない。そして御令嬢達は、無理難題を押し付けている意識すらなかった。彼女達にとっては当たり前の行動である。


 しかし、そのお茶会はいつもと雰囲気が違った。御令嬢達の顔色は悪く、何かピリピリとしたものが張りつめている。アリシアに向ける視線が、何やら注意深いものに見えた。


「そういえば、アリシア様。皇国軍に勝利したサルヴァ殿下が凱旋なされた時、アリシア様が一番に殿下に駆け寄られ、私達もびっくり致しましたわ」

「ええ。本当に」

「だって、殿下は大切なご友人ですもの。それは……私などが殿下をそう呼ぶのは恐れ多いのですけど……」


 彼女達の問いにアリシアは言葉を濁したが、それを聞いていたナターニヤの瞳が人知れず光った。


 私’達’もびっくり……ね。

 御令嬢も無意識に言ったが、それは事前に結託しているのを臭わせる。


 アリシアの部屋に入り浸っているナターニヤである。しかも、以前は最大のライバルと見ていた。アリシアへの観察は鋭く、サルヴァ王子などより遥かにアリシアの変化にも敏感である。


 妊娠してるわね。と、あっさりと見抜いていた。そして、ご令嬢達も感づき始めているらしい。観察力、行動力ではナターニヤの足元に及ばぬ彼女達だが、3人寄ればなんとやらだ。王子の凱旋時の出来事で怪しまれ見張られていたか。それがここに来て、アリシアの体調の変化から露見しつつある。とはいえ、まだ探りを入れている段階だ。


 さて、どうしようかしら。完全に気付くまでほっておいた方が良いかしら。でも、勝手に動かれるのも面倒ね。


 当事者のアリシアと相談したいところだが、ご令嬢達の目の前では相談も出来ない。この場はやり過ごし、2人きりになった時に相談しよう。


 しかし、お茶うけに運ばれてきたのはバターを使った焼き菓子である。少し油っぽいところがあり、苦手な人も多い。特に悪阻≪つわり≫の始まった妊婦などは、えづく事も多い。


「まあ、美味しいお菓子ですこと」

「本当に」


 御令嬢達は笑みを浮かべ談笑しつつお菓子を口元に運んでいるが、その瞳は話す相手ではなくアリシアを捕えている。アリシアも

「ええ。美味しいですわね」

 と笑んでいる。


 次に運ばれて来たのはハーブのお菓子だ。少し臭いに癖があり、苦手な人も多い。特に悪阻≪つわり≫の始まった妊婦などは、受け付けない事も多い。


「私、この香りが大好きですの」

「私もですわ」


 鼻先でうっとりとその香りを楽しむ。そして、アリシアに視線を向け、さあ、貴女もと促す。


「そうですわね。私も好きな香りですわ」

 と言うアリシアの額に微かに汗が浮かぶ。


 次々とお菓子が運ばれ、とにかく妊婦が苦手な物のフルコースである。


 まったく……。ナターニヤは溜息が漏れるのをかろうじて耐えた。アリシアが妊娠しているのか、密かに探ろうとしているのだが、ここまで連発してはバレバレである。バケツの水に小さじ一杯の染料を入れても誰も気づかないが、何杯も入れればさすがに気付く。


 そしてついに、アリシアが口元を押さえ蹲った。幸いにもお菓子を運んできた侍女達は既に下がっているが、御令嬢達は食いつかんばかりだ。アリシアに駆け寄るが、まるでこうなる事を予測していたかのように、その素早い動作に比べ顔つきに焦った様子はない。


「アリシア様。どうなされたのですか!?」

「だ、大丈夫です」


「でも、とても具合が悪そうですわ」

「お医者様に見て頂いた方がよろしいのでは」


「本当に大丈夫ですから」

「ですけど、万一何かの御病気なら、殿下にうつしてしまうかも知れませんし……」


 後宮はサルヴァ王子の為にある。その寵姫が王子に病をうつしては大問題だ。病の気配があるならば医者に見せるのは当然だ。しかし、医者に見せれば妊娠が知られよう。御令嬢達の本心は見え透いているが、これに抗うのは難しい。


 もうしょうがないわね。ナターニヤは意を決した。


「皆さん。お静かに。実はアリシア様は妊娠なさっておいでなのです」


 アリシアに向いていた視線が、一気にナターニヤへと方向を変えた。長く結われた寵姫の黒髪が他の寵姫の顔面を叩き、叩かれた寵姫が顔を押さえる。


「それは本当なのですか!?」

「やっぱり――いえ。まさかアリシア様が!」


「はい。おそらく。アリシア様。そうですわね?」

「え、ええ。多分……」


 こうなるとアリシアも否定は出来ない。またアリシアに視線が集中する。


「でも、まだ3ヶ月ですし、どうなるか……」

「それで……。お腹のお子のお父上はやはり……」


 それはサルヴァ王子しかない。もし違うならば王子への裏切りである。しかし、王子の子と言っても命が危ない。妊娠2ヶ月では流産もしやすく、王子が彼女をセルミアに移らせるのも難しい。しかも、その王子の考えを彼女は知らない。


「こ、この子の父親は……」


 アリシアが目を瞑りスカートを握りしめる。父の名を言った瞬間、ご令嬢達は、それはおめでたい事ですわ! と叫びまわり後宮中に広まるのだ。後は、連絡を受けた彼女達のお父様が密かに手を回しアリシアとその子供を始末する。


 父親の名を言うのは死刑宣告。絶体絶命である。そのアリシアの手を優しく包む手があった。


「アリシア様。それは私の口から申しましょう」

「ナターニヤ……様」


 ナターニヤは優しく微笑んでいるが、誰の口から出ても同じはずだ。アリシアの心が不安に揺れる。


「アリシア様のお腹の中の子のお相手は、サルヴァ殿下の副官のウィルケス様なのです」


 ウィルケス? でも、それは確か……。2重の意味で意外な人物の名に令嬢達が顔を見合わせる。伊達男で知られるウィルケスは、王子とは違った意味で御令嬢達に人気がある。


「ウィルケス様は、以前私と噂があり、それを信じていらっしゃる方も多い様ですが、実はアリシア様とウィルケス様との関係を誤魔化す為でしたの」

「で、ですけど、それではサルヴァ殿下を、裏切って……」


 そうだ。サルヴァ王子の名を回避しても、何の解決にもならない。このままでは不義を働いたと処刑されかねない。以前、不義を働いた寵姫は追放されただけだったが、アリシアは何の後ろ盾もない庶民でしかない。


「勿論、サルヴァ殿下もご存知です。私とウィルケス様との噂を流したのも、殿下のご命令でした」

「まさかそんな」


 令嬢達がざわめき、顔を見合わせあった。


「家臣に寵姫を与えるのは、その家臣を信頼している証。よくある事ではありませんか」

「ですけど、それは家臣の妻にと与えるのであって、後宮に住む寵姫の元に通わせるなんて……」


「皆さん、殿下はこれはと思う人材を、まず自分の副官に任命して鍛え、その後、部隊長に抜擢するという話は聞いた事はありませんか?」

「ええ。そのような話は何度か耳にした覚えは……」


「殿下の目にかなったのですが、ウィルケス様の地位はまだ副官。目立った功績もありません。才能は十分なのですが、アリシア様をお与えになる実績が無いのです」

「それで、後宮に通わせたと?」

「はい。アリシア様の婚約者のリヴァル様は、殿下がなされた戦争で亡くなりました。そのアリシア様を信頼する部下の妻にと考えたのです。ですが、ウィルケス様の出世は間違いないものの、それを待つと何年も先になってしまいます。ですので、特別に後宮にお通いになるのをお許しになられたのです」


 即興にもかかわらず、ナターニヤの言葉は立て板を流れる様だ。私って天才じゃないかしら。と彼女自身が驚くほどだ。そして、きっかけを作れば、相手が勝手に納得してくれる部分も出てくる。


「そういえば、殿下が凱旋なされアリシア様が駆け寄った時に、ウィルケス様もご一緒でしたわね」

「アリシア様は、殿下の……御寵愛は受けておいでになりませんし、不義という事にはならないのですわね」

「アリシア様の部屋は、後宮で一番手前。確かに、殿下以外の方が足を運ぶにはうってつけなのでしょうけど……」


 頷き納得するご令嬢達の中、項垂れる者も何人かいるが、彼女達はいずれ自分こそがサルヴァ王子からウィルケスに下げ渡されるのを夢見ていたのだ。


「そうですわね。アリシア様」

「え、ええ。そうなのです」

「皆さん。ですので、この事は他言無用でお願いします。もし漏れれば、アリシア様は勿論、殿下は信頼する腹心の部下も失う事にもなりかねません。そうなれば殿下がどれほどお怒りになるか。お分かりになりますわよね?」


 王子が認めているとはいえ、世間の認識では後宮の寵姫に部下を通わせるのは不味い。露見すれば、その時は王子はあずかり知らぬと2人にだけ罪を被せる事になるが、それは組織として当然である。そして、暴露した者を冷遇するのも当然だ。


「勿論ですわ。私達、お友達ではありませんか。アリシア様の幸せを願っておりますもの。口が裂けても他の人に喋ったり致しません」

「ええ。私もです」


 もしアリシアのお腹の中の子の父親が王子だったら、親に言い付け、寄ってたかって始末しようとしていた御令嬢達は手の平を反し全面協力の姿勢だ。ばらしたら王子に罰せられるなら、協力すれば賞される。ウィルケスよりアリシアの方が年齢は上。ならば、自分達だってウィルケスの次の副官の妻の座は十分圏内のはずだ。


「それでは皆さん。ご協力お願いいたしますわね」


 御令嬢達は平伏し、アリシア王国の名宰相の活躍に、アリシア女王はほれぼれとした視線を送ったのである。

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