表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
259/443

第168:偉大なる父

 大陸暦636年。春。

 元皇国宰相ナサリオの処刑の日である。


 皇帝殺しという稀代の大罪人の処刑だ。皇都中央にある大広場に作られた断頭台を取り囲むように見物席が設けられ、多くの庶民に混じって貴族達も詰めかけた。その中に被害者の母であり、加害者の母でもあるイサベルの姿があった。


 彼女の席は、特別に整えられ日よけの屋根まで付けられていた。座るのは当然ドゥムヤータ胡桃の椅子だ。木目美しい肘掛が太陽の光に輝く。皇帝が死んだ時には取り乱し、狂女となって荒れ果てていたと言うが、ナサリオが刑場にやってくるのを待つその姿は、舞踏会に出席する前に立ち寄ったかのように華やかだ。まるで他人事のように落ち着いている。


 アルベルドが言うには、刑場に引き出されるのはナサリオの偽者。その偽者は、見破られないように顔に傷を負っていると言う。


「良いですか母上。ナサリオ兄上は刑場で死んだ。そう見せかける為、兄上は二度と日の目の当たるところには出られません。しばらく私の屋敷で匿い、ほとぼりが冷めたころ、義母上が保養地に使っているフリオシア城に場所を変えましょう」


 イサベルはアルベルドの言葉を反芻し、思わず口元に笑みが零れ、手にした扇で隠す。どうして息子が殺されるのに笑っているのかと、奇異の視線を向ける者も居るが、それには気付かない。


 愛しい息子と一緒に暮らせる。立て続けに息子を失い心を痛めたと、フリオシア城に引き籠るのだ。一生、ナサリオと一緒。フィデリアとユーリも、どうにかして連れてくるとアルベルドは言っていたが、なに、そんな物は不要だ。ナサリオだけでいい。アルベルドの話では、真実フィデリアとユーリはナサリオの妻子という事だが、もういい。


 長男パトリシオを目の前で失い、次男ナサリオの処刑宣言。それによって崩壊したイサベルの精神は、一見正常に戻ったかに見えたが、実はそうではなかった。ナサリオへの執着心、それが崩壊した後、出鱈目に癒着していた。ばらばらに切り刻んだ死体を、手足を逆に、左右を逆に取りつけたかのように歪だった。


 皇帝の后となり、この大陸一幸福な女性。そう呼ばれていた。しかしその実態は、跡継ぎさえ産めば用無しの女だった。どうにか夫の、皇帝の気を引こうと精一杯着飾った。しかし、夫はそ知らぬまま。寂しさに他に男を求めた。寂しさに身を任せた男は数知れない。覚えてもいない。手引きをさせている侍女が、皇帝陛下のお耳に入るのでは、と忠告してくるほどだ。


 それでも良かった。我が后にもかかわらず他の男に身を任せるとは! そう言って欲しかった。そうすれば、自分が夫の妻だと誇れる。それで死罪となっても、夫の妻として死ねるはずだった。だが、皇帝は何も言ってこなかった。耳にしないはずはないのにだ。


 無関心。夫にとって、すでに自分はいないのも同然。これほど残酷な仕打ちがあるだろうか。その夫に、ナサリオは似ていた。他のものからすれば多少似ている程度。しかし、イサベルには瓜二つに見えていた。だからナサリオをパトリシオより愛した。


 この世には、自分とナサリオだけがいれば良い。そうだ。ナサリオは死んだのだ。ならば、もはや息子ではない。自分はナサリオの母ではない。ただの男と女だ。男と女が一つ屋根の下に暮らすのだ。夫と妻になるのが自然である。ならば、元に妻子など不要なのだ。もう一生離さない。一生放さない。


 愛しいナサリオとの新婚生活に思いをはせ、息子が処刑されるのを笑みを浮かべ待ち続けた。


 その義母から少し離れたところに、フィデリアとユーリの姿があった。フィデリアはこのような時でも美しかった。青い顔の我が子を胸に抱き、憂いをおび伏し目がちな瞳が、不思議な色香させ感じさせた。そしてデル・レイ王妃フレンシスの姿もある。硬い表情で、時おり、夫の処刑を前にする母子に視線を向けていた。


 イサベルほどではないにしろ、皇族、王族としての席が整えられている。ちらちらと視線を送る人々は興味深げだ。フィデリアとフレンシスはその視線に耐えたが、ユーリは耐えるどころではない。


「貴方の本当の父はアルベルド様なのです」


 美しい母からそう言われた時、信じる事は出来なかった。


「そんなはずはありません。私はお父上の息子です!」


 涙を流し何度も訴えたが、そのたびに母も涙を流し言い聞かせる。


「ごめんなさい。ユーリ。でも、本当なのです……」


 どうしてもユーリには、アルベルドが父というのは狂言だと。本当の父はやはりお父上なのだと伝えておきたい。フィデリアはアルベルドに訴えたが、アルベルドは首を縦に振らなかった。


「ユーリは小さいながらも誇り高い男子です。稀に見る優れた子です。しかしだからこそ、真実を知れば、ナサリオ兄上の子としての死を選び、真実を訴えるでしょう。ですが、それでは兄上のご意思に背きます。ユーリの為にも、兄上の為にも、ユーリに真実を伝える訳には行きません」


 確かにそうだ。そういう子だ。


 涙を流し自分を抱きしめる母に、ユーリもそれ以上の言葉はなかった。だが、やはり、ナサリオが自分の父。その想いはある。その父が処刑される。父の最後など見たくはない。だが、見届けなければならない。11歳の息子はそう決意していた。


 フィデリアはその息子に憂いの眼差しを送りつつ、夫の最後に心を痛めていた。しかし、夫が皇帝殺しの大罪人である事は間違いない。あの人がと思いたい。しかし、十数万人の被害を出した大敗の責を取らされれば死罪。その罪から逃れる為に逆に皇帝を殺した。


 それが、自分が助かりたいが為に行ったのなら、あの人に限ってと思う。だが、皇帝は自分とユーリにまで責を負わせると言っていた。夫は、私達を救いたいが為に皇帝を殺したのだ。そう言われれば、言葉は無い。そして、事実、皇帝を殺したのなら、夫は死罪だ。どんなに夫を愛していても、それは受け止めなくてはならない。


 そしてフレンシスは、人々の好奇心の視線に晒されながら、この後の生活に思いを巡らせていた。彼女は冷徹な人間ではないが、実際、義兄であるナサリオとはさほど面識はない。夫を亡くす義姉を気の毒とは思う心に偽りはないが、今後を思えば、あまりにも混沌とし先が見えない不安に、そちらに意識が向いてしまう。


 以前は、デル・レイの女性の最上位は自分だった。しかし、皇族である義姉が来てからは、誰もが義姉を第一とした。夫すらだ。確かに義姉は美しい。誰が見てもだ。人には好みというものがあるが、それを差し置いても、美しいと認めざるを得ない。それほどの美貌。


 そして義姉は美貌だけの人ではない。優しく気品にあふれ、礼節も完璧で歩き姿一つとっても誰にも真似できない。それに比べて王妃様は、と王宮の侍女にすら裏では嘲笑しているのも知っている。


 でも、それでも私はデル・レイ王妃。夫はデル・レイ国王。夫は自分にだけ冷たい。いや、酷いと言うべきだ。それでも、自分にだけ。どうであろうと、自分だけが夫にとって特別な存在。馬鹿な考えだ。だが、それでも特別は特別だ。


 しかし、その特別にすら義姉は入り込むのだろうか。義姉とユーリを救う為、今後2人は夫の妻子という事になる。妻となった義姉に夫はどう接するのか。あくまで義姉としての態度を貫くのか、それとも妻として見るのか。妻と見るならば……。夫は義姉に自分と同じように接するのだろうか。義姉に酷い事をするのだろうか。義姉に甘えるのだろうか。


 ドキリとした。甘え、なのだろうか。思いを巡らせ、自然に浮かんだ言葉だった。頭に浮かんだ後に、その意味に気付いた。私は夫に虐められている。それは分かっている。そして、荒ぶれた感情のまま自分を虐めた夫が、その後落ち着きを取り戻すのにも気づいていた。しかしそれも、気晴らしになっているのだ。その程度に考えていた。


 思わず夫の姿を探した。その瞳は、迷子の幼い我が子を探す母のそれだった。



 その頃、広場の近くの牢では処刑を待つ元皇国宰相と、その異父弟である現デル・レイ王が鉄格子越しに対面していた。


「やっとこの日が来たか。これでフィデリアとユーリと一緒に暮らせるのだな」


 笑みを浮かべる男の顔は傷だらけで、原型を留めぬほどだ。歯も何本か欠け、喜劇に出てくる間抜け男が如きである。


「看守から聞いています。日々狂言を吐き、頭を壁に打ち付け暴れまわり、取り押さえようとする兵士に掴みかかって殴り飛ばされたとか」

「ああ。万一他の者と入れ替わったのがばれぬように徹底的にな。なに、妻と息子と暮らせると思えば、これくらい何ほどの事は無い」


 そうは言うが、左目は内出血で黒くなり、失明しているのではと思われるほどだ。歯が欠けた口から洩れる言葉も聞き取りづらい。久しぶりに会う愛しい妻子も、一目では夫と気付かぬだろう。


「それで、私と入れ替わると言う者はどこにいるのだ?」


 そう。ここに居るのはナサリオとアルベルドの2人きりである。聞いていた手はずでは、同じように顔に傷を負った身代わりの者を、警護の騎士と偽って甲冑を着せて連れて来てナサリオと入れ替わる。そのはずだ。


「ええ。その事で、兄上に謝らなくてはなりません」

「な、何がだ」


「実は、身代わりの者を手配する積もりだったのですが、すっかり忘れていました」


 いやー失敗、失敗と自分の頭をこつんと叩く。些細な事と言わんばかりだ。その当然の様な態度に、ナサリオすら、そのようなものなのかと思うほどだ。


「そ、そうか。それではやむを得ぬな。今日のところは中止か。なに、今まで耐えて来たのだ。フィデリアとユーリと暮らすのが少し先に延びるくらい何ほどの事があろうか」

「何を言ってるのです。ここまで準備して延期など出来るはずがないでしょう」


「と、とはいえ身代わりが居なくては、処刑は出来まい」

「ですから兄上。仕方がないので処刑されて下さい」


 静寂が2人を包んだ。ナサリオは固まったように微動だにしない。それはしばらく続いた。


「え、な、あ、ああ!!?」

「落ち着いて下さい兄上。何を言っているのか分かりません」


「お、落ち、お前、何をいって、何を言っている! あ、ああ!!」

「仕方がないではないですか。身代わりになる者が居ないのですから、兄上ご本人が処刑されるしかありません」


「お前、身代わり、身代わり、用意するって言ったではないか! 用意するって!!」


 鉄格子を掴み必死で訴えるが、びくともしない鉄格子のようにアルベルドの表情にも変化はない。仕方がないじゃないですか、という態度でナサリオを見ている。


「こんな、こんな馬鹿な事があるか! 身代わりを用意するのを忘れただと! だから死ねだと! ふざけるな! ふざけるな!!」

「そうは言っても、忘れてしまいましたし、延期も出来ませんし、兄上が処刑されるしかないかと」


 まいったなー。と頭をかくアルベルドに、悪びれた様子はない。


「お前、まさか。まさか。初めから身代わりを用意する気などなかったのではあるまいな!」

「そのような事はありません。ちゃんと用意する予定でした。確か、5日前までは覚えていました。いや、4日前だったかな?」

「貴様!」


 義弟のふざけた言い草に鉄格子から腕を伸ばすが、ひょいと避けた義弟に届かない。鉄格子に身体をねじり込ませ必死に手を伸ばすが、僅かに指先が義弟の服に触れるのが限界だ。アルベルドが意図的にその距離を保っていた


「あ、ああ。貴様。アルベルド。あああっ」


 必死でアルベルドの服を掴もうとするが指が表面を滑る。やっと爪が引っ掛かるが、それも引き寄せようとすると外れた。


 その時、カツカツと足音が近づき、視線を向けると、ナサリオの絶叫に足音がかき消されていたらしく思いの外近くまで看守が近づいていた。後ろには部下らしき者もいる。看守の目に蔑みの色が見える。


「また、何時ものように暴れているのですか。最後の時ぐらい皇国宰相の威厳というものを見せて欲しいものですな」


 ナサリオは歯軋りし、看守とアルベルドを睨んだ。確かに、アルベルドに言われ、毎日暴れまわっていた。


「人間、最後となれば威厳などとは言ってはいられぬのであろう」

「そうでしょうか。4年前に処刑されたボンファンティ伯爵は、最後の最後まで威厳を保たれ、彼の首を切り落とした処刑人ですら、その躯に跪いて敬意を表したと聞きます」


 ボンファンティ伯爵の娘は、皇族の血を引く大貴族の跡取りに弄ばれ、それを苦に自殺したのだ。幸いにして娘は一命は取り留めたものの、伯爵は娘を弄んだ男を許さず切り殺したのである。その後、娘は皇都を出て田舎に移り住み、そこの領主の息子と結婚し1児の母となっている。


「まあ、その様な者も中にはいるが、すべての者が伯爵ほど立派ではないという事だ」

「アルベルド! 貴様が、貴様がやれと言ったのであろう!」

「まったく。また訳の分からぬ事を。最後までみっともない奴だ。もういい。引き出せ」


 看守の後ろに居た部下が鍵を取り出し鉄格子を開け、3名ほどが牢に入ってナサリオに縄をかけ引きずり出した。ナサリオは暴れたが、屈強な兵士3人には対抗できない。左右から腕を捕まれ押さえ込まれた。


「違う。違うんだ。私は処刑されるはずではないのだ!」

「はい。はい。分かった。分かった。怖いのはもうすぐ終わるから、それまでの辛抱だよ坊や」


 真面目に相手する必要は無いと看守はうんざりした表情だ。


「それでは、よろしく頼む」

「は」


 ナサリオが両脇を抱えられ引きずられていく。一旦、別室で身を清められ服装も整えるのだ。


「なぜだ! なぜだ。アルベルド! 私がお前に何をした! なぜだ!!」


 アルベルドはそれに手を振り応えた。更に続くナサリオの罵倒が聞こえなくなると、静寂が訪れる。


「ふっ」


 アルベルドが小さく吹き出す。


「ふっふふふっふははははは――!」


 笑いながら崩れ落ち膝を付いた。


「あーーははははっ。はっはははっあはははは」


 アルベルドは腹を抱え床に転げまわって笑い続ける。笑い、咳き込みながらも更に笑う。


 笑う。笑う。笑い転げまわった。アルベルドこそが、気が狂ったかのようだった。笑い疲れ仰向けに寝そべるころには大きく息を乱していた。


「教えてなど、やるものか」


 アルベルドの鍛えられた厚い胸板が、呼吸に合せ上下する。


 俺の母はお前の母に殺された。息子の俺を手に入れる為に殺されたのだ。お前の母への復讐に息子のお前を殺して何が悪い。お前は多くの者を死なせた。妻と子を得る為と100万の軍勢を動員し敵味方、多くの者を死なせたのだ。死んで当然ではないか。だが、それをお前に言ってはやらん。


 母は、自分がなぜ死ぬのかも知らずに死んだ。病の所為だと信じていた。しかし、お前の母に殺されたのだ。お前も自分が死ぬ本当の理由を知らずに死ね。敗戦で多くの者を死なせたからでもない、俺の復讐の為でもない。それをお前に教えてやれば、万一にでも納得するかも知れない。


 納得などさせん。


 理由も知らずに死ね。納得せずに死ね。理不尽と恨みながら死ね。死ぬ理由を教えてやるほど、俺は優しくはない。



 アルベルドが見物席に向うと、既に人が溢れていた。お祭り騒ぎで談笑している者も居る。その雑踏に足を踏み入れた瞬間、王妃と目があった。その憂いを含んだ視線に、目を逸らした。なぜかは自分でも分からない。分かる事を拒否した。なぜか後ろめたさを感じ、それすらも瞬時に意図的に忘れ去った。


 フレンシスも、夫が自分の視線から目を逸らしたのに気付く。夫は何か悪い事をして来たのだ。理由も分からず理解した。息子の悪事をなぜか見破る母のように。


「フィデリア。もうすぐのようだ」

「そ、そうですか」


 王妃を無視して義姉に声をかけた。いや、もはや義姉ではない。ナサリオとフィデリアとの結婚は無効だ。そのような事実はないのだ。ならば義姉上と呼ぶ必要はない。呼んではいけないのだ。そして、フィデリアの息子ユーリが自分の息子ならば、その母は我が妻。呼び捨てるのも自然である。


 フレンシスは、自分と義姉の間に座る夫に視線を向けた。夫は、義姉に話しかけ自分からは顔を背けている。


 本当にこの人は私に甘えているのだろうか。馬鹿な事と自分でも思う。聡い夫だ。私などには思いも及ばぬ深い考えがあるのだ。それでも王妃は、その考えを捨てきれずにいた。


「違う。違うんだ!!」


 絶叫が響いた。皆の視線が集まる先には必死で抵抗するナサリオの姿があった。必死で脚を踏ん張って抵抗するが、屈強な兵士に引きずられている。


 扇を手にするイサベルは、悠然と自らを扇いだ。アルベルドから、ナサリオとすり替わった罪人はおそらく直後になれば抵抗すると聞いていた。みっともない事。と侮蔑の視線を送る。


 私のナサリオは、皇国宰相にまでなった男。その身代わりになれるのだ。光栄に思いこそすれ、何を抵抗する事があるのか。


 しかし、これが済めばナサリオは自分のものとなる。イサベルは悠然と微笑み、愛しい我が子が処刑されるのを待ちわびた。


 フィデリアとユーリが青ざめる。夫の、父の最後の姿を心に焼き付ける。処刑されるその瞬間は目を背けるだろう。だけど、それまでは。そう思いやって来た先に見るナサリオの姿は、あまりにも衆悪だった。


「父上……」


 ユーリが呟き、フィデリアの口元が悲痛に歪む。


 泣き叫び、必死で抵抗するその男が、自分が愛した夫なのか。尊敬する父なのか。こんなものを、最後の姿と目に焼き付けねばならないのか。顔を背けたい衝動と、見届けたいという思いに視線が揺れ動く。


「騙されたのだ! 違うのだ! 私が処刑されるなど間違っている! 私は騙されたのだ!」


 悲劇の主人公を演じるナサリオに向けるアルベルドの視線は冷たい。


 どうしてこいつは、こうも被害者面が出来るのだ?


 十数万の被害を出す大敗をしたのだ。死罪で当然ではないか。失敗しただけで皇帝を毒殺しようとしたのだ。死罪で当然ではないか。他の罪人とすり替わらず、自身で罪を償うのは当然ではないか。


 それを、どうしてここまで理不尽な目に合うかのように泣きわめいているのか。どうして自分は被害者だと思えるのか。十数万の被害より自分の命の方が重くて当然なのか。自分の代わりに他の罪人が死ぬのが当然なのか。馬鹿馬鹿しい。


 母上の復讐なのだ。母上は理不尽に殺された。ならばもっと理不尽に殺すべきだったか。まったくの無実で殺すべきだったか。結局、死んで当然の男が当然に死ぬだけか。詰まらん。


 まあいい。さっきはかなり笑わせて貰ったので、それで良しとするか。


 フレンシスはナサリオを見ていなかった。ナサリオを見るアルベルドを見ていた。誰もがナサリオに視線を向ける中、彼女だけがそれ以外に視線を向けていた。


 どうしてそこまで冷淡な視線をナサリオ様に向けているのだろう。ナサリオ様と夫は異父兄弟。しかも、夫のお母上が亡くなられてからはナサリオ様の母であるイサベル様に引き取られ育てられた。その兄が処刑されるのに何の心痛も感じないのだろうか。先ほど夫が視線を逸らした事に、何か関係はあるのだろうか。


「アルベルドだ! アルベルドに騙されたのだ!」


 視線がアルベルドに集中した。瞬間、アルベルドが痛ましげに首を振った。その瞬時の変わり身にフレンシスだけが気付いた。他の者には、狂乱する兄を悼む姿に見える。実際、ナサリオは皇帝殺しで処刑されるのだ。アルベルドが騙すも何もない。


 ナサリオの狂言か。見物人達が改めてナサリオに視線を向ける。足を踏ん張り、断頭台に上るのを拒否するが、首にかけた縄を引かれ昇らされる。首が締まり顔は真っ赤だ。その醜態にあちこちで失笑が漏れる。


 首に力を込め首が締まるのを防いで、頭を振り乱し抵抗する。その時、ある者を視線が捕えた。


「いや、大丈夫だ。すまない取り乱した。もう大丈夫だ」


 狂乱から静寂。途中の頁が破り捨てられた物語のような突然の変化。そこには皇国宰相として大皇国に君臨した男の姿があった。見物人達がざわめき顔を見合わせる。中には、自分はしばらく目をつぶってしまっていたのかと、真剣に考える者までいた。首にかけていた綱を引く役人も唖然としている。


 アルベルドの視線が鋭くなる。その横でフィデリアの声が聞こえる。


「ユーリ。お父上の最後の姿です。見届けなさい」


 愛しい我が子の手を握る。握り返される。あの時、夫は私を見た。ユーリを見た。夫は気がふれてなどいない。愛しい妻子を前に、毅然と立ち、自ら処刑台へと進む。


 ナサリオは、改めて妻と息子に視線を向けた。愛しい妻子にみっともない姿は見せられない。もう自分は最後だ。ならば最後だけでも誇れる夫で、父でありたい。


 しかしアルベルドは、なぜ自分を殺そうとするのか。殺すのか。いや、もはやそれを考えても意味はない。それを考える時間があるなら妻と息子の幸せを願う。


 断頭台に首をかけ、首枷が止められるのを静かに待つ。


 群集も静まり返った。今ここにいる男は、自らの死を前にまったく動じない威厳に満ちた男。さっきまでの醜態はなんだったのか。引き出されたのがナサリオの偽者と信じるイサベルは、狂乱が静まり、面白い見世物が終わってしまったと詰まらなさそうに見ている。


 フレンシスは、舌打ちしそうな表情の夫を一瞥した後、ナサリオに視線を向けた。

 フィデリアとユーリは、視線を背けたい衝動に耐え夫の、父の最後を見届けようとしていた。本当は、首を落とされる瞬間、その時は顔を背ける積もりだった。それだけは見たくはなかった。しかし今は、それこそを見届ける。


 母が、異父弟が、義妹が、妻が、息子が見守るなか、それはあまりにもあっさりとしたものだった。巨大な刃がすとんと落ちると、それに続いてナサリオの首も落ちた。見物人達から、場違いな拍手が聞こえる。


 その時、夫の死に涙を流し息子の手を更に強く握るフィデリアの頭の片隅に微かな疑問が過っていた。夫は気などふれてはいなかった。ならば、アルベルドに騙された。その言葉は、何を意味するのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ