第166:奈落の前
ブエルトニス女王フィデリアは、皇帝の第二皇子と結婚し一児をもうけ、夫はその後、皇国宰相となった。その事実はなかった。皇国がそう決定したのだ。皇国の意向は絶対である。無論、反対する勢力も皆無ではなかった。
「一度、教会が承認した結婚誓約書をなかった事にするなど、神への冒涜です。離婚では駄目なのですか」
教王エミリアーノが抵抗した。この世の神たるグラノダロス皇国皇帝が出現して以来、かつてほどの力は失ったものの、やはり、人々の心の拠りどころである宗教勢力の力は侮りがたく無視出来ない。
「神への冒涜と仰るが、この世の神であるグラノダロス皇帝のご意向なのだ。それを神への冒涜とは、何か勘違いなされているのではないですかな。’教王’陛下」
皇国から派遣された若い役人に嘲笑が浮かぶ。教王から歯軋りが漏れた。
この大陸のほとんどの者が信仰する日の出を神をするアマンセル教の最高位は、かつて教皇であった。しかし、皇祖エドゥアルドは、宗教勢力が政治に強い影響力を持つのを危惧した。だが、宗教勢力を敵に回しても厄介なだけだ。対立を避け、皇都に大聖堂も立ててやった。しかし、世の中には親切にされると初めは感謝するものの、次第にそれを権利と勘違いし、更には自分の方が偉いのだと考える者までいる。
皇国の主だった町どころか小さな村々にも教会が必要だと言い出した。それだけならば勝手にやれと言うものだが、皇国がその費用を負担すべきと主張した。そしてエドゥアルドがそれを断ると、次には神の名の元、各地の領主に負担を命じた。
それを受けるか受けないかは領主の問題とも言えるが、教会勢力が皇帝を差し置き領主に命令するのをエドゥアルドは重く見た。皇国が拒否したものを領主が受けるのも問題である。領主とは武力だ。教会勢力が武力を支配下に置くのは皇国にとって脅威。
だが、真っ向から潰しにかかれば大陸全土の民と領主どころか、部下の中からも反乱が起きかねない。エドゥアルドは、神にではなく、すべての部下からの絶対の忠誠を信じてはいなかった。自分に忠誠を誓う一部の達だけを密かに集めた。
当時の皇国本国の軍勢は20万。だが、この時集まったのは僅か8百。万一にでも露見してはと考え、選別に選別を重ねた結果だ。周辺諸国との戦いを生き残った己の息子の内、2名が呼ばれていなかった。
「雑兵などを相手にしても切りがない。狙うは大将だ」
エドゥアルドの宣言に騎士達がざわめいた。
「では教皇をお討ちになるのですか」
「きょ、教皇などなにするものぞ!」
「そうだ。我らが忠誠を誓うのはエドゥアルド様のみ!」
だが、その勇ましい言葉とは裏腹に涙を流す者も多い。彼らとて信仰を捨てた訳ではない。エドゥアルドへの忠誠がそれに勝っているに過ぎない。しかも僅差でだ。父と母。そのどちらかを生かす為、どちらかを殺す選択に等しい。身を、心を引き裂く決意だ。
「教皇は討たぬ。教皇は大将ではない」
「教皇が大将ではない……」
「では、誰を討ちに」
「ま、まさか!」
その先を言える者はいなかった。教皇ですら大将でないなら、その上は神ではないか。神を討つのか。どうすればそんな事が可能なのか。可能としても、あまりにも恐れ多い。アマンセル教の大聖堂に乗り込み全ての聖器、経典を破壊尽くすのか。アマンセル教を潰すのか。いくら忠誠を誓うエドゥアルド様の命令でもそれは出来ない。
「討つは教皇にあらず、神にもあらず」
ざわめく部下達の前にエドゥアルドが言った。更にざわめき、それが収まるのを待つ。
「討つは、権威である」
エドゥアルド率いる騎兵8百が大聖堂を急襲した。教会が誇る聖ゴロンドリナ騎士団も、普段から全団員が集結し武装しているのではない。そして大聖堂も堅牢な建築物ではあるが、敵を迎え撃つ軍事拠点ではない。一塊に雪崩込むエドゥアルドの一団を止める事は出来なかった。
当時の教皇は数名の腹心と共に一室に追い込まれ、エドゥアルドは1人で乗り込んだ。そして、中でどのような会話がなされたか分からないが、グラノダロス皇国皇帝は地上の神であり、天上の神の代弁者たる教皇は、今後、教王と名乗る事が決まったのだ。
そして、今まで教皇は十数名の大司教の投票で決められていたが、投票で推薦された教王をグラノダロス皇国皇帝が承認するという事も決められた。皇帝の権威は、アマンセル教の最高権力者の上に立ったのである。
無論、各地でアマンセル教信者の反乱は散発したが、当の宗教上層部が既に屈しているのだ。各地の分からず屋の抵抗の域を出ず、纏める者も居ない。
エドゥアルドが特にアマンセル教の信仰に制限を設けず、グラノダロス皇帝の権威はアマンセル教王より上なのだ。それだけを示すだけで手を引いたのも人々の抵抗が少なかった要因である。民にしてみれば上層部の人事がなにやら変わったというだけ。極短期間に収束した。
どうやって教皇を説得したのか。その問いにエドゥアルドはうそぶいた。
「何。神が望まぬ事が、この世に起こるはずがないと言っただけだ」
しかし、その一言を言っただけにしては、教皇との話し合いが長く、教皇の側近が何人か亡くなっているのを誰も指摘しなかった。
一度格付けがなされ人々の認識が染まれば、覆すのは容易ではない。特に信仰心の薄い者から見れば、教王など皇帝の家臣でしかない。しかしそれは間違っている。皇帝は教王を承認するが、家臣ではない。
勘違いし教王を侮辱した若い役人は大聖堂から(そこには聖職者しか居ないはずにしては多少手荒く)追い返され、彼の上司がやって来て平身低頭で謝罪した。しかしこの上司も、やはりナサリオとフィデリアの結婚の取消しは譲らない。
無礼な役人に怒り心頭だった教王は、それが醒めると冷静に考え込んだ。そろそろ再選の時期だ。正直、今は皇国と争いたくはない。教皇は終身制だったが、教王は5年毎に再選の選挙がある。教王の権力を削ぐ為の皇国の政策だ。
大司教には皇国の息のかかった者も多い。終身制ならば、その一時だけ従順なふりをすれば良いが、5年毎に再選されるならそうは行かない。とはいえ、一度承認した結婚誓約書を無効にするのは神への冒涜だ。
「認めたものを無かったと考えるのではなく、無効にする権利を教王陛下が得たと考えるのは如何でしょう」
言い回しの問題とも詭弁とも言えるが、無かったとするのは権利を否定されたと感じるが、無効にする権利を得たと考えれば印象も変わって来る。それに、結果的にとはいえ、初めに来た役人を追い返して上司に謝罪させた事で、唯々諾々と従ったのではないとの面目も立っている。
「なるほど。分かった。教王の名において、ナサリオとフィデリアの婚姻を無効としよう」
教王は頷き、上司は胸を撫で下ろした。しかしこの後、初めに来た若い役人が上司から評価を得たのを、教王が知る由も無かった。
その他にも、ナサリオとフィデリアとの結婚の痕跡の消滅は徹底された。民や貴族達にも布告がなされた。
「ナサリオとフィデリアの連名の物だけではない。2人の婚姻期間にそれぞれから受け取った物も全て破棄するのだ。2人の事を日記に書いたならば、その頁も破り捨てよ!」
人々は争うようにその品々を広場に集めた。それは山となり油をかけ火が付けられ炎が天をつく。その光景は皇都だけではない。遠く離れた衛星国家の村々でも見られた。ナサリオとフィデリアとの結婚は盛大に行われ、稀代の美女と当時から噂されていたフィデリアの美貌を一目見ようと、皇国どころか衛星国家からも多くの人々が集まったのだ。
「この事も記録するでないぞ。違える者が居れば、相応の処罰がなされると覚悟せよ!」
皇帝の権威が強過ぎる為、他国から見れば皇国の政策は極端に走りがちであり、民もそれに従う。封建社会であるこの大陸で、唯一皇国だけが絶対王政を敷いているかのようだ。好き勝手にやっているように見えるサルヴァ王子ですら、バルバールとの戦いの前に発生した内乱時には貴族達との全面対決を避け、首謀者のみを罰する事で済ませたのである。ドゥムヤータに敗北する前のロタも王家の力が強かったが、それも昔の話だ。
フィデリアの祖国ブエルトニスも、国王エウセニス殺害に混乱する中、その作業が行われた。フィデリアの父であるエウセニスの前の国王は既に亡くなっているが、母はまだ健在である。
「またとない良き夫に嫁ぎ、幸せになっていると思っていたのに……」
その夫は皇帝殺しの大罪人となり、婚姻の事実すら否定された。しかも婿の子だと信じ可愛がっていた孫が、実は義弟との子なのだ。母は深く嘆き悲しみ、そして混乱した。夫を失ったと、娘を哀れんで良いのか、義弟と通じていたなどと憎んで良いのか。ユーリは娘の子に違いなく孫という事実は変わらない。それでも、今後、どう接して良いのか分からない。そして、そこに付け込む者がいる。
常からフィデリアの母の傍に付き添い、母も嫁いだ娘の代わりのように可愛がる侍女が囁く。
「お嘆きになる事はありません。フィデリア様は神にも愛されたお方。皇帝殺しの大罪人から解放され、やっと真の夫の元に名実共に嫁ぐ事が出来たのです」
「確かにナサリオ様、いえ、ナサリオは皇帝殺しの大罪人となりました。ですが、それでも義弟と通じていたなんて……。娘がそんな事を……」
「皇帝殺しの大罪人との結婚なんて無かったのです。ですからアルベルド様は義弟ではありません。フィデリア様は不義など働いてはいないのです。それどころか聖王の妻として、名を残されるでしょう」
「ほ、本当にそうでしょうか」
人は信じたいものを信じる。愛しい娘が汚名にまみれるより、名君の妻として名を残す。その甘言に老いた母は心が引き寄せられた。
「はい。フィデリア様の名誉は守られ、ユーリ様も聖王のお子として立派にデル・レイをお継ぎになります。大罪人の妻子として処刑されたりはしないのです。フィデリア様は、神に愛されたお方なのですから」
「そ、そうですね。あ、あのような大罪人に娘を汚されずに済み、これも神のご加護なのですね」
「その通りです」
この侍女はアルベルドの信奉者だった。しかもなんと、この侍女は誰からも命令も受けてはいない。それどころか、アルベルドは勿論、信奉者を探し出す任務を負っている劇団員達ですら、まだ彼女の存在を掴んではいなかった。信奉者の特異点として、制御下に置かれるまでは、それぞれ独自の判断で勝手にアルベルドの為に働くのである。
親にとって我が子は可愛いもの。愛せるものなら愛したい。侍女の甘言に乗ったのも、実は自己暗示に近い。そして更に自身を騙す為に筆を走らせた。母は、アルベルドに宛て、フィデリアとユーリを頼みますとの手紙を認めたのだった。
そして、ナサリオの母はフィデリアの母より心穏やかではなかった。
「アルベールと通じておっただと! あの売女≪ばいた≫!」
相変わらずアルベルドを皇国風に呼ぶ義母だ。前々皇帝の正妻としての気品など微塵もない。鏡台の椅子を振り回し粉砕された家具の破片が部屋を満たした。
目の前でパトリシオを失い、ナサリオの命も風前の灯。その衝撃に痴呆のようになっていたイサベルだが、ナサリオを裏切ったフィデリアへの怒りはそれを上回った。アルベルドと通じたのもナサリオの命であったというが関係ない。とにかく、あの女はアルベルドに抱かれ、孫として可愛がっていたユーリもアルベルドの子なのだ。
「あんな売女と私のナサリオが、形だけでも夫婦であったなどと考えるだけでもおぞましい! 命ぜられるまでもない。ナサリオとの結婚の形跡など全て焼き払っておしまい!」
庭に集めさせた品々を自らの手で粉々に粉砕し油をかけ火を放った。気付くと破壊した家具の破片で切ったのか、手の平がズタズタだったが、怒りに燃え痛みを感じない。しかし、まだ怒りが収まらない。
「アルベールをお呼びなさい!」
イサベルの形相に、白髪頭の執事は遅れれば命が危ないと恐怖した。老体に鞭打ち急ぎ馬車に駆け込む。
「早く出せ!」
「だ、出せと言われても、どこに行けばいいんですか」
「アルベルド様の屋敷に決まっておろうが!」
何がどう決まっているのか分かるはずもなく、思わぬ八つ当たりを受けた御者は、慌てて馬に鞭を入れたのだった。
「ご苦労だったな」
アルベルドの屋敷に到着してからも駆けて汗だくの執事に、アルベルドは労いの言葉をかけた。
「いえ。それよりも、イサベル様がお呼びなのです」
「義母上が?」
「はい。急ではありますが、屋敷にご足労頂けますでしょうか」
もはや、あの女の命令など聞く必要はないのだが、醜態を見物するのも一興か。
「分かった。すぐに参ろう」
「ありがとう御座います」
執事は胸を撫で下ろし、アルベルドはすぐに自分の馬車を用意させた。その周囲を十数名の騎士が固める。義母の屋敷に到着した時、庭ではまだ煙が上がっていた。その煙の元に視線を向けると、ナサリオとフィデリア、そしてユーリの3人を描いた絵画が風に揺られていた。尤もそれは、既に大半が燃え尽き、アルベルドから見れば、ただの燃えカスである。
「義母上。お召しにより参上いた――」
騎士達を率いホールに入り、取りあえず挨拶を、と言いかけるアルベルドの頬を花瓶が掠め飛び、後ろの騎士の胸当てで砕けた。騎士はよろめいただけで怪我はないものの、磨き抜かれた甲冑は傷付き凹み、国王警護の任に高価な甲冑を買い求めた騎士を大いに嘆かせた。
「アルベール! そこを動くでない!」
視線を向けると、義母が二階の手すりで次の花瓶を構えていた。その後ろには花瓶を抱える侍女がいる。彼女にとってイサベルの命令は絶対である。
やっと復讐が果たせるというこの時に、危うく殺されるところだった。狙いが外れなければ頭が砕かれて死んでいた。取り乱す義母の醜態に満足すると同時に冷や汗が流れる。
「義母上。落ち着いて下さい。この件は、全てナサリオ兄上の為」
「何がナサリオの為か!」
花瓶がまた飛来し、今度は余裕を持ってかわした。また、後ろの騎士の甲冑が犠牲となる。身を挺してアルベルドを守るはずの騎士達は、前皇帝の母の狂乱に動けないでいた。
義母が次の花瓶を侍女から受け取る間にアルベルドが階段を駆け上がった。上り切ったところで花瓶が飛んで来たが、身を屈めてやり過ごす。侍女は、更に義母に花瓶を渡そうとするが、その花瓶を駆け寄って剣で叩き割った。次いで剣の平で侍女を打ち気絶させる。
「私の話を聞いて下さい。義母上は義姉上とユーリが死ねば良いと仰るのですか」
「当たり前です!」
確かに、イサベルにとってフィデリアとユーリは裏切り者。死んでも構わないどころか、死んで欲しい存在だ。
侍女が気絶し、花瓶の供給源を断たれたイサベルが素手でアルベルドに襲い掛かった。しかし、アルベルドとて水準以上の騎士。簡単に両手を掴み取り押さえた。そして耳元で囁く。
「ナサリオ兄上が牢から出た時に妻子が死んでいては、ナサリオ兄上が嘆き悲しみましょう」
「な、なんですって!?」
イサベルが唖然としアルベルドを見詰める。ナサリオは死罪。如何に彼を溺愛する彼女とて、それは既に諦めていた。それを、アルベルドの言葉が否定する。
「今、ナサリオが牢から出ると言いましたか?」
「ここでは人目もあります。こちらへ」
アルベルドにとっても、幼少の頃を過ごした勝手知ったる屋敷だ。近くの部屋にイサベルと共に滑り込んだ。
「これから言う事は他言無用です。ご友人は勿論、侍女や執事にも漏らしてはなりません。万一他に知られる事となれば、兄上の命はありません。よろしいですか?」
笑みを浮かべるその言葉は、イサベルに期待を抱かせるに十分だった。両手を合わせ義理の息子を見詰めるその姿は、まるで夢見る乙女だ。
「も、勿論です。ああ、流石は私のアルベール。貴方を信じておりました」
どの口が言うか。だが、まあいい。これで楽しみが増えた。
持ち上げてから落とす。それが復讐というものだ。期待に瞳を輝かせる義母を前に悪魔の笑みを浮かべた。