第163:幻影の家族
ラルフ・レンツがリンブルク国王となり、その上位者で女王の父であるベルトラム・シュレンドルフとの会談を果たした。
その時のベルトラムは終始機嫌よく、娘はよき婿を得たと喜んでいたという。一度、他を者達を遠ざけ婿と義父の2人だけとなったが、その後の様子は、婿は流石に大陸でも名の知れた大人物である義父と2人きりで緊張したのかその顔は青かったが、義父は穏やかな笑みを浮かべ、やはり機嫌はよさげだった。
会談の後、父が認めてくれたと女王クリスティーネも喜び、赤く長い髪を揺らし夫の顔を覗き込み微笑みかけた。
「実は、お父様は私が男性とお付き合いするのに少し厳しいところがあるのです。でも、貴方だったらきっとお父様も認めて下さると信じていました」
「あ、ああ」
少し厳しい? いや、厳しい、という表現で収まるものではなかった。思い出せば今でも背筋に冷たい物が走る。殺される。本気でそう思った。
顔面ごと頭を鷲掴みにされ、頭蓋骨が軋む音を聞いた。歯を食いしばり、義父の手を渾身の力を振り絞り両手で掴み引き剥がそうとした。だが、歯が立たず、頭を潰されるのを防ぐのが精一杯だった。もう少し、自分の力が弱ければ頭を潰されていた。その覚悟が頭を過ぎった。
これが50を超える男の力なのか。武人ではない男の力なのか。歯軋りを漏らし、義父の片手に両手で対抗する。
ルキノにとっては果てしなく長く、そして実際にはそれほど長くない時間が流れ、ベルトラムの手が解かれた。自ら放したのだ。
ルキノの頭蓋骨は潰されるほどの圧力から解放されたものの、目が眩み息も荒い。やっと目が正常になり義父に視線を向けると義父は背を向けていた。その力強い背中に今更ながらに気付いた。息はまだ荒い。
「手塩にかけて育てた娘が、父の知らぬところで、いきなりどこぞの男の妻になったのだ。これくらい許せ」
「は、はい」
本当にそうなのか。これくらいと言うが、間違いなく殺意があった。そう感じた。だが、義父はルキノの考えが読めるのか、背を向けたままその問いに答えた。
「私の左手は空いていた。お主を殺そうと思えば造作もない」
「……はい」
確かにそうだ。片手で殺されるところだった。それにもう1つの手が加われば、間違いなく殺されていた。ならば、やはり義父に自分を殺す気はなかったのか。背を向ける義父の表情は分からない。
「ランリエルとの関係はどうなのだ」
「ご息女をお助けしたのは全くの偶然なのです。あの時、ご息女の衣装は身代わりとなった侍女が身に付け、ご息女は粗末な衣装でした。私はご息女を守ろうとして亡くなった女性の為にもと、ご息女を守ったまで。やましい事など、何一つありません」
「確かに、娘は身分を隠し粗末な服を着ていたと聞く。分かった。そこは信じよう」
「は。ありがとう御座います」
「それで、この後はどうなのだ」
「この後で御座いますか?」
「リンブルク王となって、どうするのかと聞いておる。ランリエルの為に働くのか」
振り返り問うたベルトラムの視線がルキノを射抜いた。感情を浮かばせぬその瞳は、それだけに虚言が通用せぬのを悟らせる。
ルキノ自身が何度も己に問うた問題だ。それは妻を取るか、祖国を取るかだ。だが答えは出ない。理想は、両国にとって良くなるように。そうするべきだ。そしてそれが、理想論なのも分かっている。
「ご息女の夫となり、リンブルク王となったからには、リンブルクの為に働く所存です」
ルキノは無骨な武人である。策謀などは受け付けない男だ。だが、この程度の方便が出来ぬほど馬鹿正直ではない。一先ずこう答え、リンブルクとランリエルとの関係が良くなるように動く。そうするしかない。
「ならば、必要であればサルヴァ殿下とも矛を交えるというのだな」
言葉が出なかった。
「それはランリエルと敵対するという事で御座いますか」
その問いも時間稼ぎに過ぎない。だが、やはり義父とは格が違う。
「聞いているのは私だ。だが、お主の心底は分かった。迷いがある者を信用する訳にはいかぬ。初めから軍権を渡す気はないがな」
「は……」
ゴルシュタットとリンブルクの外交と軍事はベルトラムが握り、内政はそれぞれの国で行う。それが二重統治体制である。国王親衛隊の規模も縮小され、王国騎兵隊はベルトラムの指揮下にある。リンブルク王となってもルキノが動かせる軍勢は極僅かだ。
一問一答する度に、心を守る鎧が引き剥がされる。心折れ、対抗しても無駄。それを認めて屈しようとする心を懸命に支えた。
確かに大人物だ。人物の大きさという点ではサルヴァ王子も負けはしない。ルキノはそう信じる。だが、質が違う。
サルヴァ王子は大剣だ。それも、どこから来るか読めぬ変幻自在の剣。それは見る者に感嘆と清々しさを感じさせる。そしてベルトラムのそれは極太の鎖である。並みの剣で受け止めれば粉砕され、耐える事が出来ても鎖が巻き付き剣を奪われる。そしていつの間にか身体にも鎖が巻き付き、その重みで身動きが取れない。相手に、畏怖と諦めを与えるのだ。
「娘ともしばらくは離れて暮らせ。信用できん者の子を娘に産ませる訳にはいかぬ」
「義父上。なにとぞ私を信用して下さい」
「私がお主を信用するかは、私が決める事だ。お主ではない」
「……は」
新婚の身には厳しい話だが、義父の言葉も正論だ。信用しろと言えば信用してくれるなら、詐欺師にとってこれほど住みやすい世界はない。
2人だけの話が終わってベルトラムが警護の騎士を呼び寄せた時、そのベルトラムを前にして安著の溜息を漏らすのを耐えられなかった。気付けば、背中が汗でぐっしょりと濡れていた。そして今も思い出せば汗が吹き出る。
妻に、これからは寝所を別にしようと伝えた時、初めは反対したが、義父の命令と知ると、まだ少し不満に頬を膨らまつつ、お父様の事だから何か考えがあるのでしょうけど……。と引き下がった。余程、妻は義父を尊敬し信頼しているのだろう。普通の親子であれば、いくら父の命令でも、新婚の夫と別に寝ろと言われても従わないのではないだろうか。
そして、妻とは別の寝所で寝るようになってから、毎夜、命を受けてまいりましたと選りすぐりの美女が部屋にやってくるが、全て追い返した。
「どうか。どうか、部屋に入れるだけでも。部屋にも入れず追い返されては、叱責されてしまいます」
涙を浮かべ懇願する女もいたが、責められぬように、お前に命じた者に話を付けてやると言っても、肝心のその者の名は頑として口を割らない。
「では、やむを得まい」
扉を閉めると、しばらく扉の外からすすり泣きが聞こえたが、どうする事も出来ない。
容姿だけなら妻より美しい女は何人もいた。だが、人に命じられて身体を差し出す女と、命を賭けてまで純潔の誓いを守り、その誓いを破ってまで己に賭けてくれた妻。比べる気にもならない。
とにかく義父の信頼を得る事だ。だが、それはランリエル、そしてサルヴァ王子と決別した時なのか。それは……出来ない。妻を愛している。その心に偽りはない。
妻とサルヴァ王子。どちらを愛しているか。そう問われれば妻だ。そもそもサルヴァ王子に感じているのは愛ではない。忠誠、忠義と呼ばれるものである。だが、忠誠、忠義とは、あえて悪意を持って言えば、それを守る自分への陶酔、自身への愛情ともいえる。
善意を持って論じ、忠誠、忠義を人として守るべき至高のものとしても、やはり、愛する者を取るか、忠誠、忠義を守る自分で居たいかどうかの問題だ。そして世間では、忠誠、忠義を取るのが人として当然。愛する者を選ぶのは惰弱、軟弱と呼ばれるのだ。武人であるルキノにも、その意識は強い。
その意味では、本来のルキノの価値観では、即答でサルヴァ王子を選ぶべきであり、苦悩し、選びかねているだけ妻への愛が強いともいえる。とにかく、今のルキノはどちらの道も選べぬまま、新婚にもかかわらず1人寝を続けるしかなかった。
そして、更に大きな問題を解決すべき時が来た。ラルフ・レンツの両親との面会である。
レンツ夫妻が執事に導かれ部屋に入って来た時、ルキノは彼らから背を向けていた。
「お主は下がってよい」
執事に命じ、警護の騎士も下がらせた。その間も夫妻から背を向けたままだ。ルキノは、ラルフの両親と顔を合わせるのを躊躇、いや、恐怖していた。
振り返った瞬間、レンツ夫妻は驚愕するだろう。我に返った時、怒鳴るのか、嘆くのか。状況が分からず混乱するだろうか。それにどう答えるべきか。
実は貴方の息子のラルフは既にこの世に居ないのだ。そう言えるか。行方知れずとなった息子が生きていた。しかも、国王になった。どれほど喜びやって来たか。それを打ち砕くのだ。天国から奈落の底へと。
嘆き悲しむだろう。その両親に、このまま自分をラルフという事にしておいて欲しいと説得する。出来るとは思えない。だが、やるしかなく。そして、説得できる言葉などありはしない。巨大な壁ではない。深い谷間だ。答えを探そうと覗き込めば、どこまでも黒い闇が続き吸い込まれそうになる。
だが、避けられない。武人らしく、当たって砕けろ。その勇気とも自暴自棄ともいえる判断で呼び寄せた。そして、いざ相手を前に、いや、背にして動けないでいた。
「ラルフや。こっちを向いておくれ」
老いて声帯の伸びた、だが、品のある声が背を打つ。今まで、これほど痛みを伴う優しい声というものを聞いた事がない。息苦しさに、呼吸をしていなかったのに気付く。静かに深く息を吸い込んだ。一気に振り向く。
「落ち着いて聞いて――」
「ラルフや!」
「おお。ラルフ」
ルキノの言葉を遮り、ラルフの両親が抱き着いた。自分の息子と信じて疑わずろくに顔も見ていないのか、いや、2人の目には涙が溢れ、これでは見えるはずがない。
「突然、突然居なくなったと思ったら……」
「この……馬鹿者が……」
ラルフの両親は、息子が国王になった事より、ただただ無事だった事を喜び涙を流す。この者達にラルフは死んだと言うのだ。
「……申し訳ありません……。父上、母上」
言える訳がない。そしてこんな嘘は、すぐにばれるに決まっている。だが、ばれるまでは。それが、傷口を広げるだけなのは分かっている。逃げなのは分かっている。それでも、この2人を傷付けるのを恐れた。
「ラルフや、よく顔を見せておくれ」
騙せる間は騙す。そう考えていたところに、当然な母の言葉。どうすれば良いのか。何の考えもないまま、少しかがみ老いて背が縮んだラルフの母と視線を合わす。
「本当に、本当に立派になって……」
ラルフの母が、愛おしげにルキノの顔を撫で回す。息子と信じて疑わない遠慮ない手は、指が眼球に入りそうになるほど顔の隅々まで這う。
なぜ、ばれない? カーサス伯爵からは、年齢や背丈、髪の色が似ているとは聞いていた。もしかして、偶然顔もそっくりなのか。ないとは言わない。だが、都合が良過ぎる。
もしかして、この2人は信じたいのか? ラルフの両親とて、息子に会うのは数年ぶりだ。その間に息子の顔も変わっている。多少記憶と違っても、それは歳月のなした事。そう己に言い聞かせ、顔の違う男を息子だと思い込もうとしている。
「ご心配をおかけしました。……これからはお傍におります」
この2人に真実をいう訳には行かない。もしこのまま騙しきるならば……。自分がラルフになりきれるならば、なりきって見せる。
その後ラルフの両親は、息子と信じて疑わぬルキノに、今までどこに行っていたのか。何をしていたのかを問いただした。両親にしてみれば、突然、行方知れずになった息子への当然の問いだが、昔話でもされ、あの時はどうだったかなどと聞かれるよりはよっぽどマシだ。ルキノにはありがたい。多少の矛盾もありながらもなんとか答えた。
妻も交えた晩餐で、レンツ夫妻はルキノが恐れたラルフの昔話を妻に語ったが、ルキノは相槌を打つだけでやり過ごし内容を記憶する。迂闊で軽薄そうな印象の過去の夫に、今の夫からは考えられませんわ、と妻は感想を漏らしたが、それも旅の研鑽のなせる業と納得してくれた。
こうして、義父との対決を除けば最も困難と思われたラルフの両親との対面も、一先ずは乗り越えたのだった。
ベルトラムの屋敷でダーミッシュが主の足元に跪いていた。
「ご命令通り、本物のラルフ・レンツの両親は村を出る前に始末しております。村を出発する時にも人目につかぬように立ちましたので問題はありません。誰も王都に到着したラルフの両親が偽者とは思いますまい」
ラルフの両親の証である品々は全て奪った。遺体も馬車の座席の下に隠されていた。そして、身元の分かる物も全て剥ぎ取り、道中にあった湖に捨てた。発見されたとしても、村から王都までは長い。その道中にある身元不明の遺体を彼らと結びつけるのは困難だ。
「村からその偽者に会いに来る者もいるだろう。そこも抜かりないな」
「彼らには日々尊大な態度をして行くように命じております。村から会いに来た者には、偉くなった自分は、もはや故郷の田舎者に会う気はない。そう言って断らせます」
「うむ」
あの優しかった老婦人がと村の者達は驚き、嘆き、不審に思う者もいるだろうが、これが最善の対応だ。村から来る者、来る者全てが不審死すれば怪しい事この上ない。無理やりにでも会わない理由を付けるべきだ。
「問題は長男夫婦か」
「それについても、王都に来たなら殺して私の部下とすり代えるしかありませぬ。後は贅沢な暮らしをさせ、もはや田舎に帰る気はないと言わせるのです」
「で、あろうな」
いずれ長男夫婦も偽者に代わる。どうして今回、両親と一緒に来なかったかと言えば、長男の妻が妊娠しているからだ。子が産まれ旅をして良いほどの年齢になれば、その子と共にラルフと両親に会いに来る。
その時、まだ言葉も喋れぬ赤子は殺されまい。慈悲の心からではなく、’赤子役’が必要だからだ。だが、その赤子の父と母は偽者と代わる。自分の両親と信じて疑わず育てられるのだ。
全て偽者だ。ラルフ一家は全て偽者である。ルキノが演じるラルフを含めて。
大国の駆け引きに、何の罪もない小さな家族が大陸から消える。消える事すら誰にも知られぬまま。