第162:守るべき者
自分は義弟と関係を持っていた。息子も義弟との子。だが、不義密通したのではない。夫は男性として不能であり、夫からの願いで義弟も自分もそれを受け入れたのだ。夫からの手紙には、それが事実として書かれていた。
「馬鹿な事を……」
手が震え手紙に皺がよる。だが、彼女の心の震えはそれ以上だ。
初めて身を捧げた時の身体が張り裂ける痛みも、身体が馴染み感じるようになった愉悦も、はっきりと覚えている。頭が、身体がだ。それは夫とのものであって、決して義弟とのものではない。
「義姉上の気持ちは痛いほど分かります。ですが、兄上はなんとしてでも義姉上とユーリを救いたいのです。その為には、皇帝毒殺の大罪人の妻であってはならず、血を引いていてはならない。兄上はそうお考えになったのです」
「まさか、あの人がこんな事を言うなんて」
信じられない。夫から愛されている。それは日々感じていた。その夫がこんな事をいうなんて。でも、愛してくれているからこそ、なりふり構わず助けようとしてくれている。でも、その為とはいえ、こんな事、受け入れられない。
手紙を繰り返し読む。間違いなく夫の筆跡。もしかして、夫の字を真似た偽の手紙。そうとも疑ったが、間違いなく夫の癖のある字だ。夫は元々悪筆だった。それを矯正し今では美しい字を書く。しかし、長い文章を書くと少し崩れてくる。
誰も気付かないほどの些細な癖。夫自身、気付いていないだろう。でも、私は気付いた。夫を愛しているから。世界で唯一自分だけが気付いた夫の癖。それが喜びでもあった。そしてこの手紙に、その癖がはっきりと出ていた。
「でも、それでも、こんな事って」
女神が地に伏した。冷たい石畳に手を付き身体を支える。
やはり受け入れられない。私はナサリオの妻。それが喜びだ。それを否定し生きて何の意味があるのか。義弟と通じてたとして生きるくらいなら、夫の妻として死にたい。
夫とは恋愛結婚ではない。皇国で開催された舞踏会で私を見初めた夫が、父であるブエルトニス王に話を付け結婚した。だが、夫は本当に私を大事にしてくれ愛してくれた。私も夫を愛した。もし自然に出会っていても、間違いなくこの人を愛した。誓っていえる。
床に崩れ落ちた義姉と視線を同じにする為にアルベルドも跪いた。
「義姉上の気持ちも分かります。ですが、ユーリはどうするのですか」
そうだ。ユーリだ。私が認めなければユーリも処刑されてしまう。でも、あの子だって夫の子でありたいと願うはず。でも、でも……。
「私はどうしたら……」
誰にも優しく気丈な女神が、夫にしか見せた事がない涙を止められなかった。夫への愛。私と息子を救いたい夫の望み。自身の誇り。息子への愛。それぞれに心が引き裂かれる。
「義姉上が、兄上の妻として死にたい。そうお考えなのは分かります。きっとユーリも、兄上の息子として死にたい。まだ11歳ですが賢い子です。兄上の子としての誇りもある。きっとそう言うでしょう」
フィデリアは、無意識にアルベルドの台詞の中から言葉を探していた。自分の心を押す言葉をだ。
心が張りつめ、どちらに溢れるか決めかねていた。いや、正確に言えば少し傾いている。愛する息子を救う。母ならば誰もがそう考える。しかし、まだぎりぎりのところで均衡を保っている。
「ですが、兄上はそれを承知の上で2人に生きて欲しいと願っているのです。どんな事をしてでもです。義姉上は兄上の妻。ユーリは兄上の息子。それは誰よりも兄上が、そして義姉上が知っているではありませんか。他の誰がなんと言おうとです」
虚言だ。普段のフィデリアなら、このような虚言に惑わされたりしない。だが、フィデリア自身すら意識しない内にその虚言を求めていた。ユーリを救う。その為の都合の良い言葉を欲していた。
「わ、分かりました。でも、ユーリを貴方……の子とすれば、本当にユーリは助かるのでしょうか」
貴方’との’子とは、どうしても言えない。言える訳がない。
「大丈夫です。義姉上とユーリは必ず守り抜いて見せます。皮肉にもランリエルとの敗戦。そして皇帝陛下の崩御で皇国は混乱しています。身内で争う余裕はありません。皇国軍によるデル・レイ討伐。そのような事はおこりますまい。それに、もし皇国軍が攻めて来ても一歩も引きません」
「だ、駄目です。私達の為に戦争など」
「分かっています。万一の話です。言った通り、今の皇国にその余裕はありません」
そうは言ってもフィデリアの心に不安は残る。彼女とて封建社会の一握りの上位者。人は皆平等などという積もりはない。それでも、他の皇族達よりは正常な感覚が残っていた。流石に自分達母子を救う為に戦争をするなど考えられない。これがイサベルであれば、ナサリオを救う為ならば、大陸全土を焦土と化しても当然と考えるだろう。
「分かりました……。でも、万一私達を救う為に戦争になるというなら……。構わず皇国に引き渡して下さい」
「義姉上がそう仰るならば……。ですが、必ずやお2人を助けて見せます」
「……はい」
とにかく、義姉上は落とした。一先ず落とした。更に堕とすのは、まだ先だ。義姉上は、まだナサリオを心の支えにしている。それが完全に断ち切られた時こそ、堕とす。
義姉を支え立ち上がらせたアルベルドは、彼女を部屋まで送り届けた。普段の彼女ならば1人で帰れますと拒絶するところだが、心が消耗した今の彼女にその気力はなかった。
義姉を送り届けたアルベルドは、その足で王妃フレンシス。自身の妻の部屋へと向かった。既にかなり夜も更けていたが、意外にも妻は起きていた。
「よく来て下さいました」
アルベルドは、一瞬、妻が何を言っているのかと思ったが、そう言えば、皇国から帰国し形通りの夫婦の晩餐の後、ろくに話もせず義姉に会いに行ったのだ。皇国の様子はどうなのか。夫が何らかの責めを受ける事があるのか。妻として聞きたい。そう考え、万一にでも夫が部屋に来てくれるのを待っていたのだ。
そして妻は、夫に自分の気持ちが通じたと泣きそうな笑みを浮かべている。
「勘違いするな。お前に話を通して置かなければ、面倒な事になりそうな話があるので言いに来ただけだ」
「そう……ですか」
その声には大多数の落胆と僅かな、やはり、という諦めも含んでいた。妻を思っての事ではなく、用事があって来ただけなのだ。
「フィデリアの事だ」
「フィデ……リア様?」
夫はいつも義姉上と言っていた。それがどうして名前で、しかも呼び捨てだ。
驚き目を見開く王妃に、アルベルドは満足の笑みを浮かべた。
「ああ。今まで隠して来たが、フィデリアは実はずっと前から俺の女だった。ユーリも俺の息子だ」
「……どうしてそんな事を」
愕然とする王妃に、アルベルドが邪悪な笑みを浮かべる。今までも散々苛めてきたが、最近では反応が薄くなっていた。どこまで耐えられるか。それを試してやる。どうせすぐに根を上げるに決まっている。
「ナサリオ兄上は不能だったのだ。だから兄上は跡取りを残す為に俺にフィデリアを抱かせたのだ。しかし、ナサリオ兄上は皇帝殺しの罪で死刑となる。兄上の妻と息子というままにしておけば、2人は殺されてしまうからな。公表する事にした」
「そ、それでは、お2人は助かるのですね」
予想外の反応だ。王妃がフィデリアを慕っているのは知っていた。ユーリも可愛がっている。だから、その2人を助けたい。助かって欲しい感情を持っているのは当然ではある。だが、それにしても、信頼していた相手が自分の夫と通じていた事実に打ちひしがれる。そう考えていた。
しかし、王妃は、ただ2人が助かるのを喜び安著の表情を浮かべている。
気に食わぬ。こいつは、夫が他の女との間に子供まで作っていた、と。信頼する女が自分を裏切っていたと傷付くべきだ!
「ああ。フィデリアとユーリは、これからは俺の妻と子として遇する事になる」
だからお前の居場所など無くなるのだ。
「そうですか。フィデリア様とユーリ様だけでもお助け出来るなら……」
ナサリオは助けられない。言外のその言葉に王妃の声は沈むが、それでも、自分とフィデリアが通じていた事を気にした様子はない。
余裕の態度は崩さぬアルベルドの内側で、言いようのないどす黒い感情が渦巻く。強いて表現するなら、気に入っていた玩具が、実は玩具の方では自分のことを何とも思っていなかったのを知った感情だ。
「ユーリには一度デル・レイの王位を譲ったが、次もそうなりそうだな」
お前とは子を作らん。もし出来てもお前との子に王位は譲らん。制度的には、年齢にかかわらず正妻である王妃の子が優先されるとしてもだ。
「そう……ですね。お2人をお助けする為には、その方が良いかも知れません。私もフィデリア様を実の姉にも劣らぬ方と思っています。ユーリ様も我が子であればと思う聡明なお子。きっと貴方の後を立派に継いでくれるでしょう」
「お前……。自分で言っている意味が分かっているのか? お前など不要と言っているのだぞ」
アルベルドの余裕の笑みがついに崩れ、鋭い視線が王妃を貫く。
「ですけど、貴方とフィデリア様が通じユーリ様が貴方との子というのは、お2人をお助けする為の嘘なので御座いましょう? それが貴方の望みなら、私はそれに従います」
なぜ分かる? こいつ、こんなに頭が切れる女だったのか? 意外な言葉に思わず王妃を見詰めた。それとも、俺の策は、こんな女に見破られるほどお粗末なのか。
自分は、人より優れていると勘違いしているとんだ愚か者。今までやって来た事など全くの無駄なのか。簡単に見破られるものなのか。その考えに身体中が一瞬にして冷えた。
「フィデリア様はナサリオ様の妻です。ユーリ様はナサリオ様とフィデリア様とのお子です。フィデリア様がナサリオ様の事をお話になる時の愛おしげな眼差し。フィデリア様がナサリオ様の妻でないはずがありません」
「義姉上がナサリオ兄上を愛していないとは言っていない。兄上が不能な為、私が代わりを勤めたと言っているのだ」
フィデリアを、つい、義姉上と呼んでいるのにアルベルドは気付かない。
「いえ。ユーリ様はナサリオ様とフィデリア様とのお子です」
フレンシスの瞳は確信に揺るぎない。
「なぜそう思う」
「そうだからです」
「話にならんな」
何か考えがあるのかと思えば、ただの感か。馬鹿馬鹿しい。相手にするだけ時間の無駄だ。程度の低い女にすら見破られたと、自身の存在を否定されるほどの衝撃を受けただけに、その根拠がただの感では、拍子抜けを通り越し怒りすら湧き上がる。
「お前が信じようが信じまいが、ユーリが私の子だとはナサリオ兄上も認めた事だ。フィデリアとユーリが我が妻子と発表する。お前もその積もりでいろ」
思い通りの反応を示さぬ王妃に苛立ち背を向けた。
「ナサリオ様は確かにそう仰るでしょう。妻を愛する夫ならば、いえ、夫を愛する妻も、どんな事をしてでも伴侶には生きて欲しい。そう考えるはずです」
そんな事は分かっている。貴様に言われるまでもなく分かっている。どんな事をしてでも生きて欲しい相手がいる。俺にもいたのだ。それを奴らが奪った。だから、どんな事をしてでも復讐する。結局、こいつは俺の事を何も分かってはいないのだ。
「私は、貴方にも生きていて欲しいと思っています」
馬鹿が。口腔の中で呟き部屋を出た。なぜか、言葉にはならなかった。