第159:きしむ骨
クリスティーネ女王が襲撃され消息不明。そのような大事件が起こったにもかかわらず、リンブルク王都は平穏そのものだった。
流石というべきか、ダーミッシュの一族は女王襲撃の痕跡を完全に消し去った。襲撃犯達を全て始末し、警護の騎士達にも緘口令を敷いた。女王は巡幸の途中で体調を崩され、夜になって城に戻った事になっている。その後は部屋に篭り安静にしていると発表したのだ。
「女王陛下を襲撃した者は全て殺しましたが、女王陛下は、陛下を守っていた偶然通りかかった旅の者と共に深い谷底に落ち、行方知れずです」
「土地の者が言うには、谷底に流れる川は流れも緩やかで、落ちる時に谷の側壁に身体をぶつけなければ助かっている可能性もあると申しておりました」
淡々と報告する部下に、責任者のボダルトは苦虫を噛み潰す思いだが、薄くなり白くもなった頭部の下に表情は浮かばない。彼自身もそうであり彼の一族全ての者がそうともいえるのだが、任務で演技する時意外ではほとんど顔に感情が出ない。だが、失態を報告する時ぐらい、申し訳なさそうにすべきではないか。
ダーミッシュはゴルシュタットでベルトラムの傍にいる。リンブルクにいる一族を統括する彼は、ダーミッシュ直属の部下である。情報収集、隠密行動に優れた彼ら一族だが、それだけの能力を持ちながら彼ら自身で権力を握らないのは、国を治める能力は欠いているからに他ならない。
政治的にどうすれば良いかなど分からん。それがボダルトの正直なところだ。とにかく事態を隠し、ベルトラムの判断を仰ぐしかなかった。
幸い女王の世話をする者達は全て一族の者で固めている。王国の重臣達はベルトラムの息のかかった者達ばかり。ベルトラムの判断を仰ぐまで事態を隠す。との提案に反対はしなかった。そして急ぎゴルシュタットに早馬を発したのだった。
だが、女王襲撃の情報は、ベルトラムが知るより先にリンブルク国民が知るところとなった。他でもない女王の口からである。
片田舎の小さな教会で結婚誓約書に署名された女王の名に愕然としたラルフ・レンツことルキノだが、驚いたのは彼だけではなかった。ルキノが痛む腕で偽名を記し、名無しの女が誓約書の上に女王陛下の名を書すると、その場に居た唯一の第三者、若い神父もその名に驚愕し目と口とを大きく開いたのだ。
「じょ、女王陛下であらせられるのでありますか」
驚愕している割に、噛みそうな台詞を噛まずに言ってのけた神父に新婦が微笑む。
「はい。リンブルク女王です」
素直な彼女は素直に言い、そしてどうしてこうなったのかも全て話した。村は大騒ぎである。2人を助けた家のおかみさんも、品があり間違いなく身分のある女性だとは思っていた。などと言い出す始末だ。
賊に襲われた女王陛下を旅の騎士が助け、恋に落ち、片田舎の小さな教会で永遠の愛を誓う。まさに慣れ親しんだ浪漫小説の題材そのままの展開である。同じような話は数百、数千とある。それが現実に起こった。しかもこの村で!
「お2人をお城に送り届けるのだ!」
「そうだ。まだ賊がお2人を狙っているかも知れない。皆でお2人をお守りするのだ!」
村人達は浮かれお祭り騒ぎだ。途中の仕事、農作業すら放り出し、村で一番見栄えの良い馬車を彼らなりに精一杯飾り立てた。その周りをわらわらと囲み王都を目指したのである。その間、ルキノは茫然自失だった。もはや、実はリンブルク人のラルフ・レンツではなく、本当はランリエル人のルキノ・グランドーニなのだ。とは言えぬ。勇敢で決断力もある彼にして、頭が事態に追いついていなかった。
どうにかしてサルヴァ殿下と連絡を取らねばならない。だが、自分は動けない。身分を明かさず殿下への言付けを人に頼む事も出来ない。八方塞である。
これがウィルケスであったなら、家で待つ両親にも伝えねばなりません。自らの口で伝えたいのです。必ず帰ってくるのでしばらく待っていて下さい。と花嫁の頬に口付けし、馬に跨り颯爽と立ち去ってランリエルに向かうところだが、ルキノはそこまで女性に慣れておらず、愛する妻を騙そうという発想もない。偽名を使い、その意味では既に騙しているのだが、それとはまた別の話だ。
妻は馬車に揺られながら、今も彼に寄り添い腕を絡めている。夫以外には死んでも指一本触れさせない。そう言っていた妻が、自分に触れるのを楽しむかのようだ。その妻から離れがたい。その想いも、無意識にルキノの判断に影響していた。
こうして2人を乗せた馬車とそれを囲む村人達はリンブルク王都に辿り着いた。ここ数年大国の覇権争いに巻き込まれ混乱していたが、元々は小さいながらも、その大国に囲まれているという地理条件から様々な文化が流れ込み昇華し、文化大国とも呼ばれるリンブルクの都人だ。田舎から来た小汚い集団に奇異の視線を向けた。
だが、田舎者の集団は、それ故に得意げに言い放った。
「俺達は女王陛下をお連れしたのだ!」
と、自分達を馬鹿にする洗練された都人が驚くのを楽しんだ。
その後も、襲撃された女王陛下をお守りした騎士をお連れした。お2人は夫婦となられたのだ! と、言いふらしながら王宮を目指す。途中で王宮から役人やら王都を守る軍人やらがやって来たが、女王本人が馬車から顔を出し、彼らのいう事が本当であると証明すると、もう止まらなかった。
間違いなく本物と分かり、しかも現実の浪漫小説。それは洗練されたリンブルク婦女子にとっても夢の出来事だった。そうなって来ると、この田舎者の集団が、それだけに光り輝く。高貴な女王陛下が、みすぼらしい者達に祝福されて王都に凱旋する。なんと素晴らしい事なのか。
ゴルシュタットの力で強引にリンブルク女王になった悪女とクリスティーネを見ていた者達ですら、自分を救ってくれた旅の者の妻になった彼女に、なんと誠実なのかと好感を持った。
一行を一目見ようと人々が集まり、しかも一行は得意げにあえてゆっくりと進んだ。女王は馬車から民衆に手を振り、ルキノも妻に促され手を振るが、頭はそれどころではなく腕の痛みにすら気付かない。もはや、後に引ける状況ではなかった。
馬車は長い時間をかけ王宮に辿り着き、女王とルキノは王宮に入った。その時に村人達に振り返り優雅に膝を折って感謝を表す。ルキノもその横で一礼する。村人達はどう返すのが礼儀にかなうのか分からず、ぎこちなく頭を下げた。それを見守る民衆から歓声が上がった。
その後、王家直轄領だったその村は、数百年前の戦いで傷付いた国王を守った村の故事にならい、税金と賦役を10万日の免除との確約がなされた。村人達の労に十分以上に報いたのである。
王宮で問題になったのはルキノことラルフ・レンツの処遇である。小さいとはいえ正式な教会で結婚誓約書に署名し神父が承認した以上は2人は夫婦である。その事実は認めるしかない。だが、女王の夫は国王なのか。あくまで女王の夫なのか。クリスティーネはリンブルク史上唯一の女王だ。それだけに前例がなく、官僚達も慣習に逃げ道を見出せない。
「女王である私の夫なのだから国王なのです」
クリスティーネのいう事も分からないでもない。だが大臣達は渋った。国王とは名だけではなく権力も付随する。その権力は絶大でどこの馬の骨か分からぬ者に与えてよいものでは無い。女王陛下をお守りしたその義侠心と功績は認めるし、2人の愛情を疑う訳ではない。だがそれは、国王としての資質を保障するものではないのだ。
この時ルキノは決断力を欠いていた。流石に国王になるのは不味いのではと思い、
「私は王位など望んではいないのだ」
と妻に言ったが、彼女の方は、夫は国王になるに相応しい人なのだ。と信じて疑わない。そして、妻を裏切る裏切らないとは別の次元として、忠誠心篤い彼は、自分がリンブルク王になった方がサルヴァ王子に利するのだろうか? という意識が皆無ではない。その迷いもあった。
「リンブルク国王は、貴方しか居ませんわ」
と断言されるとそれ以上の反対は出来なかった。
とはいえ、国家は女王の私物ではない。女王がいくら主張しようとも、それを支える貴族達が、うん、と言わねばどうにもならない。しかも、リンブルクの上に立つベルトラムには早馬を向かわせてはいるが、その返答もまだだ。独断で決められるものではない。はずなのだが、それに異議を唱える者がいた。シュバルツベルク公爵である。
「ゴルシュタット=リンブルク二重統治の統括者ベルトラム殿の権限は軍事と外交。内政はそれぞれの国で行うのが制度のはず。国王即位は内政でござろう。ベルトラム殿の意見を聞く必要はないはず」
ベルトラムを無視しろとの言葉に、協議の場に集まっていた貴族、大臣がざわめいた。絶対の権力者に反抗するとの言葉に顔が青い。
能力でベルトラムに敵わないと思い知らされ、全面協力をする決意をした公爵だが、全面降伏ではない。ベルトラムと敵対する気はないが、ベルトラム政権下での影響力は残して置きたい。リンブルクの支配比率をベルトラム10割にする訳にはいかない。何割かはリンブルクに残して置きたいところだ。
「ラルフ・レンツ殿はリンブルク貴族だとか。クリスティーネ女王はゴルシュタット人。両国人が手を携え国政に当たれば、両国の関係もますます深まろうというもの。よろしい事ではないか」
暗に、ゴルシュタット人の国王を祭り上げられるよりはマシ。と匂わせた。リンブルク貴族ならばリンブルクの為に働くはず。と愛国心を期待するほど公爵は甘くはないが、今はまだベルトラムの手垢はついていないだろう。リンブルク側に引き込めれば優位に働く。ゴルシュタット側に引き込まれたところで、今まで通りと言えば今まで通り。損ではない。
「確かにその通りですな」
と貴族達も賛同しつつ
「公爵がそう仰るならば」
とシュバルツベルク公爵の陰に隠れるのも忘れない。
こうしてリンブルク王国国王ラルフ・レンツが誕生したのだった。
この段階なってもルキノはサルヴァ王子と連絡を取る手段を持たなかった。女王の夫となり、国王となって警護の騎士が周りを固めているが、その者達は使えず、それどころか監視されているようなものだ。
だが、ラルフ・レンツがリンブルク国王に即位したという報がランリエルに伝わらぬはずがないのだ。殿下は驚き、連絡を取ろうとするに違いない。ここまでくれば、向こうから連絡が取ってくるのを待つしかないか……。
「どうなされたのです?」
妻の声に我に返った。
「いや、なんでもない」
と誤魔化す。
リンブルク国王夫妻は寝所を1つにしていた。夫以外には指一本触れさせない。触れられれば死ぬとまで言っていた彼女が、寝ている夫の足に自分の脚を絡ませてくる。
「寒い日など、お父様にも、こうして暖めて貰っていました」
妻はお父上と仲が良いらしく、よくお父上の話をする。義母は妻を産んだ時に亡くなったという。それだけに、お父上を慕う心が強いのだろう。
お父様か……。
妻のいうお父様とは、言うまでもなくベルトラム・シュレンドルフ。ランリエルの使者ルキノ・グランドーニとして顔を合わせたばかりだ。それをどう説明するか。それも大きな問題だ。
誤魔化せる相手ではない。ご息女と出会ったのは全くの偶然であったと事実を話すしかない。それを信じて貰えるか……。
実際、ルキノの手に余る事態だ。ベルトラムが怒りを表すのか、笑って済ますのか。前回会った時の度量の深さから見れば、笑って済まされそうな気もする。だが、妻の話を聞く限り、どうやらかなり過保護に育てられていたようだ。あのベルトラム殿がと思うが、いかな大人物も子の親という事か。そうなると、予測が付かない。
なるようになるか。
そう切り捨て、開き直れば、横には夫に無邪気に寄り添う妻がいる。だが、健康な成人男性がそういつまでも無邪気ではいられない。矢傷の痛みもものともせず、妻との戯れが色づくのはすぐだった。
ベルトラム殿と対決せねば。そう決断したルキノだったが、それよりも前に思わぬ、しかし言うまでもない相手との対峙を求められた。ラルフ・レンツの両親である。ルキノは彼らの息子と名乗っている。身分証明もラルフの故郷に人を遣わし、間違いなくラルフ本人だと確認した。カーサス伯爵がラルフの手紙を入手し、筆跡も1ヶ月みっちりと訓練したのだ。
数年前に家を出たきり行方知れずの息子が、突然リンブルク女王の夫となったとの連絡に彼らは驚天動地の思いだ。行方知れずとなった息子を心配し実際の年齢よりめっきりと老け込んだ母は、驚きのあまりなのか喜びのあまりなのか本人にも分からず数日寝込んだ。
彼らばかりではなく、あの放蕩息子が女王陛下を助け国王になったと、故郷では大騒ぎだ。その騒ぎを嫌い、やっと起き上がった母と父は人目を避けるようにして村を出て、リンブルク王都を目指した。
だが、ルキノは会わなかった。会えなかった。会えるはずがない。自分はラルフではないのだ。
「家を出てそのまま人知れず暮らすはずでしたが、思わぬ事で世に出てしまった。今まで手紙も出さず会わせる顔がない。いずれはとはと思いますが、今はまだ心の整理が付きません。会うのは今しばらく待っては頂けないでしょうか」
老いた両親は肩を落とし落胆したが、気持ちは分かる、何年も待ったのだ。もうしばらくくらいと納得してくれた。そしてそのまま王都に用意された屋敷に宿泊している。
ラルフのご両親にはいずれ本当の事を言わねばならない。それもそれほど遠くない未来にだ。あまり両親と顔を合わせるのを先延ばしにすれば、怪しむ者も出るだろう。この時代、筆跡での本人確認はかなり信頼させる。ラルフの筆跡を身に付けているのでしばらくは大丈夫だが、それにも限度はある。だが、取り敢えずはやり過ごした。
そしてベルトラムである。
ついにゴルシュタット=リンブルク二重統治の統治者。その両国の実質的な王。そして妻の父。ラルフ・レンツとしては、初めて顔を合わせた時、ベルトラムは意外なほどにこやかだった。
「娘からの手紙を読んだ。貴公が如何に勇敢であり高潔か騎士であるかを延々書き連ねておったわ。読んでいるこちらが気恥ずかしくなるほどだった」
娘が良き婿を得たと、為政者ではなく、娘の幸せを喜ぶ、ただの父親の姿があった。まるでランリエルの使者として来たルキノ・グランドーニだと気付いていないかのようだ。ベルトラムの部下の騎士達も初めて見る主人の姿が信じられず、視線を向け合っている。思いがけない友好的な雰囲気にルキノもほっとした。
「恐れ入ります。ご息女こそ、この世にこれほど身を保つに命を賭け、そして勇敢な女性が居たのかと思うほどです。気紛れをおこし私などに心を向けて下さり、これ以上の果報はありません」
「ああ。命を賭けて惜しくない男子だとも書いてあったな」
「恐れ入ります」
新たに息子となる男と義父となる男の顔合わせは順調に進んだ。そして、娘の事で言って置きたい事がある、と前置きした義父が警護の者達すら下がらせたのである。
やはり来るか。
ルキノにも分かっていた。2人きりとなってからが本番なのだ。これからラルフ・レンツとしてではなくルキノ・グランドーニとしての対決の始まりである。ベルトラム殿、いや、義父は怒っているか。怒らないはずがない。娘の婿が身分を偽っている。これで平穏で居られる父親などいない。
とはいえ、義父は大陸でも知られた大人物。裏の事情というものの存在は理解できるはず。そう考えれば、事情を話せば分かってくれるのではないか。
「義父上≪ちちうえ≫の言いたい事は分かります。偽名を使う者がご息女に近づくなど言語道断。私も、偽名を使い婦女子に近づく男が居ると聞けば、その男を疑います。ですが――」
その先が言えなかった。優秀な騎士たるルキノに避ける間も与えず、ベルトラムの腕が伸びた。時間を切り取ったかのように、気付けば、大きく力強い手に顔面ごと頭を鷲掴みにされていた。
成人男性にとって頭に手を置かれるのは屈辱。いや、子供ですら同世代の者に頭に手を置かれれば屈辱だ。男ならば。しかも置かれるどころか鷲掴みだ。振りほどき剣を抜いて当然の侮辱。だが、その屈辱を感じる前に、冷たく燃える声が肛門から頭の天辺まで貫く。
「誰が義父だと?」
ルキノは自身の頭蓋骨が軋む音を聞いた。