第15:伯爵領
サルヴァ王子から指令を受けてカルデイ帝国に入国したサントリクィドは、早速カーサス伯爵の館へと向かった。
訪問を告げるとすぐに屋敷の中へと通された。現在カルデイ帝国で、王子の使いと名乗る者に会わない貴族など居ないのである。
「よくおいで下さいました」
伯爵はソファを手で指し示し、サントリクィドへ座るように促すと、自身もテーブルを挟んで対面するソファへとその身体を沈めた。サントリクィドも勧めに従い、ソファに座りながら伯爵を観察する。
顔はサントリクィドよりも老けているが、これは彼が童顔の為である。実際は同じ年頃と言った所か。だがその黒い髪は年の割りに白いものが多く、窓から漏れる日の光に照らされ時おり銀色に輝いた。
表情は引き締まり愚鈍な気配は感じられない。どうやら目先の欲だけで侯爵を見捨てた訳ではなさそうだ。気を引き締めなくては成るまい、サントリクィドはそう判断した。
サントリクィドが伯爵を観察しているのと同じく、伯爵もサントリクィドを観察していた。お互い表面上は平静を装い、頭は推測、分析に波打っている。
先に分析を完了したのか、部屋の主としての責任感からか、おもむろに伯爵が口を開いた。
「それでサルヴァ殿下は私にどのようなご用件で御座いましょうか? コルデーロ公爵に不当に占拠されている我が領地の権利を認めて下さる。と言うならば嬉しい限りなのですが」
「いえ。それが……」
サントリクィドはあえて言葉を濁す。交渉相手の主張を引き出す彼の常套手段だった。はっきりとこちらの主張は口にせず、相手の言い分のみを引き出すのである。
「出来ないと? 私は中立を守ったのですぞ? 中立の者の領地を占領するなど、無法者のする事ではないですか。それが許されるなら、帝国貴族の領地はすべて切り取り放題という訳ですかな?」
伯爵の言い分は確かに正しい。ハシント侯爵に組しなかった貴族の領地も占領して良いのなら、そういう事になる。
「決してそういう訳では……」
「ならば一国も早く公爵に、我が領地から軍勢を撤退するように。と通達して下さい。それですむ話ではないですか」
「しかし何分公爵様はあくまで公国の公主であり、ランリエルが命令できる立場では……」
その言葉に、伯爵は皮肉な笑みを湛えた。その笑みの意味はサントリクィドにもよく分かる。ハシント侯爵の討伐を公爵に命じておきながら何を言っているのか! その笑みは雄弁にそう語っていた。
もっともサントリクィドとて、相手の皮肉に一々反応していては交渉などやってはいられない。構えてその皮肉な笑みに気付かないふりをする。どうやら伯爵の主張は終ったようなので、こちらのカードを見せる番だ。ちらりと、ではあるが。
「命令は出来ないまでも、公爵様には自重して頂くようにお願いはしております。ですが、それでも公爵様は軍勢を撤退させぬので御座います」
「そうは言われても、簡単に領地を諦められるものではありません。ましてや正当性はこちらにあるのですから」
理屈の上では正しい伯爵の言い分に、さらにカードをちらりと見せる。
「はい。伯爵の言い分はもっともです。サルヴァ殿下も伯爵が不憫であると心を痛めておいでです」
「そのお心には感謝致しますが、とはいえ公爵の軍勢を引き上げさせて頂ける訳では無いのでしょ?」
「はい。サルヴァ殿下もそればかりは難しいと……」
サントリクィドの言葉に、それではまったく意味が無いではないか。というふうに伯爵は大きくため息を付いた。
落胆した表情の伯爵にサントリクィドは内心にんまりとし、カードをすべてめくった。落胆したところに手を差し伸べてやるのが効果的というものである。
「ですがサルヴァ殿下も何かしらのお力になりたいと、公爵が占領している伯爵の領地に対して、何らかの保障をお考えとの事でございます」
その言葉に伯爵が片眉を上げ、探るような視線を彼に投げかけた。
「それはありがたいお話ですが、どのような保障をお考え頂けておるのですかな?」
サルヴァ王子からは相応の金銭とは聞いているが、伯爵の要求が他に有れば報告するようにも言われている。ここは構えて伯爵の要求を聞いてみる。
「伯爵こそ、どのような保障ならばご満足頂けますでしょうか?」
この時伯爵の顔に微かに笑みが浮かんだ。その笑みはすぐに消えたが、サントリクィドは見逃さなかった。そして背筋が凍りつく。
その笑みはサントリクィドがよく知っている笑みだった。彼はその笑みを実際に見た事は無かったが、どのような時に作られる笑みかを肌で実感していた。
カーサス伯爵からの要求を携え、サントリクィドはランリエルへと急いだ。サルヴァ王子からは伯爵が金銭以外を要求すれば連絡を寄越せと言われ、彼自身に戻って来いとまでは言われてはいなかった。だが自身でサルヴァ王子と話す必要を感じたのだ。
カーサス伯爵が浮かばせた笑み。それはサントリクィドが交渉相手に対し「引っ掛けてやった」時に浮かべる笑みと同じものだったのである。
ランリエル王都フォルキアに戻ると、早速サルヴァ王子に面会を求め王子もすぐに目通りを許す。
2人はサルヴァ王子の執務室で顔を合わせた。重厚な机に両肘を付き両手を組み合わせた王子は、探るように、というには鋭すぎる視線をサントリクィドに向ける。
「おまえ自身が戻ってくるとは、伯爵の要求とはそれほど意外なものだったのか?」
早速本題に入った王子に、サントリクィドは俯き加減に答えた。
「はい。正直私には思いもよらぬ要求で御座いました」
その言葉に王子は興味深げな笑みを浮かべた。自分の腹心であるサントリクィドの予想を超える要求とは、どのようなものなのか。
「それでその要求とは?」
「カーサス伯爵は、ランリエルに亡命を希望するとの事で御座います」
「亡命だと!?」
確かに伯爵の要求は予想できないものだった。領地が惜しくて伯爵は公爵に抗議していたのである。亡命しては、その領地どころか本来の自身の領地すら手放す事になるではないか。
「まさか、公爵に命を狙われると脅えてランリエルに逃げ込もうというのではあるまいな? 自分から公爵に敵対しておいてそのようでは、拍子抜けも良いところではないか」
だがサントリクィドは王子の問いに首を振った。伯爵の要求はそのような直線的なものではないのだ。
「伯爵は侯爵から譲り受けた領地はともかく、自領まで手放す気は御座いません。自領を保有したまま、ランリエルに亡命したいと申しております」
「それは随分都合の良い話だな。自分の身は安全なランリエルに置き、領地は遠隔統治すると言うのか」
あまりの都合の良い伯爵の言い分に、サルヴァ王子の顔が不快げに歪む。とはいえ心情的にはともかくその程度の要求なら飲んでやっても良い。腰抜けと笑われるのはどうせ伯爵なのである。だが王子の言葉に、サントリクィドは再度首を振ったのだった。
「いえ。伯爵は自領に留まるとの事です」
「なに? それはどういう事だ?」
亡命とは政治的、思想的な問題で自国の外へ逃げる時に使われる言葉である。帝国内に留まるなら亡命とは言わない。
さすがにサルヴァ王子にも、伯爵の要求は理解しかねた。これでは要求と行動がちぐはぐではないか。
サントリクィドは大きく息を吐くと、次に伯爵の要求を一気に吐き出した。
「伯爵は、自分の領地をランリエル領に加えて頂きたいと申しているのです。そして、帝国からランリエルに亡命した自分はランリエル領である自領に留まるのだと」
なんだと! 伯爵の要求に王子は一瞬息を飲んだ。しかし、伯爵の要求と現在の情勢を合わせ、新たな絵を頭に描いた王子はすぐにその意図を察した。
こいつは……先手を打ってきたと言う事か。
現在ランリエル国内では、バルバール侵攻を中止し、帝国の独立国や貴族から領地を取り上げろと言う声が大きくなっている。
帝国統治を懸念するサルヴァ王子は、その声を統治に支障がでるものとして押えようと考えているが、まだそれは実行されていない。そもそも王子とて、将来的には帝国の独立国や貴族から領地を取り上げる事を計画しているのだ。
伯爵は、ランリエルによる帝国完全併呑の前に、ランリエル内での自分の立場を強化しようと目論んだのである。
亡命しランリエル貴族の一員ともなれば、先祖代々のランリエル貴族とは差があるものの、帝国内の独立国の領主や、ランリエルに味方する帝国貴族、などといった中途半端な者達よりはよほど立場は強い。
ランリエルによる帝国の統治が強まるその時、伯爵は支配者の列に並び生き残る積もりなのだ。
サルヴァ王子の顔に不敵な笑みが浮かんだ。帝国にもなかなか面白い奴が居るではないか。
「いいだろう。伯爵の要求を飲もう」
王子が笑みを浮かべながら命じると、サントリクィドは
「かしこまりました」と一礼早速帝国に向かうべく、執務室を後にしようと背を向けた。だがその背に王子が声をかける。
「伯爵に、一度ランリエルにお招きしたいと伝えてくれ。伯爵がランリエル貴族の一員となった祝いの宴を開かせて頂きたいとな。伯爵もランリエル貴族となるならば、顔を売っておくのも悪くはあるまい」
サントリクィドは王子に向き直るとまたも
「かしこまりました」と返答し、改めて背を向けた。そして今度こそ執務室を出て帝国へと向かったのだった。