第157:運命の出会い
その日サルヴァ王子は、焦燥にかられていた。執務室で机に肘を付き、深刻げな表情で頭を抱える。ゴルシュタット=リンブルク二重統治の統括者ベルトラム・シュレンドルフへの使者として向かわせた元副官の腹心ルキノの消息が途絶えたのだ。
とにかく他国に知られずベルトラムと接触する。それが今回の目的だった。他に随行を付ければ、その者の落ち度で身分が知れる可能性もあり、ルキノ1人で向かわせた。とはいえ、その裏では本人にも知らせず、密かにカーサス伯爵の手の者が護衛に付いていた。
にもかかわらず、ベルトラムと面会し使者としての役目を果たした後、リンブルクで厄介ごとに巻き込まれ、伯爵の手の者も見失ってしまったという。
「何をやってるのですか。あの人は」
「賊に襲われていた女性を助けに入ったという事だったが……」
「女性を助けるのも大事ですが、自分の役目というものをもっと考えるべきです」
声を荒げ憤慨するが、ウィルケスも女性には人一倍優しい男だ。それに比べルキノの方が普段は女性に冷たく見える。ウィルケスが女性に優しいのは表面だけで、実は冷酷という訳ではない。強いて言えばルキノの方が男尊女卑の傾向があるくらいで、だからこそ女性は守る対象と考えているとも言えた。
「カーサス伯爵に命じ、引き続きルキノの消息を探らせている。賊などにやられる者ではない。多少傷を負い、どこかで静養しているのだろう」
「我が国との関係を隠しているので、人を使って連絡を取る事も出来ないのでしょうが……」
伯爵の手の者が密かに警護しているとルキノにも伝えておくべきだったか。だが、ルキノはあくまで武人であり役者ではない。知っていれば何気ない事で、伯爵の手の者の存在が他に露見する可能性もあった。
とはいえ、今ここで出来る事などない。心の重石となりながらも、この話はここで終わり、その重石を忘れる為かのように王子は職務に没頭した。その後ろではウィルケスが静かに見守る。そしてルキノの危機を忘れかけたころ、王子の目が1枚の報告書を捕らえた。
急ぎ伝えなければならない情報なら、伝令を部屋まで通し直接話を聞くが、そうでないものは書面で届く。その文面に記された名が、王子の心に引っ掛かった。
「ラルフ・レンツという名に聞き覚えはないか?」
「聞いた事がある気がしますね。その方がどうかしたのですか?」
「ベルトラム殿のご息女でリンブルク女王のクリスティーネ・シュレンドルフ陛下と結婚し、リンブルク王に即位したそうだ。我が方からも大手を振って祝いの使者を送れるし、それはそれで願ってもないのだが、どうも聞き覚えのある名前だと思ってな」
「確かに、聞いた事がある名前で……あ」
愕然とするウィルケスに王子も気付いた。聞き覚えがあるはずだ。自分で口にした名前なのだ。
「何をやってるんですか。あの人は!」
執務室にウィルケスの絶叫が轟いた。
その時ルキノは、ベルトラムとの面会を終えランリエルへの帰途についていた。誰にも怪しまれぬまま使者の役目を果たし、当初の目的はほぼ達成された。帰りに捕まっては元も子もないが、もしケルディラに捕まり、いざともなれば自害すれば良い。そうすれば、自分がランリエル人だと露見する事はない。
任務の為ならば死をも厭わぬルキノだが、その彼にしてベルトラムとの面会を思い出せば今でも背中が冷たい汗で濡れる。威圧とも違う。むしろベルトラムは終始笑みを浮かべていた。だが、それだけに格の違いを思い知らされた。
確かに初めから格が違うのは分かっていた。武人として名を馳せたのち文官に転じて宰相にまで上り詰め、普通ならばそこで人臣位を極めたと人生の頂点となるはずが、その更に先に行った男。サルヴァ王子の幕僚の端に名を連ねるだけの自分とは比べ物にならない。現時点ではだ。
巧みにランリエル側から優位な条件を引き出そうとするのを、自分にはそれを決定する権限は与えられておりませんと言い続けるのが精々だった。尤も、ルキノ本人の自己採点ほど、ベルトラムが付けた点数は悪くはなかった。ベルトラムの方こそ、言質を取れずに逃げられたかと苦笑を浮かべたのだ。
生粋の武人であり、下手に外交をしようなどと考えていなかったのがかえって功を奏した。これがなまじ優秀な外交官ならば、それこそ良いように料理されていた。
そして、そんな事を考え馬に揺られている時、運命の女性は馬車に揺られていたのだった。
「リンブルク女王となったからには、民の暮らしを見なければなりません」
彼女を補佐する者達は、またかという顔だ。確かにその心構えは立派だが、彼女の父であるベルトラムからは、なるべく控えさせるように命じられている。だが、クリスティーネ女王の言葉も無碍には出来ない。結局、月に1度、各地を回る事となった。
ゴルシュタット=リンブルク二重統治体制は、形式として両国は同格だ。しかし実際はどうかと言えば、実はなんとリンブルクの方が優勢なのだ。過去にはゴルシュタットに抑えられていたシュバルツベルク公爵を筆頭とするリンブルク貴族達だが、今まで敵対していたベルトラムに対し、逆に全面協力する事で勢力を拡大したのである。
リンブルクにとっては万々歳だが、一国の人民が全て同じ意見のはずはない。特にゴルシュタットとの戦いで親族が命を落とした者もおり、その者達はベルトラムを、そしてベルトラムの力で王位に就いたクリスティーネ女王を憎んでいた。
「いいか? ベルトラムの娘は月に1度、馬車に乗り巡幸に出る。それを待ち受け襲撃するのだ」
「うむ。どうやら領内を順番に回っているようだ。ならば今回はここに向かうはず」
地図を指差す男の周りに十数名の男達が居た。彼らはベルトラムに対抗し家を取り潰されたリンブルク貴族達である。クリスティーネ女王の行動を逐一調べ襲撃の機会を窺っていたのだ。女王の側近達は、襲撃に備え巡幸の回数を減らしたのだが、それがかえって行動を読みやすくしたのは皮肉である。
「ベルトラムの娘に配偶者はおらん。あの女さえ殺せば、奴が掲げたゴルシュタット=リンブルク二重統治などというふざけたものに大打撃のはずだ」
「しくじったなベルトラム」
「ああ。早々に腹心の部下とでも結婚させ、配偶者とすれば良いものを」
実際、クリスティーネはベルトラムにとって唯一の弱点だ。偶然すら操り策謀を駆使する彼の手腕は、無謬すら感じさせ、サルヴァ王子やアルベルドをも上回ると思わせるほどだ。しかし、その彼にしてクリスティーネは虚空である。
完璧に仕上げられた絵画の一点に、他の風景と交わる事のない漆黒。完全に切り離された存在。そしてそれを彼自身、自覚せずにいた。
クリスティーネをリンブルク王座に据えた。それ自体、策略に娘を巻き込んだともいえるが、それだけではなく、フリッツ王子と一度婚約させてから王子に浮気させ、更に男に幻滅した娘の心を自分に引き寄せようという計算と、娘をこの大陸唯一の女王にするとの願望。それが無意識に合わさった結果だ。
それがなった今、クリスティーネを更に道具とする意識がベルトラムからは抜け落ちていた。娘と腹心の部下を結婚させるなど、考えた末に拒絶したのではなく、賢人ベルトラムともあろう男が、発想すらしなかったのだ。
そのベルトラム唯一の弱点を、彼よりも遥かに劣る男達が、今まさに突こうとしていた。クリスティーネ女王が乗る馬車の一行が目的の村に向かう山道に入った。警護の騎士は百名。襲撃する者達は主だった者は十数名だが、なけなしの金をはたいて雇った者達は百名を越える。それが茂みに潜み女王一行を待ち構えていた。奇襲する事を思えば、圧倒的に有利だ。
「まず、馬を狙って奴らの足を奪え」
矢を構える男達に命じた。奇襲により勝利は間違いなし。足さえ奪えば、多少抵抗を受けてもいずれ討ち取れるのだ。
「放て!」
一斉に矢が放たれ、次の瞬間には半数以上の者が弓を捨て、剣を抜いて切り込んだ。残った者達は次の矢を番える。
「賊か!」
馬を射られほとんどの者が落馬した。だが、彼らとて女王を守る為に選ばれた騎士。配置に隙はなく女王の馬車を引く馬は他の騎士が盾となり無傷だ。落馬した隊長が、痛みに耐えながらも叫ぶ。
「女王陛下を逃がせ! 馬が残った者は陛下をお守りしろ!」
女王の馬車と、生き残った十数騎が突破を試みる。立ち塞がる賊を蹴散らすが、次の矢が彼らを襲う。しかし、騎士は身を挺して馬車を守る。次第に数を減らした。だが、不思議な事に放たれる矢の数も徐々に減り、ついに馬車は数名の騎士と共に囲いを突破したのだった。
何とか窮地を脱した女王だったが、馬車の中では恐怖に震え、付き添いの侍女にしがみ付いた。
「女王陛下。大丈夫です。賊の囲いを抜け出せたようです」
この混乱にもかかわらず侍女は落ち着いた声だ。勿論、密かにクリスティーネに付けられたダーミッシュの部下である。震えてしがみ付く女王の頭を撫でて落ち着かせながら、騎士の不手際をなじっていた。
森の中の狭い道で難しかったとはいえ、無理にでも馬車の方向を変え元来た道を戻るべきだった。これでは城から遠ざかるばかりだ。それに警護の騎士達以外に、ダーミッシュの部下もいた。ある程度の距離を置いて密かに警護していたのだ。その者達が賊の射手を片付けた。だが、彼らも人間。全力疾走する馬車には追いつけない。それらとも離れた。
そして、それ以上に――。
「ぐぅぁ!」
「敵襲だ!」
馬車の外から聞こえる騎士達の叫びに侍女が舌打ちする。当たり前だ。突破された時の事を考えぬ訳がない。敵が待ち構えていた。
「女王様! 早くお脱ぎになって下さい!」
「は、はい!」
ダーミッシュからは万全の配慮をするように言われていた。襲撃を受け女王1人を逃がさなければならない状況も想定していた。女王然とした金銀の飾りをあしらった純白の衣装の下には、地味な庶民の服が重ね着させていたのだ。そして代わりに自分が白い衣装を身に付け、頭巾の中で束ねられていた髪をほどく。その髪はクリスティーネと同じく赤かった。素早く頭巾を女王に被せる。
ついに、馬車を引く馬と御者も射られ乱暴に止まる。その瞬間、女王の姿をした侍女がクリスティーネを馬車から突き落とした。
「きゃあ!」
「貴女は逃げなさい!」
乱暴に突き落とされ、いつも優しい侍女の厳しい口調に、戸惑う女王に
「早くなさい!」
と重ねて命じる。女王は後ろ髪を引かれるようにしながら森の中に消えて行く。
その後すぐ、所々欠けた甲冑を身に着けた如何にもならず者といった男達が、剣を片手に馬車を取り囲んだ。だが、彼らからもクリスティーネが逃げたのは見えていた。
「おい! 女が逃げたぞ!」
数名の男達が、一瞬馬車に眼をやり追いかけ出す。
「お待ちなさい!」
馬車の扉を開け放ち、純白の衣装を纏った赤毛の女が飛び出しひれ伏した。ならず者達の目の色が変わり、クリスティーネを追いかけかけた男達の足も止まった。残りの男達は純白の衣装を纏った女を取り囲む。
「彼女は私の侍女です。貴方達の目的は私なのでしょう。彼女は逃がしてやって下さい」
「馬鹿野郎。逃がす訳ねえだろ」
男達の大半は没落貴族ではなく、雇われたならず者だ。高貴な女王の懇願にも心動かさない。知った事かと、再度逃げた女を追いかけ出す。思わず足を止め出遅れたが、なに、相手は所詮は女。今からでも十分追いつく。
「どうか。私を如何様にもしてかまいません!」
女王の懇願には心を動かされなかったならず者が、欲望に心動かした。初めから、生け捕りに出来れば嬲る積もりだった。そして、どうせなら女はもう1人居た方が良い。そう思って逃げた女も捕らえようとしていた。
だが、考えてみれば侍女は所詮ただの女。それよりも、一生に一度もなかったはずの一国の女王への一番乗り。それの方が遥かに価値があるではないか。
「へ。じゃあ、好きにさせて貰うぜ。俺が一番乗りだ」
「おい。そりゃねえだろ」
彼女を取り囲んだ者達からすれば、自分達こそ一番乗りの権利がある。一旦、侍女を追いかけたなら、そのまま侍女を捕らえに行くべきだ。この集団の中には、名目上の指揮官たる没落貴族の坊ちゃんも居るのだが、彼らの獰猛さに押され居ないのも同然だった。それどころか、彼らのお零れに預かり女王を頂こうとする有様だ。
「女王様、直々のご指名なんだよ」
「関係あるか、この馬鹿野郎!」
馬鹿な男達だ。まあいい。この者達に嬲られ、そして殺される間、時間を稼げる。これで女王様は逃げられる。私は任務を果たしたのだ。これで良い。平伏したまま、自分を巡って争い同士討ちすらしかねないほどの怒鳴りあいを耳にし、女王に扮した侍女は満足の笑みを浮かべる。
「お待ちなさい! その者が侍女です! 私が本物のクリスティーネです!」
ば……か。
愕然と顔を上げるその視線の先に、逃げたはずのクリスティーネの姿があった。
どうせ助かりはしないのだ。これでは自分は無駄死にではないか。この馬鹿な娘の為に!
「違います! 私が本物のクリスティーネです。その者は私の身代わりになろうとしているのです!」
ならず者達は見合わせたが、すぐに、しょうがねぇな。というふうに首を回しゴキゴキとならした。
「じゃあ、お前らはそっちで、俺達はこっちだな」
と、当初の担当通り、クリスティーネを追いかけようとしていた男達が、彼女に近寄る。
「わ、私に触れないで! それ以上近寄るなら、し、死にます!」
そう言って辺りを見渡し、射殺された騎士の物であろう剣を拾って構える。その様子に彼女を捕らえようとしていた男が、仲間に振り向き肩をすくませ口笛を鳴らした。鳴らされた男は苦虫を噛み潰した顔だ。
「おいおい。こっちが正解かよ。ついてるぜ」
クリスティーネ女王が、今まで男性に触れた事もないのは噂になっていた。その誰も触れた事のない身体を陵辱する興奮に、男の顔が下品に歪む。
「ち、違います。私が本物のクリスティーネです!」
侍女が叫ぶが、もはや誰も彼女に見向きもしない。彼女を取り囲む男達ですら、本物の女王様が陵辱されるのを見物し、その次は自分の番。侍女などその後で良いという態度だ。
やむを得ぬ。一か八か。
いきなり立ち上がった侍女が、後ろに居た男の剣を、男の手ごと掴む。何かしらの技なのか、激痛に見舞われた男が剣から手を離すと、侍女が流れる動作で男を切り捨てた。更に反対側にいた男を切る。男達は油断し反応出来ない。
走りながらもう1人。女王と男達の間に立ち塞がろうと駆ける。もう少しだ。
「かはぁ」
後ろから切られた。分かっていた。隙を突いても精々2、3人切れれば良い方。まともにやって勝てるならば、初めから戦っているのだ。血を吐き、女王にしがみ付いた。
「お逃げ下さい……」
「い、いや! いやぁぁっ!」
何が嫌なのか。女王自身分からず叫ぶ。泣き叫んだ。大粒の涙が侍女の顔を濡らした。
そうか。私が死んで泣いてくれるのか。泣いてくれる人がいるのか。そんな人がいるとは思わなかった。
侍女は、隠密の部族の女として生きていた。死んでも代わりがいる。自分が死んでも親すら悲しまぬ。だが、目の前に自分の為に涙を流す者がいる。
良かった。この女王が死ぬのを見ずに死ねて良かった。この娘が汚されるのを見ずに死ねて良かった。もう、それしか良かったと思える事がない。
「貴様ら、何をしている!」
轟く怒声と馬の嘶き。だが、死にゆく侍女が目を向けると、その声の主は思いの外、まだ遠くにいた。馬を全力疾走させ、矢のように駆けていた。
どこの誰かは知らない。だが、男達の仲間ではない。それは分かる。そして侍女は確信した。何故かは分からない。確信したかっただけかも知れない。だが、彼女は確信した。
女王様。あの人が貴女の夫になる男だ。