第150:信奉者
月のない夜だった。暦では半分ほど欠けた下弦の月が見えるはずだった。厚い雲がそれを隠していた。星々のか弱い光も遮り、漆黒の闇である。その塔が微かに浮かんで見えるのは、下層に焚かれた篝火の為だ。塔は、石造りの円柱の形をしていた。
その夜、ナサリオはある男の訪問を受けた。忍び込んで来たのだ。頭には覆面を被り、男だというのも身体付きと声から判断しているに過ぎない。
ナサリオが入れられた独房は、地位ある者が罪が確定するまで留置される部屋だ。無罪になるかも知れず、通常、独房として想像する粗末な物ではなく貴人を迎えるに不足ない調度品が揃えられている。窓も鉄格子など嵌められておらず、開け放たれていた。
ここに入れられるほどの地位ある者が惨めに逃げださぬという、ある種の信頼もあるが、それ以上に、この高い塔の窓から逃げるのが、実質、困難だからだ。寝具などを繋ぎ合わせれば地面まで届くローブを作るのも造作ないが、地面まで降りる間に警備の者に見つかってしまう。
だが、その男は余程技能に優れているのか、見咎められる事無くその窓から侵入した。寝ているナサリオに近づき寝具の陰に身を隠し小さく声を掛け、ナサリオが寝惚け眼で頭がはっきりと動かぬ内にもう一度声を掛けた。
「ナサリオ様。お騒ぎになりませぬように」
いまだナサリオは夢と現実の狭間に漂っている。姿の見えぬ男の声も現実味を感じなかった。
「誰だ。このような時間に」
起き上がり、目頭を押さえながら言うその声も眠たげで緊迫感はない。
「驚きになりませぬように。皇帝陛下から命じられ参りました」
「兄上だと!」
いきなり現実に戻った。声の主を探し辺りを見回すが、灯台下暗しと枕元に跪く男が目に入らない。
「ここで御座います」
言いながら立ち上がった男は、顔は隠され小柄で手首と足首の締まった動きやすそうな服を着ていた。色も闇夜に見つからない深い紺だ。闇夜とて黒は意外と目立つのだ。
「皇帝陛下から、是非ナサリオ様にお渡ししたい物があると仰せつかって参りました」
「兄上が私に?」
もしかして今までの誤解が解け、その詫びの品を贈ろうというのか。だが、今更なんだ! 今までの自分の功績に感謝するどころか嫉妬し、理不尽に罪に問おうとしておきながら虫が良い。しかし……。妻と息子の事もある。ここは我慢して謝罪を受け入れるべきか。
「ナサリオ様の罪を問おうと独房に入れたものの、貴族達の嘆願も多く皇帝陛下と言えどその者達を無視できぬとの事で御座います。それ故、ナサリオ様にこれをお贈りしたいと仰せで御座います」
背中に背負っていた1本の瓶をナサリオに差し出す。
葡萄酒か……。ナサリオはしげしげとその瓶を見やった。
こんな物で半年以上独房に入れていたのを償えるものではないが、忍び込んで持ち込める物などたかが知れている。それに今は何を貰うかは重要ではない。これでやっと愛しい妻と息子に会えるのだ。
こんな事で皇帝への不信が拭われるものではない。もはや一生、本当の意味では兄を許せない。だが、今は表面的にでも和解すべきだ。そしてその後は……。兄次第だ。
「分かった。皇帝陛下のお心、確かにお受け致した。これは妻と息子と共に頂こう」
葡萄酒程度10歳に満たぬ子供でも飲むのは珍しくない。尤も、その場合は水で薄める事もある。
「いえ。今ならばご妻子までは不要とのお言葉で御座います。ナサリオ様のみお飲みいただければ十分であると」
「なに?」
訝しげなナサリオを前に男は恭しく頭を下げた。
「如何に貴族達の嘆願が多くとも、偉大なる皇帝陛下がそのご意向を軽々≪けいけい≫と変えては天の摂理に反します。ならば、ナサリオ様がご自身の意思でその毒を飲み自害致しますれば貴族達も納得し、皇帝陛下のご威光にも傷は付きません」
毒……だと!? 何を言っておる。何を言っておるのだ!
「私は、私はどうなる! 貴族達を納得させ、皇帝の威光を守る為に死ねというか!」
「ナサリオ様は皇帝陛下の弟君である前に皇帝陛下の臣下。その全てを皇国に捧げるのは当然ではありませんか。死をもって皇国に報えるならば、それこそが忠義の道で御座いましょう」
「ふざけるな!」
激情に任せ毒入りの葡萄酒を床に叩きつける。だが、それは床に触れる前に男の手が伸び割れる事無くその手中に収まった。己の激情を難なく防がれ、嘲笑されたと感じたナサリオの怒りが更に燃え上がる。
「折角ここまで持って来たのです。大事にして頂きたい」
その物言いが火に油を注ぐ。
ナサリオは返答すら出来ず燃える視線を男に向けた。
「それではこれで失礼致します。気が変わったならばいつでもお飲み下さい。ですが、いつまでも時間がある訳ではありません。時を置き過ぎれば、ご妻子共々飲む事になるのをお忘れなきよう」
「なんだと!」
男は言うだけ言うと葡萄酒を小さな円卓に置き、窓から身を躍らせた。どうしたのか地面にぶつかる音はせず、ナサリオが駆け寄って下を見ると、既にその姿はなかった。
やはり、やはり兄は、我が妻子まで手にかける積もりか。それが嫌ならば自害せよと言っているのだ。おのれ! おのれ!! 今に見ていろ!!!
翌日、アルベルドがナサリオの元にやって来た。一晩中兄への呪詛を漏らしたナサリオの顔色は土気色で顔には脂が浮いているが、その肌に潤いはない。大皇国の宰相として栄華を極め威厳に満ちたナサリオが、今や疲れ果てた、ただの中年男だ。
「アルベルドか」
唯一の味方のはずの弟にも素っ気ない。
大体、結局こいつは何の役にも立っていないのだ。いつまで経っても独房から出られず、挙句の果てに妻子を他の大陸に逃がすという。それでは妻子を失うのと変わりないではないか! 全くこの役立たずが!
「兄上。お喜び下さい。やはり兄上の不在は皇国にとって損失と、貴族達が皇帝陛下に兄上の助命嘆願を申し出ました。これで兄上のお立場も少しは良く――」
「だからなんだ!」
本当に役に立たん! そんな事は既に聞いた! それで毒を飲んで自害しろと言ってきたのだ!
「なんだと申されても……。そうなれば皇帝陛下のお気持ちも変わるであろうと」
「ああ。変わるであろうな」
‘皇帝に殺される’のが‘自害する’というのにな。こいつにそれを言ってやろうか。いや、どうせこいつに何を言ってもどうにもならん。下手をすれば皇帝に告げ口されるだけだ。
「兄上。いったいどうしたというのです。何か私に含むところでもあるのですか」
あからさまなナサリオの態度にアルベルドの表情が険しくなる。
「お前は状況を伝えに来るだけで、それで何がどう事態が好転したというのだ。結局、何も変わってはおらんではないか」
「私を役立たずと仰るか」
「違うというか」
孤独は負の感情を増幅する。知性と教養に優れ、分別もあったナサリオだが、日々膨れ上がる不安と皇帝への怒り。そして昨夜の男の言葉がその心を蝕む。衣食足りて礼節を知るという。余裕なき者に礼節はない。今のナサリオは精神的余裕を欠いていた。
「確かに兄上のお心に沿うほどには力になっていないかも知れません。ですが、私とて精一杯やっているのです」
「精一杯やってそれか。ならば何もしない者の方が期待が出来る。やれば出来るのかも知れぬのだからな」
何もしない者にも劣るという侮辱にアルベルドの表情が強張る。だが、それでもアルベルドは耐えた。
「落ち着いて下さい。いったい何があったというのです。もしや私の知らぬ間に、皇帝陛下から何か御下知があったのですか?」
「何かあったかだと!」
アルベルドには言わぬはずが、抑え切れなかった。感情を理性で制御出来ず、激情のまま全てを吐き出した。
「皇帝は私に自害しろと言ったのだぞ!」
「自害!?」
「そうだ。その毒を飲めとな!」
ナサリオが指差す円卓の上には、男が持って来た葡萄酒が昨夜のまま置かれていた。
「まさか皇帝陛下がなぜ」
「私が自害すれば、皇帝の手を汚さず貴族達も納得するというのだ! そんな馬鹿な事があるか!」
「ですが、私には信じられませぬ」
「ならば飲んでみよ! 皇帝が毒酒を贈るはずがないというなら、お主が飲んでみよ!」
目を血しばらせ怒鳴るナサリオに、アルベルドが青くなる。
「さあ、飲め!」
「あ、兄上……」
「飲まぬか! 私より皇帝を信じるなら飲んでみよ!」
「も、申し訳御座いません。兄上」
流石に毒かも知れぬ物は飲めない。アルベルドは自分の非を認めるように頭を下げた。
「しかし皇帝陛下が、そこまでなさるとは」
「やっと分かったか。皇帝は己の事しか考えておらぬのだ」
その言葉にアルベルドが俯き目頭を押さえ、諦めたかのように首を振った。だがそれは、この状況にだろうか、皇帝にだろうか。
「まさか、皇帝陛下がここまでナサリオ兄上を憎んでおいでとは……。いったいどうすれば良いのか」
「なんだ。どうすれば良いのか分からんのか」
アルベルドが屈辱に耐えるように唇を噛んだ。確かに役に立っていないかも知れない。だが、それでも今のナサリオにとってアルベルドは唯一の味方。それを侮辱すべきではなく、その判断が出来ぬほどナサリオは追い詰められていた。
「今日は帰ります。ですが、このアルベルド、決して兄上を見捨てたりは致しませぬ」
「そうか」
ナサリオが憮然と言った。自分でも言い過ぎなのは分かっている。だが、己の感情が制御出来ないのだ。
「義姉上とユーリだけでも必ずやお守り致します」
頭を下げ退室するアルベルドに、ナサリオからの言葉はなかった。
アルベルドが皇都で使用している部屋に戻ると、若い小柄な男が音もなく跪いて出迎えた。頬がこけ痩せ細って見えるが、その動作は俊敏で鍛えられたものだ。同じ筋力ならば小柄で軽い方が素早いのが道理。そして垂直の壁を登るのにも有利だ。
「ご苦労だった。上手く行ったようだ」
「勿体無きお言葉、光栄で御座います」
皇国を手に入れる。険しい道だ。幾多の困難がある。問題がある。その大きな問題の1つに、手が足りぬというものがあった。皇国への野心を他に漏らす事が出来ず、全てアルベルド1人で行わなくてはならぬ。だが、現実に全て1人で行うなど不可能。ならば、諦めねばならぬのか。
だが、皇国を手に入れるという野心に付いて来る忠実な部下を、アルベルドはついに得たのだ。
デル・レイで名声を高めてきた。アルベルドをまるで神のように崇める者も多く、更にその中で狂信的といえる者達を選りすぐった。信奉者だ。正しきをアルベルドが行っているのではない。アルベルドの行いが正しいのだ。アルベルドの行いの妨げとなるものは全て悪であり、アルベルドの行いは全て善である。この大陸は賢王アルベルドが治めるのが道理だ。その為の手段は全て正しい。
「ナサリオ兄上も皇居からの使者と疑ってはいなかった」
「疑われる理由がありませぬ。それに今のナサリオ様は冷静さを欠いております」
皇帝と自分との間に亀裂を入れようとする存在など、ナサリオの知らぬ事だ。そして心を蝕む焦燥から、いつもの知性を発揮出来ずにいる。
「そうだ。万一にでも間違えば大事ゆえくどく確認するが、間違いなく兄上の部屋に置いてきたのは毒酒では’ない’のだな?」
「はい。間違いなく’ただの葡萄酒’です」
皇帝への憎悪を燃え上がらせるのが目的だ。本当に自害させたりはしない。もしナサリオが覚悟し飲めば、愚弄されたかと更に怒り狂う。
「まあ、捨てると言っているので捨てるのだろう」
「勿体ない事で御座いますな。皇族の方がお飲みになるかも知れないというので、それなりの物を用意したのですが」
アルベルドを神とも崇める彼らに皇族への畏怖はない。アルベルドとて皇族の一員だが、アルベルドはそれを超越した存在である。
「しばらくしたら再度兄上の元に忍び込み、自害を催促して、もう一度、置いて来い」
「次は安酒でよろしいですか?」
「好きにせよ」
「は」
「くれぐれも本物の毒など用意するなよ。場合によっては私が飲まされるのかも知れないのだからな」
「承知しております」
男はにやりと笑い姿を消したのだった。