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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
240/443

第149:聖母と女神

 助け合って感謝し合い、迷惑を掛け合って申し訳なく思い合う。助けられて当然と考え、迷惑を掛けても悪いと思わない。そうなっては夫婦にも溝は出来る。勿論、誰だって聖人ではない。つい、助けられるのに慣れ、迷惑を掛けるのにすら慣れてしまう。確実に溝は掘られる。


 ならば、全ての夫婦はついには決別してしまうのか。そうではない。時には花を贈り、時には優しい言葉をかけ、時には抱きしめその溝を埋めるのだ。そうやって夫婦は共に歩んでいく。


 だが、デル・レイ王国国王夫妻には埋められぬまま放置された溝が深く刻まれていた。それでもまだ夫婦でいるのは、王妃フレンシスの努力の賜物だった。


 彼女が努力を放棄していれば、今頃は祝典の時のみ顔を合わすだけの形だけの夫婦となっていた。もっとも、政略結婚の多い王族、大貴族には珍しい事ではないのだが。


 そして彼女は今、やはりその不毛にも思える努力をすべく、侍女も連れずに1人、夫の部屋へと足を向けていた。手にしたランプに照らされた彼女の顔には隠しきれぬ憂いが見える。


 ランリエルとの戦いで皇国が負けた後、夫は皇都に出仕する事が多くなった。皇帝陛下に召しだされ、次兄であるナサリオ様との面会。お2人のご生母イサベル様がお呼びになる事も多いという。


 イサベル様は夫の義母でもある。以前から皇国での式典でお目にかかる事はあった。でも、当時は衛星国家の王女でしかなく、挨拶すらして頂けなかった。初めてイサベル様にお言葉を頂いたのは夫と結婚し王妃となってからだ。そしてその時も、あまり良い顔はして頂けなかった。


 なぜか私の顔を見てぎょっとし、少し青ざめたようにすら見えた。


「アルベールを頼みますよ」


 イサベル様は夫のゴルシュタット風の名を好まずそう呼ぶ。その言葉すら形式的なものに感じた。何か気に障ったのか、私に下がるように手を振り、それからは祝典で顔を合わせてもお言葉を頂いた事はない。私と夫の関係は良好とは言えない。夫からイサベル様に何か伝わっているのだろうか。それで私に冷たく当たるのだろうか。夫は義母に忠実と聞いている。それもありうる話だ。


 そのイサベル様は、ナサリオ様が独房に入れられたのに心を痛め、夫を呼び寄せ何かと相談しているという。


 まさか皇国軍が負けるとは夢にも思わなかった。聡明で賢王とも呼ばれる夫ですら、その報告を聞いた時は言葉を無くし、急いで皇国に駆けつけたほどだ。それから夫は皇国を憂い、腰を落ち着ける暇もないほど、このデル・レイと皇国とを行き来している。


 しかも、時が惜しいのか馬車にも乗らず、自ら馬で昼夜駆け、伝令の騎士もかくやという強行軍をなされると聞く。お疲れにならぬ訳がない。自分に何が出来るかは分からない。自分の顔など見ても夫は不機嫌になるだけかも知れない。それでも、夫の部屋へと向けた足を止めようとは思わなかった。


 夫の部屋の前で上げかけた手を止め扉へと向けた。合図もせずに部屋に入るのは夫婦といえど非礼なのは分かっている。でも、夫は疲れている。もしかすると寝入っているかも知れず、だとすれば扉を叩けば起こしてしまう。


 音を立てないように注意しながら扉を開けると光が漏れ、数瞬目が眩んだ。目が慣れると机に肘を付き俯き額を押さえる夫の姿があった。


「陛下……」


 小さく声を掛けても微動だにせず、やはり夫は座したまま眠っていた。足を忍ばせ近づくと壁に掛けられたランプの光を遮り夫の顔と自分の影が重なる。その気配にも起きる様子はなく、かなり深い眠りのようだ。


 起こせばきっと夫は怒るに違いない。それは分かっている。それに折角寝ているのだ。起こさない方が良いのだろうか。でも、このようなところで寝るより寝所で横になった方が身体に良いだろう。


 叱責されるのを覚悟し更に近づくと静かな寝息が聞こえる。気持ちよく寝ているならば、やはり起こさない方が良いのかと決意が鈍る。どうしようかと迷い決めかね夫の端正な横顔を見詰めた。


 皆に優しい夫が、なぜ自分にだけは冷たいのか。その理由は分からない。嫌われているだけかとも思うが、夫は他に妃を迎える事もない。国内の貴族だけではなくケルディラやロタの王家からもご令嬢を寵姫にという話が数多く来ている。それを夫は、私には王妃がいれば十分だと、全て断っている。


 その言葉に喜びを感じた。でも、日々の夫の態度を思えば、やはりその心が分からない。もしかして、内外の評判を気にしているのだろうか。でも、夫に聞いても答えてはくれない。


「母上……」


 一瞬、夫が寝言でも漏らしたのかと思った。だが、視線を向けると夫は少し驚いたふうに目を見開いていた。肖像画で見た夫の実母であるヘレナ様は、優しげな目元の美しい方だった。見間違えるほど自分とは似ておらず、強いてあげれば髪の色が同じく茶色だが、同じ色の髪の女性はいくらでもいる。ランプの光が逆光となり夫からは自分の顔は見えなかったはずだが、だからこそ見間違えたのだろうか。


 お母様の夢を見ておいででしたか? その言葉が喉を通りかけた。


「そのようなところで寝ていては、お身体に良くありません。ご寝所に行かれては如何ですか?」


 夫の呟きは聞かなかったふりをした。聞きたいという誘惑はある。お母上がご健康であった時は、母子睦まじかったと聞いている。そのお母上と自分が夫の中で少しでも重なるならば、その少しの分だけでも、自分に気持ちを向けてくれるのではないか。でも、聞いても夫は不機嫌になるだけと、今までの経験から分かっている。


「聞いたか」


 問いかけながらも、夫の鋭い視線は断定していた。


「いえ。何か仰ったのは聞こえましたが、何を言ったかまでは分かりませんでした」


 私の嘘に夫の視線が更に鋭くなったが、それ以上の追及はなかった。


「……何をしに来た」

「お疲れと思い、ご様子をお伺いに参りました」


「お前が来たところで私の疲れが取れる訳でもなかろう」

「申し訳ありません」

「分かったなら出て行け。お前が居ても邪魔なだけだ」


 夫の言う通りだ。私が言葉をかけても夫は苛立つだけで、気は休まりはしない。だけど、気が紛れるくらいにはなるのではないか。


 夫は、皆から名君と言われ慕われている。下々の者にまで優しい言葉をかけ、そして優しいだけではなく厳しくもあり、尊敬と畏怖を受けている。


 だけど自分は知っている。夫のその姿は本当の姿ではない。普段、悪行の限りを尽くす人が影で善行を行えば善人なのか。善行の限りを尽くす人が陰で悪行を行っていても、やはり善人なのか。いや、白に黒を混ぜても、黒に白を混ぜても、出来上がるのは白ではないのだ。


 夫が悪行の限りを尽くしているとまでは思わない。だが、皆が見る夫の姿は本当の姿ではない。それを、私だけが知っている。その姿を私にだけ見せる。私にだけ、普段隠しているその姿を出せるならば、それで気が紛れるのではないか。そうも思う。尤も、それでもあまり苛立たせるべきではない。


「はい。ですが、お眠りになるならご寝所でお休み下さい」

「少し休んでいただけだ。お前のように寝たい時に眠れる気楽な身ではないのでな」

「失礼いたしました」


 そう言って背を向けたが、夫の声に足を止めた。


「侍女はどうして連れて来ぬ。前にも侍女を連れて歩けと言ったはずだ」

「失礼いたしました。つい、煩わしく」

 侍女がいては、夫は本当の姿を見せない。


「好きにしろ」

 夫も私が侍女をわざと連れていないのには気付いているらしく、小さな舌打ちと共に吐き捨てた。


「それでは失礼いたします。ご無理をなさらぬように」

 扉の前まで進むと改めて夫に向けて膝を折った。夫からの返事はなくそのまま部屋を後にした。


「あんな女。母上と似ても似つかぬではないか……」


 母と妻を見間違えた自分に苛立ち呟いた。そうだ似ているはずはない。母だけが本当の自分を愛してくれた。聖母のような女性だ。他に居るはずがない。居るはずがないのだ。




 この大陸に美女は多い。ランリエル王国の第三王子は、ベルヴァース王国のアルベルティーナ王女の肖像画を見て心奪われ求婚したと言われる。リンブルク女王となったクリスティーネも赤毛の美女だ。コスティラなどは美女が多いと有名で、愛人にするならコスティラ女と言われるほどだ。どうして妻にではないかといえば、ある程度の年齢に達すると急激に太ると言われている。


 だが、それでも女神とまで美貌を賞賛される女性は少ない。ましてや’公式’にと称しても誰も異議を唱えぬであろう女性はただ1人だ。その唯一の女性は、今、深い苦しみに苛まれていた。皇国宰相ナサリオの妻フィデリアである。尤も今は、その肩書きの前には’元’が付く。離縁されたのではない。夫が宰相の任を解かれた。しかもそれだけではなく独房に入れられた。


 あの人はどうなってしまうのか。すぐにでもあの人の元へ駆けつけたかった。こんな事になるなら、一度、帰国しようと考えた時に皇国に戻るべきだった。でも、あの時は夫からの手紙で、もう少しデル・レイにいるようにと言われたのだ。


 あの時にも何か不自然さを感じた。2年だ。あの時、既に2年もの間をデル・レイで過ごしていた。見聞を広める為と言っても息子の年齢を考えれば、母子共々、夫と離れ離れに暮らすには長過ぎる。にもかかわらず、夫は更にデル・レイに滞在するように言ったのだ。もしかして、このような日が来る事を知っていたのではないか。


 今は夫と連絡を取る事すら出来ない。だが、アルベルド様は事情を知っているのではないか。


 アルベルド様は皇国に頻繁に行き来しデル・レイでの滞在も短く、時間を割いて頂くのも躊躇われた。でも、もういてもたってもいられなかった。アルベルド様は迷惑がるかも知れないけど、面会を申し入れた。


 アルベルド様は快く申し出を受け入れてくれたが、やはり、何か知っているのだ。他言できぬ話もあるので私1人で指定された部屋に来るようにとの事だった。時間も侍女に見つからないようにと夜も更けてからだ。


 そしてフィデリアは侍女も連れず、大陸一と言われるすり足で夜の廊下を進んでいた。その部屋は上手く警護の順路からは外れており、誰にも見咎められる事無く辿り着けた。


 扉の前で、他に悟られぬようにと白く形の良い手で小さく合図した。


「お入り下さい」


 アルベルド様の声は小さくなく、この近くに人は居ないと確信したものだった。夫以外の男性と2人きりなのだと改めて気付いた。一瞬部屋に入るのが躊躇われたが、それも話す内容を考えれば仕方がない。


 その部屋は清潔に整えられ、適度な大きさの机に椅子が2つ添えられていた。アルベルド様がご自身の部下との面会に使用している部屋なのかも知れない。


「アルベルド様。お時間を頂き有難う御座います」


 膝を折るそのしぐさは、部屋に似つかわしくないほど優雅に見えた。意識してはいないのだが、彼女の場合、どうしてもそうなってしまうのだ。


「いえ。義姉上のお気持ちを思えば、そうは言っても居られません。私こそ、こちらから義姉上に話に行くべきでした」


 そう言いつつ指し示す椅子にフィデリアは腰掛け、アルベルドも正面に座る。


「義姉上も既にお気づきですか?」

「やはり、私とユーリがデル・レイに滞在しているのは、皇帝陛下と夫との確執を予測しての事なのですか?」


「はい。ユーリが我が国に来たいと言ったのは良い機会でした。ナサリオ兄上とも話し、兄上への皇帝陛下の誤解が解けるまで、万一を考え我が国にお2人を招いたのです」

「夫と皇帝陛下の仲が以前ほど良くないとは知っていましたが、そこまで深刻だったなんて……。それも知らずに私は……」


 どうして言ってくれなかったのか。知っていればデル・レイには来ず、ずっと傍に居て支えられたものを。確かにユーリの事もある。でも、ユーリだけデル・レイにという事も出来たはずだ。あの子は寂しがるだろうが、話せば分かってくれる聡い子だ。


「義姉上のお気持ちも分かります。私も兄上もここまで長引くとも拗れるとも考えてなかったのです。お2人をデル・レイに避難させたのは本当に万一を考えての事でした。まさか本当になるとは……」

「いったい夫の何が皇帝陛下のお心を害したのでしょう。今まで忠実にお仕えして来たではありませんか」


 確かに今回の大敗の罪は重い。だが、皇帝と夫の確執はその前からだ。それさえなければ、今回の戦いに夫が軍を率いる事もなかったかも知れないのだ。


「ナサリオ兄上は有能なお方でした。ですが、有能過ぎたのです。古くから有能な臣下に嫉妬する国王や皇帝は多う御座いました」

「皇帝陛下は夫の兄なのですよ。それが、弟にここまで酷い仕打ちをするなんて、そんな理不尽な……」


「はい。それは私も感じています。いくら嫉妬したとはいえ実の弟であるナサリオ兄上を処罰するなど。ですが、兄上は打ち首になるのではという者までいます」

「打ち首……」


「はい。今回の敗戦で皇国、衛星国家の軍勢は十数万の死傷者を出し多くの貴族も亡くなりました。それを思えば……」

「分かっています。分かっています。でも……」


 多くの命が失われた大敗の総指揮官なのだ。息子や夫を亡くした者も多い。どうして自分の夫だけは助かるべきと考えられるのか。だが、自分の愛する者には死んで欲しくない。それが人としての当たり前の感情、愛情というものだ。理屈でも理性でもない。


「どうすれば、夫は助かるのでしょうか」

「皇帝陛下のお心に縋るしかありません。それが皇国です。ですが、どうすれば皇帝陛下のお心を動かせられるのか」


「夫の今までの忠誠を訴えても駄目なのでしょうか」

「兄上の皇国と皇帝陛下への献身は誰もが知るところ。皇帝陛下ご自身もです。その上で処罰なされる以上、それを訴えても難しいでしょう」


「ならば、どうすれば陛下のお心を動かせるのでしょう」

「グラノダロス皇国の皇帝に手に入れられぬ物などありません。その中でランリエルへの勝利のみが手に入れられなかった。そして皇帝陛下は、その原因がナサリオ兄上にあると考えているのです」


「何か。何かあるはずです。皇帝陛下とて人の子。望んだ全ての物を手に入れられて来た訳ではないでしょう。陛下が手に入れられなかった物もあるはずです。幼き頃より陛下と一緒にいらした貴方なら、何か心当たりはありませんか?」

「陛下が手に入れられなかった物……。確かに幼き頃にはそういう物もありましたが、今にして思えば取るに足りぬ物ばかり。皇帝になってから手に入れられたか、興味を失ったかしたでしょう」


「そうですか……」

「いや、ある……か」


 アルベルドが、ふと思い出したかのように口元に手をやり呟いた。


「あるのですか! ならば、それを手に入れられれば陛下のお心は静まるかも知れません」


 いうなれば賄賂で夫の罪を減じるという事だが、フィデリアにその意識はない。どうにかして夫を助けたい。その一心だった。そもそもの罪が皇帝の心次第という理屈にも法にも拠らぬものなのだ。


「ですが、戯言のようなもの。皇帝陛下も本気で言ったのかどうかも怪しく……」


 折角、夫を救う糸口を得たにもかかわらず、アルベルドの口は重い。

 どうしてアルベルド様は口篭るのか。アルベルド様は夫の義弟。アルベルド様とて夫を救いたいはずなのに、何か口に出せぬ事なのだろうか。あ……。


 フィデリアは聡明な女性だ。自身の美貌に自惚れたりはしないが、客観的事実として多くの人に望まれるものである事も自覚していた。そして確かに心当たりもあった。夫からも兄の、皇帝陛下の冗談として聞いていた。


「皇帝陛下は……。私を望みというのですか?」

「ただの戯言です。ナサリオ兄上が義姉上を妻とした時に、自分を差し置いてと述べられただけです」


 ただの戯言。確かにそうかも知れない。だけど、万に一つでもそれで夫が助かるならば……。でも、夫以外の男性に身を委ねるなど出来る訳がない。夫への裏切りだ。でも、そうすれば夫を助けられるなら……。


 フィデリアの美しい顔が苦悩に歪む。その美しき苦悶の表情は見る者の加虐心を煽るが、アルベルドは努めて冷静を装った。


「義姉上。落ち着いて下さい。確かに、義姉上の美貌ならば皇帝陛下のお心を奪いナサリオ兄上のお命を助けられるかも知れません。ですが、その後はどうなされるのですか」

「あ……と?」


「義姉上に心を奪われた皇帝陛下は、それで義姉上との関係を断つとお思いか。ナサリオ兄上を助命した後も、関係を迫るでしょう。そしてナサリオ兄上がそれを許すはずはありません。結局、ナサリオ兄上が邪魔となり、別の罪を着せられ罰せられるでしょう。もしかすると、今回ナサリオ兄上を罰しようとしているのですら、義姉上を手に入れる為なのかも知れません」

「そんな……」

「あ。いえ、失礼しました。皇帝陛下が義姉上を望んだというのは戯言。そのような事、あるはずはありません。忘れて下さい」


 だが、フィデリアの心を揺さぶるには十分だった。もしそれが本当なら、愛する夫を窮地に陥れた原因は自分なのだ。皇国において、皇帝の意向は絶対である。確かに、皇祖の遺訓により衛星国家の王女を皇国の妃には出来ない。だからこそ、当時はまだ皇太子だったパトリシオもフィデリアを手に入れる事は出来なかった。


 正式な妃ではなく寵姫としてでも、産んだ子が皇国を継ぐ可能性が皆無ではないのだ。出来るとすれば、寵姫ですらなく妊娠すれば堕胎させる存在。それしかない。だが、さすがに皇帝といえど衛星国家の王女をそのような者には出来ない。罪人の妻ならともかくだ。


 皇帝陛下は、自分を罪人の妻に貶め手に入れようとしているのか。その為に夫に罪を着せようとしているのか。そんな理不尽が許されるのか。


 フィデリアの美しい顔が更に苦痛に歪む。だが、やはりそれは男の加虐心を煽る。いや、まさに物理的な責めを受けているかのように劣情すら感じさせた。


 アルベルドが立ち上がってフィデリアの後ろからその細く白い絹のような肩に手を置いた。


「義姉上。もしナサリオ兄上に万一の事があれば、私が義姉上を必ずやお守り致します」

「アルベルド様……」


 女性だけではなく男ですら、窮地に手を差し伸べる者には好意を抱くものだ。もはやフィデリアが頼れるのはアルベルドのみだ。


「もしパトリシア兄上が義姉上の身柄を差し出せというなら、デル・レイ一国でも皇国に逆らう覚悟は出来ております」


 1人の女性の為に一国を犠牲にする。馬鹿げた話だ。それで死ぬのは兵士と民だ。だが、なぜか港≪ちまた≫ではそれを美談という。それほどの犠牲を払ってまでも、その女性を愛しているのかと。


「アルベルド様。貴方のお気持ちは分かりました」

 肩に置かれたアルベルドの手に、美しい指が伸び重ねられた。


「義姉上……」

 それに誘われるように、アルベルドの顔が美しき女神に近づく。


「つっ!」

 突然の痛みに反射的に手を引きかけたが、手の甲に食い込んだフィデリアの爪がそれを許さなかった。


「大丈夫です。もし我が身を汚そうとする者がいれば、たとえ相手が皇帝であろうと、刺し違えてでも我が身を汚させるものではありません。貴方もです」


 夫を救う為ならばいざ知らず、夫を殺された上で身体を差し出すなど馬鹿にするな。

 義弟を見上げる視線に、強い意志が見える。だが、食い込む爪はするりと放された。


「貴方のお気持ちは、ずっと前から察していました」


 義弟の自分への憧憬を視線には初めて会った十数年前から気付いていた。いや、アルベルドがまだ幼い頃からだからこそ気付いた。ほとんど無意識に相手の望む姿を見せるアルベルドだが、幼い子供の憧憬や憧れの視線など義姉にとっても微笑ましく隠しきれなかった。


「ですが、私は貴方の義姉です。貴方の兄の妻です。私の事は忘れなさい。そして貴方の妻であるフレンシス様を大切になさい」

「義姉上。いえ。私はそのような積もりでは」

「そうですか。私の自惚れでありましたか。失礼致しました」


 フィデリアは膝を折り謝意を表したが、その力強い視線はアルベルドを捕らえたままだ。彼女もまだ、アルベルドが皇帝とナサリオとの仲違いをさせたとは考えてはいない。だが、それでも助ける代わりに自分を求めるならば、結局は皇帝と変わるところはない。


「今日はお話を聞いて頂き、ありがとう御座いました」


 引き止めようと口を開きかけたアルベルドだったが、フィデリアの視線がそれをさせなかった。義弟の返事を待たず義姉は背を向け部屋を後にしたのだった。


 残されたアルベルドは、椅子に座り込み大きくもたれた。視線の先に天上が見える。


 やられた。今ここでどうにかしようとまでは考えていなかった。弱っているところに付け込み、味方は自分しか居ないと心を揺さぶる計画だった。徐々に自分に依存させ、頼ってくるようにだ。


 完全に失敗だ。もはや警戒され、これからはまともに話をしてくれるかどうか。反省し妻に心を向けたふうを装えば、話くらいは出来るだろうが、今までのようには行くまい。面倒な事になった。だが……。


「そうだ。貴女はそうでなくてはならない」


 貴女は女神だ。美しく気高い貴女がこんな事で屈しては興ざめだ。だが、必ず手に入れてみせる。

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