第147:鵺≪ぬえ≫
ランリエルとバンブーナとの間で行われたタランラグラ争奪戦は、タランラグラ人の活躍もありランリエルが勝利した。いや、サルヴァ王子は『ランリエルも介入したバンブーナによるタランラグラ制圧戦はタランラグラが勝利した』と史書に記させた。
サルヴァ王子に好意的な者は、それを見識と褒め称え、悪意ある者はタランラグラ人を手懐ける為の方便と断じた。もっともその真意はサルヴァ王子本人しか分からない。
ランリエルとの交流を始めたタランラグラの特産品は塩である。しかも、タランラグラ人が塩の代価に求めるのは土と水だ。その安価な塩は決して質の良い物ではないが、庶民の懐を暖かくするには十分だった。
もっとも良い事尽くめではない。ドゥムヤータが激怒したのだ。タランラグラから安価な塩が入ってくれば従来の塩の消費が少なくなるのが自然だ。そして、ランリエルでの消費が少なくなり隣国に流れれば、そちらでも商品がだぶつき値崩れする。時にはタランラグラの塩が隣国に渡る事もあった。
バルバールやカルデイといったランリエルの影響下にある国々は黙っているが、ランリエルと皇国との戦いから、ドゥムヤータとの外交関係は悪化したまま改善されていない。ランリエルの顔色を窺う必要のない彼らは猛然と抗議したのだ。
「自国の利益しか考えぬランリエルの所業。皇国の軍を退けたと増長したか!」
選王侯の1人、シルヴェストル公爵は言い放ちランリエルに乗り込んで来るほどだった。
王宮に到着した公爵は、怒りもあらわに王子への面会を求め、しかも余人を交えずとの注文まで付けた。他の者達は、刃傷沙汰になるのではと危惧したほどだ。もっとも、サルヴァ王子も武人である。
「たとえ公爵が何を考えていたとしても、どれほどの事があるものか!」
と、こちらも声を荒げた。そして両者は、とある一室で対決したのである。
「これはサルヴァ殿下。お久しぶりです」
「久しぶりだな。シルヴェストル公爵」
「はい。近々お会いしたいと考えていました」
公爵は笑顔で右腕を差し出し、自分も右腕を差し出す王子の顔に皮肉な笑みが浮かぶ。
「かなりご立腹と聞いたが?」
と握手を交わした。
その光景にウィルケスが意外そうな視線を向けた。いくら余人を交えずと求められても副官は同席する。公爵もそれは当然と、ウィルケスは居ないものと振舞うのだ。
「皇国の手前、そういう事にしておいた方が都合が良いので」
そもそも、皇国が攻めて来た時にランリエルと断交したのは皇国に配慮したからだ。本気でランリエルと争う気などなかった。それはサルヴァ王子も理解している。裏があれば、裏の裏もあるのが外交というものだ。怒声を発したから怒っている。媚を売ってくるから好意を持っている。そんな単純なものでは無い。
「ですが、我が国内で不満が出ているのは事実ですよ」
「公爵ご自身は、お困りではないようだな」
「新しき事業を起こす者が現れれば、古き者が糧を失うのが市場原理。一々彼らを救済していては経済に進歩はありません。それに、我が国の主要産業は塩ではない。不満を言っている者など極僅かです。その者達の為にランリエルと争う気はありませんよ」
経済に関して、公爵はどこまでも現実的だ。
「それは困るな。ドゥムヤータには、是非とも猛烈な抗議を行って欲しいのだが」
「その心は?」
「ドゥムヤータの猛抗議に塩の価格調整をせざるを得ず、塩に対する税金を増やそうかと考えていた」
公爵が溜息混じるの笑みを浮かべる。それでは、結局得をするのはサルヴァ王子でありランリエルだ。
「貴方と対峙していると、まるですべて貴方の掌の上で踊らされているのかと考えてしまいますよ」
初めに王子と対決したのはロタ王国がドゥムヤータに侵攻した時だ。ランリエルを味方につける為に奮闘した。そしてサルヴァ王子に圧倒された。最終的にはサルヴァ王子に勝利したものの、冷静になって見れば、上手く誘導されたのではないか。その疑問は確信へと代わっていた。
「それは公爵の買いかぶりというものだ」
そう言いつつ笑みが浮かぶ。
「タランラグラの権利の件もそうです。まさか殿下は、こうなる事と見越していたのではないでしょうね?」
「それこそまさかだ。タランラグラは全くの偶然だ」
ランリエルがタランラグラの権利を有していなければ、ドゥムヤータから奪う形になっていた。にも係わらずドゥムヤータが戦わなければ、皇国にはランリエルへの利敵行為と見える。それを考えれば見過ごす事は出来ない。
ドゥムヤータは負けると分かりきった戦いをせねばならず、両国の外交にも大きな禍根を残す。そしてそれは、ランリエルにこそ窮地だ。将来の皇国との再戦を想定しているランリエルである。ただでさえ国力は2倍差。その上、ドゥムヤータまで敵に回したくはない。
皇国にタランラグラを取られ海上から好き放題されるよりはましだが、それでもドゥムヤータ経由でテルニエ海峡を越えられては脅威となる。ドゥムヤータはこちら側に引き止めて置きたいところだ。
「分かりました。とにかく塩の価格に関しては、ドゥムヤータはランリエルを非難し続ける。それでよろしいですか?」
「ああ。よろしく頼む」
その後は話を転じ、双方の国内外の情勢について意見交換を行った。もっとも、都合の悪い部分は隠している。それもお互い理解している。如何に親しき間でも、手札を見せ合って勝負する者はいない。
「そういえば、皇国の宮廷内で混乱が起こっているようです」
「我らとの敗戦でナサリオ殿が宰相の座を追われた後を継いだ者が良くないらしいな」
「それだけではなく、皇帝パトリシオとナサリオ殿のご生母が騒いでいるそうです」
「ほう。それは初耳だな」
サルヴァ王子もカーサス伯爵を使い情報収集に余念はないが、伯爵とて万能ではない。その手が掴めるのは、手を伸ばした先にある物だけである。ロタ王国に成り代わって貿易の拠点となったドゥムヤータだ。物が集まれば情報も集まる。大半は道端の石ころほどの価値しかないものだが、時には玉が光る事もある。
「元々、皇帝となった長男より次男であるナサリオ殿を偏愛していたそうです。そのナサリオ殿が独房に入れられ取り乱されたとか」
「なるほど。しかし、お気の毒に、などと私が言えば皮肉になるのであろうな」
「言いがかりのような理由で戦いを挑んだのは彼らの方です。自業自得というべきでしょう」
公爵の言葉に、以前のような皇国への畏怖は感じられない。それは、公爵に限った事ではなかった。この世に逆らえる者などいない。この世の神にも等しい。そうとすら考えられていた。だが、ランリエルに敗れた。皇国とて絶対ではない。皇国とて不敗ではない。
皇国とて、この大陸に割拠する国々の1つでしかない。その中で最も巨大な国。それだけでしかないのだ。人々は無意識にそう考え始めていた。暗示が解けたともいえる。
「自業自得か。彼ら自身が、それを理解してくれれば良いのだがな」
「はい」
彼らがそれを認めれば、皇国の再侵攻は行われない。だが、それがありえぬ事もサルヴァ王子は理解していた。
皇国で起こる混乱の内、少なくともパトリシオとナサリオの生母イサベルの乱心については自業自得と考える者が皇国にもいた。皇帝の異父弟にしてデル・レイ王国国王アルベルド・エルナデスである。
もっとも自業自得の根本はランリエルへの侵攻ではない。イサベルによる自身と母への仕打ちである。イサベルの自分達への行いが、回り回って現在のナサリオの境遇に辿り着いたのだ。皇帝はいずれナサリオを許す考えだ。しかしそれを知るのはアルベルドのみ。イサベルに知らせてやれば安心するだろうが、それを教えてやる義理はない。
イサベルは、ナサリオの罪を許すように訴える為パトリシオに面会を求めたが、パトリシオは母と会わなかった。アルベルドが会わせなかった。
「折角、ナサリオ兄上を良い形で復帰できるように手を砕いているのではないですか。今、義母上にお会いしてその要求を聞けば、全ての苦労が水の泡です」
「それはそうだが、今は会うだけでも会って、ナサリオの復帰は先の話にすれば良いではないか」
パトリシオとて、母が自分よりナサリオを可愛がっているのは感じている。妬む感情もある。だが、皇帝は基本お人よしだ。やはり、母が苦しんでいると知れば心穏やかではない。もっともそのお人よしの射程範囲は短く、身内と精々が目に留まる者達だけに限られる。そうでなければ、いくら他の者達に唆されたとはいえ、ランリエルへの侵攻などやってはいない。
「聞いてしまえば、後からナサリオ兄上をご赦免しても、皆は義母上のお言葉の影響が無かったとは考えません。ここは、義母上との面会は拒絶し、義母上からの嘆願すら無視したが貴族達の声に押されてご赦免なされる。その方向で進めるのがよろしいかと」
「そうは言ってもの……」
「義母上はナサリオ兄上の身をご案じなさっておいでなのです。それを義母上に会う事でナサリオ兄上のお立場が悪くなっては元も子もありません。今は、義母上に会わない事が義母上のお心に沿うのです」
パトリシオはそれでも後ろ髪を惹かれる思いだったが、アルベルドの助言を受け入れイサベルと会わなかった。
次にイサベルが面会を求めたのは独房に入れられたナサリオだった。だが、それも断られると、その矛先はアルベルドへと向いた。屋敷に呼びつけ詰問したのだ。
「貴方は何をやっているのです! 貴方はナサリオを支えるのが役目ではありませんか。それをむざむざ……。母を失った貴方を引き取って育てた恩を忘れたのですか。今、貴方がデル・レイ王などと呼ばれているのは誰のおかげと思っているのです!」
殺してやろうか! 怒りに、アルベルドは自身の計画すら一瞬忘れた。
何が恩だ! お前が我が母を殺したのではないか!
イサベルの前で跪き俯くその顔が怒りに歪んだ。だが、顔を上げイサベルに向けた表情は神妙そのものだった。
まだだ。今はまだ殺す時ではない。殺すなら地獄に落としてからだ。地獄は死後にあるのではない。地獄はこの世にあるのだ。
「申し訳ございません。皇帝陛下のお怒りは凄まじく、私の言葉にも耳を傾けては頂けません」
「それを何とかするのが貴方の役目です!」
「はい。それは分かっています」
「分かっているなら、何とかなさい!」
莫大な金を投じ、息子達よりも若く見える美貌を誇ったイサベルの顔が、怒りに皺が刻まれ年相応に見えた。
「ですが、ナサリオ兄上の身を案じるのは義母上だけではありません。多くの貴族達がナサリオ兄上の復権を望んでおります」
「おお。さすが私のナサリオです。ならば、早くそれをパトリシオに伝え、ナサリオをあの汚らわしい牢屋から助け出すのです」
怒りに燃えていたイサベルが、すぐさま喜びを表した。この感情の起伏の激しさは精神の不安定を物語っていた。イサベルの身辺には侍女や執事として劇団員とも呼ばれる手の者達を忍び込ませている。その者達が、日々、ナサリオへの同情を訴えつつ最悪の事態を囁き不安を煽った成果である。
「ですが、パトリシオ兄上はこのグラノダロス皇国の皇帝。その意思は絶対です。貴族達が声を揃えご赦免を訴えても聞いては下さらぬでしょう」
「何の為にいるのですか。この役立たず!」
否定的な言葉にイサベルはすぐに怒気を発した。感情を揺さぶられイサベルは益々冷静を欠いていく。
「皇帝陛下は、義母上とユーリにまで罪を問うと仰っておいでです。その怒りを思えば、彼らが躊躇するのも責められません。皇帝陛下はナサリオ兄上を処刑するのではないか。そういう者す――」
「なんですって! あの女はともかく、ユーリまで……。そのような事、私が許しません!」
人々には女神とも称されるフィデリアだが、イサベルにとっては愛しい息子を誑かした売女でしかない。ユーリにはナサリオの血が半分流れているので可愛いが、フィデリアが死ぬ分には望むところだ。
「そのような事をいう者がいるというだけで、何も決まった訳ではありません」
「当たり前です。パトリシオはナサリオの兄なのですよ! 兄が弟を殺したりするものですか!」
「は。これは失礼いたしました」
アルベルドは頭を下げ、更にイサベルの愚痴を長々と聞いた後、屋敷を出た。
今はこれでいい。ナサリオが殺される事もありえる。それをイサベルの心に刻んだ。後は、劇団員を使い、ナサリオ様のお命は大丈夫なのでしょうか、と不安を増殖させるのだ。
その数日後、アルベルドが向かったのはナサリオが入れられた独房である。イサベルが面会を断られたように皇帝の許可がいるが、ナサリオの弁明を聞く為との名目でその許可を得ていた。無論、それは表向きで、ナサリオに皇帝の真意を聞かせる為と皇帝には伝えてある。
「兄上。ご機嫌はいかがでしょうか」
「私の事などどうでも良い。それより、フィデリアとユーリはどうしている。無事なのであろうな!」
独房とはいえ皇族や大貴族の為の物だ。世話をする者も多く、何不自由はない。着る物も上質だが、ナサリオはみすぼらしく見えた。大皇国の宰相として培ってきた威厳。それが消えうせていた。今のナサリオは、家族を案じるだけの凡夫に過ぎない。
「大丈夫です。義姉上もユーリも我が国にて安全に暮らしております」
「そ、そうか」
厳罰に処すと見せかけ、皇帝の真意はそれとは逆にナサリオを救う事。だが、アルベルドはそれをナサリオに伝えていない。自分は罰せられ、しかも妻子まで罪に問われる。そう信じていた。皇帝自身がそう言った。疑う余地などないのだ。
ナサリオとて有能な男だ。だが、如何に有能でも無知には勝てぬ。アルベルドが自分に悪意を向けているなど知るところではない。兄との間に立つアルベルドが情報を操作しているなど考えもしなかった。
「どうして。どうしてこのような事になった。皇国軍はまだ戦えた。あのまま続けていれば、ランリエルに勝てたのだ。それを兄上が帰還命令を出したのではないか。どうして兄上は……。勝てたものを」
悔いの残る戦いだった。確かに大きな被害を受けた。だが、冷静に状況を見れば、決して劣勢ではなかった。ランリエルは最後の一戦で優勢な態勢を作る為、それまで連戦連敗だった。全軍での死傷率で見れば、ランリエル側の方が被害は大きかったのだ。
サルヴァ王子らランリエル側の総司令達は、皇国軍に大きな被害を与えれば撤退する。それに賭けて戦っていた。その後は無かった。ナサリオは戦いの継続を命じた。彼らの意図を打ち砕いた。勝てていたのだ!
「やはり……。兄上への嫉妬で御座いましょう。ランリエルなどいつでも倒せる。ならば、兄上を撤退させ敗者の汚名を着せ、自分がランリエルを倒せば名声はパトリシオ兄上のものとなります」
「嫉妬。嫉妬だと! グラノダロス皇国の皇帝ともあろうお方が、そのような私情で皇国の名誉を汚したというのか」
「汚したとも考えてはおらぬのでしょう。次に自分が勝てばすべて帳消し。そう考えているのです」
「馬鹿な……」
ナサリオにとってはまさに悪夢だ。そんな理由で私に罪を着せようというのか。それでも、それでも私だけなら。そんなに私が憎いなら、私に罪を着せるのも良い。だが、なぜ妻と息子まで! 実の兄が、弟の妻と息子まで罪に問おうというのか。おのれ。おのれパトリシオ!
宰相の節度として、独房に入れられても皇帝への敬意は払っていた。だが、あまりにもの理不尽に呪詛が漏れる。
「勝てていた。勝てていたのだ。それを私に罪を着せ、妻と子を罰するとは。それほど私が憎いか!」
「兄上。パトリシオ兄上は皇帝陛下です。お言葉を慎みますよう」
「言葉を慎めだと! 私が今までどれほど皇国に尽くして来たと思っている! 全てだ! 全てを皇国に捧げて来たのだ! その、その挙句の仕打ちがこれか!」
「きっと誰かパトリシオ兄上に虚言を吹き込む者がいるのです」
「だからなんだというのだ! 妻と子が助かるというのか!」
「大丈夫です。いざとなれば義姉上とユーリは、他国。いえ、他の大陸へと逃がしてでもお助けいたします」
「ほ、他の大陸だと!?」
「皇国の力がどれほどかは兄上が一番ご存知でしょう。皇国の手の届かぬところといえば、他の大陸しかありません」
今のナサリオにとって、妻と息子だけが心の支え。それを身を案じるかに見せかけ遠ざける。このままでは二度と会えぬ。その現実を叩き付けた。
「何もかも。私から何もかも奪うのか。おのれ……」
ナサリオの心に、既にパトリシオへの。皇帝への敬愛はなかった。敵。自分と妻と息子。その敵だ。呪詛の念が心を満たした。頭を掻き毟り皇帝への恨みを漏らし続ける。
アルベルドはそれをじっと見ていた。孤独は疑惑、憎しみを増幅させる。ナサリオの心に憎悪の火を灯した。後は、燃え上がるのみだ。
「それでは、失礼いたします」
そう言ってアルベルドが身を翻したのすらナサリオは気付かぬのか、呟き続けていた。遠ざかるアルベルドの足音もナサリオの耳には届かない。
蝙蝠は、鳥には翼を持っているので鳥の仲間と言い、獣には毛皮と爪があるので獣の仲間と言ったという。ならばアルベルドは蝙蝠なのか。いや、アルベルドは鳥と獣だけに収まらず、魚でも蛇でもあった。得体の知れぬ化け物。
相手が望む姿に変えた。そうやって生きてきた。何の後ろ盾も無い母と自分は、そうせねば生きられなかった。にもかかわらずイサベルは母を殺した。息子である自分を手に入れる為に母を巻き込んだのだ。ならば、お前達の母に復讐するのに息子であるお前達を巻き込んで何が悪い。
自業自得だ。誰の自業自得かは知った事ではない。だが、自業自得だ。




