第142:戦士の誇り
タランラグラに派遣したジュリオが現地の者に殺され、部下達も殺された。その報復にランリエル兵がタランラグラ人の村を探し当て襲撃したが、村人達は既に逃げ去ってぬけの殻だった。兵達の怒りは治まらず、タランラグラ人の家や畑を見つけては破壊した。そしてタランラグラ人が、報復に闇に紛れてランリエル陣地に忍び寄り哨戒に立つ兵を襲う。報復の連鎖。
サルヴァ王子はその報告書を愕然と握り締めた。考えうる最悪の事態だ。ジュリオには、万一我が軍が彼らに危害を加える為に来たと現地の人々に誤解され衝突した場合でも、兵達を抑え誤解を解くようにと命じてあった。だが、その兵達を抑えるべきジュリオが真っ先に殺されてしまったのだ。
どこで間違った? 行き場のない憤りに、サルヴァ王子は爪が皮膚に食い込むほど拳を握り締めた。
もう少し少人数で行かせるべきだったか? ジュリオには荷が重かったのか? 自ら先頭にたったジュリオが軽率だったのか?
全て結果論だ。今更悔やんでも仕方がない。だが、悔やまれる。
どうする? 一旦上陸部隊を引かせるか? いや、軍勢自体の損害は大きくない。引けば敵を勢い付かせる。違う! 敵ではない。タランラグラ人は敵ではないのだ。味方だ。味方とせねばならなかったのだ! くそ!
机に拳を叩き付け歯軋りが鳴った。身体中から怒気を発し、常に飄々とするウィルケスすら声をかけるのが躊躇われた。だが、その怒りは誰に向けたものなのか。
「現地には……拠点のみ確保し動くなと伝えよ」
サルヴァ王子には、それだけを言った。
その頃皇国では、ランリエルに敗北した宰相ナサリオが独房に入れられていた。独房とはいえ通常の罪人と違い貴人が罪を犯した時に罪状が確定するまでと入れられる物だ。無罪となる事もあり粗略には出来ず、外側から扉に鍵がかけられる事を除けば、整えられた客室といって良いほどの調度品が揃えられている。だが、独房は独房。しかも、厳密に言えば既に宰相ですらなく元宰相である。
その凋落振りに多くの人々がナサリオから背を向けた。その人々に罪はない。朝には市場に人が溢れているが、日が暮れると人は居なくなる。しかしそれは、人々が朝の市場を愛し日暮れの市場を憎んでいるのではない。とは誰の言葉であったであろうか。求める物を持っている時は人は近寄り、それを失えば人が去るのは自然の理≪ことわり≫である。
そしてナサリオの後任の宰相となったカルバハルは評判の良くない男だった。彼は、そもそも姿形からして人から好かれるという要素が抜け落ちていた。この世に愛嬌のある肥満と人を不快にさせる肥満があるとすれば、彼は間違いなく後者だ。はち切れんばかりに太り笑顔も絶やさなければ微笑ましくも感じ、子供達の人気者にもなりそうなものだが、彼の腹は垂れ下がり常に不機嫌そうに目を細めていた。
そして、その姿と裏腹に実は善人という事もなく、ものの見事に彼の身体と心は一致していた。彼の心は欲望という贅肉に埋め尽くされていたのだ。大皇国の宰相に任じられたのを良い事に、重要な役に一族の者を就け、時には金で売ったりもする。元来、貴族社会とはそういうものなのだが、この世には全て程度、というものがある。カルバハルはその程度を超えていた。
その評判の良くないカルバハルを宰相に任じたのは、他でもない皇帝パトリシオだ。通常、前任の宰相や信頼出来る者からの推挙が普通なのだが、今回は皇帝の独断である。
「確かにご自身で何かを成す方ではなかったが、それでも以前は政治、事業は信頼出来る者に任せるお方であったのに、これはどうした事であろうか」
「全くです。皇国はどうなってしまうのか……」
「ナサリオ殿が宰相であった時は、このような不安はなかったものを」
ランリエルとの敗戦に続き、この政治の混乱に貴族達は皇国の未来に不安を覚えた。しかし、皇帝の怒りを思うとナサリオの復権を訴える事も出来ない。確かに皇国を憂う気持ちも有るが、それよりも可愛いのは自身。とはいえ、皇国の臣下としての忠誠心が皆無という訳ではない。やはり、自分の身が守れる範囲でならば、皇国を案じる気持ちもあるのだ。彼らの心は揺れ動いた。
そしてその陰にはやはりアルベルドの姿があった。無論、彼とカルバハルが裏で通じており、カルバハルを裏から操る。などといった足の付きそうな浅はかな策ではない。良く言えば周到に考えられ、悪く言えば回りくどかった。皇帝にこう進言したのだ。
「敗戦の責によりナサリオ兄上を独房に入れましたが、いずれはその罪を許し宰相の座に復帰させるのが皇帝陛下のお心。ですが、あれだけの敗戦の罪。戦死した貴族達も多く、それを簡単に許せば貴族達からも不満が出ましょう。無論、皇帝陛下のお言葉に逆らう者などおりませんが、それだけに無理に復帰させてはナサリオ兄上の名が穢れます。貴族達からナサリオ兄上の宰相復帰を願うようにせねばなりません」
「しかし、そのように都合よく事が運ぶものなのか? あれだけの敗戦と言ったのはお主であろう。どうして貴族達がナサリオを望む」
「ナサリオ兄上の後任には無能、いえ、害となる者を任じるのです。人事を私とし多額の賄賂を要求するような人物がよろしいかと」
「そのような者を宰相にしては、皆からも不満が出よう」
自身こそが無能とも呼ばれる皇帝だが、意図して害をなそうと考えるほど悪辣ではない。元々、優秀な弟に劣等感を覚えていただけの平凡な男なのだ。
「その不満が出るからこそ、人々はナサリオ兄上が宰相である方が良いと考えるのです。ナサリオ兄上をお救いするには、貴族達からの助命嘆願が必要です。その為にも次の宰相はナサリオ兄上より数段劣る人物であるべきなのです」
「なるほど。お主のいう通りであろう」
こうして、害あると見込まれカルバハルが宰相となったのである。だが、アルベルドの工作はさらに続く。貴族達の不満の空気は王宮を満たしたが、アルベルドはそれに蓋をしたのだ。
今まで皇国の為に尽くし、しかも実弟であるナサリオすら怒りに任せ厳罰に処した皇帝だ。確かにあれほどの大敗である。厳罰も仕方なしではあるが、もう少し兄弟としての情というものがないのか。それを冷徹に躊躇なく断じるとは。人が良いところもあった皇帝陛下が、どうなされてしまったのか。
「ランリエルとの敗戦がそれほど皇帝陛下のお心に傷を付けたのだ。皇帝陛下は変わられてしまった。もはや、逆らう者には容赦なさるまい」
アルベルドはその流言を広めた。こうなっては迂闊にナサリオの擁護も出来ない。貴族達の不満は出口をなくし、その圧力は高まり続けたのである。
だが、皇族、貴族達の権力争いだけが皇国の全てではない。行政、軍事の機関は優秀な官僚、軍人達によって日々運営され皇国を支えている。そして、彼らにとってもランリエルは無視出来ない存在となった。
皇国の威信を妄信する一部の者達もいるが、もはや皇国にとってランリエルは路傍の石ではなく対等の敵対国家である。
皇国にはまだまだ余裕があり、対外的にもあの程度の敗戦で皇国の威信は揺るがないと虚勢もはるが、一度負けたにもかかわらず、なおも相手を侮るほど皇国の上層部は無能ではないのだ。
政治、軍事、そして経済にまで目を向け、日夜、ランリエル打倒の作戦を練っていた。そして、ランリエルの動きに注視するのも怠らない。その彼らに、ランリエル軍がタランラグラに上陸し、そして上陸部隊の指揮官が現地の者に殺された事も伝えられたのだ。
「ランリエルはタランラグラを取りに行ったか」
「我らが取れば奴らは窮地に陥る。その前に自分達でタランラグラを確保したかったのであろう」
「ああ。良い手だ」
皇国の軍首脳部の士官達はランリエルの意図を即座に理解し、それを賞賛した。前回の戦いではランリエルが勝利したとはいえ、その領土は土塊一つ動いてはいない。力関係も皇国が圧倒的に有利なままだ。ランリエルを甘く見ている訳ではないが、鷹揚に構えている感は否めない。だが、彼らの賞賛もここまでだった。
「しかし、上陸してからが不味い」
「いや、計画段階で躓いている。我らに先んじて確保したいならば、速攻でなくてはならん。それを上陸部隊が僅か1万では、如何にも少ない」
「ああ。しかも指揮官が現地で殺害されるとは、考えられぬ不手際だ」
軍事的に見れば彼らの主張はもっともである。先に取った側が有利となる地を、現地の者を説得し協力を仰ぎながら皇国への迎撃態勢を整えるなど悠長にもほどがある。彼らと違い為政者としての顔を持つサルヴァ王子である。それゆえに物事を多角的にとらえ、彼らの思いもよらぬ奇策がひらめく事もあるが、この時ばかりは、その為政者としての面が足枷となった。
優秀な皇国軍首脳部である。今回の事がなくとも、いずれタランラグラの重要性に注目し確保に動いたであろう。だが、ランリエルはそれよりも早く気付き行動に移した。その有利を自ら捨ててしまったのだ。この失点は大きい。
「奴らが手間取っているならば、その間に我らが取るまでだ」
彼らがその結論に達したのは当然だ。そして、皇国の下位国家であるバンブーナがタランラグラ制圧を命じられた。総勢5万。率いるのはバンブーナ王国軍総司令チュエカである。
だが、今回の出兵にバンブーナ軍部には不満が多かった。絶対にこの場での発言は口外せぬと誓いあった一室で、吹き出るのは皇国への罵詈雑言である。
「そもそもなぜバンブーナ一国で戦わねばならぬのか! 他の7ヶ国はどうした。皇国軍はなぜ出てこぬ!」
「皇国はその不敗の名を守る為に、前回の戦いの責任を宰相だったナサリオ殿1人に背負わせ、次の皇帝の親政で帳尻を合わせる考えなのだ。その前に再度負けては取り返しが付かぬからな」
「我らのみの出兵ならば、もし負けたとしてもバンブーナの敗北であり、皇国の敗北ではないからな」
「ちっ! 兵を出し惜しんだ挙句、タランラグラが取れなかったらどうする気だ」
「我らがタランラグラを取ればランリエルにとっては大きな痛手だが、ランリエルに取られても皇国の脅威とはならない。名と実を天秤にかけ、名が大事と考えたのであろうよ」
タランラグラからランリエル本土は目と鼻の先。だが、タランラグラから皇国本土に向かうにはその前にバンブーナが盾となる。たとえ大艦隊をそろえ10万の軍勢を上陸させたとしても、10万でバンブーナを制圧し、更に皇国本土を突くのは至難の業だ。
「だが、ランリエルは配下を併せれば5ヶ国。バンブーナ1国で太刀打ち出来るのか?」
「皇国がランリエルへの再出兵をすぐに出来ないように、奴らとてそうすぐには大軍は動かせんだろう」
「奴らは勝った勝ったと騒いでおるが、実際のところ軍勢の消耗はそう変わらぬからな」
皇国軍は約80万の軍勢を動かし死傷者は17万ほど。ランリエルは約40万を動かし死傷者は10万近い。実は比率での損害はランリエルの方が大きいのだ。もっとも、そこには数字の錯覚もある。怪我を負い戦闘に参加出来なくなれば、戦力的には死者との区別はない。ゆえに死傷者と一纏めとするが、実際、戦いとは意外と人が死なないものであり、死傷者と言いつつその大半は怪我人である。
だが、ランリエルは皇国軍を打ち破った後、敵に情けをかける余裕なしと、石の裏をひっくり返すように徹底的な掃討を行い多くの皇国兵を殺した。死者の数は皇国軍の方が多いのだ。そして、皇国軍の士官を狙い撃ちにした作戦もあり、現在は、ランリエルに比べ皇国軍の方が’より軍勢を動かせない’状況ではあった。
「とはいえ、奴らもタランラグラを我らに取られては危険だと理解しているのだ。いよいよとなったら無理をしてでも大軍勢を派遣して来る」
「そうだな。そうなる前にタランラグラを固めたい。軍勢を上陸させたらすぐに制圧するぞ。歯向かう者には手加減するな」
上陸したバンブーナ軍は5万の内1万を本隊とし、残り4万を分散させタランラグラ人を虱潰しにする作戦を取った。1部隊千人の軍勢がタランラグラ全土をくまなく進んだ。タランラグラ人は家と畑を残し水と食料だけを持って逃げたが、バンブーナ軍はその家と畑を破壊していく。
海岸線を進む部隊は、タランラグラ人の粗末な筏すらも木端微塵に打ち砕いた。この大陸に流れ着いた時の船を分解して作った物だが、漁をするには欠かせず、生活の糧を破壊したのだ。草木の生えぬこの不毛の大地をこのまま逃げ続けても待ち受けるのは飢え死にだ。活路を見出すには戦いを挑むしかない。しかし、タランラグラ人の成人男子をすべて集めれば数万になるが、装備の差があり過ぎた。
そして、実際には各部族がばらばらに生活している彼らが、部族間を越え集結する事もなかった。精々が部族を総動員し数百。少ない時には数十人のタランラグラの戦士達が無謀な戦いを挑んだ。
千の重装歩兵の隊列は敵が弓の射程距離に入れば一斉射撃を行い、敵が近づけば槍衾で応じた。タランラグラの戦士達は敵に触れる事すら出来ず、その褐色の身体を大地にさらした。命を捨てる覚悟で必死に敵に取り付いても、彼らの錆びだらけの短剣は甲冑に傷を付けるのが精々。首をねじ切ろうと相手を押し倒しても、他の兵士に横腹を蹴り飛ばされ引き剥がされた。多くのタランラグラの男達が散った。
戦い傷付きながらも生き残ったタランラグラの戦士ヤスフェは再度戦いを挑もうと訴えたが、装備の差という現実は、彼らの誇り高き戦士の魂を砕くのに十分だった。
「俺はもう嫌だ! お前も見ただろ。奴らの矢は遠く飛ぶ。俺達のは届きもしないんだ。それでも矢の雨を必死に掻い潜って戦いを挑んでも、奴らの鉄の服には、俺達が親父から受け継いだ短剣が歯が立たない。こんなもの、戦いじゃない!」
こちらが傷付くが相手も傷付く。その戦いならば負けても納得がいく。だが、一方的な殺戮に心を支えきれない。
「ならば誇りを捨て、また奴隷になるか」
「俺だって戦ってどうにかなる相手ならば戦う。奴らはどうにかなる相手ではないんだ!」
「だが、初めの戦いでは勝てたではないか」
「あれは、もっと数が少なかった。油断もしていた。今度の奴らは初めから俺達と戦う気だ。違うんだ!」
「同じだ! 前の奴らも鉄の服を着ていた。もっと、奴らに近づけば――」
「ヤスフェ。もういい」
ヤスフェに劣らぬ体躯を持つ男がヤスフェの方に黒い手を置き制した。左手は肘から先が無い。バンブーナとの戦いで失った。縄で強く縛り無理やり止血している。零れる血が地面を濡らしていた。
「俺は今まで、一番初めにこの地に流れついた者達を馬鹿にしていた。むざむざ捕まり奴隷とされ、そこからも逃げ出して来た情けない奴らだ。戦いもしなかった奴らだとな。だが、分かった。戦う戦わないの問題じゃない」
「何の問題だという」
「来るか来ないかだ」
「来るか来ないかだと」
「そうだ。奴らは災害だ。嵐と同じだ。来なければ平和に暮らせる。だが、来れば……」
「来たら、なんなのだ」
「……諦めるしかない」
ヤスフェの視線が男の視線とぶつかった。どちらの視線も揺るがない。永遠に続くとも思われた睨み合いに、不意に男が肘から先が消えた腕をヤスフェに向けた。
「お前も、こうなれば戦うのではなかったと考えるようになる」
「俺は、戦い傷付くのを恐れはしない」
ヤスフェが右腕をかざした。その腕の先は付いていたが、大きく肉が抉れ血が固まっている。敵の矢を受け、それを力任せに引き抜いたのだ。
「戦えば、お前の妻と子も同じ目にあうぞ」
男の目に悲しみが満ちていた。怒りの目には揺るがなかったヤスフェが思わず視線を逸らした。その先に、女と子供が居た。自分の妻と子ではない。だが、重なって見える。自分は手足を失うのを恐れない。しかし、妻と子はどうだ。
なぜ自分は生きているのか。産まれたからだ。産まれたから生きている。産まれて良かったと思った事などなかった。いや、考えた事すらない。産まれたから生きて、妻を貰い子を作った。それでも産まれてきて良かったと思った事などない。
この過酷な地に産まれ、腹を満たす為に狩をし、妻と子が出来たから養った。それが、死ぬまで続く。それだけだ。
ヤスフェは笑った事が無かった。だが、啼いた事ならば何度かある。この時も啼いた。これほど啼いたのは、一番初めに子が死んだ時以来だった。