第141:タランラグラの戦士
男は肉が食いたかった。鳥の肉だ。この地に獣は存在しない。肉と言えば鶏肉だ。いつも魚ばかりだ。僅かに取れる作物はご馳走だ。肉は更に貴重だった。とはいえ、魚だって毎日取れるとは限らない。暑いこの土地では魚はすぐに腐る。翌日には食えなくなる。取れない日は飯はなしだ。
鳥を捕まえるには沢山の魚が必要だ。魚を何匹も地面に撒き鳥が寄ってくるのを待つ。日の光にさらされた魚はすぐに腐るが、その代わりに鳥を採るのだ。鳥が来なければ魚が無駄になる。飯が食えるところを食えなくなる。それでも肉が食いたかった。
今日は朝のうちに漁に出て5匹取れた。それを海岸に全て撒いた。1匹くらい残せばいい。そうする者もいる。だが、全て撒く。潔くない。やるんならやる。失敗を考えるなら、初めからやらなければいい。
鳥が飛んできた。60ミール(約50センチ)ほどの白い海鳥だ。息を止め気配を消す。地面に降り立つと、警戒しているのか辺りを見渡す。自分とは目と鼻の先だ。緊張はしない。落ち着いている。鳥は気付かない。鳥は安心したのか、魚を1匹咥え、顔を上げ飲み込んだ。鳥が顔を上げている間に、止めていた息をゆっくりと吐き、弓を持ち上げる。2匹目を咥えた。鳥の視線が下に向く。息を吸い、矢を番えた。魚を飲み込んだ。瞬間、矢を放った。
ピキッ! 鳥が鳴き、一瞬飛び立とうとして地に落ちた。矢が胴体を貫いていた。しばらくもがき、大人しくなった。
白くひょろ長い身体の男が起き上がり、腰にかけていた短剣で鳥の首を落とした。血が吹き出て身体を赤く染めたが男が気にした様子はない。
弓を投げ出し、血が滴るそれを掴み海に向かった。腰まで漬かったところで鳥の羽を毟る。大量の羽が波に揺れていた。そのいくらかが身体に纏わり付く。全ての羽を毟り終わると、男は鳥を手にしたまま海に潜った。次に顔を出したのは、元の場所より5ケイト(約4.3メートル)ほど離れていた。
身体に纏わり付いていた鳥の羽と、身体中に塗りたくった塩の混じった土が波に流され黒い肌が見えた。ひょろ長く貧弱にも見えたその身体が本性を表した。引き締まりしなやかな筋肉は、猫科の猛獣を思わせる。ロタの虎将、ブランとも違う。ブランは虎を連想させるが、彼は黒豹だ。
望み通りの獲物を得たにも関わらず、彼の顔に笑顔はない。笑った事がなかった。笑わないようにしているのではない。笑うような事に出会った事が無いのだ。生きて行くだけで過酷な土地だ。楽しい事など何もない。なぜそんな土地で生きているかといえば、生まれて来たからだ。
名はヤスフェといった。姓はない。名を聞かれれば、タランラグラのヤスフェだと名乗る。タランラグラが姓と言えば姓といえるのかもしれないが、それだと部族の全員がタランラグラだ。もっともタランラグラ全てが1つの一族ともいえるのであながち間違いではない。
一族がここに流れ着いた時は100人にも満たなかった。その内タランラグラ族は30人ほどだったという。他の部族に嫁をやり、他の部族から嫁を貰った。女は沢山子を産む、半分は死ぬが半分は残る。新たに流れ着いた者もいる。そうして今ではタランラグラ族は十以上の村が出来て、全部で千人を超えた。他の部族を併せれば何万かにはなるが、タランラグラ族が一番多い。
ある時、太陽が沈む方角から馬に乗って来た男達に、たまたまそこに居たタランラグラ族の者にお前達は何者だと聞かれ、タランラグラの者だと答えた。それで奴らは、全部族をタランラグラと思っているらしい。もっとも、どうでもいい話だ。
明日から、スィムバ≪獅子≫の儀式が始まる。石を積み上げ畑を作るのだ。土は太陽が沈む方角に進み木が生い茂るところの土を持ってくる。黒く、握ると崩れず固まる土が良いという。畑を作るには大量の土がいる。何往復もする。1人でそれをやる。道中食べる魚の干物と水は大量に用意した。明日からの儀式に備え肉が食いたかった。
畑を完成させたら一人前の男として認められる。嫁も貰える。畑を作るのがなぜスィムバかと言えば、昔は獅子を狩れば一人前の男と認められたからだ。いや、昔ではない。自分達の本当の祖国では今でも獅子を狩っているはずだ。
もっともヤスフェは、その獅子とやらを見た事が無い。鋭い爪と牙。大きな鬣≪たてがみ≫を持つ獣だという。
子供の頃、その獅子と戦った事が有るという村の長老に、馬よりでかいかと聞いた。馬は太陽が沈む土地に忍び込んだ時に見た事があった。長老は、獅子は馬の倍はあると言った。馬を一飲みにするという。当時は、その恐ろしさに寝床で震えた。
今では、その獅子に出会えぬのが口惜しい。勝てるかどうかは分からない。だが、戦いたかった。タランラグラの男達は、皆その獅子を倒したのだ。ならば、自分もその獅子を倒せなくてはならない。倒せなければ死ぬだけだ。
畑を作るのは過酷だ。だが、失敗しても死にはしない。それどころか、時間をかければ大抵の者はやり遂げられる。ヤスフェは、獅子と戦いたかった。
日が沈む土地に数え切れぬほど往復かして畑を作り上げた。石は高く積めば積むほど良い畑だと自分の背より高くした。土も深く盛った方が良いというので、身体が埋まるほど運んだ。
畑の周りの土の表面に浮いた塩を削り遠くに捨てた。風で塩が飛び畑に入るので、こうした方が良いのだ。それも何往復もした。
全てをやり遂げた時、身体が一回り大きくなっていた。
「これでお前は獅子にも勝てる」
長老はそう言った。村の男達も言った。1人で畑を作るのはそういう意味なのだという。だからスィムバの儀式なのだと。だが、ヤスフェは獅子と戦いたかった。
畑を作ったので嫁を貰った。遠いところの部族から貰った嫁だ。近くの部族とは嫁を貰い過ぎて血が濃くなり、最近では遠くの部族から貰う。その部族一の器量良しだという。スラリとした身体を持ち、よく働く女だった。
家も作った。入り口の部分だけを空け、土を円形に積みそこに塩水を撒いた。乾燥したらまた塩水をかける。それを繰り返すと塩で土が固まり驚くほど硬くなる。そうしたらまた土を盛り塩水を撒く。それを繰り返して背より高くするのだ。雨が降ると塩が溶けるので、雨が止んだらまた塩水をかける。
屋根は僅かばかりに取れる作物の茎や葉を編んで作って上に乗せる。これは皆に手伝って貰う。自分の畑で取れる分だけでは、いつまで経っても完成しない。
子供が産まれた。特に嬉しいとも思わなかった。村には沢山子供がいて、子供は見慣れていた。
嫁はよく働き、子供も2人目、3人目と産んだ。村の他の女達も子供を沢山産む。そういうものだと思っていた。
一番下の子が死んだ。泥水を啜り病にかかったのだ。水は貴重だ。井戸を掘っても出てくるのは塩水ばかりだ。真水が欲しければ雨水を溜めるしかない。だが、子供は我慢できず泥水でも啜る。そうやって死ぬ子供は村に沢山いる。子供が死ぬのは見慣れていた。
吼えた。吼えて啼いた。産まれても嬉しいとは感じなかった。だが、死ぬと悲しかった。辻褄が合わないと思った。
その後、また何人か子供が産まれた。そして何人か死んだ。
ある日、漁から戻ると村が騒がしかった。
「俺達を捕まえに来たぞ!」
「俺達を奴隷にする気だ!」
どういう事かと詳しく聞くと、鉄の服を着た奴らが海を渡って大勢着たという。長老が言うには、鉄の服を着た者達は奴隷を捕まえに来るのだという。
「折角、逃げて来たというのにまた奴隷にされるか」
長老は嘆き悲しみ、女達も泣いた。自分の嫁を見ると、嫁は泣いていなかった。まっすぐに俺を見ていた。
「そいつらを追い返す」
俺が言うと長老は眼を丸くし驚いた。戦うなど考えた事もなかったのだ。獅子と戦った事があると言っていた長老がだ。
「その者達は獅子より強いのか」
「いや、獅子よりは強くない。だが、獅子より数が多い」
「ならば、そいつらも1匹ずつ狩ればいい」
「奴らは群れでやってくる。1人になるのは稀だ」
「糞をする時まで群れている訳ではないだろう」
それでも長老は迷っているようだったが、若い者達が俺に賛同した。皆屈強な男達だ。俺達に押されるようにして長老も頷いた。まず、奴らを見張る事になった。塩水で身体を濡らして身体中に白い土を塗りたくった。髪も真っ白だ。弓にも土を塗る。
纏まらず1人ずつ奴らの傍に忍び寄った。狩りをする時は仰向けに寝転がり足で地面を蹴り進む。弓を使うからだ。うつ伏せでは矢は放てない。今回は見張る為なので、四つん這いになり手と足で獣のように歩いた。
そうやって近づいた。間近にいる俺達に全く気付かなかった。確かに奴らは獅子ではない。獅子ならば気付くはずだ。
奴らは大量の木材で柵を作り始めた。作り終えると次の場所に移動していく。自分達の住むところ全体を柵で囲むようだ。柵を作り終え人がいなくなったところに近付いた。その中では布で家を建てていた。太陽が沈む土地で見た家よりは粗末だが、俺達の家よりはマシだ。
その夜、塩が目に入り目玉を真っ赤にした男達が集まった。皆屈強な男達で、渇ききって剥がれた白い土の下に鋼の身体が見える。
「奴らはずっと群れているぞ。糞をする時も群れているのかも知れん」
1人の男が顔の土を引っかき落としながら言った。他の男達も頷く。
「分かった。だが、もうしばらく見張ろう」
翌日も見張っていると、奴らは半分ほど元の場所に残し、分散して移動し始めた。それでも、その一つずつが俺達の村一つより多い。
「どうする?」
「奴らの後を追うぞ」
「だが、奴らは数が多い。人数が足りない」
奴らは50くらいの集団に分れていた。俺達は十数人しかいない。
「俺達の村の方角に行く奴らを優先して見張ろう。他の奴らがいく先にある村には、知らせてやれ」
「分かった」
俺が言うと何人かが駆けて行った。
まっすぐに俺の村に進む奴らが居たので、身体に土を塗って四つん這いになってそいつらの後を追った。大地はほとんど平地だが、それでも多少の起伏はある。身体に土を塗り地面と同化しているはずだが、念には念を入れてその起伏の陰に隠れるように進む。
腰には水を入れた皮袋を下げた。だが、追いかけていると水も飲めない。口に石を含んだ。石を口の中で転がすと唾液が出る。それで喉の渇きを癒した。腰には魚の干物も下げている。それにも塩だらけの土を塗ってある。腹が減ると、じゃりじゃりと土と塩の味がするそれを齧った。
昇った太陽が真上に来るほどの時間追いかけたが、奴らは俺に全く気付かない。間抜けな奴らだと思っていたが、その中の1人が突然騒ぎ出し、俺を指差した。
急いで伏せた。気付かぬ内に足に塗った土が渇いて剥がれていた。そこから黒い肌が見えたのだ。
奴らの動きが止まり、騒いだ男のところに何人か集まって話し始めた。騒いだ男がまた俺を指差す。
俺は目を閉じた。これで俺は完全に周りと同化したはずだ。顔は伏せない。頭を動かせばその動きで気付かれる。
耳に神経を集中した。奴らが近寄ってきたら走って逃げる。一対一なら勝てる。奴らは獅子ではない。だが、数が多い。
奴らの足音が聞こえ始めた。薄く目を開けると奴らが遠ざかって行く。奴らがかなり遠ざかってから、唾を足に塗り、改めて土を被せた。そして奴らの後を追った。
あるところまで来ると、奴らが引き返してきた。また気付かれたのかと思ったが、どうやら元の場所に帰るようだ。鉢合わせしないように少しずつ動いて近くの窪みに身を隠した。
翌日、奴らは大勢で進み始めた。昨日来たところまで来ると、そこを柵で囲み始め、更に次の日、また奴らは分散して進む。そして、日が傾き始めると戻ってくる。そしてまた次の日は大勢で進んだ。これを繰り返すようだ。
夜、また、みんなで集まった。
「どうする。もうすぐ俺達の村にまでやってくるぞ」
「女と子供は逃がそう。あんな奴らからなら逃げるのは簡単だ」
「そうだな。奴らは馬に乗っていない」
馬は日が沈む土地で見た。黒くて大きく、人を乗せて走る事が出来る。時々茶色や白い奴も居る。長老達が捕まったのは、奴らがその馬に乗っていて逃げ切れなかったからだそうだ。
「あんな奴らだけなら、ずっと逃げていれば捕まらないんじゃないか?」
「確かにそうだが、畑はどうする? 畑を持って逃げられないぞ」
あれだけ苦労して作った畑だ。捨てるのは嫌だった。
「捕まって奴隷にされるよりはマシだ」
「畑は俺達が獅子より強い証だ。その誇りを捨てるのか」
「奴隷になるよりはマシだ」
「誇りを捨てるなら奴隷になったのと同じだ」
俺が言うと男は黙った。
「では、畑を守る為に戦うのか」
別の男が言った。
「戦う。だが、しばらくは様子を見る。奴らは数が多い。しかし、1人ずつなら俺達の方が強い。1人になる時を待つ」
奴らは獅子ではない。俺達は獅子より強いのだ。
「奴らが畑を壊し始めたらどうする」
「その時は、すぐに戦う」
男達は頷いた。
何人かが村に走り、夜の内に女と子供、老人を避難させた。村に残っていた他の男達のほとんどを呼んだ。何人かは女達を守らせる為に残した。
日が昇ると、奴らはまた分散して進んで、だが、いつもより1つずつの数が少ない。俺達と同じくらいの数だ。
「あの人数なら勝てるのではないか」
俺が言うと、男達は顔を見合わせた。戦う覚悟はある。だが、もうしばらくは様子を見る気だった。それが突然、今といわれ戸惑っている。
「明日になれば、また大勢で来るかもしれん。やるなら今だ」
「分かった。どうやってやる?」
男達は頷いた。男達の決断は早い。過酷なこの土地では、迷っている暇はない。
「狩りと同じだ。忍び寄って近づいて矢を放つ。奴らの鉄の服は頑丈だ。近くから撃たないと駄目だ」
「近づく前に気付かれたらどうする」
「気付かれるな」
「それでも気付かれたらだ」
「捕まえて首をねじ切れ」
「奴らはでかい剣を持っているぞ。俺達が親父から受け継いだ短剣じゃ歯が立たない」
「だったら、飛び掛ってそのでかい剣を奪え。奪ってその剣でやれ」
「分かった」
俺達は奴らを待ち伏せる事にした。奴らは出発するとそのまままっすぐに進む。先回りするのは簡単だ。奴らは俺達の畑が有るところを目指していた。
皆、畑の裏に潜んだ。身体中に土を塗り、弓にも塗っている。男達は皆無口だが、今日はいつにも増して無口だ。そういえば、人を殺るのは初めてだと、今更気付いた。
日が真上に来るころ奴らはやって来た。俺達の畑を見つけ駆け寄ってくる。俺達が住む痕跡を見つけたのが嬉しいのか笑っている。奴らにしてみれば、やっと獲物を発見したのだ。笑いたくもなる。
皆、鉄の服を着ているが、その中でも1人だけ色々と飾りが付いた派手な奴が居た。こいつが一番偉い奴か、他の奴らに命令しているらしいので間違いなさそうだ。しばらくすると、他の男達が方々に駆け出し奴は1人になった。
「奴は俺がやる」
「分かった。他の奴は俺達がやる」
身を潜め、畑の陰を伝いながら奴に近づく。奴は、考え事をしている様子で畑の周りを歩いている。背を向けた瞬間駆け出した。背中を矢で射れそうだったが、それでは仕留められるか分からない。正面だ。一撃で倒すなら心臓を狙わなくてはならない。外れたら飛び掛る。
畑の周囲を回る奴に先回りし地面に寝そべり矢を構えた。奴の足音が、地面に触れた背中に聞こえる。足音が近づいてくる。奴が、畑の角を回って姿を現した。それでも奴は俺に気付かない。
奴が俺に気付いたら、その瞬間射る。そう考えていたが、奴は俺に全然気付かない。間抜けな奴だ。こんな奴らは決して獅子ではない。
奴が気付かないまま、俺を踏み付けるほど近づいた。十分な距離だと矢を放った。外しようがない距離だ。矢は、奴の心臓をまっすぐ射抜いた。
一瞬、奴は何が起こったか分からないようだった。血を吐きながら辺りを見回す。まだ俺に気付かない。だが、鳥とは違って中々死なない。念の為、もう一回射た方が良いのかと、次の矢を構えようとするとやっと俺に気付いたのか驚いた顔をしていた。
結局、次の矢を放つ前にその男は崩れ落ちた。それと当時に、そこかしこから男の悲鳴が聞こえた。俺達は死ぬ時でも悲鳴など上げない。奴らの悲鳴なのだろう。