第139:征南論
2ヶ国宰相。かつてそう呼ばれた男がいた。今では2ヶ国王と呼ばれている。王位には就いていない。だが、その権力はまさに王だった。いや、それどころか王を超えたとして大王とも呼ばれる。
ベルトラム・シュレンドルフ。ゴルシュタット王に息子を、リンブルク女王に娘を配した。ゴルシュタット=リンブルク二重統治。その統括者だ。
かつては武人として名を馳せ、今でも現役の軍人をも勝る体躯を有す。それは、質実剛健を旨とするゴルシュタットでは伝説ともなっていた。多くの武人の尊敬を受けている。
「まさかランリエルが勝つとはな」
「はい。これで東方5ヶ国が焦土と化す。そう思われていたのですが」
答えるのはダーミッシュだ。皇国軍敗れる。大陸全土に激震が奔ったこの大事件にも表情を変えない。
皇国は、その強大さを示す為か、それとも不敗を誇る為か、あるいはその両方か。動く時には大動員をかける。それだけに一度動かせば財政への負担は大きく、1人の皇帝の在位中に2度の討伐があった事は今までにない。如何に巨大皇国とて、その財は無限ではないのだ。しかも今回は、相手が5ヶ国を有するランリエルという事もあり100万を号する大軍だった。
ランリエルを生贄にしゴルシュタットが生き残る。その計画だった。自分が動いても皇国の目を他に向けられる揺らぎを欲していた。そしてランリエルが揺らぎを作った。誰も気にも留めないほど小さな揺らぎであったが、それを注意深く育てた。だが、まさか生贄になるどころか皇国軍に勝ってしまうとは。
遥か昔、50万を超える大軍を僅か数万で破った男がいた。しかも、奇襲などではなく正面決戦でだ。直属の騎兵を率い敵前で右に左にと動いて敵を誘導し、隙を作らせその隙間を縫うようにして突進し敵本陣を討った。まさに戦の天才。しかし、軍隊が体系化された現在ではそれも難しく、しかも皇国軍はその弱点となる本陣を後方に置いていた。どうやっても勝てぬはずだった。だが、勝った。
「見くびっていた積もりは無いが、結果的にそうなったか」
ベルトラムは己の見識の誤りを素直に認めた。知において、サルヴァ王子やアルベルドに勝るとは思ってはいない。だが、知を制御するのは賢。賢人ベルトラム・シュレンドルフは、知者サルヴァ・アルディナを恐れてはいない。
賢者が知者に勝つには正しい情報と状況認識が必要だ。その認識を改める必要がありそうだ。サルヴァ王子には100万の軍勢を打ち破る知略がある。そして、この大陸で100万の軍勢を揃えられるのは皇国しかなく、その皇国が敗れた。
軍事でサルヴァ王子を倒すのは不可能だ。それを大前提とする。ならば、軍事以外で戦えば良い。ベルトラムにとってそれだけと言えば、それだけだ。如何な優れた剣でも、鞘から抜かせなければ恐れる必要はない。もっとも、それもサルヴァ王子と敵対するならばだ。今はまだ、それを判断する時ではない。
「皇国では、歴代皇帝の例を破りランリエルへの再出兵も検討されております」
「皇帝在位中、2度目の出兵か。かなりの負担となるな」
それならばベルトラムにとって好都合だ。皇国の目がランリエルに向けば向くほどゴルシュタットへの圧力は弱まる。今では、事の発端がベルトラムへの非難であったと覚えている皇国人が幾人いるか。
「各国の動きはどうだ? ランリエルに擦り寄る者は出て来たか?」
「いえ。たとえランリエルに敗れたとはいえ皇国は健在。一敗したからとて、早々にその威光が消えうせるものではありませぬ」
「かなり、曇ったには違いないがな」
「はい」
「しかしそうなると、ランリエルはどうなのだ? 今まで友好的だったのが、掌を返したドゥムヤータなどを討伐するといった動きはないのか?」
「いえ。その動きもありませぬ」
「そうか。賢明だな」
かつては武人として名声を得ていたベルトラムである。その彼から見れば、ランリエルがドゥムヤータを制圧するのは戦略的に馬鹿げていた。取る力は有る。だが、戦略的に見えば、取れるから取るは通用しない。
確かにランリエルとドゥムヤータは海で隔てられているが、バルバールを経由し狭いテルニエ海峡を渡れば容易に軍勢は海を越えられる。軍事力からして瞬く間に制圧出来る。しかし、取ったとしてどうする。この状態で再度皇国軍が動けばどうなる。
皇国軍がドゥムヤータに向かえば、ランリエルは防衛の軍を向かわせるのか。皇国軍相手ならば大軍を送らなければならず、そうすればコスティラ方面に大穴が開く。
そして、ドゥムヤータに向かわせた軍勢をコスティラに向ける時の行動線は、地理的に見て皇国軍の方が遥かに短いのは明白である。
「しかし、ドゥムヤータに契約の履行を訴えております」
「契約の履行だと?」
「はい。ドゥムヤータは以前ランリエルから資金提供を受けていたのですが、その返済が滞っているのです」
「皇国軍が動いた時にドゥムヤータはランリエルと断交したからな。当然、その時点で返済も中断しただろう」
「ランリエルはその契約時に約束されていた担保を受け取るとドゥムヤータに申し渡しました」
「ほう。その担保とはなんだ?」
「タランラグラの譲渡です」
タランラグラ。2ヶ国大王とも称される男が、その地名を思い出すのにしばらくの時間を有した。
皇国軍100万を打ち破った偉業に国を挙げてひとしきり浮かれたランリエルら東方5ヶ国だったが、その中でも各国の軍首脳部らは既に酔いから醒めていた。頭から冷水を浴びてみた現実は、事態がさほど楽観視出来ないのに気付いた。
5ヶ国の陸海軍の高官達がランリエルに集結していた。今後の皇国への軍事面での対応を協議する為であるが、それには現状の分析がまず先だ。そこから見えた状況は、心地よいものではなかった。
20人は座れそうな巨大な机に、それを埋め尽くすほど大きな地図が広げられていた。立ち囲む者達は20人を大きく超える。皆、ひとかどの軍事の専門家達だ。サルヴァ王子ら各国の総司令達も居た。
これだけの者が揃う場で迂闊な事を言えば恥をかく。萎縮し無口になる者も多いが、その中でテチス海屈指の提督と呼ばれるライティラが地図を指差し皇国からランリエルへと進む。発する声にも怯みはない。
「先の戦いでは皇国はある意味、我らを見くびっていた。陸で一戦し打ち破れば、それで我らの軍勢は崩壊する。そう考えていたのでしょう。ですが、次は皇国も本腰を入れてくる。陸上だけではなく、全ての方面で万全を期すはず。それは海上にも及ぶでしょう。つまり、ランリエルの喉元。そこに剣を突き立てる。ここです」
海軍提督の指がタランラグラを囲むように動いた。
「ここを皇国軍が抑え、10万の兵。3百の軍艦。5百の輸送船を置けばどうなるか」
指がタランラグラから海を隔てたランリエルへと進む。
「いつでも、ランリエル本国に兵を送り込める」
軍高官の群れのあちこちから呻き声があがる。
「以前、バルバール兵1万が海上にいただけで、こちらは10万の兵が海岸線に釘付けとなったが……」
サルヴァ王子の視線が鋭い。海上からの攻撃の恐ろしさは身をもって知っていた。陸を進むより遥かに高速で移動する軍勢が、隙を突いて上陸し散々荒らし回った後は、こちらが手を出せない海上に逃げる。それを完全に防ぐには敵の10倍もの兵が必要だった。
「無論、10万といったのはあくまで例え。20万になる可能性もあります」
更に呻き声が上がった。わざわざ気が滅入る事を言うなと幾人かがライティラを睨む。だが、図太い海軍提督は平然としたものだ。
「分かっている。例えそれが5万だろうが、タランラグラを取られては我が方の敗北という事がな」
サルヴァ王子が地図に視線を向けたまま言った。
「我が方の海軍でそれを抑える事は出来んのか?」
「そうですな。皇国軍は内陸国。衛星国家のバンブーナに飛び地として軍港を持ち海軍を有しておりますが、軍艦の数は我らの方が多いです。もっともその差も僅か。内陸国にもかかわらず、それだけの艦艇を揃えているのは、流石は皇国というべきでしょう」
「ああ。海に接しているにもかかわらず、戦いが陸戦ばかりだと海軍の整備をしていなかった我が国とは大違いだ」
サルヴァ王子の顔に自嘲が浮かぶ。バルバールに遅れを取ったのもそれが原因だった。もっとも、カルデイ帝国を打ち破る前には確かに不要だった。不要な海軍を整備した挙句、陸戦戦力が目減りしそれでカルデイを倒せていなかったら本末転倒だ。やむを得ないといえばやむを得ない。
もっとも、ライティラにとってはそんな事情は知った事ではない。
「その通りですな」
と、相変わらず誰が相手でも歯に衣を着せない。いや、彼が歯に厚着をさせる相手は存在するが、その女性は、現在はバルバールに居る。
「ランリエルとタランラグラは距離が近過ぎるのです。流石に常時全艦を海上に置き敵艦を封じ込め続けるのは不可能。足の速い高速艇を配置して見張らせ、敵艦隊が出撃すればこちらも出撃して迎え撃つ事になりますが、それで間に合うかどうか。何せ、こちらが数で勝っているとはいえ、全艦で対しなくてはならない敵。全艦を集結させるだけでかなりの時間が必要です」
「初めから全ての艦艇を1ヶ所の港にまとめて置けないのか?」
「何百隻もの軍艦を接舷出来る港など、ランリエルにはありません。バルバールにも無い。艦艇の多くは海上にて投錨する事になりますが、それだと乗船下船に一々小船で行き来せねばなりません。いざ全艦出撃という時にどれだけの時が必要か。複数の港に分散している方がまだマシです」
「うむ」
「もっとも、敵もこちらの艦隊が健在な内は、無理な上陸作戦はしないでしょう。ですが、その危険が有るだけで我が方はそれに備えなければなりません。そして、ランリエルにその備えをすれば他の方面に大穴が開きます。例えばカルデイ帝国など」
その言葉に、カルデイ帝国軍の幹部達の顔が不快げに歪む。
これもバルバールとの戦いでの事だ。バルバール海軍の攻撃にランリエルは海岸線に大兵力を展開したが、するとバルバール海軍は、今度はカルデイ帝国を狙ったのだ。サルヴァ王子はカルデイ方面にも兵を割かねばならなかった。
「我が国とカルデイに備えの兵を置けば、我が方の戦力はすっからかん、か」
「そういう事ですな」
「つまり、皇国に取られるより先に、タランラグラを抑えねばならん。という訳か」
「その通りです」
こうなって見るとドゥムヤータがブランディッシュと争い資金提供した時に担保にタランラグラの権利を得たのは僥倖だった。しかも、ドゥムヤータからの返金は事実滞っている。ランリエルがタランラグラを抑えるのに何の障害もない。
「問題は、どう抑えるかだ」
サルヴァ王子の思案は、次の段階へと進んでいた。
俄かに、ランリエル宮廷内で議論が巻き起こった。タランラグラ出兵についてである。あの皇国を打ち破ったのだ。軍人達と違って戦力分析などしない彼らは、勝ったんだから自分達の方が強いと信じて疑わない。もはや怖いものなど無く、どこと戦っても勝利は間違いなし。下は市井の子供達から上は大貴族まで、どうやってタランラグラを攻略するかの議論に熱中し、自称軍事評論家が続出した。
一度も戦場になど出た事がない貴族達が、楽しい話題で一時を過ごす筈の社交倶楽部で物知り顔で議論を行うのだ。
「バルバールを経てテルニエ海峡を渡り、そこからタランラグラに進軍すれば数万の軍勢を送り込むなど造作もない」
「地図をよく見ろ。それだとドゥムヤータを通らねばならん。ドゥムヤータに軍勢を入れるなど、彼らが黙ってはいまい」
「何を言うか。奴らの契約不履行により差し押さえるのであろう。ならば、その受け渡しに最大限の協力をするのは当然ではないか」
「外交とは、そんなに単純なものではないのだ」
「左様。艦艇にて直接タランラグラに上陸すべきですな」
「これだから地図しか見ぬ者は困る。タランラグラは海底が隆起して出来た土地。海岸線はみな浅く、巨大艦艇が近づけばたちまち座標しましょう」
「何を言うかと思えば。軍隊の上陸作戦は貿易船が港に入るのとは違います。海岸線に近づけば海底を測量しながら進み、船底が海底に接触しないところまで近づいた後は、小船を出して陸に上がるのです」
議論に負けた者は顔を真っ赤にし、屋敷に戻ると軍事書を取り出し読みふけるのだ。お抱えの軍人を要する大貴族など、その者に講義させたりもした。
そしてその波は後宮にまで及んでいた。当然、アリシアの耳にも入る。
タランラグラ。初めて聞く名前だ。ほとんど国としての態をなしていないとも聞く。他の大陸から逃げてきた奴隷達がドゥムヤータの土地に勝手に住み着いたらしい。その土地の権利をドゥムヤータから譲渡された。
サルヴァ殿下は、本当にタランラグラを征服するのだろうか。いや、権利を譲渡されたのだからランリエルの土地。征服するのではなく、不法に占拠された土地を取り戻すのだ。そういう意見もあるらしい。
でも、その人々がタランラグラに住み着いたのは、もう百年以上も前だという。誰も住んでいない。いや、土が塩を含んで作物が育たず、人が住めるような土地ではなかった。だが、その土地に彼らは住み着いた。他に行くところが無いから。どれほどの苦労だったか。
サルヴァ殿下は、本当にその者達から土地を奪うのだろうか。そうしなければ、ランリエルが危ないとも聞いている。ならば、サルヴァ殿下はするだろう。
今夜、サルヴァ殿下が部屋に来る。手紙でそう連絡があった。殿下は、戦いの前に必ず私の部屋に来る。なぜ、戦う必要があるのか。まるで弁解するかのように。今夜も、おそらくその事についてだ。
私は我侭な女だ。無辜の民が大勢亡くなるのは可哀想。心が痛む。そう言いながら、彼らの命よりサルヴァ殿下1人の方が大事だ。そんな顔も知らない人が何万人死ぬよりも、サルヴァ王子1人を失う方が沢山の涙を流すに違いない。
人を愛するとはそういう事だ。人を平等に扱わないという事だ。愛する人の為に温かいご飯を作ってあげたい。愛する者を命がけで守りたい。どこの誰だか分からない人に、同じ事はしてあげられない。
でも、愛する人の命を守る為ならば、何の罪も無い人の命を奪って良いのか。
知らない。そんな事知らない。
かつてサルヴァ殿下がバルバールを攻めた時、私は攻めた方が悪いと言った。悪いに決まっている。だって攻めたんだから。バルバールにランリエルを攻める力はなかったのだから。ランリエルが攻めなければ平和だったのだから。
分かっている。詭弁だ。あの時は駄目でこの時は良い。そんな事、誰が決めるのか。誰が判断できるのか。
今回のタランラグラ出兵は、バルバールの海軍提督からの提案だという。そうしなければ皇国に負けるのだと。
バルバールは大国ランリエルに攻められ、生き残る為になりふり構わず酷い事もしたと聞いている。攻められたんだから仕方がない。でも、今回攻めるタランラグラは、そのバルバールよりも更に無力だ。彼らの言い分は正しいのか。
今回は勝ったが、それでも皇国はランリエルより遥かに大国だ。その皇国に再度攻められようとしているのだ。ランリエルは皇国と比べれば小国なのだから、生き残る為になりふり構わず酷い事をしても良いのか。それは正しいのか。
判断など出来ない。信じるだけだ。この人がそうするしかないというなら、そうなんだろうと。
だから、自分が言える言葉は1つだけ。
貴方を信じています。
サルヴァ殿下のする事が正しいのかどうかなんて分からない。私には分からない。でも、あの人を信じる事は出来る。それだけは出来る。誰にも文句は言わせない。誰がなんと言おうと、私はあの人を信じるのだ。
扉が2回叩かれた。きっとサルヴァ殿下に違いない。笑顔を作り、扉へと向かった。