第12話:壊れた心(2)
ミュエルは走りながらケネス様になんて事を言ってしまったのかと後悔し、涙が頬を伝った。自分はこの家の当主の妻なのだから自分の方が偉いのだ。などと考えているのではなかった。フィン・ディアスの妻として見て欲しい。それだけなのだ。
庭を駆け抜けて屋敷に辿り着く。普段は大人しいミュエルが駆けている姿に驚く使用人達から涙に濡れた顔を背け屋敷に入り、さらに駆け続けて自室へと飛び込んだ。
ミュエルの心は乱れに乱れていた。自分の小さな身体では持て余す大きな寝具に身を投げ出すと、枕に顔を埋めて嗚咽を洩らした。
ディアス将軍に嫁ぐのだと言われ、大好きなお父様とお母様と引き裂かれてこの屋敷にやって来た。本当はお父様とお母様と離れるなんて嫌だったのに……。
ディアス邸の人々は自分に優しくしてくれる。それは彼女にも分かっている。でも、それで両親と離れて暮らさなくてはならなくなった12歳の少女の心が癒されるものではない。
しかしそれでも堪えてきた。自分が弱音を吐いてはお父様とお母様を困らせる事になる。そんなのは嫌だった。だからミュエルはがんばった。
寂しさに堪え、言いつけ通り毎日勉強をし、ディアス邸の人々とも仲良くしている。ミュエルは一生懸命にがんばったのだ。
なのに! それなのに! 夫となるはずの男性は、いっこうに自分を妻として見てくれない。いや、それどころか夫は、従弟と仲良くするように言うのだ! ミュエルの心は悲しみに満ちていた。
夫となる人は、勉強をちゃんとしたと言うと良くやったと頭を撫でてくれる。でもそれがどうしたと言うのだろう? ただの居候とどう違うと言うのだろう? そう思うとミュエルの心はさらに輝きを失った。
素直で優しく思いやりのある光り輝く少女の心が、次第に冷え、その光を失っていく。自分はディアスの妻でなく、ただの居候……。それにミュエルは「気付いた」のだ。
ディアスは彼なりに、ミュエルの事を考えている積もりだった。自分のような父親よりも歳をとった男より、相応の年齢の男と一緒になった方がミュエルには幸せ。ミュエルの事を思いそう考えていた。
ディアス邸に彼女がやってきてから、まだ僅かな期間でしかない。その短期間でミュエルを娘のように思っている、などと言う訳ではない。
誰にでも笑いかけ素直で優しいこの少女は、誰もがその幸せを願わずには居られない。ミュエルはそのような娘だった。しかしディアスのした事は、結果的にミュエルの「存在の否定」でしか無かったのである。
妻としてやって来たミュエルを、彼は妻として扱っていないのだ。これ以上の侮辱が有るだろうか? ミュエルは、自分の夫になるはずの男に「要らない」と言われているのだ。
自分は、どうしてこんなに酷い仕打ちを受けているのだろう? 酷い仕打ちを受けても仕方が無い悪い娘なのだろうか? 悪い娘だからディアス様は妻にしてくれないのだろうか? ここに居る間ずっとこの仕打ちに堪えなければならないのだろうか? ミュエルの心に黒い染みが広がっていく。
――心が苦しい。こんなに苦しい事にずっと堪えなければいけないの? そう思うと心はますます冷えた。暗く、果てしなく長い洞窟に迷い込んだような絶望が心を支配する。どうすれば自分は楽になれるのだろう?
逃げたい……。ミュエルはそう思った。でも実家に戻れば、お父様とお母様はお困りになるだろう。ならば……楽になれる方法はひとつしかなかった。
ミュエルの心から一切の輝きが失われた。
庭から走り抜けて自室へと飛び込んだミュエルに、ディアス邸のみなが心配していた。
ケネスから、ミュエルとの会話の内容を伝え聞いたディアスもみなと同じように心配し、そして心を痛めていた。
もっとミュエルとよく話して、自分にはお前を妻にする積もりは無いんだという事をちゃんと伝えるべきだったか……。それを言わなかったが為に、彼女に期待を抱かせたのかも知れない。ミュエルが落ち着いたら2人でじっくり話し合おう。
晩餐の時間になってもミュエルは現れない。みなはさらに心配したが、今はそっとしておいた方が良いのではないか? そう考え、この夜の晩餐はミュエル抜きの寂しいものとなった。
夜も深けた頃、侍女の1人がミュエルを心配し、多少なりとも食べた方が良いのでは? そう考えて果物と飲み物を持ってミュエルの部屋に向かった。
部屋の前で扉を叩こうかと考え手を振り上げたが、拳が扉に当たる寸前で思いとどまった。ミュエル様が寝ていらしたら、起こしてしまう。
音を鳴らさないようにゆっくりとノブを回し部屋の中に入った。明かりも付いていなかったが、月明かりを頼りに室内はぼんやりとは見て取れる。
ミュエル様は寝ているのかしら? そう思ってベッドの上の寝具を見たが、掛け布団は乱れてはいるものの、寝ているにしては盛り上がりが少ない。
ミュエル様はどこにいらっしゃるの? この部屋の中に居るのは間違いないのだ。目を凝らして部屋中を見回すと、ベッドの横にミュエルが倒れているのを発見した。
ミュエルの様子がおかしかったという事は、彼女も知っている。もしかして、ベッドの縁で泣いてそのまま泣き疲れて床に寝てしまったのだろうか? 持ってきた果物と飲み物が乗った盆を一旦床に置いて、ミュエルに近づいた。
ミュエルを起こすのには一瞬躊躇したが、さすがにこのまま床で寝ていては身体を壊してしまう。小さくミュエルの身体を揺すった。だが起きない。仕方が無くもう少し強く揺する。さっきと同じだった。
そうこうしている内に、目は暗い室内にも慣れてきた。そしてあるものを発見した。
「っひ!」
短く悲鳴をあげその場にへたりこんだ。侍女が発見したのは、ミュエルの左の手首から床に広がる黒い染みだった。