第113話:黒幕
「よ、ようこそお越し下さいました」
「あ、ああ」
アリシアの声は裏返り、サルヴァ王子も言葉は少ない。
ごたごたが続き、2人が結ばれてから初めての王子の訪問だった。
アリシアの部屋に行きたいが、以前のように予告なしに行くのは躊躇われ、かといって、他の寵姫のように役人に訪問を告げるのもしたくなかった。それゆえ無為の日々を過ごしたが、ある時、ふと気付き愕然とした。
寵姫達から、殿下がお越しにならず寂しい夜を過ごしております。といった恋慕の手紙が王子に届く事もある。それに返事するのも当然可能だ。つまり、役人を介さず王子から直接アリシアへと手紙を出せば事足りたのだ。
こんな簡単な事に今まで気付かなかったとは……。自分の知能を疑い、サルヴァ王子は少し落ち込んだ。もっともそれは、知能の問題ではなく、その性格に起因する。政治、軍事に奇策を多用する王子だが、日常生活では生真面目であり、朴念仁でもある。女と会う為の小細工に頭が向かなかったのもやむを得まい。
王子からの、明日部屋に行く、との手紙にアリシアが胸を高鳴らせ、お待ちしております、との返答に王子は喜んだ。だが、いざ部屋で2人きりになると、初々しい少年少女のようにぎこちない。
「お、お酒でもいかがですか?」
「それでは貰おうか」
お互い、好意を向け合っているのは分かっている。だが、事実が先行しはっきりと言葉を交わしあった訳ではない。
「お前を愛している」
「私も殿下をお慕いしております」
と、抱擁し口付けの1つもするべきなのだが、いざ顔を合わせると、なまじ友人としての期間が長かった為、今一歩踏み出せない。特にアリシアは前回結ばれた後、それが無かったかのようにサルヴァ王子を部屋から叩き出した。その気まずさもある。
ぎこちない会話は弾まず、間を持たせる為2人は杯を重ね続けた。そして、なんとアリシアがテーブルに倒れこんでしまったのだ。
この状況で酔い潰れるか? サルヴァ王子は憮然としたが、こうなっては仕方がない。抱き上げ寝台≪ベッド≫へと運んだ。ゆっくりと彼女を降ろし、前屈みになった上体を起こそうとした、その瞬間、細い腕が首に巻かれた。
驚き、改めて彼女に視線を向けたが、僅かに顔を背け瞳は閉じられ、寝ているかのように見える。顔が赤いがそれが酒の所為なのかは見て取れない。だが、首に巻かれた腕は間違いなく意思を持って結ばれている。王子の上体は起こされず、アリシアの身体に覆いかぶさったのだった。
夜が明ける前にアリシアの部屋を後にしたサルヴァ王子は自室で一眠りし、昼前に執務室に入った。大量の書類と向き合い昼食を取った後、宰相が面会を求めてきた。
今日は宰相からの報告の予定はなかったはず。記憶を探りその結論を得たが、わざわざ来る以上は相応の必要があるのだ。ウィルケスに命じ部屋に通させた。
「何か問題でも発生したか?」
そうは言いながらも王子は落ち着いている。一刻を争う事故や他国の軍勢の侵入などは直接自分に報告が来るはずだ。
「はい。サルヴァ殿下のお耳にも入っているかとは存じますが、サマルティ殿下を次期国王に、という声が強くなってきております。私も抑えようとしているのですが、その数は増えるばかりです」
彼自身がサマルティ王子派の首魁なのだが、表面上は抑える側に回っている。抑えようとしても抑え切れずサルヴァ王子に進言する。その立場を取れる間は取っておくべきだ。
「分かっている。サマルティが次期国王になれば、デル・レイら周辺諸国との関係も改善されるというのだろう」
「殿下には、そこまでご存知でありましたか。彼らなりに国を憂いての事なのでしょうが、それだけに無碍には出来ません」
「そうだな。私は東に西にと、ランリエルの勢力を広げた。その時は英雄などと賞賛する者も多かったが、平和になれば、その英雄も用無しか」
「い、いえ、決してそのような……」
あからさまな物言いに宰相が慌てたが、サルヴァ王子はそれが民の本心であると理解していた。
「民衆が平和を謳歌している今、戦いを呼び込む者など邪魔者意外の何者でもない。もっとも、私が新たな領土を得れば、民衆はまた私を英雄と讃えるのであろうがな」
サルヴァ王子がここまで民衆というものを達観しているとは……。王子の器の大きさを感じ、宰相の背に冷たいものが奔った。自分はサルヴァ王子に劣るのか。自信の揺るぎ。恐怖にも似た戦慄だった。
サルヴァ王子が統治において成果を上げているといっても、所詮は競争相手を寄せ付けぬ揺ぎ無い地位によるもの。本来の能力としては自分が優れている。その自負があった。自分の能力への信頼。それが揺らいだ。
いや、言葉1つで何をうろたえる必要がある。武人であるサルヴァ王子が、武人としての言葉を吐いただけではないか。政治家としての王子に負けた訳ではない。
政治家としての能力ならば負けはしない。その言葉に己を支える。今ここで挫けてどうする。もはや賽は振られたのだ。後戻りは出来ない。
宰相の心の葛藤を知らぬサルヴァ王子の言葉は続く。
「私は王位継承権を放棄する気はない。デル・レイから求められ、それで平和が訪れるならと膝を屈すれば、他国の求めに応じて王を変えたと、消える事の無い汚名を我が国は受ける。それにだ。私に西侵の野心ありと王位継承権の放棄を訴えているのだ。それを飲めば、西侵の野心があったと認める事にもなろう」
「殿下の仰る通りで御座います」
確かにそのような考えもあるか。王子の言葉に一面の理があるのは認めざるを得ない。それゆえに王子の意思は固く自分から身を引かせるのは難しい。
こうなっては標的を代えるべきか。とはいえサマルティ王子を動かすのは得策ではない。サマルティ王子が自ら、自分が王になるべきだ! と、あからさまに動けば、兄を差し置いてと非難の的だ。やはり、周囲でお膳立てをするべきだ。
クレックス王を狙うしかないか。今までも言い続け拒絶されてきたが、それでもサルヴァ王子を相手にするよりは格段に易いはず。
「殿下のご決意、このヴィルガ、心に刻みました。サマルティ殿下を推す声は日に日に勢いを増しておりますが、時が経てば、彼らの目も覚めるで御座いましょう」
深く頭を下げ、王子の前から辞した。中々しぶといがクレックス王は善良なお方だ。もしデル・レイのみならず、皇国との戦いになればどうなるか。今まで皇国に滅ぼされた国の民がどのような目にあったか。それを説けば突破口はあるはずだ。
残された部屋で、サルヴァ王子は顎に手をやり宰相が姿を消した扉をしばらく眺めていた。その手が僅かに動いたのと口が開いたのはほぼ同時だった。
「どうやら、カーサス伯爵の報告の通りのようだな」
「宰相閣下が、サマルティ殿下を推す勢力の首魁ではないか? という例の話ですね。まだ、確証があるとまではいえないという事でしたが」
「そうだ。しかも従兄殿も噛んでいるらしいからな」
「殿下のお母上であるマリセラ王妃の兄上の子、という方でしたね。伯の爵位をお持ちで、セリオ伯を名乗っておいでだとか」
「あまり顔を合わせる間柄でもないが、そう無碍にも出来ん」
「さすがに、他の者達と区別無く、とは行きませんか」
相変わらず遠慮の無い副官に王子は苦笑を禁じえない。
「当たり前だ。母上の甥だぞ。それにファルト公爵家との関係も無視する訳にはいくまい」
ファルト公爵家はランリエル屈指の資産家であり、かつて財政危機に陥ったランリエル王家をその財力で援助し、現王妃であるマリセラを送り込んだ。サルヴァ王子の活躍により急速に王家の力は強まったが、今でもランリエル国内に純然たる影響力を持つ大貴族である。
「もしセリオ伯爵が、公爵の意を受けて動いているならば面倒だ」
「公爵にとっても、サマルティ殿下が王位を継いだ方が都合が良さそうですしね」
実際、公爵家からは多くの縁談がサルヴァ王子の元に持ち込まれていた。親子二代に渡り王妃を送り込めば公爵家の権勢は万全となる。だが、サルヴァ王子はその全てを断っていた。
ちなみに、サルヴァ王子の後宮に少なくとも公爵家の本流に連なる家の令嬢はいない。現王妃の血縁者を寵妃になど出来るか。という彼らなりの矜持があるらしい。
「とにかく、ファルト公爵家との全面対決は避けたい」
「やり合えば、勝てると分かっていてもですか?」
「当たり前だ。勝てるからとむやみに貴族達を粛清していけば最後には全ての貴族に背かれる。その時になって自らの暴虐に気付いても遅い」
「ファルト公爵家だけだと皆分かってくれませんか? ファルト公爵家の力を削いだからといって貴族達がこぞって離反するとも思えませんけど」
実際に力を持つ臣下を粛清し王権の強化を計るといった政策は歴史上枚挙にいとまない。そしてそれは悪評どころか、王家を強化した中興の祖と賞賛される事もしばしばだ。
「分かっている。これは私自身の戒めだ」
「戒め?」
「1つ潰しそれで問題が解決すれば、次に起こった問題もつい同じようにしてしまいかねない。その歯止めだ。潰さないで問題を解決する方法を徹底的に探すのだ」
その考えがある限り、考え抜いた結果潰すしかなかったとしても、次の安易には繋がらない。
「そうは言っても、向こうが敵対するならこちらは迎え撃つしかありません。あ、でも、宰相やセリオ伯爵はサマルティ殿下を担いでいるんでしたね」
「ああ。サマルティはあくまで利用されているだけ。そうしなければならないし実際そうなのだが、他の者は、弟を守る為、宰相と伯爵を人身御供とした。そう見るに違いない」
「サマルティ殿下をこちらに付ける事は出来ませんか? サマルティ殿下の口から、兄を差し置いて王位に就く気などない、と言って頂ければ、宰相達もサマルティ殿下を利用出来ないでしょう」
「いや、それが、はっきりと口にはしないが奴も王位を望んでいるようなのだ」
宰相の入れ知恵なのか、サマルティ王子は、私はお父上のお言葉に従うまでです。と一見従順な、その実、王位を伺える立場を取っていた。
「サマルティを差し置きルージをベルヴァース王家に送り込んだのが、奴なりに思うところがあったらしい。兄弟の甘さというべきか、奴への配慮が足りなかったのかもしれないな」
「そうは言っても今更です。ランリエルの影響下にある国で、サマルティ殿下を国王として送り込めそうなところはありません。今無理を言えば、それこそランリエルの横暴だと非難されてしまいます」
「ああ。デル・レイらもそうだが、ランリエル側の国々ですら自分達も傀儡とされるのかと警戒するだろう」
「こうなったら、やはり殿下ご自身が早々にランリエル王に就いた方が良いのでは無いですか? そうすればサマルティ殿下を担ぐ者達も諦めるでしょうし、クレックス陛下もそう反対はなさらないと思うのですが」
「確かにそうすれば、アルベルド王との格の違いで劣勢に立たされる事もなくなるが……。お父上もまだ40代半ばだ。退位するにはまだ早い」
サルヴァ王子とクレックス王は13歳違いでしかないのだ。
ウィルケスにとっては敬愛する上官が国王になるのは望むところだが、サルヴァ王子としては一般的には働き盛りの父を隠棲させるのも気が引ける。実際のところ今ですら激務なのを、内外の諸侯との謁見などで国王としての職務を背負うのを回避したい気持ちもある。そこを幾分甘く見ているウィルケスと、王族として十分理解している王子とでは認識に差があった。
「これが男女の問題で、他の男が自分の女に手を出そうとしているならば、男に別の女を宛がうという方法もあるのですが、サマルティ殿下にどこかの王位を与えて差し上げれば、それが一番良いのですけどね」
「弟と同じ女を取り合うのは、ごめんこうむりたいものだな」
その時、サルヴァ王子の脳裏に浮かんだのは、弟であるサマルティ王子ではなく、父であるクレックス王でもなく、アリシア・バオリスの姿だった。