第109話:美しき友情
とある一室で妖精が如きすらりとした肢体を持つ美女が鏡台の前に座っていた。淡い金髪は滑らかに流れ腰まで隠した。鏡に顔を近づけ間近にある自身と体面していた。
「私はアリシア様の親友。私はアリシア様の親友。私はアリシア様の親友。私はアリシア様の……」
繰り返し呟く。
コスティラ王国公爵令嬢ナターニヤ・バルィシニコフ。コスティラ王国がケルディラ王国と2つに分かれる前の大国クウィンティラ王国から続く名門中の名門の家柄だ。
彼女はサルヴァ王子の友人と言われるアリシア・バオリスに近づき、その人脈を使いサルヴァ王子の心を掴もうと目論んでいた。アリシア以外の寵姫からは一線を引き壁を作っているサルヴァ王子の、その城壁を乗り越えるのは困難であり、ならば城門の鍵を手に入れるべきなのだ。
だが、事もあろうにその鍵自身がサルヴァ王子の心を掴んでしまった。それは認めなくてはならない。ならば自分が出来る事は……。
自分に言い聞かせるように鏡に呟き続けていたナターニヤは、しばらくすると大きく息を吐き表情を引き締めた。彼女には珍しく’よしっ!’とでも聞こえてきそうな勢いで立ち上がると、サルヴァ王子の言葉を伝える為、アリシアの部屋へと向かった。彼女の普段の服装は柔らかい生地の物が多かったが、最近では生地が厚くなり少し地味になったと噂されている。今も深緑の装飾の少ない服装だった。
扉を軽く叩くとすぐに小柄な侍女が扉を開き部屋に招きいれられた。その時、一瞬鋭い視線が向けられたのは気のせいだろう。今までの態度を見る限り、この侍女は自分に憧れているはずだ。
「ようこそおいで下さいました」
アリシアは膝を折って一礼しナターニヤも応じた。アリシアはサルヴァ王子の返答が気にかかるのか、侍女が用意したお茶に口を付けるしぐさも落ち着きが無い。ナターニヤも紅茶に唇を触れさせ微笑んだ。
「サルヴァ殿下からお話を伺って参りました。気にかかる事があったので少し後宮から足が遠のいただけで、これからはまた以前のように私達の部屋にお越しになって下さるそうです」
「そう……」
サルヴァ王子は自分を想い、他の寵姫達の部屋に行くのを止めてくれるかもしれない。淡い期待を胸に秘めていたアリシアの声は弱い。俯き無意識に膝の上でスカートを握り締める。その赤みがかる手にナターニヤの白く美しい手がそっと添えられた。
「殿下にとって寵姫達の部屋を回るのは義務なのです。何も快楽のみを求めている訳ではありません。私とて、もし殿下が部屋にお越しにならなくなったとコスティラに居るお父様の知るところとなれば、私は叱責されましょう。我が家と殿下との関係にも良くはありません。お父様は、殿下に軽んじられたと考えるでしょう」
「それは……そうなのでしょうけど」
アリシアの後宮生活も長い。貴族達の倫理観もある程度は理解していた。ナターニヤの言っている事もそのそのような考え方があるのだとは知識として知ってはいるのだ。だが、知っているのと納得しているのとは大きな隔たりがあった。
アリシアの耳元にナターニヤの唇が近づき囁いた。
「サルヴァ殿下をお慕いしているアリシア様にはお辛いとは思います。ですが、殿下のお心を疑っては行けません。殿下も心からアリシア様を愛しております」
秘めた想いを言い当てられたアリシアは驚きに目を見開いたが、ナターニヤの顔を見る事も出来ず俯いたままだ。
「以前から殿下とアリシア様のお心には気付いておりました」
「ナターニヤ様……」
ナターニヤに向けた視線に秘密から開放された安堵と、秘密を知られた恐れが浮かぶ。
「アリシア様はリヴァル様への想いに、サルヴァ殿下へのお気持を閉ざしていたのではないのですか?」
確かにそうかも知れない。サルヴァ殿下に好意は持っていた。それは自覚していた。ただ、好意の種類から目を背けていた。
それはナターニヤの指摘通りリヴァルに操を立てる気持もあった。セレーナへの遠慮もあった。2人への裏切りとまではいわないが、後ろめたさは確かに存在した。
だが、結ばれた今、自分でも驚くほどリヴァルとセレーナへの罪悪感は心に影を落とさなかった。甘い妄想かも知れないが、2人は祝福してくれるのではないか。そうとすら考え、それは確信に近かった。
「サルヴァ殿下もセレーナ様を失った心の傷から、ご自身のお気持を表すのを恐れておいででした。アリシア様を愛していると知られれば、今度はアリシア様を失うのではと。だからこそ殿下はアリシア様にはご友人としての態度を貫かれていたのです」
事実は、ナターニヤにすら洞察しきれぬ葛藤が2人の間には存在するのだが、彼女の推測の矢は十分的の中に納まっていた。アリシアもその通りかもと頷く。
「ですが2人は結ばれてしまった。もう後戻りは出来ない。ならば2人が結ばれたのを隠さなくてはならない。殿下は、そうお考えです。アリシア様の為にも、殿下は今まで通りに振舞わなくてはならないのです」
「それは……殿下は今まで通り後宮に足をお運びになるという事ですか」
「そうです。アリシア様のお気持は分かります。愛する人が他の女性を抱くなどと考えるだけで胸が張り裂けそうです。女性ならば皆そうでしょう。私もそうでした」
「ナターニヤ様が?」
驚くアリシアにナターニヤが微笑む。
「貴族の令嬢は、皆平気だと考えておいでなのですか?」
「い、いえ、そんな……」
嘘である。平気だと思っていた。
「平気な訳ありません。皆、そういうものだと諦め、現実から目を逸らしているだけです。ただ……何かのきっかけでその現実に目を向けてしまう人も居ます」
確かにそうなのだ。セレーナがサルヴァ王子の妃になる。その噂が流れた時、王子は自分のものでは無い。その現実に目を向けてしまった寵姫が居た。セレーナの悲劇はそういう事なのだ。
「殿下は賢いお方です。貴女とはあくまで友人として接し、他の寵姫を平等に扱ってきた。誰もが貴女を敵とするより味方にした方が得。そう考えるようにです」
その言葉にアリシアははっとした。
あの人はずっと私を守っていてくれたのだろうか。姉の心境でサルヴァ王子を見守っていた。その積もりが、いつの間にか弟に守られていた。姉が知らぬ間に弟は成長し、苦笑しつつも姉を立てていたのだ。
アリシアの頬に涙が流れた。ずっと気付かないだけだった。自分はとっくの昔に王子の胸に抱かれていたのだ。
「サルヴァ殿下には、アリシア様も殿下が今まで通りにお振る舞いになるのに納得していると、私からお伝えいたしましょう」
「ナターニヤ様が?」
「はい。アリシア様も、ご自分で言うのは辛いでしょ?」
「はい……」
たとえどんな理由があり、それが自分の為であったとしても、やはり他の女性を抱けとは言いたくは無い。ナターニヤが代わりに言ってくれるならば、それに越した事は……。
「あ、あの……」
「なんですか?」
「ナターニヤ様は、殿下をどうお考えなのですか?」
王子が他の女性を抱くのは仕方がない。貴族令嬢達はそう割り切り目を逸らしているというが、ならばナターニヤはどうなのか。目を逸らすどころか、誰よりも現実を直視し、王子とアリシアが結ばれるのを手助けすらしている。
ナターニヤは、その間いがまるで聞こえていないかのように紅茶を手に取るとゆっくりと口を付けた。答えたのはお茶が半分ほどになった頃だった。
「私、アリシア様になろうかと思うの」
「私に?」
「ええ。アリシア様に」
「あ、あの。仰っている意味が……」
戸惑うアリシアにナターニヤは紅茶をテーブルに置き笑みを向ける。
「私、アリシア様とサルヴァ殿下、お2人の友達になりたいの」
「殿下の?」
「だって。2人を応援するならそうするしかないじゃない。それとも、殿下をお慕いしたまま、アリシア様と結ばれるのを見ていろと?」
「す、すみません。私、馬鹿な事を……」
「知らなければ良かった。知らなければずっと殿下をお慕いし、そのお心が自分に向くのを夢見て待ち続けていたでしょう。でも、知ってしまった。殿下のお心が自分に向く事など、もうない事を……」
アリシアに言葉は無い。無論、そもそもサルヴァ王子の心はナターニヤには向いておらず、アリシアに非は無い。しかしだからと言って、何も感情が動かぬほど彼女の心は無機物で作られているのではなかった。感じる必要の無い、だが避けがたい申し訳なさに包まれていた。
「ですから私、2人のお友達になるの。だったら、2人の傍に居ても良いでしょ?」
その心を表すように、ナターニヤの言葉はくだけたものだ。
「ナターニヤ様は……どうしてそこまで私に良くして下さるのですか?」
その声には戸惑いがある。今までも自分に近づこうとする寵姫は、彼女を利用しようとする者ばかりだった。
「今だから言いますけど、アリシア様に近づけばサルヴァ殿下にお口添え頂けると考えていました。でも……そのうちアリシア様を大好きになってしまったのです」
そう言って微笑み浮かべたが、その中には、利用しようと考えていた相手に好意を抱くなど、本末転倒と苦笑の色も見える。
「ですから、少しの間お2人のお傍に居させて下さい」
「少しの間?」
「サルヴァ殿下とアリシア様とのお子を抱いたらコスティラに帰りますわ。ですから、早くお願いしますわね。そうでないと、私、行き遅れてしまいます」
「殿下との子供だなんて!」
あまりに気の早い話にアリシアは慌てふためく。
「そ、それにナターニヤ様は、殿下にお相手を見つけて頂かないのですか?」
庶民の感覚では、飽きた愛人を押し付けるのかと信じられぬ話だが、王族の寵姫を娶るのは王家からの信頼が篤く名誉とされる。その為、王妃の座を諦めた寵姫の中には次善策として良い嫁ぎ先を世話して貰おうとする者も多数居た。
「他の方々にもお考えはお有りでしょう。ですけど、私は殿下に嫁ぎ先を世話して頂こうとは思いません。私、妻になるなら相手は国王だと決めておりますの」
ナターニヤは腰に手を当て、今までの妖精が如き儚い印象から打って変わって強い笑みを浮かべた。その笑みにアリシアは戸惑う。
ナターニヤは強がっているのだろうか? 国王としか結婚しないなど、いくらクウィンティラ王国から続く名門貴族といえども高望み過ぎる。だが、彼女の表情は自信ありげだ。
更に戸惑うのは彼女の印象の変わりようだ。いつもより少し大きく見開かれた瞳は力強く、口元の両端が吊り上った笑みは不敵さすら感じさせる。
「ここではお行儀良くしようと猫を被っておりましたけど、国ではお転婆で有名だったのですよ。でも、もうその必要もないですわよね」
「まあ。そうだったのですか?」
アリシアは驚き、且つ親近感を覚えた。他の寵姫から見れば、いや、サルヴァ王子から見ても、別に行儀良いとは見えないのだが、自分では精一杯行儀良くしている積もりなのだ。
「とにかく、サルヴァ殿下には今まで通り後宮にお越し頂きましょう」
「そう……ですわね」
「勿論、私の部屋にもお越し頂く事になるのですけど……。ご安心下さい。私、もうサルヴァ殿下には指一本触れさせません」
「え? そのような事をして大丈夫なのですか?」
寵姫としてあるまじき発言にアリシアは驚いたが、その様子に猫の毛皮を脱ぎ捨てた西国の令嬢はクスクスと笑った。
「あら。アリシア様も今までは殿下と触れ合う事など無かったと思っていたのですけど、違いましたか?」
「そ、それは……」
言われて見ればそうだった。しかし、あからさまな話に赤面する。前々から思っていたが、やはり貴族のご令嬢の方が、この手の話に羞恥心がないらしい。
「殿下が私の部屋にお越しになった時には、アリシア様のようにお話でもしていますわ。ですから、ご安心下さい」
重ねて安心するようにいうナターニヤにアリシアは救われた思いだった。自分の男と寝る女と頻繁に顔を合わせなければならないなど耐えられない。無論、他の寵姫も居るが、1人でも自分の心情を理解してくれる人間がいるのは言いようも無いほどの心の支えとなる。
ナターニヤの腰に手を当て不敵な笑みを浮かべる姿は、皆の前でのいかにも名門貴族のご令嬢然とした姿には無い力強さを感じる。それは今は亡き親友を思い出させた。
セレーナは、社交界では冷ややかとすら感じさせる毅然とした態度だったが、素の彼女は小動物のように素直で可憐だった。ナターニヤはその反対で、社交界でこそ儚げで優雅に振舞っているが、社交界での顔と違う面を持っているのは同じだ。
「じゃあ、お願いするわね’ナターニヤ’」
「ええ。任せて’アリシア’」
笑みを浮かべるアリシアにナターニヤも微笑む。その後手を取り合って笑い合い。いつしかアリシアの目から涙が零れた。ナターニヤがそっと抱きしめる。
だが、美しい友情を育む彼女達は、扉の向こうで聞き耳を立てる侍女に気付かなかった。