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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
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第108話:妖貴妃の涙

 日が沈み始め夕日が差し込む執務室。サルヴァ王子は、侍女に用意させた東の大陸から入ってきたお茶を味わい一息付いた。以前はロタがその貿易を独占し高価な物であったが、コスティラ経由でランリエルに入ってくるようになると格段に値段は下がった。それでも庶民が手を出せる物ではないのだが。


 今日も仕事がはかどり、かなりの案件を前倒しで処理した。その中にはランリエルから他の大陸への輸出品を作ろうというものもあった。


 東の大陸から来た船は一旦ランリエル王国沖を素通りし、コスティラの港へと向かう。そこで荷揚げし陸路でランリエルに届く。ランリエルから見ればどう考えても効率が悪いのだが、世の中はランリエルを中心に回っている訳ではないのだ。


 船が港に停泊すれば使用料を支払う。その為、停泊する港は極力少なくするのだ。ランリエルの港に停泊しお茶を荷揚げした代わりに載せる商品が無ければ、船は結局コスティラへと向かわなくてはならない。これでは使用料が多くかかってしまう為、コスティラに直接向かい、一回の寄航で済ませようとする。


 その後、陸路商品を運ぶのだが、当然その分価格は上昇してしまうのだ。その対策に官僚達は額をくっつけるようにして激論を行った。


「いっその事、港の使用料を減額するのはどうでしょうか。多くの船がランリエルに立ち寄り我が国の経済が活性化すると予測出来るのですが」

「だが、それをしてはコスティラやドゥムヤータの貿易の妨害と取られかねない。外交的に得策とはいえぬぞ」

「それはそうですが……」

「とはいえ、今の物流には無駄が多いのも事実、無策という訳には行きますまい」

「そうだな」


 こうして議論を尽くし、港の使用料は据え置き特産品を開発する事となった。船が自然とランリエルの港に停泊するのであれば、コスティラやドゥムヤータも文句は言えまい。


 サルヴァ王子が口を付けていた紙のように薄い白磁を受け皿に置くと、カチャリと小さく鳴った。この器も東の大陸からの輸入品で、とある貴族からの贈り物である。


 ちなみにこの時いつものようにウィルケスが後ろに控えてるのだが、王子はまるで部屋には1人きりであるかのような態度だ。良い悪いではなく、物心付いた時からほとんど常に侍女やら執事やら他人が傍に居る生活をしてきた貴族、王族の習慣病ともいえる。自分を補佐する人間が同じ部屋に居ても意識から除いてしまうのだ。ウィルケスの方でも、こういうものだと考えている。


 仕事が終われば、やはりサルヴァ王子の頭に写るのはアリシアの姿だ。


 ずっと想いを寄せてきた幼馴染の女の子にやっと気持が通じた少年のように心が高揚する。後宮を持ち散々寵姫達の部屋を訪れていながら何を言っているのだというものだが、そこは周囲の者達が勝手に女をあてがって来るという特殊な環境で育った王子である。感覚が常人とはかけ離れている。


 だが、それでも長い付き合いから、アリシアの性格は多少理解している。


 アリシアは、自分が他の寵姫の部屋に通うのを良く思わないのではないだろうか。


 ある意味、権力目当ての女性ばかりに囲まれてきた王子である。だが、アリシアは権力に興味がなさそうだ。扱いが分からず、折角結ばれたにも関わらず、怒らせては台無しになってしまうのでは、とも思う。


 あの夜の後、すぐにでももう一度アリシアの部屋へと向かいたいところだったが、他の寵姫の部屋に行く時のように担当の役人に告げるのは嫌だった。とはいえ、今まで通り突然部屋に行くのも躊躇する。


 この時、サルヴァ王子に東方の覇者の武名轟く武人の姿は微塵も無い。初めて女性と逢瀬を交わした後の思春期の少年のように、未来への期待と不安が交錯し決断力を欠いた。結局、アリシアの部屋にも行かず、他の寵姫の部屋にも足が遠のいたままだというのが現状である。


 流石にこのままでは不味いと思っているところに、アリシアから手紙が届いた。寵姫から手紙が来る事など珍しくも無いが、アリシアからは滅多に無かった。


 生真面目な王子は、はやる心を抑え仕事が終わるのを待って封を切ったが、一読すると落胆した。今宵お会いしとう御座います。という手紙ならばすぐさま飛んで行くのだが、なんと、ナターニヤと会って欲しいというのだ。書かれているのはそれだけで、自分との事は何も書かれていない。


 鼻歌を奏でだしそうな勢いで手紙の封を切ったかと思ったら、途端、見るからに肩を落とす王子を前に、ウィルケスは噴出しそうになるのを必死に耐えた。


 背後で副官がにやついているとは知らず、サルヴァ王子は思案した。今までに無かった事象が発生したのなら、その少し前の今までに無かった事象が原因なのだ。手紙が送られた理由は、あの夜の出来事だ。問題は、どうしてナターニヤに会えと言う内容なのかだ。


 軍略、政略ならば百戦錬磨の王子だが、このような問題に直面すると経験不足な事すら自覚していない。強敵と相対するかのように深読みし、結局、会ってみない事には分かりようがない、という、当たり前の結論に達したのはしばらく経ってからだった。


 その夜、久しぶりにサルヴァ王子は後宮に足を踏み入れた。常には前もって後宮の役人から寵姫に連絡させてから部屋に行くのだが、今日はその常ではない。ナターニヤには別の者を遣わし、役人は介さなかった。寵姫として抱く為に会うのではない。という意思表示である。


 目的の部屋の前で立ち止まり扉を叩くと、すぐに扉は開かれた。いつもなら淡い水色が白の柔らかい生地のドレスを見につける部屋の主人だが、今日は地味な栗色だ。生地も厚く、精々親しい友人と会う時の普段着。そのような物だ。


 王子に膝を折り、一礼する角度もいつもより浅く

「殿下。お越し下さり有難う御座います」

 そう言って部屋に招き入れるしぐさも流れるように美しいが媚びたふうでもない。


「私に話があるという事だが」

「おめでとう御座います」


「何がだ」

「アリシア様と、お心がお通じになったと……」


 以前からサルヴァ王子とアリシアの関係を怪しんでいた彼女から見れば、王子がアリシアの部屋から朝帰り――叩き出したとはいえ――した事。その後、王子の足が後宮から遠のいた事から推測するのは簡単だった。万一外れていても、誤魔化せると考えていた。


「アリシアに聞いたのか?」

 ナターニヤはその問いに答えず優しげに微笑んだ。


「私はずっと殿下のお心がアリシア様の元にあると思っておりました。アリシア様は、本当にお優しいお方です。お2人が結ばれ心から祝福させて頂きます」

「そ、そうか」


 寵姫からアリシアとの関係を祝福されるとは予想していなかった王子は戸惑った。その様子にナターニヤはまた微笑んだが、まるで同等の友人に向けたかのように親しげだ。


「初めてお会いした時から殿下をお慕いしておりました。その心に偽りはありません。なのに殿下のお心はずっとアリシア様のものでした。正直、少しほっとしています。これで殿下を諦める事が出来る」


 ナターニヤは、自分とアリシアとの関係を疑っている。そう考えていたサルヴァ王子だが、それでもこの言葉は意外だった。自分のアリシアへの気持を知れば邪魔をするのではないか。そう考えていた。


「お前の気持は嬉しく思う。すまない」


 その言葉にナターニヤがクスリと笑った。

「勿体無いお言葉です。ですが、アリシア様の前で、他の女性からの好意を嬉しく思うなどとは口が裂けても言うものでは無いですわよ」


 サルヴァ王子は苦笑し頷いた。その表情は柔らかい。だが、それも短かった。

「ですが、私もセレーナ様の件は聞いております。嫉妬にかられた女性に……。殿下のお心を知り他の者達がどんな行動を起こすかと考えると……。アリシア様のお身が心配です」

 途端、王子の視線が戦場にあるかのように鋭く光る。


「分かっている。同じ過ちを繰り返す積もりはない」

 王子自身、以前から考えていた事だ。それゆえに今までアリシアに一歩引いていた。その理性をあの夜に踏み越えてしまった。一度踏み越えれば、足を戻したところで足跡は消えないのだ。


「アリシアとの事を公にはすまい」


 アリシアを妃に出来ればそれが一番良い。だが、それが出来ぬ現実がある。ならば、隠し通すしかない。


「はい。私もそう思います。ですが、後宮では皆が騒いでおります。殿下が後宮の……誰の部屋にもお越しにならないと」

「そうか……」


 頭では分かっていたが、足が遠のいたままずるずると日が過ぎてしまった。そして大量の仕事を抱える王子と、王子の関心を得る事のみが存在意義の寵姫達とでは、時の歩みは平等ではない。王子の訪問を一日千秋の思いで待ちわびる寵姫にとって、王子が多少と考える日々は気が遠くなるほど長い。


「アリシア様は庶民の出だとか。政治的に結婚し、他に愛人を持つのも珍しくない貴族の習慣に馴染めないのではと殿下がお考えになり、他の女性達を遠ざけたいお気持も分かります。ですが、そのお気持がアリシア様への危険を誘います」

「分かっている」


「はい。殿下はお分かりになっている。ですが、分かっている事と、出来るという事は違います。アリシア様の為にも寵姫達の部屋には足を向けるべき。でも、アリシア様のお心が離れるのを恐れ、それが出来ない」


 まさにその通りだ。理性で考えれば、今まで通り他の寵姫達の部屋を訪問し、アリシアの部屋では朝帰りはしない。そうすれば誰にも不審がられない。だが、それが出来ないのだ。


 何年も前からアリシアを愛していた。その心を押し殺していた。あの夜の事は、ある意味、王子自身すら望んでいなかった。それだけに、どうすればアリシアの身を守れるか。その考えが無いまま事態だけが進んでしまった。


 答えられず苦悩し押し黙る王子の耳に僅かに呻く声がかすめ顔を上げると、ナターニヤが白く長い指で顔を覆っていた。小さな嗚咽と透明な雫が溢れている。涙に濡れた栗色のドレスが黒い染みを広げる。


「申し訳ありません……。ですが……ですが、アリシア様を想い苦悩されている殿下を見ると、どうしてそれが私ではないのかと……。アリシア様なのかと。私の為には悩んで下さらないのに、アリシア様には……」


 一癖も二癖もある女。ナターニヤをそう見ていた。いつもより生地の厚い身体の線の出ないドレスを身に纏っていても、その華奢な身体は誤魔化せない。今にも儚げに崩れ落ちそうに見えた。


「ナターニヤ……」

 思わず手を伸ばした王子からナターニヤは逃れる。


「いけません殿下。私は本当に、本当にお2人を心から祝福しているのです。ですが、今殿下に優しくされてはその気持が揺らいでしまいます」

「……すまない」


「いえ。私のほうこそ申し訳御座いません。今は私などより、アリシア様の安全を考えなければいけないのに……。でも……もう少しだけ」


 彼女は静かな嗚咽を漏らし続け王子は待った。目を向けるのも背を向けるのも躊躇われ中途半端に俯く。しばらくし視線の片隅でナターニヤの顔を覆っていた白い手が下ろされるのが見えた。顔を上げると泣き腫らした目元で微笑む。


「失礼しました。もう、大丈夫です」

「ああ」


 王子の言葉は短い。このような時に舌が動く王子ではないのだ。


「やはり、アリシア様の安全を考えれば殿下には今まで通り寵姫の部屋をご訪問して頂くのが良いと思います。ですが、殿下の口から言うのは心苦しいかと。アリシア様には私から説得致します」

「お前がか?」


「はい。アリシア様以外の後宮に居る者達は、家と殿下との繋がりを求めて送られてきた者達です。政治の道具です。私も含め……。その私達が殿下に相手にされないなら、生きている甲斐がありません」


 ナターニヤは自嘲を浮かる。王子も理解している事だが、正面から突きつけられると言葉も無い。


「アリシア様には、それを理解して頂くしかありません。殿下が寵姫達の部屋を回るのは義務であり、お心はアリシア様の元にあるのだと。ですが、だからこそ殿方からではなく、女である私から言った方が良いでしょう。殿方が言えば、都合の良い言い訳と受け取られかねません」

「そうかも……しれんな」


 頷く王子だが、その深層心理では、言い難い事をナターニヤが代わりに言ってくれるならという逃げの意識も働いていた。


「それでは、私の話はこれで終わりです」


 用事が済んだので部屋から出て行けという意味だ。寵姫がその主に言うには非礼な態度である。今までナターニヤのペースに飲まれていた王子も、流石に意外そうな目を向けた。ナターニヤは苦笑する。


「平気な顔をしていますが、これでも私、殿下のお心に私の心が刻まれていないのを知って傷付いているのですよ? 1人にさせて下さい」

 最後の’さい’は声が震えていた。


「すまない」

 背を向けた王子の耳に嗚咽が聞こえ、部屋から出た後もしばらく続いていた。

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