第107話:寵姫達の死活問題
東方の大国ランリエル王都の後宮。王宮の奥にあり、そこにたどり着くまで簡素ながら品の良い佇まいであったものが、そこに通じる扉を潜ると途端に品を損ねない上品な華やぎに包まれた。窓も心持ち大きく作られ太陽が廊下を明るく照らす。その後宮で大事件が発生していた。寵姫達に取っては、まさに存亡の危機である。
彼女達の存在意義が消えうせようとしていた。何の為に自分達は存在するのか。お茶会などで仲間と集まり、にこやかに談笑するその裏で不安が心を満たしどこか冷えた雰囲気だ。
近頃、サルヴァ殿下が部屋にお越しにならない。まさか、殿下に飽きられてしまったのだろうか。いや、それどころか、ついにお気に入りの寵姫が出来、その寵姫の元に足しげく通っているのだろうか。
もしそうならば、ついに王妃の座争奪戦の決着が付いたという事だ。いや、まだ望みはある。突然人がぽっくりと亡くなる事など珍しくは無い。それは、サルヴァ王子の寵愛を一身に受ける寵姫とて例外ではないのだ。
なに、自分が直接手を下さなくとも、殿下のお気に入りはあの方ですのよ。と噂を流せば誰かが始末してくれるに違いない。
彼女達は侍女に命じ、廊下に通じる扉に一晩中張り付かせた。眠る事すら許されない侍女は扉に耳をくっ付けたまま朝を迎えたが、王子が後宮に来た気配は無い。それが幾晩も続くと、寵姫達は他の誰の部屋にも王子は足を向けていないのだと知った。
そうなれば、敗北を認める事になると誰にも相談できなかった彼女達も全員の問題だ。優雅にお茶を楽しみながら意見交換を行った。
「それで、殿下はいつ頃から後宮に来られなくなったのでしょう」
「先々月のこの日には私の元にお越し下さいました」
「私のところには、その4日後に……」
こ、この人達には羞恥心というものがないのかしら。アリシアは唖然とし且つ呆れた。しかし彼女達にとっては、恥ずかしいなどとは言っていられない大事件なのだ。どうしても真相を究明しなくてはならない。
寵姫達が次々と報告する中、アリシアは蚊帳の外である。
「どうやら、サルヴァ殿下が後宮に参られたのは、この日にベニーニ伯爵家のチェレステ様の部屋に起こしになられたのが最後ですわね」
その結論に達した瞬間、チェレステへと毒矢のような視線が集まった。
「ち、違います! 私は殿下とは何もありません!」
無論、何も無い訳は無いのだが、ここでいう、何もとは、殿下の心を掴んだとか、妊娠したとかいう意味だ。だが、皆の不信の目は変わらない。チェレステは追い詰められ大量の汗が背中を濡らす。大げさではなく生死に関わる濡れ衣に、救いの視線が彷徨う。この手の争いを好まないアリシアならばきっと助けてくれるはずだ。
しかし、その頼みの綱のアリシアの視線も鋭かった。チェレステは絶望し、口を開く事も出来ない。そして事実、アリシアは怒っていた。
あの夜、サルヴァ王子と結ばれた。でも、私の部屋に来た2日前に、別の女の部屋に行っていたの? サルヴァ王子は意図してそうした訳ではないが、結果的にそうなった。
所詮アリシアは本来ただの村娘でしかなく、その倫理は王族、貴族達とはかけ離れている。頭ではなんとなく理解しているものの、いざ自分がその立場となれば、王子が他の女性と頻繁に関係を持っている事実に冷静ではいられない。
セレーナは、よくこんなのに耐えていたわね。と心から思う。
とはいえ、自分と結ばれる前なのだからと、何とか冷静になろうとも思うのだが、やはりムカついて来る。いやいや、腹を立てても仕方が無い。もっと楽しい事を考えよう。
えーと。あれだ。セレーナの時は他の寵姫の部屋に行っていたのに、自分と結ばれてからは他の寵姫の部屋には行っていないのだ。それを考えると、なんとなく気も晴れてくる。
それにだ。王子と結ばれたとは言っても、所詮一夜限り。その可能性もあったのだ。それを考えれば、この状況は王子の気持が気の迷いではないと言えるのではないか。
だが、アリシアの心境が変化している間にもチェレステは追い詰められていた。命の危機に、どうにかして自分以外の者に責任を押し付けようと必死で記憶を探る。
「で、でも、最後にサルヴァ殿下がご訪問なされたのは私の部屋ではなく、ア、アリシア様の部屋ではないのかしら」
自己保身の為とはいえ、ボスに歯向かう恐怖に声が上ずった。皆の視線がアリシアに向けられたが、その瞳には戸惑いが浮かんでいる。
え? アリシア? サルヴァ王子の親しい友人なのは認める。自分達はその権力にひれ伏している。だが、寵姫、として見た場合、アリシアは寵姫達の中では最年長の1人であり、家柄では最下層ですらなく圏外である。そして、最も重要な美貌でも最下位だ。市井の基準で見れば十分美人なのだが、容姿自慢のご令嬢がその財にものを言わせて磨き上げた美貌とは比べるべくも無い。
「そんな事、あるはずが無いではありませんか」
ある寵姫がつい口を滑らしたが、アリシアの冷たい視線に気付き青ざめる。
「い、いえ。決してアリシア様がサルヴァ殿下のご寵愛を受けるはずが無いと言うのではなく、そ、その……、アリシア様が原因であるはずが無いと……」
同じよね? と、寵姫達が視線を交わす。だが、彼女達も口には出さないが同じ気持だ。人には相性というもの上がり、好みというものがあるのだが、教養があり家柄も良く若くて――彼女達の基準の――美しい女性が優れているという価値観に囚われている。
そしてアリシアが寵愛を受けるはずが無いという雰囲気をアリシア自身も感じた。
気分の悪い人達ね。怒鳴ってやろうかとも考えたが、それは思い留まった。彼女達とは違い、サルヴァ王子と結ばれたという話を人前でしないだけの羞恥心は持ち合わせていた。嫉妬にかられた寵姫に刺されて命を落としたセレーナの事もある。あまり迂闊に言わない方が良い。
サルヴァ王子の心を掴んだのはアリシアではないはずだ。だが、王子が最後に足を運んだのはアリシアの部屋。その堂々巡りの状況を打破したのは、今まで傍観に徹していたナターニヤだった。
「ですが、その時にアリシア様の部屋に王子がいらしたというのは、あの時の……事ですわよね?」
「そういえば……」
と皆も頷く。
そう、アリシアがサルヴァ王子を部屋から’叩き出した’事件だ。大国の第一王子に対し、そんな事をして良いのかと皆は驚愕し、それが許されるアリシアの権威に改めて恐れ入ったものである。
「もしかして、サルヴァ殿下はアリシア様が怖くて後宮に来れなくなったのではありませんか?」
それは冗談めかしたものだったが、アリシアが寵愛を得たという話よりはよっぽど信憑性があった。
「きっとそうですわ。アリシア様がサルヴァ殿下をお怒りになるから……」
「サルヴァ殿下は、アリシア様に怯えてらっしゃって、後宮に来れなくなったのですわ」
こ、こいつら。
好き放題な彼女達にアリシアもムカつくが、とはいえ、やはりサルヴァ王子と結ばれたとは言えない。
「サルヴァ殿下は、この大陸に名を馳せる武人です。私などを恐れるはず無いではありませんか」
「でも……」
その武人を叩き出したわよね? と、寵姫達は視線を交わし頷く。
「まあ、皆さん。よろしいではありませんか。サルヴァ殿下のお心がどこにあるかは、殿下ご自身にしか分からぬ事。ここで騒いだところで、どうとなるものではありませんわ」
アリシア王国の宰相たるナターニヤが諌めたが、流石に彼女達も後には引けない。これには自分達の存在意義がかかっているのである。
「ですが、実際にアリシア様は殿下を叩き……。い、いえ、アリシア様のお部屋に足をお運びになってから後宮にお越しにならなくなってしまっているのです」
アリシアとしては、ここはうやむやで終わって欲しいところだ。更なる仲裁を期待し、がんばれナターニヤ、と心の中で応援する。
「それは確かにそうですわね。でしたら、アリシア様からサルヴァ殿下にお声をお掛けして頂いてはどうでしょうか」
「え? 私からですか?」
「はい。アリシア様から、殿下には今まで通り後宮にお越しになるようにお願いして頂ければ、殿下もお心が軽くなると思うのです」
どうして私が!?
頭では、頭では分かってはいるのだ。王族が後継者を残す為に後宮を持ち、女を抱くのは義務でもある。貴族のご令嬢はそれを理解している。サルヴァ王子を命を賭けて愛したセレーナすら、王子が自分と居る時だけは自分を愛してくれている。それだけで満足していた。
だが、アリシアの感覚では、頭では分かっていようと何だろうと平静でいられる話ではない。どうして王子が他の女を抱くのを推奨しなくてはならないのか。
「皆さん。私を買いかぶっておいでですわ。私如きの言葉で殿下のお気持が変わるとは思いません」
当然断ったが、寵姫達は引き下がらない。
「ですけど、アリシア様はサルヴァ殿下を叩き……い、いえ、大変親しいお方。アリシア様のお言葉ならばサルヴァ殿下も、お耳を貸して下さると思うのです」
「そうです。アリシア様は殿下に暴言を……その……多少強く言っても許されるほど親しくしておいでです。せめて私達のところだけにでも足を運ぶように言って頂けませんでしょうか」
この人達頭がおかしい!
今ここに居るのは、アリシア派のお茶会仲間であり、少なくとも表面上は親しい友人達だ。どこの世界に、友達同士で男を共有しようという話があるのか。だが、実際にここはそういう世界なのであり、アリシアこそが異邦人である。
いつもはアリシアに逆らうなど夢にも思わぬ彼女達だが、今はそんな事を言ってはいられない。数人がかりで詰め寄られアリシアも圧され気味だ。しかし、どうしても自分から王子に、他の女のところに通えなどとは言いたくない。
話は平行線を辿り、アリシアは劣勢になりつつも持ち堪えているが、それにも限度はある。だが、折れる気は無い。しつこい彼女達にイラつき、いっそ、怒鳴りつけて追い返してやろうか、という気持が湧き上がってくる。その破裂寸前の状況を打破したのは、またもやナターニヤだ。
「皆さん。あまりアリシア様を困らせるものではありませんわ」
と皆を諌めると今度はアリシアに視線を向けた。
「アリシア様からサルヴァ殿下に言い難いのであれば、私からお伝えいたしましょう。殿下が後宮にいらっしゃらなくなったので、もしかして殿下のご不興をかったのではないかと皆が気に病んでいると。アリシア様もそれでよろしいですわね?」
本当にアリシアが王子を叩き出したのが原因ならば、それでは解決しないのだが、アリシアとの話は平行線だ。とりあえず次善策として寵姫達は渋々頷いた。
アリシアとしても、頭では分かっている。自分からは言いたく無いと言う感情からの拒絶だ。それでも気は進まないが、だが仕方が無いとアリシアも渋々頷く。
「それでは、私から話があるとサルヴァ殿下にアリシア様から手紙を書いて頂けますか?」
「私がですか?」
「はい。私からお手紙を出し、会って貰えないとなれば……私、ここには居られなくなってしまいますわ」
もしそんな事になれば、ナターニヤの面目は丸つぶれだ。面倒を押し付けたという負い目もある。
「分かりました。殿下には私からお手紙を出しましょう」
「ありがとう御座います」
ナターニヤは椅子から立ち上がり大げさに膝を折って礼をして見せた。美しい顔に浮かんだ思惑ありげな笑みを隠す為に。