第105話:引き裂かれた家族
ドゥムヤータがブランディッシュと経済的消耗戦を行っている間も他の国々の時計が止まっていた訳ではない。彼らも彼らの時間を生きていた。
デル・レイ王アルベルド率いる反ランリエル同盟。弟サマルティを次期王に推す勢力。それら複数の問題に頭を悩ませていたサルヴァ王子は、アリシア・バオリスとついに結ばれ浮かれた。だが、現実にそれらの問題が消え去った訳ではない。彼らは王子の幸せを祝ってくれる親しい友人ではないのだ。
特にデル・レイ王アルベルドは精力的だ。彼こそは対外的にサルヴァ王子の一番の強敵と見られる人物である。皇国の衛星国家デル・レイは国力こそランリエルに及ばぬが、皇国とまで敵対する意思のないランリエルからの先制攻撃を受ける心配はない。その優位は人々が思うよりも遥かに大きい。
初めの一撃を思いっきり助走を付けて殴れる権利を有していると考えれば、それがどれだけ利するか分かるだろう。アルベルドは助走を付けるべく着々と準備を進めている。
その日も腹心のコルネートはアルベルドの執務室に呼ばれていた。30も半ばを過ぎるが、20代前半にも見える童顔の男だ。報告する声も、その童顔に相応しく若々しい。
「今のところサルヴァ王子に動きは見られません」
無論、ここでいう動きとは軍事面、特に反ランリエル勢力に対しての軍事行動を指す。内政面の事業は日々進めている。
「あれだけ挑発したのに動かん。やはり、誓約書に署名させられなかったのは痛いな」
アルベルドの声は不満げだ。リンブルク南部を放棄するというアルベルドの一手もサルヴァ王子にとっては十分痛手である。だが、本人から見れば不十分だった。彼はサルヴァ王子を痛め付けたいのではなく、倒したいのだ。
「ただ、ランリエル国内で思わぬ動きがあります」
「思わぬ動き?」
「は。サルヴァ王子を廃し、継承権第二のサマルティ王子をランリエル王に推そうという動きがあります」
「分からんな。第二王子を推して誰が納得するというのだ」
コルネートに人の悪い笑みが浮かんだ。
「デル・レイ王国のアルベルド王が納得いたしまする」
「私がだと?」
「反ランリエルの国々が恐れているのはランリエルがこれ以上西に領土を広げる事だ。だからそれを主導するサルヴァ王子を廃嫡すれば、反ランリエル勢力は納得し争いは終わり平和が訪れる。彼らはそう主張しているのです」
「は! 私の意志も確かめず、勝手に話を作って勝手に納得しているというのか。馬鹿馬鹿しい」
アルベルドの顔にも皮肉な笑みが浮かぶ。
「だが……。それに乗るのも悪くないな」
「乗りますか」
「ああ。ケルディラ東部の返還をランリエルが渋るなら、こちらから奪還に動こうかとも考えていたが、先にこの者達を使って揺さぶるのも悪くない」
停戦の条件としてランリエルに譲渡したケルディラ東部である。それを取り返すのは、本来こちらの契約違反だが、今はケルディラ東部は返還するのが当然という世論だ。ランリエルが返さないのでやむなく行動に移した。その言い分が通る状況である。無論、ランリエルは納得しない。だからこそ、対立を続けたいアルベルドの思惑と一致する。
だが、軍事力に勝るランリエルを攻めるのに、ケルディラ、ロタが二の足を踏むのも確か。彼らの説得と準備は一朝一夕にはかなわず、その間を埋める策としてランリエルの第二王子を推す勢力と手を組むのも良い。
「それでは、早速、第二王子派の交渉相手を見極めましょう。ですが、現在ランリエルの実権を握るサルヴァ王子と表立って敵対できる勢力は皆無。その首謀者は、幾重にも閉ざされた扉の向こうに隠れているはず。探し出すのに多少時間が掛かるかも知れません」
「だが、その幾重の扉も、所詮鍵は1つだ。扉を開けようとするのではなく、鍵の後ろを付いて歩くべきだろうな。そうすれば扉の方で勝手に開く」
「なるほど。では第二王子の監視に注力致しましょう」
第二王子を王位に就けるならば、首謀者はそれによって利益がある者だ。そして、第二王子に自分の存在を隠していては利益は得られない。後になってから、貴方を王位に就けたのは実は私だったのです。と名乗り出たところで意味は無いのである。
指示を与えた後、ロタの動きについても報告を受けた。前ロタ王朝の王都であったロデーヴから、それより北西に35ケイト(約298キロ)ほどにあるシャトワールを新たに王都を定めるという。
犬猿の仲であるドゥムヤータに近いロデーヴを、その危険を認識しながらも王都としていたのは貿易の利益があったからだ。貿易の利がなくなった以上ロデーヴに拘る必要はない。とはいえ北に避けるとしても、今度はランリエルを警戒せねばならず、サヴィニャック家の本拠地サヴィニャックは北に寄り過ぎ適さない。
本来ならば自らの本拠地を王都としたい新ロタ王リュディガー・サヴィニャックだったが、やむを得ず他に地の利を求めたのだ。
「とはいえ、王城、城下町の建設は5年から10年は掛かりましょう。それまでは、今まで通りロデーヴを王都とするようです」
「まあ、そうであろうな」
防衛だけを考えれば、以前、デル・レイやケルディラからの援軍をバルバールに阻止されたロデーヴより、実はランリエルとの最前線となるサヴィニャックの方がマシだ。だが、王家の重要な役目として、貴族達と面会しその陳情を聞くというものがある。それによって貴族達は王家に従うのである。自分達の為に働いてくれぬ王家には、貴族達も従う義理は無いのだ。
かつてとある国では、王妃がそれを面倒くさがって離宮に引き篭もり、その結果、いざ国難となった時に貴族達が力になってくれず王家が滅んでしまったという話まであった。最前線の防衛拠点でしかないサヴィニャックに貴族達は集まらないのである。
報告が済んだコルネートが退出してしばらくすると、次に、アルベルドの異母兄であるナサリオの妻フィデリアが面会を求めてきた。アルベルドはすぐさま通したが、彼女は聡い女性だ。慎みある淑女として例え義理の弟の執務室とはいえ男性と2人きりにはならない。融通がきかなそうな痩せた若い侍女と長年仕える初老の侍女が後ろに控えている。
デル・レイ国民から’女神の歩み’と呼ばれる頭部が全く上下しないすり足で滑るようにアルベルドの前まで進むと流れる動作で頭を下げる。全く無駄の無い動きだが、それでいて無機質なものは感じさせない。
礼儀を尽くすのは相手への尊重だ。そして相手が自分を尊重してくれるならば、自分も相手を尊重しようと考えるものである。完璧な礼儀を尽くす彼女を前にすると、その者も彼女に導かれるように礼儀正しく紳士、淑女たらんと心掛けるのだ。
彼女には逸話があった。まだナサリオと結婚する前の少女と呼ばれる年頃の話である。舞踏会に招待されたのだが、ある土地の境界問題で揉めている2人の貴族が同時に招かれていた。
だが、そんな2人が顔を合わせれば口論となりかねないのは容易に想像できる。折角の舞踏会は台無しであり、両者の名誉に傷も付く。また、他の参加者もどちらに先に声をかければよいのか。後から声をかけた方との関係もギクシャクとしたものとなる。
このような場合、主催者は片方を招待しないのが慣例だ。だが、手違いで両方に招待状を送ってしまったのだ。受け取った方は、慣例通り相手は招待されていないと考え快く参加したのであった。だが、舞踏会お会場で鉢合わせした。お互い相手を無視しつつも一触即発である。
ピリピリと張り詰める空気の中、踊る者も少なく舞踏会は盛り上がらない。主催者の伯爵が頭を抱え、招待状の手配を任せた執事をどうやって懲らしめてやるかを考えているその時、フィデリアが会場に到着したのだ
彼女は愛らしく、それでいて完璧な作法を持って人々に膝を折って挨拶して回った。そして、ただそれだけ問題は解決したのだった。
後に争っていた両者はそれぞれ同じように語った。
「あの少女の前で、大人気ない振る舞いをしているのが恥ずかしくなった」
どちらともなく相手に近づき、声を荒げる事無く冷静に話して見ると双方誤解があるのが判明したのだ。領土の境界にある川が氾濫して川筋が変わり、目印としていた岩や木なども流され、別の岩や木を目印と勘違いされていたのである。
彼女が現世の女神とも呼ばれるのはその容姿だけが要因ではないのだ。そして、彼女の神格化を目論むアルベルドによりその逸話もデル・レイ国内に広められた。大陸に君臨する皇族の一員である事も相まって彼女の肖像画を飾る者まで現れている。
その彼女を前に、アルベルドもいつも以上に礼儀正しく優雅に一礼する。だが彼の場合、彼女に導かれるというより、過分に良き王、弟として振舞おうという意識があった。
「そろそろ皇国に帰ろうかと思います」
「我が国に何かご不満でもおありですか?」
「いえ。まさかそのような事はありません。ですがユーリと共にデル・レイにお招きにあずかり2年になります。ユーリももう10歳ですし、十分に見聞も広まりました。いつまでもお世話になっている訳には参りません」
成人男性の遊学ならば、数年、長い時では10年以上もの間、国々を歴訪する事も珍しくないが、10歳にも満たず母親も同行していると考えれば、なるほど2年は長い。
「もうそんなににもなりますか。義姉上やユーリと過ごすのが楽しく……月日が経つのも忘れるとは、こういう事をいうのでしょう」
アルベルドの本心である。もっともフィデリアやユーリと日々を過ごしたからだけではなく、ランリエルとの戦いに没頭していたからもあった。その意味では彼の日々は充実している。
「はい。この国の皆様は本当に良くして下さり、私もつい甘えて長居してしまいました」
「いえ。私や民衆も、御2人にはもっと滞在して頂きたいと考えております。義姉上とユーリが帰ってしまうと知れば、皆悲しむでしょう」
「大げさですわ」
「義姉上の方こそ、ご自身を分かっておいででない。義姉上が考えているより遥かに、義姉上は民に慕われているのです。帰国すると知れば民は暴動すら起こしかねません」
もっとも、そこまでフィデリアが神格化されているのはアルベルドの世論操作によるものだ。
フィデリアは微かに眉間に皺を寄せた。その困った表情すら美しく、男だけではなく女ですら我が事のように心を痛め、どうにかしてその苦悩を取り除いてあげればと考えるのだ。そしてそれは、アルベルドですら例外ではない。
「無理を言って申し訳ありません。義姉上を困らせてしまいましたか。義姉上の仰るとおりです。私からも兄上に手紙を出しましょう」
「よろしくお願い致します」
フィデリアからもナサリオに手紙を出すだろうし、それはアルベルドにも分かっている。だが、自分の手紙だけを昼夜馬を駆けさせ先に届けなくてはならない。
今皇国では、皇帝パトリシオと宰相ナサリオが対立していると噂されている。それを影で煽っているのはアルベルドだ。万一ナサリオが罪を着せられた時に、フィデリアとユーリだけは助ける為とデル・レイに避難させている。少なくともナサリオはそう信じている。アルベルドが信じさせたのだ。
皇帝と宰相の対立も2年以上継続し、ナサリオ本人が今だ無事なのだから考え過ぎともいえるが、最愛の妻と息子の命がかかっているのだ。警戒してし過ぎる道理は無い。ナサリオもそれは分かっているが、アルベルドの手紙はそれに念を押すものだった。
結局、ナサリオからは、今しばらくデル・レイに滞在するようにとの返事が届いた。美しい母子は愛しい夫、尊敬する父の元に戻らなかった。次に顔を合わせる時が今生の別れとなるとも知らずに。