第103話:天秤
ブランディッシュ軍3万を国王ローランドが自ら率いる。それが実現したのには、ドゥムヤータ王国選王侯シルヴェストル公爵の軍事の相談役ジル・エヴラールが推察した軍事的意味のみが原因ではなかった。軍事とは現実のみが支配する世界であるが、王の出陣は更なる現実があった。
ドゥムヤータ軍が3度目となるルバンヌ城奪還の兵を挙げたとの報に、ローランド王は怒りをあらわに出陣を命じた。通行税の引き上げに反対するドゥムヤータ軍をシンシナ平原にて破り、これで莫大な利益を得られる。そう考えていたにもかかわらず、戦いは続き貿易は止まったままだ。目の前の餌に有り付けぬ猛獣が如き我執に燃えていたのである。
「今度こそだ! 今度こそ、ドゥムヤータの者共に思い知らせよ! ルバンヌを守るだけが使命と思うでない。ドゥムヤータ軍全てを虜とするのだ!」
しかし、お預けをくらい苛立つ者は国王ばかりではない。王の命令で出陣する貴族達は、王以上に怒り、いや、それをも通り越していた。王の従弟にして有力貴族たるバートレット公爵が貴族達を代表し国王と対決したのである。
「お待ち下され! もはや我らは出陣致しませぬぞ!」
「お前達、王命に逆らうか!」
「簡単に出陣せよと仰るが、度重なる我らが出費、どれほどになるとお思いか!」
「出費だと! そのような物、ドゥムヤータを屈服させればいくらでも取り戻せるのが分からぬか!」
「そのお言葉、聞き飽きましたぞ!」
「な、なんだと……」
従弟といえど臣下。それが逆らうなど夢にも思わなかった王は絶句した。王と公爵の睨み合いが続き、大臣達が必死で割って入った。
「陛下。度重なる出兵に公爵ら貴族達が苦しむのもごもっとも。今は慰労の言葉を授けられ、慰撫なされるのがよろしいかと」
と王に訴え、
「公爵殿。国王陛下に何たるお言葉。さあ、早く非礼を詫びるのです。さすれば、英邁なる国王陛下もお許し下さるでしょう」
と公爵を宥める。
だが、臣下が主に楯突くなど余程の覚悟が無くては出来ない。公爵も今更後には引けず、王は王で、逆らう臣下を許せない。しかし敵はこの時にも城に迫っている。今は争っている場合ではなく、とはいえ、公爵ら多くの貴族達は出兵拒否。このままでは出兵出来てもドゥムヤータ軍3万にも満たない。やむを得ず、国王直属の騎兵隊や旗本をも動員し3万という数を揃えたのだ。
ドゥムヤータを片付けた後には、出兵拒否した者共に目に物見せてくれる! 国王は心に誓い出陣したのである。
ローランド王率いるブランディッシュ軍は、国境を超えルバンヌ城を通過しジョイブール砦前面に展開した。とはいえ、実際には王が示す方針に沿って総司令のクルサードが指揮を執る。
「砦を落とすだけではすません! ドゥムヤータ軍本隊も叩き潰し、この戦を終わらせるのだ!」
「は!」
クルサードは跪き拝命したが、その心の内では、簡単に言ってくれる、と首を振った。
ローランド王の要求を満たすのは現実的に見れば困難だ。双方3万で同数と言っても、国王直属の精鋭が居る分、戦力的には上回っているが、敵を圧倒するほどでもない。
一縷の望みは、同数という事でドゥムヤータ軍が陣から出て決戦に応じてくれる事だったが、彼らはいつも通り陣に引き篭もり出て来ない。こうなればクルサードに出来る事は1つだけだった。
「同数の兵で固められた陣に力攻めするのは損害が大き過ぎる。ゆえにジョイブール砦を標的とする」
「しかし砦を力攻めするのも損害が大きくなるかと思われますが」
「分かっている。あくまで国王陛下への建前だ。激しく砦を攻めていると見せかけ戦力の消耗を抑えよ。今、我々が出来るのはそれしかない」
幕僚達に言い聞かせたが、別の狙いもある。砦攻めによりある程度の損害を受ければ、これならば勝てるとドゥムヤータ軍本隊が出てくるかも知れない。それに打ち勝ち追い払えば後詰の無くなったジョイブール砦も陥落し王の望み通りだ。
クルサードは、砦を激しく攻めているように見せ、且つ、戦力を温存し、にもかかわらず敵が出てきたくなる程度の被害は受け、とはいえ決戦すれば勝てるだけの戦力を残す。という絶妙のバランスを保持すべく戦場を睨みつつ指揮を続けた。
その日も砦攻めを行い日が暮れると引き上げた。砦を落とすとの決意を見せる為、いつもよりジョイブール砦から近い4000サイト(約3キロ)の距離に陣を敷いていた。残存戦力を正しく把握する為、部下に任せず自らの足で見て回る。陣の構えも重要だ。
「そこ。綱が切れて柵が崩れているではないか。責任者は何をしている。すぐに補修せよ!」
と油断を引き締めるが、その反面
「あまり強固に固め過ぎては、敵を引き込めぬではないか。もう少し隙を作れ」
ともいう。兵士達にとっては迷惑な話である。
将兵には、敵が出てくれば望むところ。むしろ出撃を誘え。と伝えてある。敵が出て来た時に、思いもよらず出て来た、より、こちらの思惑通りに出て来た、と思わせる方が、いざ本当に敵が出てきた時に兵士が慌てなくてすむ。
とはいえ、それでも奇襲は警戒すべきであり、昼夜問わず多数の斥候を放っていた。その1人が駆け込みクルサードの足元に跪いた。
「敵と思われる騎兵が、南東方面からこちらに向かっております!」
「南東だと! 敵陣からではないのか?」
「は。敵の別働隊と思われます」
「それで数は?」
「暗闇にて正確な数は掴めておりませんが、馬蹄の響きから5千ほどであろうかと」
「5千……」
3千ほどか。呟きに反しクルサードはそう予測した。暗闇は人の恐怖心を増大させるものだ。それに、ドゥムヤータに別働隊として5千騎もあるはずがないという計算もある。
「敵襲に備えよ! 前面の敵にも警戒を怠るな!」
5万の軍勢を誇っていたドゥムヤータ軍はシンシナ平原での戦いで痛手を受けたが、それでも損害は1万ほど。にもかかわらず、今まで3万で出陣していた。
刷り込まれていたか……。
クルサードもそれを認めざるを得ない。こちらがドゥムヤータ軍に合わせ3万で出陣するのを待っていたのだ。そこに残していた余力を別働隊して合流させれば、戦力で上回れるという訳だ。
もっとも、クルサードは状況に悲観していなかった。万全の警戒態勢により既に敵は補足した。もし別働隊が奇襲を狙ってくれば逆に餌食としてくれる。
奇襲せずドゥムヤータ軍本隊と合流するにしても、それをするからには敵に決戦の意思ありだ。軍勢の数は敵が上回るが、こちらは国王直属の精鋭部隊と国王自身の出陣による士気の高さがある。十分に勝算はある。
夜襲か。決戦か。クルサードは斥候の更なる報告を待った。そして1人の騎士が駆け込んでくる。
「敵軍。こちらには向かわず!」
「では、敵本隊と合流か?」
「いえ。我らとルバンヌ城の間にある丘に駆け上がり、守っていた2百の兵を蹴散らし占領致しました!」
「自ら、我が軍と城の挟み撃ちに合う地点に入っただと……」
まさかと、その場所が見えるところにクルサードは駆けた。確かに2000サイト(約1.5キロ)ほどの距離に松明の明かりが見える。丘全体を燃やすかのようにその数を増していく。
うおぉぉぉぉ!! 自らの存在を誇示する為か雄叫びが上がった。
別働隊の行動にクルサードは絶句したが、同じく絶句した者がドゥムヤータ軍にも居た。
「リファール伯爵は何をやっている!」
伯爵に代わり全軍の指揮を執るバイヤールである。そもそもの予定では、明日の早朝に到着するはずだったのだ。それを昼夜駆けてまでして急行し、今夜、到着しただけならまだ良い。なんと敵の只中に入り込んでしまった。
選王侯だかリファールの暴れん坊だか知らないが、襟首を掴み怒鳴りつけたいところだ。しかし、バイヤールの腕はそこまで長くは無く、敵陣に遮られ命令の伝達もままならない。
「日が昇ればすぐに狼煙を上げ、本隊と合流するように伝えるのだ!」
今、敵に動かれては別働隊は敵の挟撃にあう。その危険を感じつつ、リファール伯爵が焚かせる松明の火を睨みつけるしかなかったのである。
クルサード、バイヤール共にリファール伯爵の非常識な行動に驚愕したが、一番動揺したのはローランド王だった。戦場にそぐわぬ豪奢な寝所にて既に寝入っていたが、リファール伯爵が上げさせる別働隊の雄叫びに叩き起こされた。
慌てて起き上がると、戦場にまで連れて来た女官達に衣服を身に着けさせながら、クルサードを呼ぶように側近に命じた。王が着替え終わる頃、クルサードが現れた。
「この騒ぎは何事か?」
「は。敵の別働隊が現れ、我が軍と城との間にある丘を占領致しました」
「何! すると我が方は敵の挟み撃ちに合おうというのか?」
挟み撃ちに合えば不利。王族の教養として学んだ兵学がそのように告げ、王を怯えさせた。
「確かにそのようにも見えますが、その危険はありません。敵の所在は既に知れ、奇襲効果は失われています。それは彼らも分かっているでしょう。夜が明ければ、むしろ我が方が敵を挟撃出来る体勢にあります」
「し、しかしもし夜の内に敵が動けばどうする」
「それはありません。奇襲が出来ぬ今、闇の中に軍勢を動かすのは彼らにとって不利になるだけです」
その時、またもリファール伯爵の陣から雄叫びが鳴り響いた。敵の挟撃に合うという恐怖が王の耳を臆病にさせる。
「先程より敵が近づいているのではないか?」
「いえ。そのような事は御座いません」
「い、いや、間違いない。敵の声がさっきより大きく聞こえるわ」
「陛下。落ち着いて下さい。敵は動けません。日が昇れば城に狼煙を上げ、城の兵と我が軍とで挟み撃ちにします。そうすれば敵の本隊も味方を捨て置けず出てくるはず。そこを叩けば、ドゥムヤータとの戦いの決着もつけられましょう!」
だが、怯えきった王にクルサードの言葉が届かない。
「ならば、お主達だけでせよ。余は抜けるぞ!」
王は背を向け側近達も追いかける。だが、王が引けば直属の精鋭部隊もその後に続く。それではドゥムヤータ軍本隊との決戦に勝てない。
「お、お待ちを! 陛下!」
「勝てるというならお主達だけで戦え! 王命である!」
王は振り向きもせず言い放った。次第にその姿が小さくなっていく。
「後、数刻の、数刻のご辛抱なれば……」
既に見えなくなった王の背に、クルサードの言葉は届かなかった。
その、ローランド王の動きを見逃さなかった者が居た。戦場を大混乱させた張本人であるリファール伯爵の別働隊が放つ斥候が、ブランディッシュ軍本隊から数千の軍勢が離脱するのを発見したのである。
「旗印は?」
「それが、この暗闇で良く分かりませぬ」
「ふむ」
今まで留守番をさせられ、やっと出番と昼夜駆けて来てみれば到着したのは日が暮れた後だった。そして、クルサードやバイヤールが思うほど考えなしに行動したのではなく、彼なりの理屈がある。
シンシナ平原の戦いで敵を追撃し深追いを避け引き上げたところ、その背中を討たれ大敗した彼である。ならばと、暗闇に紛れて敵の後ろに回りこみ、敵の退路を断とうと考えたのだ。
ルバンヌ城の守備兵と敵本隊との挟み撃ちに合うのは分かっているが、それに耐えられるかどうかの判断が、リファール伯爵と、クルサード、バイヤール両軍の指揮官との違いだった。
そのリファール伯爵にとっても予想外の動きがブランディッシュ軍本隊から分かれた軍勢である。その軍勢とはなにか?
「追えっ!!」
「お、追うのですか?」
リファール伯爵の副官や幕僚達は驚いたが、甲冑を身に着けたままの伯爵は既に愛馬へと足を進ませている。
「軍勢が一触即発の時に戦場から離脱するなど、国王に決まっておろうが!」
そうとも限らないのではないかと幕僚達は思ったが、確かに国王は武人ではない。出てきたものの予想外の我が別働隊の出現に恐怖し、それに耐え切れなかったのかも知れない。それに国王が戦死でもすれば大事だ。退却しても不思議ではなく、もしそうならば千載一遇のまたとない機会だ。そして確かに、決戦を前に離脱。すなわち敵前逃亡が許されるのは国王だけだ。
リファール伯爵の別働隊は、国王を追いかけ始めた。しかもご丁寧に兵士達に叫ばせた。
「国王が逃げるぞ!」
「戦いはブランディッシュの負けだ!」
敵が出て来た途端に国王と王国一の精鋭部隊が退却したのだ。残されたブランディッシュ軍本隊にも動揺が広がる。クルサードは更なる決断を迫られた。
国王の軍勢は精鋭だが、後ろから追撃されてはその力を発揮出来まい。駄目だ。見捨てる訳には行かない。援軍を向かわせるしかない。だが……。そうなっては明日の決戦どころではない。
敵の援軍に後方を遮断されても戦いの天秤は辛うじて自分達に傾いていたはずだった。だが、国王とその兵力という重石が無くなり、天秤は相手側に大きく傾いた。
「全軍、撤退!」
命令はすぐさま伝えられ、篝火もそのまま慌しく退却を開始したのである。