第100話:遅い春
窓の外では小鳥が囀り、朝日が差し込んでくる。絵に描いたような心地よい朝だ。サルヴァ王子は張り詰めていたものが落ちたかのように穏やかな顔で寝入っている。戦場で鍛えられた身体は、最高級の絹の寝具に埋もれうっすらと汗ばんでいた。
「殿下! いい加減に起きて下さい!」
いきなりの怒声に一気に目が覚めた。ベッドの傍でアリシアが目を吊り上げ腰に手を当てている。彼女の服装は昨夜のままだが、所々に大きな皺があった。
アリシアは怒りに堪えかねている様子だ。王子が目を覚ましたのを確認すると、まっすぐに腕を伸ばし長椅子を指差す。
「殿下が寝具≪ベッド≫を占領するから、私はあんなところで寝なければならなかったではないですか!」
「い、いや、そんなはずは……」
だが、口答えする王子にアリシアは聞く耳を持たない。廊下まで聞こえる怒鳴り声が続く。
「何が、そんなはずはですか! 酔い潰れるほど飲んで夢でも見たのですか? いいから早く起きて下さい!」
結局、王子は訳も分からず、ほうほうの態で部屋から追い出された。この、寵姫が主を部屋から叩き出すという珍事に、他の寵姫達は改めてアリシアの力に恐れをなすのだが、それはまた別の話である。
サルヴァ王子を部屋から追い出した後、アリシアは扉に手をかけ寄りかかり、滑るように崩れ落ちた。その顔は、今までの怒色から打って変わって青ざめる。
やってしまった……。
王子は夢を見ていたのではなかった。アリシアとサルヴァ王子は間違いなく昨夜、この部屋で身体を重ねたのだ。
あれで誤魔化せただろうか。あんな事で誤魔化せるはずはないという思いと、誤魔化し切るしかないという思いが交錯する。
なぜあんな事をしてしまったのだろう。もっと他の方法があったのではないか。しかし、ではどうすれば良かったのだろう。
いや、そもそも殿下に慰めの言葉を掛けられなかったと言ってどうだというのだ。殿下は単に、愚痴を聞いて貰えなかったと、そう考えるだけだ。それだけの話だ。
でも、何故かあの時の自分は、この人を救えるのは自分しかいない。そう思った。あまりにもの自意識過剰に顔が赤くなる。いや、それだけで済むのならいい。その挙句、なんと言う事をしてしまったのだ。
あまりの恥ずかしさ、居たたまれなさにサルヴァ王子とどう言葉を交わせば良いのか分からなかった。どんな顔をすれば良いのか分からなかった。王子に忘れて欲しいと本気で思った。
あんな、あんな事をしてしまうなんて! 羞恥と共にまざまざと昨夜の行為が思い出される。
サルヴァ王子と身体を重ねた。初めてではない。2度目だ。だが別人かと思うほど、初めのそれとは何もかも違った。あの人は、これ以上ないほど優しく自分の身体に触れた。強く触れば崩れてしまうとでもいうかのように髪を、背を、乳房を、首筋を、足を、身体中全てを優しく指と唇が触れた。
今思い出しても身体の奥が熱くなる。大事にされている。そう思った。自分をこんなにも大事にしてくれる男など他に居ないのではないか……。暖かいものが心を満たす。
少女と呼ばれる年齢の時に両親を流行病で亡くし、オルカ家に引き取られるまで親類達の間をたらい回しにされた。オルカ家とて自分の境遇を哀れんで引き取ってくれたのではなく、息子の嫁にと考えたからだった。
彼女自身も気付いていないが、その誰からも大事にされなかった少女時代の経験が、自分を大事にしてくれる男に弱いという精神構造を作り出しているのかも知れなかった。
ふと、リヴァルを思い出した。そう言えばリヴァルも自分を大事にしてくれた。嫁にする為にと引き取られたのに反発し家を出て行こうとしているのを知ったにもかかわらず、家を出て行くのを見逃したのだ。そして1年の歳月を費やし方々手を尽くして彼女を探しあて求婚したのである。
馬鹿な男だ。効率を考えれば、わざわざ逃がしてから探すなど非効率極まりない。しかし彼女は、彼のその、傍から見れば愚かにすら見える不器用な優しさに惹かれたのだ。
サルヴァ王子も、自分を抱きたいならばいつでも抱けた。彼はこの後宮の主であり自分は寵姫だ。彼に抱かれる為に存在する女だ。それを今まで待っていてくれた。
い、いや、自分は何を考えているのだ。単に女として見られていなかっただけだ。今回の事だって、自分から王子の胸に飛び込んで行ったからなのだ。
しかし……アリシアも何と無しには、サルヴァ王子が自分に好意を抱いてくれているのではないかと感じてはいた。それがついに昨夜一線を越えてしまったのだ。
次に王子と会った時にはどんな顔をすればよいのだろう。
内心では王子を弟扱いしてきた彼女である。それは恐れ多い事に、一国の王子に対し自分の方が立場が上の積もりだったとも言える。それが男女の関係になってみると、立場が逆転したように感じる。どういう態度を取れば良いのか分からない。
男女の関係!? それに気付き赤面した。うわ~。どうしよう。と、寝具に飛び込んだ。ついさっきまでここで寝ていた王子の汗の匂いを微かに感じ更に赤面する。
身体中を真っ赤にし、それでもベッドから降りず足をばたばたと動かし悶える。その奇妙な行動は、主人に似てあまり早起きでない侍女の冷たい視線に気付くまで続いたのだった。
「まったくあいつは何なのだ!」
如何にアリシアが態度を豹変させようとも、夢と現実を間違えるはずも無く、王子は昨夜の情事をはっきりと覚えていた。
だが、悪態を付きながら進む王子の足取りは、その言葉にそぐわず軽い。アリシアとの付き合いは長い。その大半は友人としてであり、残りの僅かな期間は敵対関係だが、彼女の性格はおおよそ把握している。
アリシアは照れているに違いない。
朴念仁の王子にしては奇跡的に見抜いていた。自分に対し、常日頃は強気なアリシアだ。その彼女が照れ隠しに強がっていると思うと可愛くも思えてくる。
心が沸き立ち高揚し、笑い出したい衝動を耐えた。その足取りは駆けるように早い。頭に頭巾を付けて廊下を掃除していた侍女は、王子が歩いてくるのに気付いて脇に避けお辞儀をすると、彼女の頭巾が’高速で歩く’王子が巻き起こす風に飛ばされ床に落ちた。彼女は、侍女仲間から羨ましがられる大きな瞳を更にまん丸にし、不思議なものを見るように王子の背中を呆然と見送ったのだった。
執務室に到着した王子は精力的に仕事をこなした。アリシアの狙いが王子の悩みを和らげる事であったとすれば、それは確かに成功していた。責任感の強いサルヴァ王子である。机に向かっている時は仕事に集中しているが、弟であるサマルティをランリエル王に推すという動きに対しては忘却の彼方だった。
とある地方の官僚が宿で頭を悩ませていた。翌日にサルヴァ王子の決裁が必要な案件を持っているのだが、予算と期間が難しかった。
この期間で完了させるには人手が微妙だった。しかし人を増やせば予算が超過する。どうやってサルヴァ殿下を納得させるか。もし納得させられなければ、また計画の練り直しだ。だが、計画のやり直しにも日数が掛かる。更に期間が厳しくなるのだ。絶対に王子を頷かせなければならない。同じ案件でも説明が悪ければ否決される。
この宿には2日前から泊り込み、練りに練った台詞を何度も暗証し、時には声に出した。失敗すれば、計画の練り直しどころか事業そのものの廃案すらありえるのだ。失敗は許されない。髭すら剃らず、風呂にも入らず、寝る間も惜しんで繰り返す。身体からは異臭すら漂っていた。
「旦那様。ご友人という方から、使いの者が参っております」
不意に扉の向こうで宿の主人の声がした。一世一代の大舞台を前に練習を邪魔された役者のように舌打ちし、無視も出来ぬと部屋に招きいれた。使いという者は、男の身体から放たれる異臭に顔をしかめつつ預かってきたという手紙を差し出すと、早くこの場から立ち去りたいという態度を隠さずそそくさと帰っていった。
まったくこの忙しい時に。だいたい、昔からあいつはお節介なのだ。時にはそれが煩わしく感じる。そして今まさに甚だ煩わしい。今は一時でも多く明日の尋問、いや、説明の練習をしなくてはならないというのに!
同じく官僚としての栄達を目指した友人の顔を思い出し悪態を吐いた。立ち回りの上手い奴で、仲間の多くが地方からの下積みに飛ばされていく中、早い時期から王都の高官に接近しまんまとそれを免れ王都に留まった。中央との関係を繋ぎ続ける為に今でも付き合っているが、それがなかったらとっくの昔に関係を絶っているところだ。
男はぶつぶつと愚痴を零しながら手紙に目を通した。冒頭の挨拶から始まり近況報告などが続く。近所の野良猫が子猫を産んだそうだ。
知るか! 怒りで手紙を破り捨てたい衝動が弾けかけたが、理性を発揮し耐えた。手はわなわなと震え手紙はしわくちゃだ。そして’それはそうと’という一文に辿り着いた。
そのしばらく後、男は急いで身支度をし転げるように部屋から飛び出していた。
「さすが我が親友!」
急いで髭を剃り傷付けた顎から血を滲ませた男は、道行く人々を掻き分け叫び王都を目指した。手紙にはこう書かれていた。
今日のサルヴァ殿下は特別機嫌が良い。いつもなら厳しく追及される案件も次々と通っている。お前もどうにかして今日の採決にねじ込むんだ。
夕刻となりサルヴァ王子は一息付いた。妙に仕事がはかどり、明日に行う予定だった案件も幾つかこなした。明日に採決する案件がどうして今日やって来たのか普段の王子ならば不審に思うところだが、今の王子にはそんな些細な事はどうでも良いらしく、気にしていないようだ。
「いい風だな」
いや、生暖かくて結構気持悪い風ですよ。
言いかけたウィルケスだったが、口から出る寸前で耐えた。
今日のサルヴァ王子は明らかに浮かれている。官僚達が持ち込む案件も明らかに不備のある物は否決されたが、いつもの王子であればかなり詳しく説明を求める事案や、期限、予算的に際どいものの判断がかなり甘かった。
とは言うものの、ウィルケスにはその理由は分かっていた。彼の――主に女性の協力を得た――情報網によると、サルヴァ王子はなんとアリシアの部屋で朝を迎えたらしい。
女性関係についてはサルヴァ王子より遥かに名将といえるウィルケスからすれば、やっとか、といったところだ。もし同等の友人であったなら、尻を叩いてでもとっくにくっ付けていた。ウィルケスの見るところアリシアの方もまんざらではなさそうであり、そう難しくなかったはずだ。ただ、問題がないでもない。
あの女、引き癖が付いているんじゃないか? アリシアをそう見ていた。何か問題があると、その解決方法として自分が身を引けば良いと考えてしまう女だ。
ウィルケスの経験上、あまり幸福な人生を歩んで来なかった女性に多い。無論例外もあり、今まで不幸だった分、幸せにしがみ付く女も多い。だが、アリシアにその執着心は乏しそうだ。
まあ、そのような女への対処法の1つは、女が逃げるだけ追いかける事だ。サルヴァ王子には精々頑張って貰わなくてはならない。
相変わらず生暖かい風を気持良さそうに頬に受ける王子に、やっと恋人が出来た堅物の兄を見るような視線を向け、心の中で応援するウィルケスだった。
だが、この時浮かれていたのは王子だけではない。ウィルケス自身も浮かれていた。彼は1人の人物を忘れていた。2人の仲を真っ先に切り裂こうとするであろう女の名前を。