第90話:歯には歯を
列国の指導者達、国王達が唖然と固まった。アルベルドの味方であるはずのケルディラ王、ロタ王ですら狼狽した。秘策を漏らさぬ為にと2人も知らされていなかった。余裕の表情を浮かべるはデル・レイ王国国王アルベルド・エルナデスただ1人。
「デル・レイはリンブルクの領民に土地を返す。ランリエルはケルディラの領民に土地を返す。それでよろしいかな。サルヴァ殿下」
良くは、ない。だが、領民に返すというがケルディラ東部も全ての民が四散したのではない。代々生まれ育った土地を離れられず、税の納める先が変わるだけと他国の軍勢がやってきても意外と逃げぬものだ。
「ならば、旧ケルディラ領に、以前住んでいたケルディラ人に戻りたいというならば止めはしません。いや、それどころか税の優遇もしようではありませんか」
領土を得てもそれを耕す者がいなければ何の利益も無く、それどころか領土を守る軍勢を配置せねばならないだけ損失が大きい。だがその反面、折角土地を得たのならば、ランリエル人やコスティラ人を入植させたいところだ。農民とて土地を受け継ぐのは長男のみであり、己の田畑を夢見る次男坊、三男坊は後を絶たない。結果的に、ケルディラ人が土地に留まるのも流出するのも自由とし、空いた土地にランリエル人やコスティラ人を入植させていた。
ケルディラ人を呼び戻すとなれば、既に入植した者達への対応も考えねばならぬが、まだ、入植を始めて間もないのも不幸中の幸いである。だが――。
「小手先の欺瞞でやり過ごそうとは、サルヴァ殿下はケルディラの人々をそれほど無知とお思いか。ケルディラの民に土地を返すとは、その生活を元に戻すという意味です。文字通り土塊さえ与えればそれで良し考えるのは、あまりにも浅はか。生活を元通りにするとは、民を守り統治する領主も呼び寄せねばなりません。他国人が支配する土地に戻ったところで民は安んじられぬでしょう」
領主には税が免除され騎士や兵士が付き従う。戦時にはそれが国王の元に集結し軍勢となるのだ。だが、もしケルディラとランリエルが戦いとなった時、ケルディラ人領主がランリエルに味方するはずはない。領主を呼び戻すとは、国に返すのと同義語である。
「それはまた、随分と都合の良い話ではないですか。デル・レイの宗主国ともいえるグラノダロス皇国の皇祖エドゥアルド陛下とて領土を拡張し、その土地を臣下達に分け与え衛星国家としたはず。それを領地を得ても元の領主に返せとは、デル・レイの成り立ちを否定するどころか、皇祖エドゥアルド陛下のご偉業をも否定するものでしょう」
他人の権威を借りる論法を好まぬサルヴァ王子だが、衛星国家の王たるアルベルドには効果的だとあえて使った。アルベルドの思わぬ奇襲になりふり構っている余裕はなかった。
「エドゥアルド陛下が皇国を打ち立てる前は、この大陸は戦いに明け暮れた戦国の世でした。エドゥアルド陛下の行いはその戦乱を静め大陸に平和をもたらすものです。その為、大陸全土を支配する武力を持ちながらもその版図はわずかばかりに留め、その周りに我がデル・レイを初めとした衛星国家を配置して、大陸全土に睨みを利かせ戦乱が収まったのです。サルヴァ殿下は、そのエドゥアルド陛下のご大望を野心からの行いと仰るか」
この男。初めからこの論戦に持ち込む計画だったか。サルヴァ王子は己の不利を悟った。能力で引けを取るとは思わないが、能力が互角だからこそ準備をし理論武装を整えた方が勝つ。体勢を立て直したいが、戦いながら体勢を整えるのは至難の業だ。
「皇祖エドゥアルド陛下のご大望を否定するなど、それこそ大いなる誤解というもの。そのような考えはまったくありません。民の目から見ればまた違った感情もあろうかという話です」
「何を仰る。エドゥアルド陛下の軍勢が進むところ、民は歓呼の声で迎え入れたと聞いております。民に望まれ領土を広げたエドゥアルド陛下と、民が逃げ出した’我ら’の行いを等しく見るは不敬でありましょう」
アルベルドはあえて、我ら、を強調した。相打ち狙いなのは間違いない。
実際、エドゥアルドの軍勢は民に不要な危害を加えなかったと言われる。もっともそれは、合理的にものを考える皇祖が、民との諍いに時間と労力、資金が浪費されるのを嫌った為だ。得た領地から搾り取るよりも、更に領土を広げるのを優先したのである。
その後、何とか皇祖の過去の行いを論点とした議論は劣勢に立たされながらも言質を取られぬまま収束に成功した。だが、サルヴァ王子の苦境は続く。デル・レイ、ランリエルが共に侵攻した領地を返す。この主張から逃げなくてはならない。だが、そもそも口火を切ったのはサルヴァ王子であり引くのは難しい。別の論点から突破を試みても、やはり逃げ道が塞がれるのだ。
王子の視線が無意識に窓に向いた。まだ、日は沈まない。日が沈みさえすれば続きは次回の会議でと席を立ち、理論武装を整える時も稼げる。だが、その願いも虚しく、日はまだ僅かに傾いたばかりである。時間を操れる力があればと、悔やんでみたところでどうにもならない。
不意に、机の肘を突き身体を支えていたバルバール王国宰相スオミが前のめりに倒れた。置いていた墨壷が地面に落ち黒い水溜りを作る。皆の視線が、転がる墨壷を追いかけた。
「こ、これは大変な粗相を――」
スオミは慌てて立ち上がり自ら墨壷を拾おうとするが、兵士達がそれよりも早く動き素早く片付け始め、折角の輝くほど磨かれた甲冑が黒く汚れる。
「申し訳ありませぬ。老いた身では身体も思うように動かず、情けないばかりで御座います」
アルベルドを筆頭とする反ランリエルの国王達に深々と頭を下げ、一瞬ちらりと視線をサルヴァ王子に視線を向けた。その意図を王子は一瞬にして悟った。
「スオミ殿も疲れが溜まったようだ。まだ日は高いが今日はこれまでという事でどうでしょう。エフレム陛下も先日、床に伏せたばかりで、ご無理はなさらぬ方が良いでしょう。いかがですか。エフレム陛下」
あえてケルディラ王に返答を求めた。先日はケルディラ王の体調不良で会議が延長したのだから、ここは頷くしかない。ケルディラ王が頷くと、アルベルドの冷ややかな視線に気付かぬ振りをしてランリエル側の出席者達は早々に席を立ったのだった。
「スオミ殿。恩に着る」
一行が陣屋に入った瞬間、王子は心から言った。スオミが長い白髭に包まれた顔で笑み頷く。
「次の会議まで短くて2日。私の体調が戻らぬと伝えても4日が精々でしょう。それまでにアルベルド王を論破する主張を練らなければなりません」
「分かっている」
今度はサルヴァ王子が頷いたが、その表情に楽観の色は無い。老練な政治家スオミもそれは理解していた。稼いだ時を使いサルヴァ王子が理論武装をするのと同じくアルベルドも武装を進めるのだ。そして現時点ではアルベルドが遥か先にいた。その差をどこまで詰められるか。いや、それだけでは駄目だ。追い抜かなければ勝てない。
「こちらが置こうとしている論点をアルベルド王が読んでいるかどうか。読まれていないなら、こちらはアルベルド王の反論を予測しその先まで読めば良いが、読まれているなら、アルベルド王はその先の先まで考えていよう。こちらはその更に先まで読まねばならぬか」
面倒な。というように王子は右手で顔を覆った。しかも、議論を練るのはアルベルドも同じだ。更にその先の先まで考えてくるかも知れなず、切りが無い。
その時、スオミの部下が各国の首脳部達の話を邪魔しないようにと細心の注意を払い音も無く部屋に入った。更にスオミの背後まで進むとその耳に何かを囁く。いくら気を使って入室しても視界に入らない訳ではない。サルヴァ王子や他の宰相達の視線が自然と集中する。
「こうなっては、この会談に引き出されたのがそもそも失敗と考えるしかありません」
「そうだな。しかし、今更それを嘆いても状況は変わるまい」
「無論、その通りではあります。ですが、今からでも会談の席を立ち帰国すればこれ以上の議論は不要となりましょう」
「馬鹿な……。いや、失礼した。しかし、アルベルド王がそれを許すはずも無く、無断で帰国するのも言語道断だ。いくらスオミ殿の話でも現実的な話ではないぞ」
コスティラとカルデイの宰相が空気と化している以上、頼りになるのはバルバールの宰相スオミのみ。にもかかわらず、つい責める言葉を漏らしてしまうほど、その意見はあり得ない。
「勿論、帰国するにはそれ相応の理由が必要です」
「しかしだ。彼らは、我らを罠にかける為に会談を申し込んだのだ。たとえ我が父や、各々方の国王陛下が病に倒れたと伝えたところで帰国を許しはすまい」
国家にとって重要な会談だ。国王が実際に崩御したというならともかく病程度で帰国は出来ない。例外的に温情をかけられる事もあるが、それを期待できる状況ではない。
「それは承知しております。我らが帰国する理由は、彼ら自身に作ってもらう必要がありましょう」
「彼らに?」
「左様で御座います」
「しかし、そんな都合の良い失策をアルベルド王がするだろうか。今回の会談で初めてお目にかかったが、中々隙の無い人物だぞ」
「はい。ですが、他の御二方は、恐れながらそうでは御座いますまい」
「確かに……な」
「特に、王座に就かれたばかりのロタのランベール王は国王たらんと肩肘を張っているところがあります。気にせずに流せば良いところを過剰に反応なされる」
サルヴァ王子の探る視線が老獪なバルバール宰相に向いた。宰相は受け止め微笑する。この様子ではスオミは既にロタ王に何か仕掛けている。だが、それは何か。そこまでは王子にも分からない。
「先日、彼らにお贈りしたバルバールで取れた苔桃≪こけもも≫の返礼に、ロタ王から茘枝≪ライチ≫という果実が贈られて参りました。他の大陸から伝わりロタで栽培されるようになったとの事です」
「贈られ……」
「はい。ロタ王から、贈られて、参りました」
その瞬間、王子は人目をはばからず爆笑した。
時を同じくし、デル・レイ王アルベルドは、サルヴァ王子を完膚なきまでに論破する準備を完了していた。2日ほど日が空く為、サルヴァ王子も必死で対応してくるだろうが、こちらは1ヶ月以上も前から練りに練っている。全ての議論の道筋となるところに鉄壁の要塞を築いて更に奇襲の伏兵まで置き防御を固め、論理で固めた槍先は鋭く攻撃態勢も万全である。
だが、腹心である外交官のコルネートは主人ほど未来に楽観的ではなかった。アルベルドがサルヴァ王子に論戦で遅れを取るとは思わないが、問題はそれ以外だ。
「しかし、リンブルクから得た領土を放棄して本当によろしいのですか?」
「構わん。どうせついでに取った土地だ。今度は捨てる事で有効に使わせて貰おう」
「ですが、ゴルシュタットのベルトラム殿には、どう説明いたしましょう。ゴルシュタットとはリンブルクを南北で分けるという密約で御座いました。それを、こちらが南部を放棄してしまってはベルトラム殿も対応に困りましょう」
「そうだな。ゴルシュタットは北部を占領する根拠を失い撤退するか。さてはあくまで留まるか。撤退するならそれでよし。撤退せずリンブルク全土の支配を目論むならば……」
「ならば、いかがなされるのですか?」
「リンブルクに軍勢を進め、ゴルシュタットの侵略からリンブルクを守ってやろうか」
その言い草に、完璧な儀礼を身に付けた有能な外交官のコルネートは主人の前で噴出さぬように我慢するのに全神経を集中させねばならなかった。
だが、会議再開の前日、思わぬ連絡が反ランリエル側にもたらされた。それぞれの部屋でそれを聞いた国王達は、ケルディラ王は愚鈍に口を開け、ロタ王は顔を青くして狼狽し、デル・レイ王は何の感情も浮かべぬ、だが、だからこそ、その視線に使者は恐怖を感じた。アルベルドの凍てつく視線に耐えかねた使者は、用件を伝え終わると逃げるように退室したのだった。
「まさか、ロタ王がこのような軽挙をなさるとは……」
コルネートも遠慮がちにロタ王を非難した。
ほとんど決まりかけていた勝利が思わぬ失態、いや、本来ならば失態ともいえぬ隙を突かれた。大技を得意とし更に小技すら使いこなすアルベルドに、老獪な宰相スオミは小細工を仕掛けたのだ。
あまりにも些細過ぎ気にも留めなかった。バルバールからつまらぬ物が贈られて来た。そう考え捨て置いた。それが思わぬ事態を招いた。いや、スオミからすれば計算通りというべきか。
ロタ王から贈られた茘枝を食し、ランリエル側の首脳部が挙って体調を崩し床に伏した。あまりにも見え透いた言い分だが、ランベール王に確認したところ事実、茘枝を彼らに贈ったという。そうである以上、無理にでも会談に出席しろと主張すれば、そちらから贈った物が原因で床に伏しているのを、何たる言い草と非難される。症状が重く帰国したいといわれても引き止める言葉は無い。
リンブルク南部と引き換えにケルディラ東部を取るはずが、苔桃の返礼に茘枝を贈って台無しになった。ロタ王のあまりにもの軽率さへの怒りに、アルベルドはしばらく言葉が出なかった。やっと搾り出した声は落ち着いて聞こえたが、白くなるほど握られた拳が彼の感情を表している。
「不手際、大変申し訳ないと、こちらから医者を向かわせろ」
それでもし、診断の結果彼らの言葉が虚言であったと知れたところで、誤診であろうと主張されるがやらぬよりはマシだ。だが、向かわせた医者はそれすら叶わなかった。
「アルベルド陛下のお心遣い、真に感謝にたえません。ですが、万一アルベルド陛下が遣わされた医師の診断の後に容態が悪化しようものなら、不要に両国に不信の芽が生じましょう。我が国の医師もデル・レイに劣らぬ名医で御座りますれば、お気持だけ頂きまする」
そう丁重に送り返された。
そしてアルベルドの予想通り、ランリエル陣営の首脳部達は症状の悪化を申し出、それぞれ帰国の途に着いたのだった。