第89話:目には目を
例年より暖かい春のその夜、満月に近い月明かりが星の光を遮り生暖かい大気が大地を包んだ。護衛に立つ兵士達はその不快な空気に汗を滲ませ甲冑を脱ぎ捨てたい衝動と戦っていた。
彼らが守る急ごしらえの陣営では、ランリエル勢力と呼ばれるランリエル王国、カルデイ帝国、バルバール王国、コスティラ王国の代表達が、昼間行われた反ランリエル勢力との会談について協議していた。しかし口を開く者は少なく重苦しい空気が部屋を満たす。
特にランリエルのサルヴァ王子は組んだ腕を力の限り握り締め、沸き起こる怒りの衝動に懸命に耐えていた。コスティラ王国宰相イリューシンも元軍人だけあって反ランリエルのやり口が気に食わず苛立ちに顔が赤い。カルデイ帝国宰相カルバハルは冷静というよりどこか人事のような顔だ。バルバール王国宰相スオミは、それらを静かに観察した。
デル・レイ王アルベルドは挑発的な発言を繰り返し、サルヴァ王子が反論しかけては、外交上の上位、つまり王位をかさに着て、ケルディラ王エフレム、ロタ王リュディガーらが王子を窘めるという戦法に出たのだ。
結果、サルヴァ王子はアルベルド王に完全に負けていた。両者の能力を純粋に比べれば優劣は判断しがたいが、議論が白熱してくるとケルディラ王、ロタ王が加勢してくるのだ。それに対し王子以外は宰相でしかないランリエル側は助勢もままならなかった。
これが単純にただの王様3人を揃えただけならば、サルヴァ王子やバルバール王国宰相スオミの敵ではない。だが、デル・レイ王という強者を凡庸な他の2王が援護射撃だけに存在するというこの徹底した戦法によって、まるで常人の3倍の力を持った1人の大王かのような戦力である。
「尋常な議論ではなく、あのような手段を使うとは」
イリューシンが皆の気持ちを代弁し唸った。
出席者の’格’を調整しなかったのは失策といえば失策だ。しかし、現在ランリエルの政治はサルヴァ王子が執り、デル・レイはアルベルド王の親政。双方の代表として両者が出席するのに違和感は無かった。そしてランリエル側の代表が王子ならば、その下となるカルデイらが王様を連れてくる訳にも行かず、反ランリエル側がアルベルドと同じ王位にある者が出てくるのもおかしい話ではない。
「2日後の会談でもアルベルド王は、旧ケルディラ領の返還を求めるでしょう。ですが、こちらとしては飲む訳には行きません」
反ランリエル側が老齢なケルディラ王を参加させている為、会談は日を置いて行われる。ここでもし、ケルディラ王が体調を崩し万一崩御ともなれば大問題どころではない。謀殺かとも疑われそのまま開戦にもなりかねない。
ちなみに、ランリエル側は旧ケルディラ領と呼ぶが、デル・レイら反ランリエル陣営はケルディラ東部と呼ぶ。ランリエル側からすれば、’昔はケルディラだった領地’であり、反ランリエルからすれば’占領されているケルディラの領地’であるからだ。
己の考えに没頭していたサルヴァ王子は、スオミの発言に我に返りつつ頷いた。これがもし、反ランリエル勢力と戦い負けて領土を失うならまだいい。それならば仕方が無いとも言える。だが、勝ったにもかかわらずそれを手放すなど誰も納得すまい。
戦いはランリエル側が大勝したが、それでも被害は皆無ではなく、それを手放しては軍役を負担した諸侯や死んだ者の遺族が黙ってはいない。特にランリエルの要請で出陣したカルデイ、バルバール、コスティラの者達にとっては無駄死にさせられたと、統治にも支障が出る。
「旧ケルディラ領は手放さん。我が方としては、これ以上西へ勢力を伸ばさない事を和平の条件とする」
サルヴァ王子が断言した。テルニエ海峡の通行税についてはドゥムヤータを抜きにしては語れない以上、旧ケルディラ領の扱いが焦点となる。それを手放さぬというならばランリエルの方こそ無条件での和平を反ランリエル側に求める事になるが、まずは最大の要求をしつつ駆け引きによって落としどころを決めるのが交渉というものだ。
「かしこまりました。それを軸に私も交渉に当たります。ですが、アルベルド王は殿下に挑発的な言葉で応じましょう。それをどうするかです」
「分かっている」
サルヴァ王子の声に苛立ちが混じる。これが国家に係わりの無い言い争いならば、気に食わない相手の言動など聞き流せば良いが、交渉の場で反論しなければ相手の言い分を認めた事になるのだ。そして言い返せば相手には2人の王の援護。やり難い事この上ない。
「しかし奴ら、そもそも本当に和平を行う気があるのか。それを見極める為にも我らが譲る訳にはいかん。正式な停戦の条件として、しかもケルディラ側から提示された領土の割譲を無効にしろとは話にならない。それをあくまで求めてくるならば、彼らこそが和平を求めていないという事だ」
それならば、何を求めてこの会談を申し入れてきたのか。そこまでは王子は口にしなかった。誰かがランリエルを挑発し戦乱を起こさせようとしている。それが誰なのか。それを常に考えていた。それはやはりデル・レイ。アルベルド王なのか。この会談がランリエルへの新たなる挑発ならば、その線が見えてくる。
老獪な政治家スオミは、王子の言外の文章に目を向けた。それはスオミも感じていた。和平を求め会談を申し入れて来たにしては、その態度、条件が傲慢だ。
そして、交渉という名の戦いは反ランリエルが優勢だ。3人の王対1人の王子というこの戦力差は、政治家として百戦錬磨の彼ですら、その劣勢を覆すのは難しい局面である。
「方針は決まった。次の会談まで皆も鋭気を養ってくれ。スオミ殿もご高齢だ。無理をなさらぬように」
サルヴァ王子の言葉は、純粋な気遣いと共にその精神状態を表していた。人格的な優劣はともかく、政治家としての手腕は元軍人のコスティラ宰相やそもそもやる気の感じられないカルデイ宰相よりも、テルニエ海峡の通行税についてアルベルドからの追求を完璧に防ぎきり助言もしてくれるスオミを頼りにした。
「殿下も、お身体にはご注意下さいませ」
スオミは席を立ち礼儀正しく一礼した。王子も頷いて返礼し、スオミは王子の前から辞した。宛がわれた部屋へ足を進ませつつ1人の武官に耳打ちする。その者は足早に廓に向かい愛馬に跨り駆け出した。更に港に着くとまだ日が昇る前だというのに構わず船を出させたのだった。
その2日後、会談の日の朝になってケルディラ王エフレムが体調を崩したとデル・レイを通じ連絡があった。やはり高齢がたたったようだ。朝の寒さに身体が冷え少し発熱した程度というが、大事を取って会談は延期となった。
サルヴァ王子らは肩透かしを食った感があるが、無理してでも会談を行えと言える訳も無く、
「エフレム王には、ゆっくりとご静養頂きますように」
と丁寧に返答した。次回の会談はケルディラ王の回復を待つ。そしてこの事態にスオミは部下に囁いた。
「サルヴァ殿下には天佑がおありなさる」
その数日後、バルバール王国から苔桃≪こけもも≫の樽が届いた。一応はバルバールの特産といえば特産なのだが、隣国ランリエルやコスティラ、それどころかケルディラ、デル・レイでも作られている物だ。ロタでは作られないが、元々貿易国家であったロタからしても珍しい物では無い。唯一食した事が無いカルデイ帝国宰相だけが物珍しそうに興味を示したので食べさせたところ、
「バルバールでは、これが珍重するのですか」
と、その強い酸味に顔を顰めた。
その珍しくも無い果実を、スオミは反ランリエル陣営に送り届けた。デル・レイ王アルベルドは
「良き物を頂いた。スオミ殿にはくれぐれもよろしくお伝え願いたい」
と丁寧に答えたが、使者が姿を消すと、警護の兵士達にお前達で食べよと押し付けた。
ケルディラ、ロタもほとんど同じ対応だ。交渉相手から出された物を食すなど、万一毒が盛られと考えれば自殺行為。結局、スオミからの贈り物は表面上は礼を返され受け取られたものの王達の口には入らず、すべて兵士達の腹に収まったのだった。
その数日後、ケルディラ王の体調は回復し会談が再開された。予想通りアルベルドは旧ケルディラ領の返還を求め、それをサルヴァ王子が拒否し、ケルディラ王、ロタ王がアルベルドに加勢するのだ。
それに対しスオミもサルヴァ王子の援護に動く。だがそれも議論自体を援護しては、宰相が王に逆らうのかと更なる非礼を攻められる為、
「サルヴァ殿下もお若いゆえ」
「決して殿下もアルベルド王に対し非礼を申し上げているのではありますまい」
と議論への直接的な援護ではなく間接的な弁明が限界だ。結果的に議論が脱線するのもしばしばだ。
その日も何とか言質を取られずに終わらせたが、アルベルドの攻勢は激しい。その攻撃に同等の反撃を返せるだけの能力を持つサルヴァ王子だが、それをしては、王への非礼を攻め立てるケルディラ王、ロタ王が厄介で劣勢はやはり覆せない。
「もはや、彼らに和平の意思無しと見るしかなさそうだな」
「和平の条件を飲まぬランリエルの為会談は決裂した。という構図を作りたいのでしょう」
「そんな事の為に、わざわざ我らを呼びつけるとは」
机の上に置いた拳≪こぶし≫を無意識に持ち上げ机に叩き付けた。和平の交渉というから来て見ればこの有様だ。喜びにアリシアにも語った純粋な心を踏みにじられ、怒りがこみ上げる。アリシアの悲しみの瞳が脳裏に浮かぶ。
「アルベルド王らの考えが分かった以上、こちらはどう引くかです。我らから会談を決裂させたという形は回避せねばなりません」
「分かっている。和平への糸口にと耐えてきたが、彼らの思惑が読めた以上、手加減する積もりは無い。あくまで旧ケルディラ領を持ち出すならこちらにも考えがある」
サルヴァ王子の拳が机の上でまた鳴った。
ケルディラ王の体調を考え、それから3日後に次の会談が開かれた。デル・レイ王、ケルディラ王、ロタ王の前に、鋭い視線の王子が座り、その左右にカルデイ、バルバール、コスティラの宰相が並ぶ。
まずアルベルド王が口を開く。やはりランリエルを非難しサルヴァ王子を挑発するものだ。
「ランリエルが占拠したケルディラ領は、西進する野心の何よりの証拠。それを放棄せずして野心がないと称するは、盗人が盗んだ物を懐に入れながら盗む気は無かったと叫ぶようなもの。信じる者など居ないでしょう」
「そうでしょうか。旧ケルディラ領の譲渡は、ケルディラから停戦の条件として提示されたもの。それをケルディラの求めの通り停戦になってからやはり渡せぬとは、商品を受け取りながら金を払わぬ詐欺師のようではありませんか」
「サルヴァ殿下。言葉が過ぎますぞ」
「一国の王に対し詐欺師とはなんと非礼な!」
もはや遠慮は要らぬと、ケルディラ王、ロタ王の言葉を聞き流しサルヴァ王子の鋭い視線がアルベルドを射抜いた。だが、アルベルドの顔色は変わらない。
「サルヴァ殿下は、我らの要求を詐欺と言われるか。確かに国家の情勢、誓約により領土の占領、譲渡は珍しいものではない。しかしその土地には代々住み暮らす人々があり、ランリエルの占領により土地を追われた領民は日々泣き暮らしています。それを不憫とは思われぬか」
「不憫と言えば不憫でしょう。国民全ての幸福に出来れば為政者にとってこれ以上の喜びは無い。だが、それが不可能なのも事実。不憫な者を如何に少なくするかを考えるのが為政者の務めでしょう。そしてその不憫な者を作ったのはランリエルではなく、敗北し領土の譲渡を申し出たケルディラの為政者の責で御座いましょう」
ケルディラ王を攻める言葉を王子は躊躇せずに吐いたが、当のケルディラ王は気付きすらしない。ケルディラでは全ての人間が自分に跪く。その自分の言葉をサルヴァ王子が全く無視した事に唖然としていたのだ。
「敗北したのが責とは強国の論理。為政者の失策により何の罪も無い領民が不幸となるのが正しいとは私には思えません。彼らは代々そこに暮らしていたのです。それを譲渡されたから我が物とは余りにも心無き言葉」
スオミはアルベルドの言葉にある方向性を感じた。そしてその道を進めばアルベルド王は自滅だ。サルヴァ王子はそれに気付いているのか。いないのか。スオミの視線がサルヴァ王子の顔を撫でたが、表情からは読み取れない。
「領民には罪が無い。だからこそ、為政者は自分の失策が罪の無き多くの領民に及ぶと考え、慎重に政治を行わなければならない。その責を我が方に向けるのはお門違いでしょう」
「しかしそれでは、領土を占領された小国は自らの弱さを嘆くしか有りません。サルヴァ殿下には領地を占領された小国の悲哀の声が聞こえませんか」
スオミが感じたアルベルドが示す道筋をサルヴァ王子も気付いていた。しかしその意図が分からない。実は、その道はアルベルドが作らなくても王子自身が作ろうとしていた道なのだ。だからこそ踏み込むのを躊躇う。
ただの考え過ぎでアルベルドにその意図は無いのか。それとも誘っているのか。いや、先にその道に入れば自分が躊躇すると読んだと考える事も出来る。ならば、踏み込むべきか。
「そこに住む人々に国家間の領土の取り合い、為政者の責を押し付けるのは哀れ、不憫と仰るならば、デル・レイが領有権を主張し占領するリンブルク南部の領土はどうお考えか。自らそれを成しておきながら、ランリエルを攻めるはアルベルド王は鏡に映ったご自身の姿を見た事は無いので御座いましょうか」
踏み込んだか。スオミの視線が王子とアルベルドを素早く行きかった。
王子の切り込みは相打ち策だ。ここを突かれればデル・レイはランリエルに文句は言えぬはず。アルベルドを援護するケルディラ王、ロタ王も
「そ、それはリンブルクの件はそもそもデル・レイの領土であろう」
「左様。ランリエルとは問題が違う」
と言いながらも、その口調は弱い。
リンブルク南部は元々デル・レイのものと称するが、ケルディラ東部もケルディラ王が誓約書に署名し正式に譲渡したもの。国際的にもランリエル、いや、コスティラ領が正しい。正しい持ち主が領有すべきという話ならば同等なのだ。
アルベルドの援護者2王が頼りにならぬ中、皆の視線がアルベルドに集中する。
「サルヴァ殿下のお言葉、ご尤も。このアルベルド・エルナデス。返す言葉もありません」
認めるのか? コスティラ、カルデイの宰相がざわめく。スオミすら目を見開き驚きを隠せない。反ランリエルの2王は、唖然と口を開けている。
これで、引き分けで終わりか? 散々挑発しながら余りにもあっけない幕切れだ。サルヴァ王子の相打ち策が決まったのか。そう。相打ちだ。だが、アルベルドは違う相打ちを考えていた。
「サルヴァ殿下のお言葉通り、リンブルク南部をリンブルクに、いや、リンブルクの領民にお返しいたそう」