第86話:忘れ物
ランリエル王国沖で行われているバルバール艦隊とコスティラ艦隊による模擬戦は、予想外の展開を見せていた。バルバール艦隊は旋回力に優れ、コスティラ艦隊は船足に勝る。そのはずだった。
「なぜ、我が艦隊がバルバール艦に引き離される!?」
常には冷静沈着なコスティラ艦隊提督ブルガコフが珍しく大きな声を上げた。彼とて有能な軍人だ。バルバール艦を侮る積もりはない。以前の戦いで鹵獲したバルバール艦を徹底的に調べもした。その時には、評判通りバルバール艦は旋回力に優れていたが、船足はコスティラ艦に及ばなかったはずだ。
「とにかく全速力だ! 追いつけ!」
この模擬戦は艦艇の性能を見る為のもの。その意味においては、例え戦いに勝てたとしてもその肝心の船足で負けては本末転倒というものだ。だが、バルバール艦隊との差は広がるばかりだった。
「400サイト(約340メートル)まで距離を広げろ!」
風上に向かって進み風の抵抗を受け櫂は重いが、ライティラの命令にバルバール艦隊の漕ぎ手は力の限り漕いだ。汗に濡れた腕に筋肉が盛り上がり更に汗に濡れる。櫂は力強く海水を切り割き、コスティラ艦隊との差はみるみる広がった。
「なぜだ!」
ブルガコフが叫んだ。いや、その理由は分かっている。バルバール艦隊が速いのではない。速いはずのコスティラ艦の船足が鈍っている。経験豊富な彼は頬を流れる風、波を切る船首からそれを感じる。問題はその理由だ。
まさか、コスティラ艦に乗船したランリエル人水夫が手を抜いたのか。それとも、体力が劣った者達を割り当てられたか。もしかして、元々ランリエルとバルバールは裏で手を組んでいたのか。ならばコスティラはとんだ道化だ。
強い波音に負けぬほどの歯軋りが鳴った。鋭い視線が敵艦を睨む。この戦いが終わったらランリエルとバルバールに抗議してくれる! この理不尽な状況にブルガコフは心に誓った。
「コスティラ艦隊との距離。400サイトを越えました!」
ジェラルドの報告にライティラが頷いた。現在、バルバール艦隊は2隻が撃沈され18隻。コスティラ艦隊は無傷のままの20隻だ。バルバール艦隊が横一列の陣形に対し、コスティラ艦隊はバルバール艦2隻を沈めた代償に、陣形が整いきれておらず、少し乱れた単縦陣となっている。
「面舵(右回り)一杯!」
「おもー、かーじ、一杯!」
迫り来るコスティラ艦隊の目の前で、再度、大回頭が行われた。しかも最初の回頭は800サイトの距離があったが、今回は400サイト。回頭中にコスティラ艦隊に追いつかれれば側面を晒し致命的である。
「左船側、順櫂! 右船側、逆櫂! 全力でお願いします!」
候補生達は懇願するかのように叫んだ。最初の回頭より更に不利だ。初めの時と違ってコスティラ艦隊は停止状態からではなく、既に全速力で向かってきているのだ。回頭が間に合うか、間に合わないか。それで勝敗が決する。
生きた心地のしない時間を候補生達は過ごした。だが、コスティラ艦隊を率いるブルガコフにも余裕はない。彼の経験は十分追いつくと告げている。だが、経験と現実にずれが生じていた。思いの外船足が鈍い。これでは間に合わないのではないか。方針を変えるべきか。
しかし、ブルガコフが決断する前に、士官候補生達の奮戦にバルバール艦隊は、敵前大回頭を完了したのだった。
バルバール艦隊とコスティラ艦隊は、開戦から初めてまともに船首を向け合った。しかもバルバール艦隊が風を背にした。コスティラ艦隊は向かい風だ。船足の速さを活かし優位な位置取りが出来るのがコスティラ艦の強みだったはずが、その位置取りでバルバール艦隊に遅れをとったのだ。
しかも、バルバール艦隊は横一列、コスティラ艦隊は乱れた単縦陣だ。
「全速前進! 左右からコスティラ艦隊を押し包み、敵艦の横腹に叩き付けろ!」
絶妙の距離だった。バルバール艦隊の反転によりコスティラ艦隊との距離は100サイトほどにまで迫っていた。バルバール艦が全力で櫂を漕げば最大戦速に達する事が出来、そしてコスティラ艦に反転する余裕はない。
それに、ブルガコフは何らかの不利を背負わされているという疑念を持っていた。コスティラ艦に乗船しているランリエル人水夫達もわざと負けろとまでは命じられてはいないだろうが、船足が鈍る何かしらの手を打たれている。バルバール艦隊のように一旦背を向けて大回りをして再度、風上を取るのは不可能だ。
「迎え撃て! 敵が突っ込んでくるぞ。回り込んで敵の側面に食らい付くのだ!」
しかし、旋回力に勝る上に風上の優位を取ったバルバール艦に、さらに包囲体勢を取られてしまっては抵抗らしい抵抗も出来なかった。位置取りが左右する最初の一撃で多くの艦を失い、その後の乱戦でもほとんど一方的に沈められていった。全コスティラ艦が沈没したと判定され模擬戦が終了した時、バルバール艦隊は12隻が健在だったのである。
戦いが終わり両艦隊が港に付く間に、見物していたサルヴァ王子も幕僚達と共に高台から駆けつけていた。逃げ回っているだけと思われたバルバール艦隊の華麗なる逆転劇に、武人たる王子は両提督を前に高揚し顔が赤い。
「見事な戦いだった」
あえて名指しはしないが、ライティラに向けての言葉なのは明白だ。しかし収まりが付かないのはブルガコフだ。王子の言葉にライティラが
「それほどでも」
と素っ気無く答えたのも神経を逆撫でる。
「サルヴァ殿下。お待ちを! 敗将の戯言とお笑いになられるでしょうが、戦闘中に我がコスティラ艦艇がバルバールの艦艇に船足で遅れを取る状況が発生しました。船足に勝るコスティラ艦では考えられぬ事態です。偶然にも両艦隊の乗員の質に差があったのでは御座いませんか。出来うるならば、本日とは船員を入れ替え再戦のご機会を頂きたく存じます」
本当は意図的に不利を受けたと考えているが、流石にそう言ってしまえばランリエルの体面を傷付け、なおさら事実を隠蔽される。ここは、思わぬ不運を受けたと訴えるべきだ。
「そういえば、一時コスティラ艦の船足が鈍ったところがあったな」
「私からもそう見えました」
「そうなると五分の勝負とは言えぬか……」
「それでは、再戦で御座いますか?」
頷く王子に幕僚達も同調する。ブルガコフも再戦ならば今度は負けぬと、笑みを浮かべライティラへの視線は鋭い。だがライティラの態度は素っ気無い。
「仰る通り、途中コスティラ艦の船足が鈍りましたが、それは船員の質が問題なのではなくコスティラ艦の問題です。コスティラ艦は船足が鈍い」
少ない表情に微かに憮然としたものを浮かべたライティラに、こいつは何を言っているのかと皆の視線が集中する。旋回力のバルバール艦、船足のコスティラ艦。その認識で協議を進め模擬戦も行った。それを根底から覆したのだ。
「コスティラ艦の船足が鈍いだと? 少なくとも開戦当初は間違いなくバルバール艦を上回っていたと見えたが」
「順風、無風ならばそうでしょう。ですが、風上へと向かう時はそうはいきません。コスティラ艦の船足は大きく鈍ります」
「馬鹿な! 私は20年以上船に乗っているが、そのような事はないぞ!」
「風上に向かえば風の抵抗で櫂は重くなります。しかもバルバール艦に比べコスティラ艦は一回り大きく櫂も長い。更に風の影響を受けやすいのです」
「その程度の差で、あれほどコスティラ艦の船足だけが鈍る訳がなかろう!」
ブルガコフが激した。無論、嵐に向かって進むとなれば話は違うが、通常航行出来る程度の風ならば、向かい風だからと大幅に船足が鈍る事はない。
「普段、風上に向かってもコスティラ艦の船足が鈍らないのは、それは体格の良いコスティラ人水夫だからです」
「なに!?」
「腕力があれば多少櫂が重くなっても苦もなく漕げるでしょう。ですが、元々コスティラ艦の長い櫂を扱うのが精一杯のランリエル人にとって、その多少が大きな差になるのです」
軽い物ならば10回でも20回でも持ち上げられる。その5倍の重さでも持ち上げられる。しかし、10倍の重さでは1回も持ち上げられない。人の腕力とはそういうものだ。限界を超えた途端、力を発揮出来なくなる。ランリエル人の限界はコスティラ人の限界より低いのだ。
「なるほど。コスティラ艦の船足はコスティラ人の膂力により支えられているものであり、ランリエル人にはそれを扱いきれぬと言いたいのか」
「はい」
ブルガコフは反論の言葉を持たなかった。拳を握り締め食いしばる歯が鳴った。再戦は不用としバルバール艦隊の勝利が宣言された。大臣のハウッカは喜びライティラを抱きつかんばかりに賞賛し、ライティラは迷惑そうな目を向けたのだった。
ちなみに、優等生のジェラルドから
「だったら始めから、ランリエル人の体格にはバルバール艦が合っていると、サルヴァ殿下にお答えすれば良かったのではないですか?」
と問われたライティラは、
「模擬戦をしてみたかっただろ?」
と答え、
「まさか、改修費用がこちら持ちになるとは思わなかったがな」
と憮然としたという。
コスティラ艦隊との模擬戦から数日後、帰国を前にライティラはカロージオ夫人の住む屋敷に向かっていた。その懐には古いハンカチが仕舞われている。カロージオ提督の兄と結婚する夫人への未練を断ち切る為だ。
今更2年も前に借りたままのハンカチを返すと言っても不信がられるだけとは分かっている。まあ、屋敷のどこかにそっと置いていこうと考えていた。だが、屋敷に近づくと門は開け放たれ建物の中からは、数名の男女が怒鳴りながら暴れているような音と、それを制止する声、何かが割れる音が聞こえた。
「何事か!」
急ぎ屋敷に駆け込んだ。棒を振り回す中年の女や手当たり次第家具を引き倒す数名の男達、侍女が1人の男に必死でしがみ付いている。
「ライティラ様!」
侍女がライティラに気付き叫ぶと、狼藉者達はライティラに目を向け睨みつけたが、軍人たるライティラとはくぐってきた修羅場が違う。歴戦の名将の眼光に目に見えて怯んだ。
「お、お前がバルバールの提督とかいう奴か」
虚勢を張っているが、表情は強張り声も上ずり明らかに逃げ腰だ。
「貴様らこそ何をしている!」
その怒声に男は仰け反るように後ずさり、変わりに中年の女が進み出る。男と女では腕力の勝負にならないと、このような時は女の方が強気になるものだ。
「ラ、ランリエル人を殺した男に股を開く女を懲らしめてるんだよ! カロージオ提督だってお気の毒なもんさ。亭主を殺した男と女房が乳繰り合ってるんだからね!」
無知からとはいえ、本当は正しい判断をしたカロージオ提督を非難してきた。だが、無実の人を苦しめた悪人だと自分を認める勇気は無かった。どうにかして自分達が正しく、やはりカロージオ提督に非がある。彼らはそう思いたかった。
先日ライティラが屋敷に来た時に、今でもカロージオ提督を非難しているこの者達が見ていたのだ。それを都合の良い話に脳内で変換し、更に自分の行いを正当化する為に、今度はカロージオ夫人自身に標的を代えたのだ。真実などどうでもいい。自分達が正しい。その結論だけが重要なのだ。
「失せろ! 馬鹿共が!」
テチス海屈指の名将の殺気を込めた一喝に、男達の虚勢も、女の強気も一瞬で霧散し、震え上がって転げるように屋敷から逃げ出した。残された侍女は床にへたり込みぐすぐすと泣いている。
「奥様が……。奥様が……」
「夫人がどうかしたのか!?」
ライティラは侍女の身体を揺するようにして問いただすが、侍女は同じ言葉を繰り返すだけだ。口に出来ぬ事をされたのかと、心が凍るように冷えた。ライティラは急いで屋敷の奥へと向かった。
中級貴族の屋敷などみな同じような作りだ。夫人の部屋はこの辺りだと予測し向かうと、果たして扉の向こうから女性のすすり泣く声が聞こえる。最悪の事態は免れたかと一瞬考えたがまだ早い。女性にとっての最悪は死ではない。
「ご無事ですか」
なんと言って良いのか分からず、それだけ言って扉を叩いた。部屋の中でガタガタと音が鳴り、返事を待たずに扉を開けると夫人の姿が見えない。
「どこにいらっしゃるのです?」
だが返事は無い。
見ると、家具や衣装が散乱した床に何か黒い物が混じっていた。初めは黒い布かと思ったが別の場所では黒い線にも見えた。黒く染めた糸が撒き散らされているのか?
そう考え一束手に取ると、ゾクリと背筋が凍った。言葉も出ず、それを握り締めた。信じられぬ思いに微動だに出来ない。ガタリと後ろで鳴り我に返った。音は寝台≪ベッド≫の辺りからだ。だが、寝台に膨らみは無く、近づくと寝台と壁の隙間に縮こまる人影があった。
「見ないで下さい……。お願い見ないで……」
美しかった黒髪が地肌が見えるほど乱暴に短く切られていた。それを白く細い手で必死に隠そうとしている。襲撃した者の中に女も居た為か暴行はされていないが、それが何の慰めになるというのか。それとどれほど違うというのか。女には幾つもの命があり、彼女はその1つを失ったのだ。
夫人に近づくと、更に頭を隠すように身を丸くした。
「来ないで下さい。帰って……」
ライティラはその言葉に従わず夫人を抱き寄せた。夫人は抵抗したものの強引に抱き寄せられると、ライティラの胸で嗚咽を漏らした。
「すべて私のせいです」
夫人から返事は無く嗚咽が増した。
そうだと、夫人は思った。この男が夫を殺したから悪いのだ。誰よりも愛した人だった。夫さえ生きていれば私は今も幸せだった。なのに、その夫を殺し自分の幸せを奪った男を憎みきれない。
「私と一緒に、バルバールに来てくれませんか」
ドキリとした。女は男からの好意に敏感だ。好意を持たれているとは、なんとなく分かっていた。そして、いつも自分を救ってくれるのは、自分を不幸にしたはずのこの男なのだ。だが、それでも
「私は夫を愛しております」
「分かっています」
なぜ、諦めてくれないのか。
「ここには……夫の墓があります。私はここを離れられません」
諦めて、と思った。
「分かっています。ですが、貴方の夫のカロージオ提督はここには眠ってはおりません。彼は海に眠っている。そして、海はバルバールにも繋がっています」
なぜ、この男を憎めないのか。夫を殺すところを直接見ていないからだろうか。夫が尊敬した人だからだろうか。夫の名誉を守ってくれた人だからだろうか。だから……好意を感じてしまうのだろうか。
顔を上げた夫人の濡れた黒い瞳と、その夫を殺した男の瞳が見詰め合った。唇が触れ合ったのは、そのすぐ後だった。
ライティラ一行を乗せた船がランリエルの港から離れた。乗せる人員は来た時と同じ人数だ。だが、大臣のハウッカは商談の交渉に残っている。彼の変わりに1人の女性が乗船していた。屋敷に居た侍女と召使は、落ち着いたら呼び寄せる事になっている。
そしてライティラは、その女性の事で悩みがあった。迂闊にも、まだファーストネームを聞いてはいなかった。