第85話:晴朗なれど波高し
その日、ランリエル王国沖に、それぞれ20隻からなるバルバール艦隊とコスティラ艦隊が対峙した。サルヴァ王子の提案で、どちらの艦が優秀かを競う模擬戦が行われるのだ。発案者であるサルヴァ王子は副官、幕僚らと共に高台に身を置き、その様を眺めていた。屋根だけの簡単な陣屋に椅子を置いて幕僚達と共に座り、後ろにはウィルケスが控えている。
「右がバルバール艦隊、左がコスティラ艦隊か」
その問いにウィルケスが資料に目を落とした。
「はい。右側、つまり西にバルバール艦隊、東にコスティラ艦隊。指揮を執るのはバルバールはライティラ提督、コスティラはブルガコフ提督です。風は南東。バルバール艦隊は向かい風となるので不利なのですが、ライティラ提督からは異議は無かったとの事です」
「なるほど」
副官からの詳細な報告に王子は満足し頷いた。目前では、両艦隊は徐々に隊列を整え開戦の時が近づいていた。
長躯航海する時には帆を張る場合もあるが、戦闘時は火矢での攻撃を警戒し帆は船内に片付け、推進力はもっぱら櫂≪オール≫を漕いで得る。それでも船体に追い風を受ければ船足が速くなり、向かい風なら鈍るのだが、ライティラは問題にしなかったようだ。
「しかし、コスティラ艦の方が船足が速いと聞いていたのでバルバール艦に比べて小型なのかと思っていたが、コスティラ艦の方が少し大きいのだな」
一般的な考えだと、大きい船は動きが鈍く、小さい船の方が早いとされている。王子もその認識だった。しかし目の前のコスティラ艦は、全長、横幅、そして高さまでもバルバール艦より大きい。
「はい。漕ぎ手の人数はバルバール艦もコスティラ艦も同じなのですが、コスティラ人は身体が大きいですから船体も大きいそうです。それに、櫂の長さもバルバール艦より長く、それによって強い推進力を得ているとの事です」
「なるほど。船側から伸びる櫂の位置もバルバール艦より上にあるな」
「逆にバルバール艦は小型の船体で短い櫂を使い、旋回力を上げているそうです。やはり櫂が長いと扱いづらいと聞いております」
その特性の差がこの戦いでどう出るか。先日行われた会議では、両国の提督はその特性が戦場で優位に働くと共に主張した。この模擬戦の意義。それを正しく理解していれば、ただ勝てば良いとは考えない。特性を見せ付けた上で勝つ。それを考えるはずだ。
「面白いものが見られそうだな」
王子は、肘掛に置いた右腕から伸びる腕に傾けた顎を乗せた。その視線の先を海鳥が横切った。
バルバール艦隊旗艦となる船の甲板では、将来を期待されたランリエル海軍士官候補生の中でも優秀と言われるジェラルドが、艦隊提督から理不尽な命令を受けていた。癖のある茶色い巻き毛が潮風に揺れている。
「サルヴァ殿下に会う事があれば、大国ならばみみっちい真似はするなと言っておけ!」
「わ、分かりました」
とは言うものの、本当に言えるはずもなく、ライティラとて本気で言わせる気はない。
今回の模擬戦を行うにあたり、当然経費という物が発生する。船を動かすには人員が必要であり、人を動かすには金がいる。そして何より、模擬戦という事で相手の船を本当に沈没させない為、船首の衝角を鉄製の物から木製に取り替えたのだ。これならばぶつけられても致命傷となるほどの損傷は受けない。だが、衝角取替えの改修にかなりの経費が発生していた。ランリエル側はその支払いを拒否したのだ。
「バルバールが艦艇を売り込む為に模擬戦でその性能を示そうというのだ。その費用は当然バルバール持ちではないか」
「し、しかし、そちらのサルヴァ殿下のご提案で模擬戦を行うのですぞ」
「仰る通り殿下の提案です。ですが、あくまで提案。それを拒否する事も出来たはず。それをせずに今更異議を唱えられても困ります。バルバールが模擬戦を行わないというならそれでも良いですが、ならばコスティラの不戦勝となりますが、よろしいですかな?」
ランリエルの官僚は冷然と言い放った。しかし現実問題としてサルヴァ王子の提案を拒否できるはずもなく無理難題だ。バルバールの交渉を担当している大臣のハウッカは、自棄酒を浴びくだを巻いた。
「どうせコスティラにも同じ事を言っているに決まっている!」
机に杯を叩き付けたが、ならばと今更模擬戦を中止にする事は出来ない。この時点で既に作業を開始しており、それを取り止めては、それこそ経費の無駄で終わってしまうのだ。
「必ず模擬戦で勝利するのだぞ!」
ハウッカは酒臭い怒声でライティラに厳命した。もっとも彼らにも誤解があった。これはサルヴァ王子の指示ではなく、ランリエル官僚の独断である。だが、費用をバルバール持ちにされる事に変わりなく、それを知ったところで怒りが収まるものではなかったであろう。
ライティラにしてみれば始めから勝つ気だったが、戦い以外のところで面倒を押し付けられ不快だった。沸き起こる怒りを取り合えず近くに居た候補生にぶつけたが、まだ納まらない。仕方がないので、目の前にいるコスティラ艦隊に残りをぶつける事にしたのだった。
それぞれ20隻の両艦隊は横一列に並んで700サイト(約600メートル)ほど距離を置き、開始の合図を待つばかりで船首を向けて対峙している。バルバール艦隊の提督はライティラ、各艦の航海士はランリエル海軍士官候補生である。コスティラ艦隊の提督はブルガコフ、航海士は現役のランリエル海軍士官だ。漕ぎ手は共にランリエル海軍の水夫である。
今まで訓練を積んで来たバルバール艦の操船だが初めて海戦を行う候補生達と、ここ数日初めてコスティラ艦に触っただけの現役の士官。共に不安はある。額に流れる汗の理由は暑さばかりではない。緊張し開戦の合図を待った。
「晴朗なれど波高し。か」
ライティラは今日の天候を短く評した。
「あ。そうですね。いい天気ですし、波は高いみたいです」
ジェラルドも、尊敬する気難しい提督の言葉に律儀に相槌を打つ。戦いを前にライティラの顔に苦笑が浮かんだ。
ドーンッ! 大きく開戦の太鼓が鳴った。続けて打ち鳴らされる。
「全速前進!」
「ぜーん、そーく、前進!」
コスティラ艦隊提督ブルガコフが鋭く言い、傍らの航海士が他の者が聞き間違えないようにか、奇妙な発音で大きく復唱した。他の艦にも手旗信号で命令を伝える。それに対しバルバール艦隊提督ライティラもジェラルドに命令を発す。
「面舵(右回り)一杯!」
「え!?」
「何が、え、だ!」
「は、はい! おもー、かーじ、一杯!」
やはりジェラルドの発言も奇妙だった。
命令が伝達された各艦艇では、航海士に任じられた士官候補生達が懸命に指示を出す。カロージオ提督の甥エリオも声を嗄らし叫んだ。まだ青さが残る声が海上に響く。
「左船側、順櫂! 右船側、逆櫂!」
水夫達は左側にいる者達は前に進むように漕ぎ、右側の者達は反対に漕ぐ。艦が急旋回を始めた。
「いきなり敵前回頭だと?」
「奴ら何を考えている」
その光景にコスティラ艦隊の船長達は目を疑った。そして、驚いたのは提督のブルガコフも同じだが、彼はもっと建設的な言葉を発した。
「更に速度を上げろ! 回頭中の敵の側面に突っ込むのだ!」
今までも力強く櫂を漕いでいた水夫が、更に力を振り絞る。櫂が海面を抉るように走り、コスティラ艦隊は追い風の恩恵も受け波を切ってバルバール艦隊に迫った。
「焦るな! 敵が来るからといって一々怯えて戦になると思うか!」
ライティラが怒鳴った。20隻の艦隊が一斉に回頭しているのだ。動きが乱れれば衝突する。
落ち着け。落ち着け! 落ち着け!!
候補生達は自身を叱咤した。コスティラ艦隊はぐんぐんと迫る。回頭し終わる前に突入されては終わりだ。
どうしてこんなに回頭するのが遅いんだ!
候補生達にはそう見えた。だが耐える。ここで焦って無茶な指示を出せばそれこそ混乱する。そして、遂に全艦の回頭が終わった。
「全速前進! 引き離せ!」
「ぜーん、そーく、前進!」
のろのろと動き出したバルバール艦隊の速度が徐々に上がる。コスティラ艦隊は間に合わなかった。いや、間に合うどころではない。候補生達は経験不足から必要以上に迫るコスティラ艦隊に恐怖したが、実際、両艦隊の距離はまだ500サイトもあった。
「バルバールの提督は、坊主どもを良く訓練しているようだな」
ブルガコフも追いつくとは考えて居なかった。心理的に圧迫し、経験不足の候補生のミスを誘ったのだ。だが、候補生達はそれに耐え切った。コスティラ艦隊に背を向け、走り出している。
ライティラは引き離せと命じたものの、そもそも旋回力のバルバール艦と船足のコスティラ艦との戦いだ。両艦隊が共に同じ方角を向き追い風だが、条件が同じなら引き離せるはずもなく距離は更に縮まる。この光景に高台のサルヴァ王子も首を傾げた。
「バルバール艦隊は何をやっているのだ? 始めの反転は見事だったが、船足で負ける敵に背を向けてどうする。このままでは、背後を突かれるだけではないか」
「ですが、バルバール艦隊のライティラ提督といえばテチス海屈指の名将との呼び声もあります。このまま終わるとも思えませんが……」
サルヴァ王子が小さく頷いた。それは分かる。バルバール艦の強みはその旋回力。もう一度どこかでそれを見せる時が来るはず。だが、一旦敵に背を向けた不利をどう挽回するのか。まさか、旋回力さえ見せ付ければ、性能を見る為の模擬戦としてはそれで良しとする気か。
両艦隊の距離がついに300サイトにまで近づいた。ライティラが、また命令を出した。
「取り舵(左回り)60度!」
「とーり、かーじ、60度!」
バルバール艦隊は旋回し、横一列の陣形から単縦陣と呼ばれる縦一列の隊列となって南南西の沖合いへと船首を向けた。艦隊運動はし易いが、その反面、衝角戦には不向きな陣形だ。しかも、後ろから追うコスティラ艦隊に側面を晒している。コスティラ艦隊提督ブルガコフはその隙を見逃さない。
「取り舵45度! 敵の側面に食らい付け!」
「とーり、かーじ、40、5度!」
直角近く曲がったバルバール艦隊と斜めに近道するコスティラ艦隊。距離的にも船足もコスティラ艦隊が有利だ。バルバール艦隊の一番右に居た艦艇に、コスティラ艦隊の一番左の艦艇が迫った。木製の衝角にぶつけられても沈没はしないが、その代わりにぶつけられれば無条件に沈没とされ戦線離脱しなければならない。つまり、航海時に後ろからぶつけられても実際は対した損傷は受けず沈没しない場合も多いのだが、この模擬戦では沈没したと判定されてしまうのだ。
辛うじてコスティラ艦の衝角から身をかわしたバルバール艦隊の後方艦だが、コスティラ艦はそのすぐ後ろにまで迫っていた。バルバール艦隊、コスティラ艦隊が一直線に並んだ。その状態にコスティラ艦隊提督ブルガコフが動いた。
「もし敵が最後尾の艦艇を捨石に使い急停止させれば、その艦は沈められるが、その後ろに一列に並んだ我が艦隊は互いに衝突しかねない。たとえ回避出来ても隊列は乱れ、そこにバルバール艦隊が再反転してくれば乱戦となる」
その判断に、ブルガコフは隊列を整え再度艦隊を左右に展開させた。当然、先頭の艦艇の速度は落とさせたが、それでもバルバール艦隊と目に見えて距離が開かなかったのは流石である。
その見事な艦隊運動に、見物するサルヴァ王子も感嘆の声を上げた。
「操船しているのはすべてコスティラ艦に馴染まぬランリエル人にもかかわらず、あの船足の速さは目を見張るものがあるな」
「それに比べてバルバール艦隊は今のところ逃げているだけです。最初の反転やその後の方向転換も見事といえば見事でしたが……」
「うむ」
コスティラ艦隊の動きを評価したのはサルヴァ王子ばかりではなかった。逃げに徹するバルバール艦隊を率いるライティラも、中々やるではないか、と敵将を評した。
「これは、やられるかも知れんな」
「え? なんでしょうか?」
船を打つ波の音に消え入りそうなライティラの呟きを微かに耳に引っ掛けたジェラルドは、もしかしたら重大な命令を聞き漏らしたのかと不安そうだ。
「いや。なんでもない」
コスティラ艦隊が左右に展開したのは、衝突を恐れたばかりではない。左右に広がれば次にバルバール艦隊が方向転換した時にどちらの方向に進もうとも、その方向の端に位置するコスティラ艦がバルバール艦隊の最後尾に食らい付ける筈だ。つまり、次に方向転換するのがバルバール艦艇が沈められる時である。
まあ、やむを得ぬか。
「取り舵60度!」
「とーり、かーじ、60度!」
「取り舵45度!」
「とーり、かーじ、40、5度!」
バルバール艦隊が動きそれに合わせコスティラ艦隊も動いた。バルバール艦隊は縦一列の陣形から横一列と陣形を変えた。しかし、左端の2隻がコスティラ艦に食い付かれた。まず一番左端の艦艇に敵の衝角が音を立ててめり込み、その横から前に躍り出た艦もその動きを予測していたコスティラ艦の餌食となった。沈没の目印である黒い旗を掲げ停船する。
この動きは明らかに各艦艇の判断であり、現役の士官が乗るコスティラ艦の優位が見て取れた。ライティラにとっては舌打ちしたい気分であるが、まあ、これくらいは仕方がないか。
「全速前進! 引き離せ!」
だから無理ですって! ジェラルドはその叫びを辛うじて飲み込んだ。
「ぜーん、そーく、前進!」
バルバール艦隊は2隻を撃沈され、更に後ろからコスティラ艦隊が迫る。本当に旋回力を見せるだけの為に逃げ回っているのか。候補生達に不安が広がり、見物するサルヴァ王子の表情も険しくなる。だが、
「なに!?」
旋回力のバルバール艦。船足のコスティラ艦。その勝負のはずだ。今までの両艦隊の動きを見てもそうだった。にもかかわらず、なんと両艦隊の距離が開き始めた。軽快に波を切り裂き進むバルバール艦隊に対し、コスティラ艦の船足は弱い。
「突然、どうしたのでしょう?」
「分からん」
副官の疑問に、王子もそう答えるしかなかった。
晴朗なれど波高し。
しかし、その短い文章に込められた情報は膨大だった。
晴天とは見渡しが良い事を意味し、敵味方の旗を認識しやすく乱戦となっても混乱は少ない。また、波が高いと船が大きく揺れる。船が揺れればどうなるか。櫂を漕ぎ進む船が大きく揺れては海面を掛けるはずの櫂が空回りしやすくなるのだ。また、風が強いとも言える。
その情報にライティラはこう判断していた。
我が艦隊有利、と。