第84話:罪
貴族社会において結婚とは家と家との結び付きだ。兄弟がいる家に姉妹のいる家がそれぞれ嫁ぐという事も珍しくなく、時には妻に先立たれた夫が妻の妹と結婚したり、夫に先立たれた妻が夫の弟と結婚する事もあった。
そしてカロージオ家当主パオロの妻と、当主の弟の妻は姉妹だった。カロージオ兄弟が年の離れた兄弟だったのと同じように姉妹達も年の離れた姉妹だった。兄と姉が結婚し顔を合わせる事が多くなった弟と妹はいつしか惹かれあい、2人の両親もこれで両家の繋がりが更に強まると賛成し、結婚に何の障害も無かった。
兄弟、姉妹はそれぞれ幸せに暮らしていたが、その幸せな日々を全うする事は出来なかった。始めに流行病で姉が倒れ亡くなり、次に戦争で弟が戦死した。そしてこうなっては残された兄と妹が結婚するのが、貴族社会の’常識’というものである。
パオロとカロージオ夫人との結婚を告げられたライティラは、その後の会話と料理の味をほとんど覚えていなかった。話しかけられた内容にすべて頷いていた気がする。屋敷を辞すると時にパオロから
「それでは、お話した件、よろしくお願いします」
と言われたので多分そうだ。何をよろしくされたか覚えてはいないが、成るように成れだ。
待たせていた馬車の御者は、本当に同一人物なのかと疑いながら、行きと帰りとでは全く覇気が感じられぬ客を乗せ帰路に着いたのだった。
翌日、ランリエル海軍府に足を向けたライティラは我が物顔で廊下を闊歩していた。昨日は晩餐に向かう準備に時間を取られ、結局、今日初めて登庁した。元々表情に乏しく他者を威圧する風貌だが、何か嫌な事でもあったのか眉間には深い皺が刻まれ、偶然目が合った者に目を逸らさせるに十分な眼力を発揮している。
「私はバルバール王国海軍提督ライティラである。サルヴァ殿下の命令でコスティラ海軍の艦隊と模擬戦を行う事になり、戦場となる海域を調べている。資料室はどこにあるのか」
問われた若い職員は、強面の異国の提督を前に思考が停止し、更に王子の命令という言葉もあって素直に場所を教えた。王子の命令というのを海域を調べるという部分にまで拡大解釈したのは職員の勝手だ。職員に問うた上で拒絶されなかったのだから、後で海域を調べた事を問われてもライティラに落ち度は無い。
資料室に入り机に海図を広げたライティラは、懐に忍ばせていた下の透ける薄い無地の布を重ね、素早く筆で海岸線をなぞった。慣れたものでその作業はすぐに終わったが、問題は水深、低質などの資料である。その量は膨大でとても1人では書き写せそうに無いのだ。
資料室の場所は分かったし、自分が資料室に入るのを咎められなかった実績は作った。明日は部下を連れてきて測量の資料を書き写させよう。それを咎められれば、私が良いと言われたのだから部下も良いものと認識していたと主張する。万一罪に問われてもランリエルに私を直接罰する権限は無い。バルバール海軍に私の処分を求める抗議をするだろうが、厳重注意の訓告で済むはずだ。そんなもの何の痛手でもない。
書き写した海図をまた懐に仕舞い、一応はと資料に目を通し始めた。とにかく何かをやっていないと昨日の事を思い出してしまう。別に夫人との間に何かあると期待していた訳ではない。だが、それでもだ。彼女が誰かと再婚するなどとは……。
ライティラの指が資料を捲り、その速度が段々と速くなる。
兄の妻が亡くなり、その妻の妹が独身ならば妹と結婚する。貴族社会ならば当たり前ではないか。しかも、弟の妻でもあった。誰がどう見ても結婚するしかない2人である。
資料を見ていたはずが、いつの間にか資料を捲る指だけが機械的に動き、全く見てなかった。ライティラ自身それに気付くと資料を閉じた。やや乱暴に資料を片付け部屋を後にしたのだった。
他に思い浮かばず、カロージオ提督の墓を目指した。ランリエルで知っている場所が他に無いからか。夫人の幸せを奪ったのは自分がカロージオ提督を殺したからという思いからか。それとも夫人と初めて会ったのがこの場所だからか。自分でも分からない。
カロージオ提督の死に、罪は感じていない。戦争だった。それだけの話だ。戦争が起これば誰かが死ぬのは当たり前で、誰の罪でもない。それとも、名前も知らぬどこぞの誰かの恋人なら殺しても罪ではなく、知っている人の愛する者を殺せば罪になるのか。馬鹿げた話だ。
だが、愛する者を失い、悲しみ、不幸になる人がいるのも事実だ。戦争だったのだ。殺した者に罪は無いのだと言ったところで、その心の傷が言える事は無く、幸せも戻っては来ない。
「また、主人に用ですの?」
振り返ると柔らかい笑みと苦笑を均等に浮かべたカロージオ夫人が美しい黒髪を風になびかせていた。その姿に、ここに来たのは夫人に会えるのを期待していたのだと気付いた。
「ええ。少し、貴女もご主人に話があるのですか?」
「私は、毎日来ておりますので」
彼女はそう言うとライティラの横に並び夫の墓標の前でしばらく黙祷をささげていた。ライティラも改めて黙祷する。風が吹きライティラの腕を漆黒の絹のような黒髪が撫でた。
「あ、すみません」
「いえ。お気になさらずに」
夫人は無造作に手で髪を束ね少し悲しそうに微笑んだ。
「駄目ですね。主人が亡くなってすぐの時は、毎日ちゃんと髪を結って来ていたのですけど、つい面倒になってしまって」
夫人の指が、髪の束を捻るように弄ぶ。
「きっと、だんだんとしわくちゃの服でも気にならなくなって、毎日来ていたのが2日に1回になって、3日に1回になって、10日に1回に、そして……いつか来なくなってしまうんです。きっとそうなんです」
人の気持はいつまでも同じではいられない。今日は雨が強いからと、風が強いからと、体調が優れないからと自分に言い訳しつい足が遠のいてしまう。良い悪いではなく、夫を愛していなかったのでもない。
「貴女に限ってそんな事は……」
「いいえ。分かるんです。きっとそうなります。でも……。そんなのずっと先で、10年も20年も先なんだと思っていました」
夫人は静かに眼を閉じ小さく首を振った。
「ですけど、もうここには……」
「何か、来れなくなる訳でもあるのですか?」
「パオロ様と結婚したら、きっとここには来れなくなります。少なくとも毎日だなんて……」
いくら夫の弟とはいえ、結婚した後にも前夫の墓に毎日来続けるなど、今の夫を蔑ろにしていると世間は見る。特にパオロは外聞を気にしそうな男だ。
その後、風が強くなり夫人の屋敷へと場所を移した。ライティラは断ったのだが、夫人が風で身体が冷えたでしょうと半ば強引にお茶に誘ったのだ。
カロージオ提督の屋敷は綺麗に手入れされ、以前のように寂れた雰囲気は無い。お茶も夫人が自ら運ぶのではなく、小柄なすばしっこそうな侍女が用意した。
「ライティラ様のお陰で、侍女と召使を雇う事が出来ました」
お茶を前に夫人が微笑んだ。海戦の知識が薄いランリエルでは、カロージオ提督は正しく評価されず敵前逃亡した卑怯者。そう呼ばれて人々から非難されていた。そのような人の屋敷では働きたくないと、侍女や召使にすら愛想をつかされ出て行かれたのだ。
だが、カロージオ提督は決して卑怯者で無いとライティラは主張したのである。
「何も分からぬ者達が間違った物の見方をしているのが我慢出来なかっただけです。カロージオ提督は、あの時最善の判断をしました」
「そう言って頂けると主人も喜びます」
ランリエル王国沖海戦。ライティラ率いるバルバール艦隊96隻とカロージオ率いるランリエル艦隊141隻で行われ、バルバールの損害は19隻、ランリエルは117隻。生き残ったランリエル艦は僅か24隻。しかもカロージオ提督は戦死している。100人に聞けば100人がライティラの勝利だと断言する。ライティラ自身も己の勝利だと認識している。しかし’見方によっては’という枕詞を付ければ、その限りではないという事も、名将であるがゆえに理解していた。
戦いとは目的があって行うものであり、目的を達成すれば勝利、達成できなければ敗北だ。とすれば、ランリエル艦隊の全滅を目論んだライティラとそれを阻んだカロージオ。ならば勝者と敗者はその位置を変えるのだ。
ライティラが夫の汚名を雪≪そそ≫いでくれたお陰で侍女や召使が来てくれるようになった。夫人が強引にライティラを屋敷に招いたのは、それを見せたかったのかも知れない。
「でも、折角来てくれたのに、暇を出さなくては――」
ガシャン! と、何かが割れる音が夫人の言葉を遮った。扉の向こうで侍女が慌てて音の鳴った方に向かう足音が聞こえる。
「今のは何の音です?」
問うライティラに夫人は悲しげに視線を落とした。
「折角ライティラ様がいらしてくれた時に限って……。本当に稀になのですけど、屋敷に石を投げ入れる人が居るのです」
「どうしてそんな事を?」
「ライティラ様に夫の汚名を雪いで頂いて、大勢の方から今まで自分が間違っていたと謝罪して頂けたのですが……。ですけど、一部の人達はまだ、敵から逃げた事に変わりは無いと……」
人とは、自分の吐いた言葉に引っ込みがつかなくなる事がある。今まで夫人に汚い言葉を浴びせ、今更夫人に謝れない。その罪の意識から逃れる為に、あくまでカロージオ提督に非があるのだと、自分自身すら騙し今も夫人を敵視しているのだ。
「でも大丈夫です。侍女のイレーネや召使のカストが追い払ってくれていますから」
「そうですか」
それは良かったですね。とも言えず、言葉を濁した。遠くから、誰だー! と侍女の声が聞こる。笑っている状況ではないのだが、侍女の健気な怒声に夫人が小さく噴出した。
「でも、パオロ様は自分の屋敷には昔から雇っている侍女や召使が居るので、結婚してこの屋敷を引き払えば2人は必要ないと仰っているのです」
そう言って夫人は笑みを消した。
普通の女性ならば、結婚を前にすればそれによって何か問題があっても、困った顔をしながらもどこか幸せそうな雰囲気が滲み出すものだ。あまり女性関係が盛んでないライティラでもそれくらいは分かる。
夫人は夫の兄であるパオロとの結婚を望んでいないのではないか。そう推測、あるいは願望を持った。なぜなのか。パオロは少し強引なところは見えるが、そう悪人にも見えない。
しかし、結婚したくないのですか? とは直接的過ぎ、僅か3度ほど顔を合わせただけのライティラには問うのを躊躇わせ
「ご主人と離れたくないのですか?」
知恵を絞り間接的に問うた。
「はい」
「そうですか」
まあ、聞いてみれば当たり前の話か。夫人はまだカロージオ提督を愛しており他の男と結婚するのに気乗りではない。それだけの話だ。
「でも、それだけではありません」
「それだけではない?」
「私はパオロ様を愛せません」
「愛せない……。それはどうしてなのです?」
政略結婚が大半を占める貴族同士の夫婦とて愛は必要だ。もっとも貴族の結婚の場合は、結婚してから当人達の努力によって育む事になる。それともその努力を放棄し、跡取りさえ出来れば、後はそれぞれ勝手に愛人を持って冷えた夫婦として暮らすかだ。
「パオロ様は本当に私に良くして下さいました。夫が亡くなり収入の無い我が家に援助をして下さり……。今も私を妻にと望んで下さいます。皆さん仰るのです。あんなに良い人は居ないと……。私もそう思います」
「では、なぜ?」
「あの方は、カロージオの姓を捨てました」
いつしか、夫人の黒い瞳から涙が零れていた。
そうか。そうだった。カロージオ提督の兄パオロは、弟が敵前回頭し戦場を離脱したのは命が惜しくなったからだという中傷を信じ、カロージオの姓は不名誉だと、一時姓をバルバートに変えていたのだ。
無論、パオロとて一族を守る為の処置だった。もしかすると、弟を信じては居たが、世間の非難の嵐に耐え切れず屈辱に唇を噛み締め血の涙を流したのかも知れない。
しかし夫人にとってパオロは、夫の兄にもかかわらず夫を、自分の愛する人を信じてくれなかった男なのだ。今更、心では弟を信じてはいたが一族の者達の為には仕方が無かったのだと説明されても、心の奥底には不信の炎が燻り続ける。
「夫を信じてくれたのは、貴方だけでした」
夫人は両手で顔を覆い、その指の隙間から涙が溢れた。
「貴方が夫を殺したのに……。貴方だけが……」
ライティラは思わず嗚咽を漏らす夫人を抱き寄せ、夫人は夫を殺した男の胸に抗う事無く抱かれた。
この世に生きている生物は他の生物の犠牲無しに生きる事は出来ない。虎や獅子は子羊を狩るのに罪の意識を感じるだろうか。いや、縄張り争いで同属を殺しても罪など感じない。
殺し罪を感じるのは人間だけだ。カロージオ提督は戦争で死んだ。誰に罪がある訳ではない。だが、ライティラは今、重い罪の意識に心が押しつぶされそうだった。
名前も知らぬどこぞの誰かの恋人なら殺しても罪ではなく、知っている人の愛する者を殺せば罪になるのか。そうだ。その通りだ。罪を感じるのは人間だけであり、罪は自分で罪と思うから罪なのだ。愛する者を悲しませる事が罪でないはずが無い。