第81話:孤独な総司令
ある春の日、色取り取りの花を咲かせる広場に長く美しい黒髪の十代中ごろと思われる少女が居た。その黒髪は一筋の乱れも無く光沢のある布のように見えた。しかしそうでない証拠に、時おり優しい風になびいている。細く長い手足と細い腰に慎ましく胸が膨らんでいる。あどけなさが残る目元と小さい唇は妖精のような無垢を感じさせた。
白い小さな手が更に小さい手と繋がれている。2歳くらいの男の子で彼女の手を握り締めながらも歩き回ろうとし、しかし自ら強く手を握っている為それもままならない。遠くの花に興味を惹かれ近づこうとして阻まれるのを繰り返している。
「だー。だー」
と、意味を成さぬ声を発しながら、時おり少女を振り返り天真爛漫に笑みを見せる。
少女は、男の子の行動範囲を広げてあげようと中腰に身をかがめて手を伸ばす。膨らみのある、身体の線の出ないスカートを履いているが、突き出された腰に意外に張りがある。
男の子はどこと無く少女と似て可愛らしいが、姉弟にしては少女が漆黒の髪と瞳で男の子は茶色の髪と瞳だ。親類の子供をあやしている従姉弟か、もしかすると歳若い叔母と甥かもしれない。いや、姉弟でも髪や瞳の色が違う事もある。姉弟と判断するのが妥当か。
その光景を見ていた品の良い老紳士は、男の子をあやす美しい少女にどう声を掛けるか思案していた。
長年連れ添った妻を数年前に亡くしたが、残された息子は立派に育ち嫁も娶った。後はその嫁との間に子供が出来てくれれば申し分ないのだが、それはまだ気が早い。息子夫婦はまだ新婚であり、年寄りが屋敷に居ては若い2人の邪魔になろうと屋敷を出て散策する日が増えた。
しかし老人1人の日々は味気ないものだ。美しい少女の歳の離れた友人となり散策仲間となれれば淋しい日々の慰めとなる。罪の無い逢瀬を期待し老人は数十年ぶりに少年のように胸を高鳴らせ、それを悟られぬように気を付けながら少女に近づいた。意識して落ち着いた口調を心掛けたが、僅かに上ずった。
「お嬢ちゃん。お母上に弟の子守を言いつけられたのかね。偉いもんだ。おじいさんがお小遣いを上げよう」
老人の手には数枚の銅貨が置かれていた。物で釣るようだが、純朴な老人は、それだけに少女の気を引く上手い言い回しが使えなかったのだ。
無邪気に喜ぶか、突然声をかけた知らない老人を恐れるか。好々爺らしい笑みの奥で少女の反応を考えどぎまぎした。不器用な告白をした老人に少女は苦笑を浮かべ、それが意外と大人びている。
「おじいさんごめんなさい。そのお金はお受けする訳にはまいりません」
「おお。お小遣いを貰うお年ではなかったかな。これは失礼、お嬢さん」
少女の無垢さからつい子供扱いし話しかけてしまったが、淑女として扱われたい年頃かも知れない。慌てて言いなおしたが、少女は苦笑を浮かべたままだ。
「いえ。この子は私の息子なのです」
「――」
老人は声にならぬ驚きの声を上げた。大きく目を見開き、顎が外れたように口が開く。老人にとっては人生で稀に見るほどの驚愕だが、少女にとっては見慣れた反応だ。
「それでは、失礼致します」
と、男の子の手を引き背を向けた。淡い恋心を打ち砕かれた老人は呆然と息子の手を引く少女を見送ったのだった。
「ケネス様! またオシァンと姉弟に間違われたんですよ! 私はそんなに子供に見えますか?」
屋敷に帰ったミュエルは、早速同居する従兄に訴えた。人を非難する事の少ない彼女だが、繰り返される同じ間違いにさすがに不満が蓄積する。それでもこれほどあからさまに感情を表すのは、彼女の彼に対する甘えでもある。だが、その甘えこそが家族というものだ。
長年ディアスの従者として仕えてきたケネスは、最近、ついに司令部の准士官となった。本来、准士官とは、士官になれる功績、能力はあるが、貴族でない為士官になれない者を仕官待遇とする特殊な階級だ。もっとも近年では、軍隊の規模も大きくなり貴族だけで士官を構成するのも不可能となって平民の士官も多くほとんど有名無実と化している。だが、通常より長い期間従者として仕え、その代わりに1兵士としての勤めを飛ばし士官となったケネスにはちょうどいい。しばらく准士官として勤めれば正式な士官になる予定である。
ケネスは若き人妻の追及に困り果てた。彼女が12歳の頃から知っている彼から見れば成長しているが、元々年齢より幼い顔、小さい身体、慎ましい胸元を持ち実年齢より2歳ほど年少に見える。それは今も変わらず17歳の彼女は、14、5歳にしか見えない。
無論、14,5歳で子供を産む女性もいるが、純粋無垢で性と無縁に見えるこの可憐な少女が、人の妻となり子をなす行為をしているとは想像しにくいのだ。
そして何が困るかと言えば、そのような少女を慰めるとすれば若く見えるなんて良いじゃないか、くらいしかないのだが、その慰めを童顔に劣等感を持つ少女が嫌がるのだ。さりとてお世辞にも大人っぽいとは言いがたい。
「こ、子供っぽいとかじゃないと思うよ。ミュエルが可愛いから結婚しているように見えないんだよ」
頭を巡らし言葉を選んだ。それでも納得しきれないミュエルは頬を膨らませ、そのしぐさがより’母親’に見られないのを理解していない。
それでも人妻としての役割を果たすべくディアスの帰りの時刻が近づくと台所に向かった。総司令の地位と武門の名流として使用人に事欠かないディアス家だが、ディアスの食事は出来る限りミュエルが用意した。
ディアスは夕刻から会議があるというので少し遅くなるという話だが、ディアス家では基本的に皆で晩餐を取る。ケネスは会議が終わるまで待とうとしたが、ディアスからお前はもう従者ではないのだからと帰された。いつまでもディアスに張り付いていては、新任の従者が煙たがるかもしれない。
いつもの帰宅時間を半刻(1時間)ほど過ぎてからディアスは屋敷の門をくぐった。新任の従者ラハティは門の前で別れ、近くにある自宅へと戻った。総司令付きの従者に選ばれるだけあってラハティは中々の家柄で、両親は王都に屋敷を構えているのだ。従者を自分の屋敷に住まわせるかどうかは上官しだいだが、屋敷にはケネスもいるしラハティも息が詰まるだろう。
「ミュエル、帰ったよ」
「ディアス様、お帰りなさい」
「お帰りなさい、ディアス将軍」
「だー。だー」
家族総出で迎えられディアスは微笑んだ。ディアス夫人である妻は相変わらず夫を姓で呼び、家事に忙しい妻の変わりケネスがオシァンを抱いている。
「今日は、鶏肉の蜂蜜焼きです」
ミュエルはそう言いテーブルに料理を並べた。香ばしく甘い香りがディアスの鼻腔をくすぐり目を向けると、表面に蜂蜜を塗り狐色に焼かれた鶏肉が照りを出している。つくづく鶏肉と甘い物の組み合わせが好きな娘だと、ある意味感心した。
通常より分厚く塗られ焼かれた蜂蜜は硬い殻となり、それをパリパリと砕きながら鶏肉を切り分け晩餐が始まった。早速、子供扱いされたと愚痴をこぼす妻に頭脳明晰な夫は瞬時に言葉を選びぬいた。
「なに。そんなに急いで成長する必要はないよ。お前はいずれ皆がびっくりするくらいの淑女になるんだからね。お前だってオシァンに急いで大人になって欲しいとは思わないだろ?」
ディアスは巧妙に論点をずらし卑怯にも息子を盾にした。愛息子が可愛くて仕方がない幼な妻は、息子の名が出た瞬間に意識がそちらに向き、確かに今の可愛い時期がすぐに終わってしまっては大変と頷いた。そしてその横では、聞き耳を立てたケネスが、今度は自分もそう言おうと頭に刻んだのだった。
食後ディアスは幼い息子の相手をしていた。
「だー。だー」
と息子はディアスに抱きつき、自分の父と認識しているのか懐いている。そう背の高くない自分と小柄なミュエルとの子だと発育を少し心配していたが、それも杞憂ですくすくと育ち同時期の男の子に比べても少し体格が良い。しかしディアスにはまだ心配があった。
「そろそろ喋っても良いんじゃないか? もうすぐ2歳だ。このぐらいの子供なら喋る子も多いはずだ」
と、胡坐をかいた上に座らせた息子の顔を覗き込みあやしている。
「またですか? 喋る子は多いかも知れませんけど、まだ喋らなくたっておかしくありません」
2日に1回。いや、3日に2回は繰り返される会話に、夫を愛する妻もさすがに辟易した表情だ。もっとも、それほど夫が、自分との子供を愛してくれているとの喜びも表情の奥に隠れた笑みにあった。
「しかしだ。喋る子が多いなら、その多い方に倣うのが普通だろう。喋らないのはやはり発育が遅いんじゃないか?」
ミュエルが、夫が実はかなりの子煩悩なのではと気付いたのはオシァンが産まれてすぐだった。夫を愛するミュエルは表現を和らげているが、世間一般では、かなりの子煩悩とは親馬鹿と表現される。
「ゲイナー様が仰ってましたけど、ディアス様も3歳くらいまで喋らなかったそうですよ。オシァンはディアス様似なんです。そんなに心配はいりません」
ミュエルが懐妊してからディアス家への訪問が増えたゲイナーは、オシァンが産まれると更にその数を増やしていた。ディアスにとっては喜ばしい事ではないが、ミュエルがディアスと引き合わせてくれた恩人と考えていて門前払いは出来なかったのだ。
しかも、以前はディアスが死ねば当主の座は自分のものと甥の死を望んでいたにもかかわらず、オシァンを未来の軍総司令に育てようとしていた。
ミュエルを我が娘のように可愛がるこの叔父は、どうやら自分をディアスの叔父というより、娘をバルバール軍総司令に嫁がせた積もりらしい。ずうずうしい事に、オシァンを自分の孫と考えているのだった。
「お前の父はバルバール王国軍史上最高の総司令と呼ばれているのだ。お前も父に負けぬ立派な軍人になるのだぞ」
と、手の平を返し’娘の婿’を褒め称え、ディアスにとっては気持悪い事この上ない。
さすがにゲイナーとて現役の軍人。頻繁に顔を出すといっても毎日ではないが、それでもやって来た時にはオシァンにおもちゃの剣を持たせ、稽古の真似事をさせている。オシァンもそれが面白いらしく、きゃっきゃと笑いながらおもちゃの剣を振り回している。このままでは最愛の息子が、叔父に懐いてしまうのではないかとディアスは危機感を募らせており、それがますます叔父への反発となる。
「いや、叔父上は最近まで余り屋敷に顔を出していなかった。その叔父上が私の子供の頃に詳しいはずがない」
「きっと、ディアス様が覚えていない小さい時には来て下さっていたんですよ」
人を疑う事を知らぬ妻は、愛する夫と親しき叔父の証言から辻褄の合う状況を創造した。そんなに都合の良い話があるのかと思うディアスだが、自身を客観的に見る目も持っている。妻と仲の良い叔父の悪口を言い続ける夫というのは、傍から見て余り格好良くはないものだ。
「それはそうかも知れないが」
と曖昧に矛を収めた。この間にもオシァンは
「だー。だー」
とディアスの胡坐の上で足をばたつかせはしゃぎ、手を伸ばしては父の髪を掴もうとする。
家庭の平穏を守る為、名誉ある撤退を決断したディアスだが、聖人君主ではない彼は同居する従弟に目を付けた。
「ケネス。お前のところにゲイナー叔父上は来ていたか?」
「いえ。ゲイナー様はあまり家には来てくれなかったですね。私の父が商家に婿入りしたからかも知れませんが……」
味方を得たディアスは、うんうんと頷いた。
17歳にして一児の母であるミュエルだが、幼く身体も小さい。元々の考えでは彼女が18歳になってから子供を作る積もりだったが、彼女が15歳の時に’つい’出来てしまい、ケネスに白い目で見られていたのだ。その後オシァンが無事産まれるとほとぼりも冷め、ケネスもディアスへの尊敬の念を思い出していた。
そして今、対ゲイナー戦線において最愛の妻と息子に寝返られケネスは唯一の味方だ。ケネスにまで寝返られては孤立無援である。過分にディアスの被害妄想なのだが、親馬鹿の気のあるディアスは半ば本気で考えていた。
食事の片づけが終わると、ミュエルがディアスの前に座った。表情を改め笑顔の中に緊張も見える。
「実はディアス様にご報告したい事があるんです」
「ん? なんだい?」
胡坐の上で暴れる息子をあやし答えた。
「また赤ちゃんが出来たみたいなんです」
「本当か!?」
ディアスの大声に息子がびっくりしてあまりの驚きにきょとんとし、何事が起こったのかと父の顔を覗き込んでいる。
「そうか。良くやったぞ」
「はい」
微笑むミュエルは、夫が喜んでくれたと更に笑みを深くする。染み一つない滑らかな顔の目じりに、喜びの深さに相応しい皺が刻まれる。
ケネスも尊敬するディアスと家族として愛するミュエルとの間に、新たに命が産まれたのを喜んだ。
「よかったね」
「はい。ケネス様」
従兄と従妹が微笑みあう。だが、従兄はある事を忘れてはいなかった。
「ミュエルって17歳になったばかりだよね」
「はい。そうです」
「そうか。若いお母さんだね」
とケネスはディアスに白い目を向けた。その視線にディアスは背中に冷たい汗を流した。
最後の味方を失ったディアスは、ディアス家当主にもかかわらず、孤立無援になりそうだった。




