第76話:遠征軍
大陸暦634年、春。大地を暖かい日差しが包み草花が茂み出した頃、心安らぐ風景にそぐわぬ殺気を放つ騎士がランリエル王国王都フォルキアの門を潜った。ロタ王国にて、ランベール王とサヴィニャック公ら諸侯との内乱が発生。サヴィニャック公の使者により連絡を受けたランリエル王国は決戦に向け動き出した。
サヴィニャック公との盟約通りに軍勢の派遣を決めたサルヴァ王子は、王都近辺の諸侯に動員を命じた。王家直属の軍勢を合わせ派遣軍とするのだ。
ランリエルから陸路ロタ王国に向かうにはバルバール、コスティラを経て長大な距離を行軍する事になり負担が大きく海路が選択されたが、そうなると今度は別の問題が生じた。
「やはり、艦艇を総動員しても海路で運ぶには3万が限界ですか」
「こうなってくると、上陸作戦というものにもう少し備えるべきだったな。私自身、陸戦屋で、どうしてもその方面が疎かになってしまう」
ウィルケスの問いに王子が頷き苦笑する。戦艦はバルバール海軍の3倍を超え整えつつあったが、上陸作戦を行うなら輸送船が必要だ。
「ランリエルの軍人は皆そうですよ。何せつい最近まで戦いと言えばカルデイとでしたからね。ロタ王国なんて名前すら出てきませんでした」
近年ランリエルでは、急ぎ海軍を整えるべくバルバール王国海軍提督ライティラをはじめ、他国から名のある海将を呼ぶなど海軍士官の育成体制を整えつつあった。だがその反面、なまじ経験豊富な陸戦においては、先輩士官と公私にわたって付き合いながら学ぶという旧体制然としたままだ。それゆえ、陸戦ばかりしていた先人からその経験を受け継ぐ次世代の若者達も海軍など頭に無い。
「今後は陸軍と海軍の連携も考えねばならんからな。今回はムウリに若い人材を付けて経験を積ませる」
「それでルキノ殿が副将ですか」
ウィルケスに皮肉な笑みが浮かぶ。実際、上手いなとウィルケスは思った。本来、実績、功績を考えればルキノに3万の遠征軍の副将は格が合わない。それを輸送兵力不足という問題を進ませ陸軍と海軍との連携不足を指摘し、ならばと今後軍を担う若手士官に経験を積ませると発表。そしてルキノは若手士官の出世頭である。サルヴァ王子は、自然な形で腹心を遠征軍の副将に据えたのだ。
「私も行きたいところだったが、国内でやらねばならぬ案件が山積している。次に私が出陣する時には、今回の戦いに参加した者を幕僚に迎える必要があるだろう」
無論、それはルキノだ。サルヴァ王子の頭の中では、既にそこまで脚本が出来上がっていた。
「しかし、ルキノ殿はもう3万の遠征軍の副将ですか。皆が羨む大抜擢ですね。その分大変だとは思いますが、それでも嫉妬する者の話も良く聞きますよ。どうせ上陸作戦に失敗するんじゃないかとか色々言ってますね。今回はロタ王国には直接上陸しない事になったので、それほど危険ではないみたいですが」
「コスティラ最西端のエリスタに上陸する計画だな。そこから陸路でロタ国内に入る」
不慣れな上陸作戦中に敵の攻撃にさらされては多くの被害を出しかねない。今回はあくまで経験を積ませる為と割り切り、多少不便でもロタ王国の手前で上陸するのだ。余裕が有れば、上陸、乗船行動を繰り返し更に経験を積む計画もあった。
「そこからサヴィニャック公の軍勢と合流してロタ王都に進撃して決戦ですね」
「ロタ王自慢の歩兵は先の戦いで多くの損害を出し、更にサヴィニャック公に付く諸侯は多い。そこに我が3万が加われば勝利は硬いな」
それでも油断は禁物だ。などは当たり前過ぎて言葉にする気にもならない。
その後、ウィルケスはサルヴァ王子が決裁した書類を持ち軍務省へと向かった。春の風が優しく頬を撫でたが、それを感じる事も無く王子との会話を何気なく反芻しながら足を進ませる。
現在軍務省は、ランリエル内で一番権限の無い部署だ。制度上は軍事の最上位機関のはずなのだが、軍総司令のサルヴァ王子が国王すら超える権力を持つのがランリエルの現状だ。軍務省はサルヴァ王子が決定した案件を追従するだけの存在なのだ。
サルヴァ王子の言葉通り、サヴィニャック公に3万のランリエル軍が味方すれば国王の2倍。勝利は硬い。ルキノが王子の幕僚として迎えられるのも確実だ。ケルディラとの戦いで1万の軍勢を任せられたのに続き、とんとん拍子の出世である。
一時は王子との男色という不名誉な噂が流れたが、補って余りある幸運だ。いや、と、ウィルケスの顔に人の悪い笑みが浮かぶ。これでは、また噂が再燃しかねないのではないか。
まあ、今回の戦いでは楽が出来るのだ。それくらいの苦労はしてもばちは当たるまい。
不意に、ウィルケスの足が止まった。
楽に勝てる? おかしな話じゃないか。ルキノはどうして遠征軍の副将に選ばれたのだ? 元を正せば、海路では’3万しか’運べないからではなかったのか
溜息を付き、大きく首を振った。気を取り直し大股で歩き始める。
全くあの人は、どこまで考えているんだ?
それから数日後、準備が整い遠征軍がランリエル王都に近いトルトレート港に集結した。騎兵5千。歩兵2万5千。輸送船171隻。護衛として戦艦159隻。ランリエル海軍の輸送船のほとんどと戦艦の半数を集めた。
戦艦は、全長63サイト(約59メートル)に及んだ。側面から無数の長い櫂が伸び、船主に鉄製の巨大な衝角があった。もっとも衝角の大半は海面の下である。その巨体に見る者は圧倒された。
サルヴァ王子も忙しい身を割き、ランリエル海軍史上最大規模の大艦隊の出航に立ち会うべく訪れた。高台に身を置き、強い潮風は後ろで束ねた長い黒髪を揺らす。
「悪くないな」
戦場にあっては十万の軍勢を統べるサルヴァ王子だが、巨大な戦艦が並ぶ威容に興奮を覚えた。間もなく戦艦は、戦闘時には仕舞われる帆を大きく広げて港から離れ隊列を組み、方錐型に陣形を整え輸送船の出航を待った。
「海上輸送で騎兵5千も運ぶのは前代未聞らしいですね」
「ああ。その分輸送船の数が多く必要になったが、それは仕方あるまい。問題は海岸での上陸と乗船だな。ここなら足場も安定しているが、上陸と乗船の途中に暴れられては……」
にやりと笑う副官にサルヴァ王子が不審げな視線を向けた。
「どうかしたか?」
「あ。いえ。仰る通り、そんな所を敵に襲われては大混乱になりますので、ロタ王国の手前で上陸するのは当然だなと」
「あ。ああ」
と答えたものの、王子の不審そうな視線は変わらない。そして事実、ウィルケスは口に出したのとは別の事を考えていた。歩兵の比率を増やせば3万以上を送れたのだ。それを騎兵を増やした結果3万になった。
王子は自身を陸戦屋と称し、それゆえ騎兵を重要視する事もあるが、船舶による騎兵の大量輸送などウィルケスが指摘した通り思わぬ弱点にもなりかねない。今回それを行ったのは、3万という数に拘ったのか、新しい陸軍と海軍との連携を考えての上なのか。そこまではウィルケスにも分からなかった。
ほぼ全員の乗船が済んだ頃、遠征軍の主将ムウリが副将ルキノら幕僚達を従え王子の元に出陣の挨拶に来た。乗船した後はどうせ脱ぐのだが、出陣の形式として甲冑を身に付け兜を脇に抱える。
常に無く甲冑が光り輝く。太陽熱から身体を守る為に磨かれているからばかりではなく、潮風で甲冑が錆びないように特殊な油を塗っているからだ。その油は高価で、貧しい者は手に出来ず安価な錆び止めの塗料を使用する。その塗料は黒色で、もし夏場に戦場に出れば敵より前に熱中症との戦いとなる。
「殿下に代わり軍勢を預からせて頂きます」
ムウリは低い声で淡々と述べた。猛々しい言葉を吐かず気負ったところが無い。副将としてその右後ろに立つルキノは無言だ。3万の副将という大任に暑くもないのに額に汗を浮かばせ緊張を隠せない。その背後に並ぶ幕僚達はルキノと同世代か更に若く、余りの緊張に身を硬くするどころか視線が泳いでいる。
ムウリの言葉に王子は頷き、その背後に視線を向けた。
「諸君らの健闘を期待する。が、諸君らは軍の将来を担う者と集められたのを自覚して貰いたい。目の前の戦場で勝てば良いとの短慮では困る。最善を考えよ。その最善をどの位置に置くかで諸君らの器量も知れようというものだ」
お前達を試す。その王子の言葉に、ルキノから緊張の色が消え視線が鋭く光る。若い士官達がざわめく。それに気付かぬようにムウリが一礼し、
「それでは出陣致します」
と王子に背を向ける。他の者達も倣い次々と後に続く。ルキノもムウリのすぐ後ろを進みつつ王子の言葉を噛み締めていた。
この戦いは戦場全体でどう意味を持つのか。戦略的にはどうか。どの視点でものを見るかで、前線指揮官となるか軍勢を率いる将軍となるかが決まる。いや、王子の幕僚となるなら更に上か。
ディアスはランリエルに降服しバルバール王国を守り、アルベルドは勝算の無い戦いを起こし反ランリエル同盟の勢力を拡大した。そこまでは求めなくとも、目の前の敵を倒す事しか頭にないようでは大局は見極められない。
ムウリとルキノら若手士官達は、艦隊旗艦メッシナに乗船し出航した。彼ら士官達の乗馬は先に別の輸送船で海に浮かんでいる。夜間航海の技術が未熟なランリエル艦隊は、日中のみ進み、日が落ちると停泊する。そうして3日間の航海を経てバルバール王国沖へと入った。そこで24隻からなるバルバール艦隊と合流した。
バルバール艦隊はロタ王国遠征に参加するのではなく、ランリエル艦隊への先導、指導という立場だ。航海術、上陸作戦の技術においてランリエル海軍の数段先を行くバルバール海軍である。彼らから学ぶは当たり前だが、若手士官の中にはそれが面白くない者達も居た。
「我が軍はバルバールに勝ったのだぞ! どうして奴らに大きな顔をされねばならない!」
「これも海軍の奴らが不甲斐ないからだ!」
彼らは陸軍の士官だ。ランリエル王国とバルバール王国との戦いは、ランリエル艦隊が不甲斐なくバルバール艦隊に敗北し戦略的不利な立場に追い込まれて苦戦し、ランリエル陸軍の奮闘により逆転勝利した。というのが彼らの認識なのだ。
状況だけ見れば間違った認識ではないが、だからといって全ての行為の免罪符とはならない。そもそもランリエル海軍が未熟なのは、それまで海軍に力を入れてこなかったのが原因であり、急造の艦隊で歴戦のバルバール艦隊と互角に戦えというのが無茶なのだ。
いや、かつてライティラが評したように、当時のランリエル艦隊提督カロージオは最後の最後でライティラの策を見破り艦隊の温存を計った。それなくばランリエルは敗北していたかも知れず、未熟ながらも最善を尽くしたと言える。しかし海戦の知識など全く無い陸軍士官達はそれを理解せず、海軍を下に見ている。そしてランリエル海軍に勝ったバルバール海軍に対しても尊敬の念など持ち合わせてはいなかった。だが、教えを請う立場の者が相手を見下していては、上手く行くはずがない。
正すのは若手仕官筆頭として副将の任にあるルキノの役目だ。しかし、人の心がそう簡単に変えられるなら胃を痛ませる管理者は激減する。
「お前達がそう言うなら仕方が無い。お前達は今回の上陸作戦から外れてくれ。お前達が受け持つ予定の部隊は他の者達に任せよう」」
突き放すルキノに愚痴を吐いていた者達は蒼白となった。他の士官達も同じ考えと信じきっていたのだ。
「サルヴァ殿下は最善を考えよと申され、目の前の戦場で勝てば良いだけではないと申されたが、まさか上陸すらままならんとはな」
「も、申し訳有りません!」
「どうかそれだけは!」
彼らは土下座せんばかりに謝罪し、次は無いとその場は許した。心からの反省ではなく、任務を外される恐れからだとは分かっているが所詮は人間の集団。人格者ばかりを集めるなど能天気な聖職者の戯言だ。心の中でどう思っていようと表には出すな。それが精々と考えるしかない。
更に経験を積み、人格にも深みがあるムウリ将軍ならば別の言葉で彼らに反省まで促せられたかも知れないが、ムウリはルキノに一任していた。ルキノは、彼らの成長にも責任を負うのだ。
それから数日を経て、船団はコスティラ王国最西端エリスタの海岸に到着した。早速数騎が小船で先行して上陸し、ロタ王国公爵サヴィニャックに到着の使者を向かわせ、さらに四方に斥候を放った。コスティラ領内なのでそれほど警戒は不要なのだが、演習の為、敵地上陸の態を取っている。
斥候が戻り安全が確認されるまで更に小船を出し海底を探った。巨大戦艦で迂闊に浜辺に近づき、海底に思わぬ岩石などがあれば船底に穴が開き沈没してしまう。その後、斥候が戻ると、バルバール海軍の海兵隊らの指導の元、上陸作戦が開始される。バルバール海軍に不満がある者もこれが任務、将来の栄達の為と黙々とその指示に従った。
だが、バルバール海軍提督ライティラは曲者だった。ランリエル陸軍士官にバルバール海軍から教えを乞うのを不満に思う者が居たが、ライティラこそ、どうしてそんな面倒をせねばならないのかと不満だったのだ。そちらがその気ならと、ランリエルから預かった海軍士官候補生達にも上陸行動の指導を行わせたのである。
「教えられた事を覚えているだけでは人には教えられない。人に教える立場になってこそ理解も深まるというものだ」
どうしてそれが必要なのか? そう問われ答えるには、その理由を自分が理解していなくてはならない。
ライティラに心酔する士官候補生達が、すっかりと日に焼け黒くなった顔で頷く。優等生のジェラルドや、カロージオの甥のエリオ・バルバート改めエリオ・カロージオら10歳ほども若い者達からの指示に、ランリエル将校が苦虫を噛み潰した表情で黙々と従っている。時おり逆襲の積もりか候補生を質問攻めする者も居たが、そこは選ばれた者達である。詰まりながらも何とか答えた。
小高い場所で作業を見渡すライティラの傍に、ムウリ、そしてルキノが立っていた。ムウリは、制度上は格下のライティラへ丁寧に挨拶した後は無言で、質問はルキノに任せている。
「上陸を素早く行う秘訣などはあるのですか?」
「焦らず、且つ、素早く作業を進める事ですな。焦り失敗すれば倍の時間が掛かります。素早くするには、繰り返し練習し身体に覚えさせるしか有りません」
ルキノは頷いたが、それは陸軍の行動にも共通する。もっともだが目新しい考えではない。
どうやら、質問に素直に答えを返さず、自分で考えろとの思想の持ち主か。ライティラの人物をルキノはそう判断した。嫌いな考えではないが、今は技術の習得を急いでいる。出来れば即効性のある処方箋が欲しいところだ。
「具体的にはどうすれば、上達が早くなります?」
その言葉にライティラがジロリとルキノを睨んだ。視線に、自分で考えろとありありと刻まれているが、ルキノは平然とした顔で応じる。気の弱い者ならつい質問を撤回しそうなものだが、ルキノが口を閉ざしたままなのでやむなくライティラが口を開きかけた、その時、何か巨大な物が海に落ちる音が聞こえた。
反射的に視線を向けたその先で、軍馬が必死で足を動かし泳いでいる。どうやら小船に乗せ上陸させようとした所、暴れて海に落ちたらしい。
「落ちましたな」
「落ちましたね」
「あの馬は、どうやって選んだのですか?」
「選抜した精鋭の騎士達の愛馬です」
「なるほど。各自で用意した馬ですか。海に馴れさせては居るのですか? 初めて海を見る馬は大抵怯えます」
「いえ……。こちらからは特に指示はしておりません」
「まず、海に馴れさせて下さい。海に落ちて暴れる馬を上陸させるのは手間です」
「……分かりました」
綱を手にした人夫が海に飛び込み必死で馬体に縄をかけようとするが、馬が暴れて上手く行かない。
「綱が絡まったら人も馬も溺れるぞ! 馬の首に縄をかけて陸まで泳がせろ!」
バルバール海軍士官の怒声が響いた。
それからも海に落ちる軍馬が続出し、昼過ぎから始まった上陸作業は遅々として進まず日が暮れても終わらなかった。目的地に到着したにも関わらず、半数近くが船内で夜を過ごすという体たらくである。
殿下に合わせる顔が無い。ルキノは急造した士官用の小屋で頭を抱えた。遅延の責任を取り、海上で夜を過ごす気だったがムウリが留めた。
「責任を感じるのは分かるが、これは敵地上陸を想定している。万一の夜襲に備えるならば、お主は陸に居るべきだ」
夜襲の危険は海上も陸も同じ。だが、海上での夜襲に備えるのは海軍の役目。そしてルキノの役目は陸からの夜襲に備えることだ。
遠征軍の主将はムウリだが、今回はあくまでお目付け役の立場を取りルキノに全て任せ、手に余る事態になれば助言していた。目先の問題に目を奪われていたルキノは恥じ入り、その言葉に従ったのだった。
翌日、朝から上陸作戦が再開された。全ての人馬の上陸が済むと、次に人間だけで乗船作業を開始する。
「馬はどうするのだ?」
「まず手綱を引いて浅瀬を歩かせ、海に馴れさせます」
ムウリの質問に答えたルキノの顔に、少なくとも表面的には昨日の失敗の影は無い。こうして上陸、乗船を繰り返し数日が過ぎた頃、サヴィニャック公に送った使者が戻ってきた。だが、その使者の言葉に、ルキノどころか冷静沈着なムウリ将軍すら唖然とする。
「サヴィニャック公の元には我が軍だけではなく、デル・レイ、ケルディラの軍勢も合流せんと、ロタ王国国境に集結しているとの事です!」