第74話:北方にて
夜、屋敷で男が酒をゆっくりと飲んでいた。大きな男だ。身に纏う分厚い生地の上からでも鍛えられた身体が見て取れた。獣のような鋭い視線と落ち着いた佇まいは歴戦の騎士のものだが、浅黒い肌の艶は思いの外若い。すでに、かなりの量の酒を腹に収めていた。だが、いささかも酔った気配は無い。王の威厳の変わりに戦士の風格があった。百獣の王、獅子ではない。孤高の虎だ。
その獣気を放つ男の前に線の細い端正な顔立ちの男が居た。彼も酒を満たした杯を持つがまだ1杯目だ。2人とも無言だった。遠くで犬の遠吠えが聞こえる。はじめの男が更に2度杯を空けた後、静寂を破った。
「まさか、同じロタ人同士で戦う事になるとはな」
「そういう事もある」
ブランとリュシアンである。
人はブランを虎将と呼ぶ。猛将と名高いバルバール王国の将軍グレイスと一騎打ちを演じ引き分けた。それから、そう呼ばれた。そしてリュシアンは、ドゥ・レイモンと呼ばれた。誰が言い出したのかは、はっきりとしない。遥か昔、ロタ王国にレイモンという天才軍師が居た。今の世のレイモンという意味だ。
屋敷にはブランの情婦アレットも居た。大きく開いた胸元から、小さな身体の割りに豊かな胸の谷間を惜しげもなく見せ酒の用意をした後は、
「じゃあ、私はもう寝るから」
と、奥に下がった。自分で飲む酒は侍女に持ってこさせるアレットだったが、ブランの酒は自分が用意した。年齢はブランも聞いていない。リュシアンも聞かなかった。その背丈と幼い顔立ちから若くも見えるが、男の機微を知り尽くしたその振る舞いは、幼い女のものでは無い。自分達よりかなり年上であろうと2人は考えていた。
「しかし、早いな」
「なにがだ?」
「何もかもだ」
「そうだな」
ブランがまた酒を空にし、リュシアンは一口酒を含んだ。
つい最近まで50騎の隊長。それが、次の戦場では公爵家の騎兵ばかりではなく、諸侯の軍勢からも騎士を募り2千騎を率いる。名門の出ではない無位無官の家の者としては驚くべき出世だ。
時代の激流に翻弄されているとは思わない。1つ1つの事象を間違いなく自らの意思で選んだ。だが、世の流れが速いのも事実。そしてその1つ1つの事象も、偶然ではなく理由があって起った。それも、何か得たいの知れない者の意思が働いているのではないか。迷信など信じぬ2人だが、そうも考えてしまう。
先のドゥムヤータとの戦いは、デル・レイ、ケルディラがランリエルに敗れた事に起因する。勝っていれば、ロタがデル・レイ、ケルディラとは組まず、彼らの協力を得てのドゥムヤータ侵攻も無かったのだ。そして、ドゥムヤータとの敗戦なくば、今回の内乱も無い。そしてこの会戦も。
ランベール王はこの期に及んでもまだ王家直属の歩兵隊の規模を維持し、財政を圧迫した。このまま現ロタ王家に国家を任せていれば、ロタの財政は早晩破綻する。
どうせ王家は歩兵を維持出来なくなる。その後に戦いを挑んだ方が楽に勝てるではないか。そのような意見もあった。しかし、負債を引き継ぐ新王家の財政が苦しくなるとの考えにより、早期決戦が求められたのだ。
無論、前政権の借金など新政権には関係ない。そう突っぱねる事も可能だ。だが、それをしてはロタ商人達は破産し国内経済が壊滅するのだ。ならばと、他国の商人を誘致すれば外国にロタ経済を牛耳られる危険があった。
戦いを先に延ばし王家の歩兵隊が崩壊してから戦えば被害が少なく、言い換えれば、人が死なずに済むのだが、人の命より金が優先されたのである。
「この戦いに勝てば、また、奴に近づけるか」
「そうだな」
ブランが言う奴とは誰か、聞かなくともリュシアンには分かった。
この戦いに勝ちサヴィニャック公が国王となれば、総司令はもっと経験と実績のある者が任命されるが、ブランも将軍の1人に任命される。近づくどころか、地位だけを言えばバルバールの猛将グレイスと肩を並べる。
甲冑を身に着けた者同士の戦いでは意外と人は死なず、もっとも人が死ぬのは敗走後の追撃戦だとも言われる。勝利とは敵を殺す事ではなく敗走させる事。そして恐怖に心折れた時、軍勢は敗走するのだ。
将兵は恐怖に耐え戦う。猛将の存在に味方は恐怖を振り払い奮い立つ。敵は猛将と対峙する恐怖と、それ以上に猛将に率いられ命知らずとなった兵士達に恐れ慄くのだ。その時、猛将は千の兵に匹敵する力を戦場に生み出す。その意味において、一騎当千の者は確かに存在するのだ。
ブランは一騎当千だ。それは天賦の才だった。武勇だけではなく、身に纏った獣気が男達を熱くさせた。兵士を勢い付かせる事においては、グレイスよりブランが勝≪まさ≫った。だが、一騎打ちに負ければ、その熱も冷める。
「奴と戦えば勝てるか?」
「無理だな。今は」
「今は、か」
グレイスとの一騎打ちからまだ半年も経ってはいないのだ。そう直ぐに腕が上がれば苦労はしない。
「お前はどうなのだ。フィン・ディアスに勝ちたいとは思わないのか」
「思わん。勝てないからな」
「勝てぬか」
「勝てない。俺はな」
「俺は、か」
リュシアンの本心だった。バルバール王国軍総司令フィン・ディアスに自分は及ばない。先の戦いでブランと猛将グレイスが互角に戦ったように、作戦においてリュシアンとディアスが互角に戦ったと考える者も多い。それゆえのドゥ・レイモンの称号だ。
しかしリュシアン自身はそう考えては居ない。手堅くやれば勝てると、ディアスに思われるほど自分が劣っていた。その隙を突いたまでだ。2度と使えぬ手であり、2度と出来ぬなら互角とはいえない。だが、自分が負けてもブランが勝てば良い。
集団戦とは、軍団を構成する誰か1人が負けても敗北ではない。その軍団が全滅するか、さもなくばその軍団を象徴する者が敗北するかだ。そして、その象徴はリュシアンではなくブランなのだ。
「まあ、次の戦いの相手は大陸にその名轟く名将でも猛将でも無い。侮る気は無いが、今回は兵力でも有利になるはずだ。これで負ける程度で彼らに勝とうなど話にならない」
「ああ」
短く答えブランが酒を飲み干し
「敵の数は」
と酒を注ぐ。同じロタ人を敵と呼ぶのに違和感を感じた。
この大陸の戦争は、所謂、会戦主義というものに分類される。敵味方、双方軍勢を集めてぶつけ勝敗を決するのだ。戦場主義とも言える。どんなに戦略上有利に進めても、肝心の決戦で敗れては意味が無い。
戦略的勝利を得ていれば、戦場で1回や2回負けても大勢は覆らないという言葉は、物資と兵員を失っても即座に補充できる工業力と徴兵制が必要だ。この大陸には、そのどちらも無いのだ。一度の戦いで大勢は決定し、その勝敗は兵数が大きく左右する。
「王家ご自慢の歩兵隊と国王親衛隊の約半数。後は王族に名を連ねる者達の軍勢で、およそ騎兵2千。歩兵2万2千程度と予測している」
「こちらは、それ以外か」
「ああ。諸侯の軍勢の大半と王国騎士隊、国王親衛隊の残り。騎兵8千に歩兵2万6千だ」
「王国騎兵隊と国王親衛隊が国王の敵に回るか」
激した時以外寡黙なブランが、思わず皮肉な笑みを浮かべる。
「やむを得まい」
とリュシアンが形だけ酒に口を付けた。
その名称を耳にした者は、王国騎兵隊と国王親衛隊の半数が国王を裏切りサヴィニャック公に付くなど、どれほど高度な交渉、駆け引きがあったのかと想像するが、実はあっけないほど彼らは簡単に王家を裏切った。どういう事かと首を傾げる者も多いが、内情を知れば、なるほど、当たり前だと皆が苦笑した。
それら2隊は王国でも格式ある騎士団である。それだけに隊員の大半と、士官の全ては名門、有力貴族の子弟達である。貴族と王家が戦うのだ。彼らがどちらに付くかは自明の理。だが、その名称の響きは多くの人々の心を揺さぶった。
王国騎兵隊と国王親衛隊がサヴィニャック公に付く。その政治的宣伝効果は絶大だった。ロタ王国国王ランベールは己を守るはずの騎士団にすら見捨てられ、サヴィニャック公こそが王の資格有り。現ロタ王家の次を継ぐはサヴィニャック家とのタガンロの誓約と合わせ、世論は公爵を支持した。
「軍総司令は、さすがに向こうに付いたがな」
「奴か」
以前ブランは、その男と激しい口論を行い牢屋にぶち込まれ、いや、自ら入った。それを思い出し、酒を一気に空けた。
酒壷に手をかけるとそれも空だった。既に深夜だ。侍女もアレットも寝床に付いている。やむを得ず自分で酒を用意しようかと腰を浮かせかけ視線を扉に向けると、いつの間にか扉の傍の床に酒瓶が置いてあった。
リュシアンはともかく、ブランまでが気付かぬ間にアレットが置いていったらしい。酔っていない積もりだったが、やはり少し酒が回ったか。苦笑しつつブランが酒壷を持って来た。
リュシアンは少し不機嫌そうに見えた。知略、知識において自分より遥かに劣るはずの酒場女が、自分達を見透かすのが気に入らないのだ。その様子にブランがまた苦笑し、改めて自分の杯に酒を注いだ。
先の戦いで北方防衛軍を統括したドーバントン将軍が、ロタ王国国王から総司令に任命されてからまだ間もない。その任命式で将軍は、
「この剣にかけて、命に代えても国王陛下に忠誠を尽くすと誓いまする」
と宣言した。それを裏切っては、公人としては死んだも同然である。
「数年後ならばその言葉を忘れている者も多いだろうがな」
今度はリュシアンの口元が皮肉に歪む。
ドーバントンも北部防衛を任されるだけあって無能ではないが、兵力の差はいかんともし難い。念願の総司令になり幸福の絶頂だったのが一転この不幸。一時は酒に溺れていたが、今では立ち直った。というより自暴自棄気味に戦いの準備を始めているらしい。
公爵側の貴族達も王都を離れ戦いの準備を進めている。今居る屋敷もロタ王都にあった物ではなく、公爵の本拠地であるサヴィニャックで新たに与えられた物だ。
「戦場はロアンヌ辺りか」
それはロタ王国王都の北に位置する平原だ。距離的、地理的に両勢力がぶつかるのに丁度よい。
「兵力に劣る国王側はどこか拠点によって戦いたいところだが、王都ロデーヴは大陸との貿易を考え置かれた都だ。篭城には向かん。とはいえ、他の城塞に篭れば王都が手薄になる。打って出て、我らと決戦するしかあるまい」
国王派に他国からの援軍でもあれば、それでも王都に篭城という手も考えられた。だが、国王派は外交戦において公爵派に出遅れた。デル・レイ、ケルディラは味方に付くと高をくくり、ランリエル、ドゥムヤータに援軍を求めるなど露とも思い浮かばず、手をこまねいたのだ。
「戦いは1月後、辺りか」
「ああ、こちらの準備が整うのはそれくらいだ。国王派はもう少し早いだろう」
「こちらの準備が整う前に奴らが出てくれば、ロアンヌよりさらに北のラングルで俺が止める。その間に軍勢を纏めてくれ」
ラングルは山岳地帯であるが所々に盆地が点在し、少数の騎兵で打っては引き、敵を足止めするには持って来いの場所だ。
「そうだな。最悪、そうなるかも知れん。あそこならお前が率いる2千騎でも数日は敵を引き付けられる。だが、おそらくその心配は無い。時間稼ぎの手は打ってあるからな」
今も公爵配下の文官が国王の元に遣わされている。国内の貴族達が挙って蜂起する内乱などが起これば、たとえ今回の戦いに勝ちサヴィニャック公爵を倒せたとしても王家にとっては大打撃だ。諸侯との間には大きな溝が出来、第2、第3のサヴィニャック公が出てこないとも限らない。内乱は未発に終わらせるに限る。それを逆手に取り、交渉の余地があると匂わせ王家に先手を取らせないのだ。
「ならば、双方予定通りの軍勢を集めての決戦か」
「ああ。他国からの介入も無い」
2人が同時に酒に口を付けた。犬の遠吠えが思いの外近くで聞こえた。