第65話:タガンロの誓約
ロタ王国北部に領地を持つサヴィニャック公爵家は、ロタ王国でも名門中の名門と呼ばれる。現当主リュディガー・サヴィニャックの祖母はロタ王女であり王家の血も濃い。
そもそもロタ王家とサヴィニャック家は主従というより盟友と呼ぶべき間柄だった。数百年の昔にロタ王国北部にサヴィーニ人が入り込みロタ王家は彼らを追い出そうとしたが手強く、ならばとむしろ自らの役に立たせようと考えた。サヴィーニ人の族長に北部の領地を与え娘を嫁がせ公爵を名乗らせ北部防衛を命じたのである。間もなくその地はサヴィニャックと名付けられ、族長もサヴィニャック公を称した。
当事は、ロタの北にコスティラ、ケルディラの両国に分かれる前の大国クウィンティラが存在し、南のドゥムヤータとの争いも無く北部が国家防衛の要だった。サヴィニャック公はクウィンティラの大軍を何度も退け、そればかりか逆にクウィンティラ領タガンロを占領しタガンロ王を名乗った。サヴィニャック公はロタ王家の臣下である一方タガンロ王となったのだ。
これによりクウィンティラは大いに面目を失った。必ずやタガンロを取り返さなくてはならないがサヴィニャック公は手強い。そこにクウィンティラ王に進言する者が居た。
「サヴィニャック公は確かに手強い相手。正面から戦い打ち破るのは至難の業。ならばサヴィニャック公を相手にせずその後ろの者を相手にするのです」
「後ろの者だと?」
「さようで御座います」
王はその言葉に従い、クウィンティラ大使がロタ王宮の謁見の間に跪きロタ王に訴えた。
「我がクウィンティラはロタ王家と友好を望んでおります。然るにサヴィニャック公は我が国のタガンロを占領するばかりではなく、何とタガンロ王を名乗っております。これは両国の平和に楔を打つ行為。陛下からサヴィニャック公へと申し付け、タガンロを我が国に返還して頂けるならば今後5百年。我が国はロタ領を犯さぬと誓いましょう」
散々侵攻しておいて友好を望んでいるなど笑止千万。それに5百年ロタ領を犯さぬという誓いも信用ならない。鼻で笑って即座に拒絶して当然の言い分である。だがロタ王はその当然を覆した。
「なるほど。大使の言葉よく分かった。サヴィニャック公にタガンロを返還させよう」
サヴィニャック公が強大になるのを恐れるのはクウィンティラだけではなかった。このままサヴィニャック公の力が増せばロタ王国すら飲み込まれかねない。ロタ王家にとってもサヴィニャック公の力を削ぎ、更に5百年の安泰を保障されるなら願ったりかなったりなのだ。無論、誓いなど信用ならぬが、クウィンティラが誓いを破れば外交の手札にはなる。
サヴィニャック公が納得する訳はなく怒り狂った。
「タガンロはロタ王家から拝領した土地ではなく、自ら勝ち取った物だ! それをどうしてロタ王の命で返還せねばならんのか!」
一時は王命に従わず抵抗しようとも考えたが、そうなれば正面にクウィンティラ、背後にロタを相手に戦わねばならぬ。やむを得ず王の言葉に従いタガンロをクウィンティラに明け渡したのだ。だがこれにより、ロタ王家はサヴィニャック公に大きな借りを作った。
その後、ロタ国内に真しやかに’タガンロの誓約’なる言葉が囁かれた。サヴィニャック公がタガンロを手放す代わりに、ロタ王家の血が途絶えればその後を継ぐのはサヴィニャック家であるとの誓約をロタ王家とサヴィニャック家が結んだというのだ。
ロタ王家は少なくとも公式の場ではそれを否定せず、それは誓約が真実であるからとも、サヴィニャック公への借りから、強く否定できなったからとも言われる。
「今こそ、タガンロの誓約を施行する時ではありませんか」
サヴィニャック公爵の屋敷に、バシュラール侯爵が訪れていた。神経質そうな痩せた男だが、そう見えるのは公爵に向ける視線が切羽詰まったものなのも要因の一つだ。彼は今、公爵に王位を簒奪せよと訴えていた。この手の話を持ち込んだ以上、是が比にでも公爵を口説き落とさねばならない。公爵があくまで王家に忠誠を誓うというならバシュラールは反逆の罪に問われるのだ。
「そうは言っても、タガンロの誓約はロタ王家の血が途絶えれば我がサヴィニャック家が王位を継ぐと言うものだ。ロタ王家の血は途絶えてはおらぬではないか」
王位は魅力的だ。しかし名声にも目がない公爵だ。理由無く王位を簒奪すればその名声に傷が付く。王位は欲しいが正当なる理由も欲しい。
「ですが、王の資格を失ったは血が途絶えると等しいものです。王は諸侯の崇敬を受けてこその王。しかるに国王ランベールは、諸侯からの支持ではなく貿易の利益による武力で諸侯を抑えるのみ。諸侯は既に現王家に王の資格無しと見なしております」
侯爵は貴族達の代表者だった。彼らは、現ロタ王家への反発心から王家打倒を計画していた。サヴィニャック公爵の人物が王位に足るほど優れているとは思ってはおらず、むしろその器にあらず与し易しと考えているが、公爵の名声好きな性格も把握している。とにかく王位を簒奪しても名声に傷は付かぬと言い包めなくてはならない。
「既に諸侯の心は、サヴィニャック公の元に集まっております。諸侯を率いる公を誰が非道と蔑みましょう。非は諸侯を蔑≪ないがし≫ろにした王家にあると、誰の目にも明らかではありませんか」
バシュラール侯爵の言葉に、サヴィニャック公爵の心も大きく揺れた。ロタ王国の名門中の名門と呼ばれるサヴィニャック家の当主であり、先の戦いでも敗戦の中1人名声を得た。しかし長い公爵家の歴史で見れば、所詮数居る歴代の当主の1人に過ぎない。だが王位を得れば、リュディガー・サヴィニャックの名は歴代の当主の中で一番の輝きを放つ。同じ王位を名乗るのでも、かつてわずかばかりの領土を奪い自ら王を称したタガンロ王と、広大な領土と歴史を持つロタの王位とでは格が違うのだ。サヴィニャック朝ロタ王国初代国王リュディガー。その名は永遠に歴史に刻まれる。
とはいえその決断は軽々と出来るものでは無い。まさに歴史に残る大決断だ。そしてサヴィニャック公爵にその大決断が出来る器はなかった。
「侯爵の言葉は良く分かったが、事は私一人ではなく一族全ての者に関わる大事。皆ともよく相談せねばなるまい。しばらく返事は待っては貰えないか」
政変、反乱などは出来るだけ事を秘匿し準備を進めるもの。その観点から見れば日を置き一族の者に相談するなど言語道断なのだが、迷いのある者に即答を押し付ければ拒絶されるものだ。
「分かり申した。今日のところはこれで。ですが、サヴィニャック公が立てば諸侯は挙って公の元に馳せ参じるとお信じ下さい」
バシュラール侯爵は、名残惜しげにしながらも深々と一礼し辞した。こちらが意気消沈すれば余計にサヴィニャック公の決断を鈍らせると努力して背筋を伸ばし部屋から出たが、馬車に乗り屋敷の門を潜った途端緊張から開放され座席に崩れ落ちたのだった。
侯爵が部屋から姿を消した後、サヴィニャック公の心は早速揺れ動いた。相手が逃げれば追いかける動物の如く、今更侯爵の誘いに即答しなかったのが重大な失敗のように感じ始めた。だが、次の瞬間にはまた名声に傷が付くのではと不安になる。そうなると今度は、そもそも名声以前に反乱が成功するのかというのも心配になってきた。
こんな時に出番になるのが公爵が抱えている大勢の家臣達だ。ブランのような武官も多いが文官も多い。そして公爵の部下に知者はリュシアンだけではなく、己の知に自信のある男は他にもいる。バルバストルもその内の1人だった。
短い黒髪に精悍な顔立ちと鋭い視線。焼けた肌から一見有能な武官にも見えるが、その才能は知に秀でた。だがその基盤となる思想は外見を裏切らない。攻撃的知略。それがバルバストルという男である。
彼は諸侯の心がロタ王家から離れているのを掴んでいた。そこからバシュラール侯爵の訪問が公爵への反逆の誘いであると読むのは容易だった。無論、それでも確証を得るのを怠らない。公爵の部屋に入ったバルバストルは如何ようにも取れる言葉で探りを入れた。
「サヴィニャック公。バシュラール侯爵の用件とはもしや……」
「うむ……。そうだ。私にロタ王になれと言って来たのだ」
公爵は言葉を選び反乱という単語を使わなかった。だがバルバストルにとっては同じだ。功を立てる機会が来たと胸中獰猛な笑みを浮かべる。
少年の頃は町の不良達の頭だった。町の者に乱暴を働き女をかどわかす。悪行の限りを尽くし学問など全く興味は無かった。だが度が過ぎた彼らの行いに遂に憲兵が動き捕らえられたのだ。町の権力者だった父の取り成しで何とか罪に問われる事は免れたものの、改心せよと教会に放り込まれそこで無理やり机に向かわされたのだ。それが思いの外性に合った
勉学など、数を計算したり文章を作ったりするものだとばかり思っていた。しかし謀略、策略という学問もある。腕力ではなく知力で相手を叩きのめす。それに快感を覚えた。腕力による勝利は相手の身体を傷つけるが、知力による勝利は心を傷つける。冷酷な性を持つバルバストルの心を残虐な充実感が満たす。そして今ここに己が仕える主が王位を簒奪しようとしている。国王を叩き潰す。これほどの娯楽は無い。
「諸侯が挙って公をお慕いし王と仰がんと望んでいるのは私も耳にしておりました。ですが、木に実ったばかりの青い果実を食しても口は受け付けません。熟し自然と実が落ちるのを待っておりましたが遂にその時が来ました。バシュラール侯爵も用心深いお方。その侯爵が話を持ちかけたのは相応の準備が整った証。まさに機が熟し自ら公の手に落ちてまいりました」
その言葉にサヴィニャック公爵の心の天秤は大きく傾いた。だが、やはり決断には至らない。公爵は対ドゥムヤータとの戦いで1人名声を得た。それはブラン騎兵連隊の活躍によるものだが、そのきっかけを作り更に数々の進言を行った立役者がいる。ドゥムヤータとの戦いで得た名声に公爵は何の努力もしていない。その者の進言に従っていたら勝手に名声が沸いて出たのだ。その幸運を呼ぶ男の意見を聞きたいと考えるのは道理であった。
「お主の言葉ももっともと思うが、リュシェールにも話を聞かなくてはなるまい。人を向かわせすぐ来るように伝えよ」
リュシアン・リュシェールか……。公爵に気付かれぬほど一瞬、バルバストルの顔が不快に歪んだ。公爵に悪気は無いが、バルバストルの言葉を聴いた上でさらにリュシアンの意見を望むのは、バルバストルを軽んじリュシアンを重用する事に他ならない。
陣営的には味方であるリュシアンだが、バルバストルにとっては競争相手。しかもここに至っては公爵家で誰が一番重用されるかの問題ではない。公爵が国王になるかどうかの話になっている以上、未来のロタ王国宰相の座すら懸かって来る。
「かしこまりました。では、私が呼んでまいりましょう」
「おお。お主が行ってくれるか。事は重大だ。くれぐれも他に漏らさぬようにな」
公爵に一礼し部屋を出たバルバストルは分厚い扉を通さぬ程度に舌打ちした。公爵には彼やリュシアン以外にも多くの取り巻き、昔から頼りにしていた相談役なども居るが、公爵の精神は脆弱でそれだけに移り気だ。最近リュシアンの進言に従い成功する事が多く、この分では公爵はリュシアンの言葉に従いかねない。公に簒奪をそそのかすには、今は競争心を隠しリュシアンを先に口説き落とす必要があった。
「リュシアンってさ。ブランの事愛してるよね?」
ブランの屋敷の居間でリュシアンが書物に目を通していると、ブランの情婦とも愛人とも言われるアレットが長椅子に寝そべり言った。ブランの内縁の妻とは言われない。家庭に収まる女ではないと自他共に認めているのだ。
隊長となり先の戦いでも武功をあげたブランは公爵から屋敷を与えられた。そこに副官であるリュシアンも住み、アレットも当たり前のように住み着いた。屋敷の雑用、食事の用意などは召使や侍女が行いアレットは屋敷内では食っちゃ寝の生活である。ではブランに寄生して生きているのかと言えば、北の町の酒場をたたみブランを追い掛け王都まで来たものの、ここでも酒場を開き昼過ぎから夜までは働いている。その酒場を開く資金もブランには出させず自分で用意した。どうやら彼女なりの主義があるらしかった。
屋敷の主であるブランは今、王都駐在の連隊員を訓練しに出ている。隊長にも副官にも休養は必要であり、リュシアンは今日は休みだ。隊長と副官が揃って居ない状況は不便なので基本別々の日に休む。
「俺と決闘がしたいのか? 剣は得意ではないが、さすがに酒場女には負けんぞ」
リュシアンは書物から目を離さず口調も冷静だが、台詞に棘があるのは仕方が無い。北の町に居た時はさほど顔を合わせず、しかも名将フィン・ディアスとの戦いに頭が一杯だった為気付かなかったが、ざっくばらんなアレットと思慮深いリュシアンはどうもそりが合わなかった。ブランが選んだ女を否定する気も無いが、共にブランの屋敷に同居するようになると顔を合わせずには居られない。しかもアレットの方はさほど気にしてなさそうなのがリュシアンにはさらに気に触った。
「怒らないでよ。半分は冗談なんだからさ」
「半分は本気なのか」
寝そべり顔だけ向ける女と目も合わせない男の会話が続く。
「だってリュシアンってブランの為に死ねるよね?」
「否定はしないが、お前はブランの為には死ねないのか? 一応はあいつの女なんだろ?」
「一応ってなによ。それに、だって死んだら終わりじゃないの」
「死んだら終わりか。確かにそうだ。だが、その終わりを賭けても良い男だとは思わないのか?」
「死んだらその想いも消えちゃうよ。ブランが生きてても私がブランを好きだったって想いは消えちゃうの。私が生きてたら、もしブランが死んじゃっても私がブランを好きって想いは残るでしょ?」
「その話と、俺がブランの為に死ねるからブランを愛しているとう話がどう繋がる」
「いやー。だからさ。誰かの為に死ねるってどういう気持ちかなって思って。やっぱりそれって好きって事じゃないの?」
「好きにも男と女の愛情と男と男の友情とがあるだけだ」
「ふーん」
アレットはそう言うと口を閉ざし、リュシアンも話が終わったと改めて書物に意識を向けたが、いきなり話しかけ自分が納得すると口を閉ざす自侭な女に苛立つ。だったら同じ居間に居なければ良いのだが、リュシアンが先に居て後からアレットがやって来たのだ。そこで抜けるのは負けたようで嫌だった。その点リュシアンにも子供っぽいところがあった。
「あんたもブランの為に死のうなんて思わない方が良いよ」
その声に目を通していた書物をバタンと閉じた。自分とブランとの友情を否定されたと、冷静沈着な男が一気に頭に血が上った。鋭い視線を向けると、こちらに頭を向け仰向けに寝そべった逆さまになった女の意外にも真面目な顔と目が合った。
「多分、ブランもあんたの為には死ねると思ってるんだろうけどさ、もしブランが自分の為に死んだらあんただって嫌でしょ? そりゃ、普通は命を賭けて助けてくれたら感謝はするもんなんだろうけどさ、そいつの為なら死ねるって思ってる人が自分を助ける為に死んじゃったら感謝するよりも後悔しちゃうよ」
怒鳴る為に開きかけていたリュシアンの口が途中で止まった。それでも相手の為に死ぬのが友情だと言いかけたが、やはり違う気がして言葉が出ない。しばらくしてやっと出た言葉もほとんど苦し紛れだった。
「それはブランに言うのだな。あいつの方こそ俺の為に死ぬ必要は無い」
「あー。悪いんだけどさ、そこはブランに譲ってあげてくれない? 私には分からないんだけどさ、あんた達みたいな考えの人ってさ、生き延びる方がつらいとか考えるんだよね? もしブランがあんたを助ける為に死ぬっていうんなら、そこは素直に助けて貰っておいて欲しいんだけど」
「……お前は何を言ってるんだ? お前はブランに生きて欲しいと思わないのか?」
「生きて欲しいなんて当たり前じゃない。誰を見捨ててでも生きて欲しいわよ。でも、どうせあいつそれ出来ないもん。出来ない事をやれって言っても仕方ないでしょ」
「ブランに出来ない事を俺にやれというのか」
この言葉も苦し紛れだった。
「だってあんた、ブランの事愛してるでしょ?」
その言葉に反射的に目を瞑り天を仰いだ。さて決闘かと、リュシアンは剣をどこに置いてあったか記憶を探り始めたのだった。