第9話:両雄の前哨戦(2)
一向に結論が出そうに無い交渉とは違い、バルバール本国では着々と戦の準備が進められている。と言う情報がバルバールに派遣している部下から王子の元へともたらされた。
「戦の準備と言うがどの程度の規模なのだ?」
「バルバールの全軍と言ってよろしいかと」
硬い表情で述べた部下の言葉に、王子は眉をひそめた。
バルバールの全軍と言えば陸戦兵力が約5万。いや、国内の拠点への守りを残せばもう少し減る。そして海軍の艦艇は約60隻ほど。
カルデイを征服し国力が増している今、ランリエルは陸戦兵力13万。そして艦艇は現在こちらも60隻ほど。陸戦兵力は圧勝であるが海軍は互角。しかし海軍において、その質を考慮に入れれば到底勝利はおぼつかない。だが……。実はバルバールがランリエルを攻めるに当たっては海戦でバルバールに負けても致命傷とはならないのである。
なぜならバルバールの使者が言ったとおり、海運で運べる兵力など高が知れている。もしバルバール海軍がランリエル王国沖の制海権を得て、海から軍勢を上陸させても勝敗の決定打にはなりえないのだった。
ランリエルにはバルバール軍5万に備え、国境に同数の5万を展開させてもなお、8万の軍勢が控えているのである。海運で運べる兵力に備えるなど造作も無い。だが逆に、ランリエルが海戦に勝利し、バルバール王国沖を制圧してランリエルの軍勢を上陸させる事に成功すればバルバールには大打撃である。
バルバール王都チェルタはランリエル王都フォルキアと違い城塞都市ではない。海上から軍勢が上陸してくるとなれば、王都防衛の為に多数の戦力を王都に駐留させる必要がある。王都と国境を守るので精一杯のバルバールは、いいように国内を荒らしまわされる。
戦うにはあまりにもバルバールは不利。それは彼らにも分かっていよう。にも関わらず戦の準備を進めている。
「……面白い」
サルヴァ王子はそう呟くと、改めて部下に監視するように命じた。
バルバール軍がどのように戦うのかを。
その夜サルヴァ王子は後宮にいる寵姫の1人の部屋を訪問した。バルバールとの戦いに思いを馳せ高ぶった血を発散させる為だった。
その寵姫は王子の動きに敏感に反応し心地よい音色を奏でた。それに比べてあの金で転んだ売女は、うめき声一つ上げずなんとつまらない事か。
あれからアリシアの部屋は訪問していない。金で転ぶ売女をそれに相応しい扱いをしたが、それ以上執拗に訪問する積もりはなかった。
金の為に男に抱かれる女とはいえ、アリシア自身王子に抱かれたい訳では無いのは分かる。そして王子も反応の無いアリシアを抱いても心楽しくない。嫌がらせの為に、わざわざ楽しくも無い相手を抱きに行くほど王子は陰湿ではなかった。だが売女は売女である。その考えに変わりは無い。
血の高ぶりを抑える為何度も寵姫を求め、寵姫もそれに応え続けた。いつしか2人は折り重なりながら眠りに付いたのだった。
翌朝、王子は身を整えると寵姫の部屋を後にした。覇気に相応しいだけ女は抱くがその為に執務を滞らせる事はない。女を抱いて翌日昼まで眠るなどという体たらくでは、軍での名声も傷付こう。そのような詰まらぬ事で築き上げた名声が台無しになるなど馬鹿馬鹿しい。
後宮から一旦私室へと戻るべく廊下を進む王子の視界に、売女の姿が入った。アリシアにも王子の姿は見えているはずにもかかわらず黙って通り過ぎようとする。
「挨拶ぐらい出来ないのか?」
呼び止められたアリシアは何の感情も読み取れぬ顔を王子に向けると、感情の読み取れぬ平坦な声で答えた。
「おはよう御座います。昨晩は、お励みだったようですね。王子様」
相変わらず気に食わん女だ。金で転んだと言うならば、その金を出している者に相応の態度が出来ないのか?
「お前にはかなりの金を渡しているはずだが、それにしてはみすぼらしい格好ではないか」
王子はそう言うが、アリシアの服装は後宮で用意された上等な物であり粗末な物では無い。だが他の寵姫と比べると華やかさが無く、確かにみすぼらしい。という印象を与えた。
彼女と寵姫達の何が違うかというと、服の他に身に付ける宝石などの装飾品をアリシアはまったく身に付けていないのである。
王子の気を引こうと、実家からの援助、さらに後宮で支給される年金で、寵姫達は争うように装飾品を買い求め身を飾っているのだった。
アリシアは再度王子に答えた。だが、今度の返答の表情と声には嘲笑の色が存分に含まれていた。
「残念な事に、ここには身を飾ってまで気を引きたいと思う男性が居ないので御座います。王子様」
そして、やれやれ困ったものだ。とでもいうように少し両手を広げながら肩をすくめて見せた。
この女!
激高した王子は、アリシアの服ごとその左肩を右手で掴み壁に押さえつけた。鍛え上げられた王子の膂力に右手一本で壁に縫い付けられた彼女の服が肩のところで裂ける。
「身を飾る必要がないならこの服も要らんのではないか?」
アリシアの肩を押さえつけながら、怒気を含んだ王子の声が彼女の頬を叩く。だがアリシアは苦痛に眉をしかめながらもサルヴァ王子の目を見据える。
「お……のぞみならば……裸になりましょうか? 王子……様」
王子が右手を大きく振ると、肩で裂かれたアリシアの服がさらに破れ左上半身が露になった。そしてアリシアはその場に崩れ落ちる。だがその視線は王子から逸らさない。
王子は自分の右手に残された衣服の破片を呆然と見つめた。そして我に返ると背を向けて足早に立ち去り、左肩に掌の形にくっきりと痣を残したアリシアが残された。
サルヴァ王子は大股に私室へと急いだ。不意に自分が如何にも矮小な存在に思えたのだ。そしてそれと同時に脳裏に浮かんだ考えを、懸命に打ち消した。