第56話:強き者
ロタ王国北東部にある。ブラン騎兵連隊が駐屯する町はいつも通り平穏な日々が過ぎていた。ついにドゥムヤータとの戦いに突入し南部では軍勢がにらみ合い、ロタ海軍がドゥムヤータを海上から攻撃しているらしいが、ブラン達からすれば遠い異国の地での話なのかと思うほどその戦塵は届いてはいない。
町の者に作らせた丘の裏側の3本の道も既に完成しやる事もない。いかに訓練された軍馬とて、重い甲冑を身に着けた騎士を乗せての疾走は思いの外短い時間だ。本格的な訓練をした後に万一敵襲があれば物の役に立たないのだ。それを考えれば馬が運動不足にならないように駆けさせる程度だった。
敵が来るならば北の城砦が先と考えられている為、ここへの直接攻撃の可能性は極低いものだが、それでも念の為毎日偵察を出した。じっとしていると居ても立ってもいられず、隊長であるブラン自身が偵察に出る事も多い。リュシアンも副官として同行する。
「なぜか、血が騒ぐのだ」
町から4ケイト(約30キロ)ほど東にある丘に駆け上がり、敵影など微塵も見えぬ地平線に向けブランが呟いた。遥か遠くには海が見える。偵察は四方に飛ばすが、ブランはいつも東を選んだ。
「戦は南部だ。敵はここには来ない。だが、お前の勘が外れるとも思えんな。南部の戦には、デル・レイ、ケルディラも参戦すると漏れ聞いている。そうなれば北にある町をケルディラ軍が進んで南部に向かうはずだ。お前の血がそれに反応しているのかもしれん」
「それは俺も聞いている」
「我が軍の海軍を使いドゥムヤータの防衛線を揺さぶってから総力を挙げて防衛線を突破する作戦らしい」
「らしい?」
「ああ。俺達のような下っ端が上層部の作戦を聞ける訳が無い。お前だって聞いていないだろ? 俺も噂話を集めているだけだ。俺達は行けと言われたところに行き、戦えと言われたところで戦う。それが仕事だ」
「そうだな」
ブランは短く答えたものの、やはり何か引っかかるものを感じた。もっとはリュシアンはああ言ったが、ブランは北部に何かあるという勘は外れたと考えていた。どうせこの勘も外れているのだ。
ブランは隊員達に交代で休暇を与え町に行かせていた。陣には酒を持ち込ませないので、隊員達は町の酒場で飲んでくる。
「酒場の女亭主に、隊長は来られないのかと尋ねられました」
偵察から帰ると町から戻った隊員が言った。町長に会いに行った帰りに大男をぶちのめした時、男に槍を投げて寄越した女はその酒場の女主人だった。
「何でも、隊長のおかげで自分のヒモだった男が口ばっかりの奴だと分かり、そのお礼が言いたいと申しておりました」
あの、博打のいかさまに引っかかり、俺に喧嘩を吹っかけてきた奴か。確かに大した奴ではなかった。もしかするとあの時の勘も外れていたのかもしれん。ならば殺してやっても良かったが、その意味ではあの男も運だけは良かったようだ。
酒場に行かないのは、ブランの休暇の順番がまだだからだ。自分の番は一番最後にしていた。隊員には、そうか、とだけ言い下がらせた。
ある日の夕方、女が陣にやって来た。小さな身体で酒壷を抱え、大きく開いた胸元に汗が流れている。子供のような背丈の女だが、身体付きは成熟した女のそれである。
「隊長さんに会わせて欲しいんだけど」
屈強な騎士達を前に女は恐れの色も無く平然としている。商売柄荒っぽい男には慣れていた。こんなところに女が来るとはと騎士達が集まり、女の酒場に飲みに行った事がある騎士が対応した。
「なんだお前か」
「隊長さん居るんだろ? 隊長さんの休みがまだまだ先って聞いたからさ、こっちから会いに来たんだ」
「それは良いとして、その酒壷はなんなんだ。ここは酒は持ち込み禁止だぞ」
「別にいいじゃないのちょっとくらいさ。それよりも、隊長さんを呼んでよ。話があるのよ」
女は悪びれずに言い、騎士も仕方が無いなとブランを呼びに行った。追い返したいところだが、万一どうして追い返したのかとブランに凄まれては、溜まったものではない。
「女だと?」
「はい。何か隊長に話があると申しております」
口数が少なく常に獣気を放つ隊長を前に騎士は口調を改めて言った。ブラン自身にはその気は無いが、その体躯と合わせ、相手に威圧を与えずにはいられないのだ。
そして彼を知らぬ者は、ブランがその武勇から自侭に振舞うと思い込むが、実際のブランにそのようなところは無い。納得できぬ事には頑として応じないが、それ以外には思いの外柔軟に応じる。他に用事があればにべもなく断るが今はその用事も無い。
「そうか」
と、椅子に腰掛けていたブランは音も無く立ち上がり、騎士を置いて陣の入り口の門へと向かった。代わりに副官として常にブランの傍らにいるリュシアンが、
「ご苦労。もう下がって大丈夫だ」
と、騎士に声をかけた。
「俺に、何の用だ」
女に近づきブランが言った。ブランと初めて対峙した者は、その威圧感に歴戦の騎士すら大抵は怯みを見せる。その後踏み止まり平静を装う者もいるが、多くの者は落ち着きが無くなり、何かと理由をつけてはブランの前から退散するのだ。
だが女は、
「あ。来てくれたんだ」
とブランを見上げ笑った。遠慮の無い、彼女の感情をそのまま出したような大きな笑みだ。
「なんか、とっつき難そうだったからさ。来てくんないのかと思ってたよ」
「何の用だ」
女の反応を意外に思いながらも、ブランがまた言った。
「あ。これ持って来たんだよ。この前のお礼にさ」
女はそう言って抱えた酒壷を身体ごとブランに差し出した。身体の割りに大きな乳房が、酒壷に押し潰されている。
「礼を言われる事を、した覚えは無い」
「だってあの男の化けの皮を剥がしてくれただろ? 俺より強い男なんて居ないって言うから置いてやったのにさ。あんたに比べればてんでだったよ」
「男は、どうした」
「ん? 叩き出したけど?」
女は平然と言ったが、ブランにはこの女があの男より強いようには見えない。酒壷をこの丘まで運ぶのすら大変そうな小柄な女だ。
ブランの視線からその疑問を感じたのか、女は笑いながら言った。
「いくら強くたって、寝ているところを襲ったらいちころだからね。寝ているところを棒で一発頭をぶん殴って、起き上がってふらふらんなってるところを、追い掛け回してやったよ」
「その男が、戻ってきたらどうする。お前など殺されるぞ」
「大丈夫だよ。真っ裸で寝ているところを襲って、町中追い掛け回してやったからさ。恥ずかしくてこの町に戻って来れないよ」
女はそう言ってけらけらと笑っていたが、不意にぴたりと笑いを収め、挑発的なほど真剣な目をブランに向けた。
「男には、いつも初めにこの話をしてるの。私が愛想を尽かした時はそうするって。私だって、あいつがわざと負けてくれたのくらい分かってるよ。それくらいの男を見る目はあるからね」
それがこの女の別れの儀式だった。負けた男がいつまでも女の世話になるほど惨めな事は無い。全力で追い出す。それがこの女なりの優しさなのだ。
「話は分かったが、ここには酒を持ち込ませないようにしている。それは持って帰れ」
「え。せっかく苦労して持って来たんだよ。ちょっとくらいいいじゃないのさ」
「決まりだ。隊長の俺が、決まりを破れるか」
「あ。なんかそれいいね。隊長の俺が決まりを破れるか! うん。かっこいいよ。かっこいい。それでさ……ちょっとくらい良いだろ?」
「帰れ」
「いや。本当に重かったんだからさ。持って帰るのも大変なんだよ。今回だけ。ね?」
女は食い下がるも、ブランが無言で睨むとさすがに諦めたが、まるで自分が被害者かのように、わざとらしいほど大きく溜息を付きうな垂れた。
「分かったわよ。じゃあ、町まで送ってよ。もう日が暮れるしさ。女が夜道に1人じゃ危ないだろ?」
女は屈託なく言い、ブランも、そうかと思った。確かに女の足では丘を下りきる前に日が沈む。酒壷を抱えたまま足元を取られ転倒しては、酒壷が割れてそこに倒れこみ大怪我をしかねない。
「そこに居ろ」
「うん」
背を向けながら言ったブランに、女はブランのこれからの行動を予測したらしく嬉しそうに頷いた。ブランも、女の予想通りの行動を取った。厩に行き自分の馬に蔵を乗せて手綱を付けた。馬は夜目が利く。下手に女に自分で歩かせるより安全だ。
馬を引いていると、様子を伺っていたリュシアンがいた。ブランを怖がらぬ女が居るのかと意外そうな表情だ。あの女を送って来る、と言いながらリュシアンの前を通り過ぎる。一瞬、リュシアンは驚いた表情を見せたが、ブランの性格を考えればそれも当然かと納得した。彼はブランが人一倍優しい男なのだと知っている。
馬を引いて来て両手で女を抱えると、女は酒壷を持ったままだったにもかかわらず驚くほど軽かった。これだと片手でも持てそうだと考えながら女を蔵に跨らせた。
通常、女性を馬に乗せるなら横向きに足を揃えて座らせるものだが、女は気にしていないようだ。裾が大きくまくれ上がり白い足が見えた。小柄な女の足は鐙に届かずぶらついている。酒壷はブランが受け取り、轡を引きながら脇に抱えた。
「私さ。優しい男が好きなんだよ」
しばらくして、女が足をぶらつかせながら言った。
「強い男が、好きなのではないのか」
「だって。強い男は優しいじゃない。本当に強い男はだけど。隊長さんみたいにさ」
女は蔵に跨っている足を子供のようにばたつかせた。どうやら、馬に乗せて貰ったのが嬉しいらしい。
「本当に強い男は、威張る必要ないからね。ぶっきらぼうだったりするけど優しいよ」
「そうか」
ブランはそう答えたものの、女が追い出したというあの大男は、かなり威張っていたのではないかと思った。もっとも、女が言っているのはあくまで自分に対してという意味だ。女も博愛主義を求めてはいない。
「でも、負けちゃったら駄目だね。そしたらだんだん優しくなくなっちゃうの。何でだろうね。自分が強くないって分かっちゃたら、強く見せないといけないと思っちゃうのかな。いくら威張ったって、強くなんてならないのにね」
「男がみんなそうなるとは限らんだろう」
「そうかもね。でも、もしそうなったら嫌じゃない? 優しかった人が、優しくなくなっていくのなんて見たくないよ。だから、追い出しちゃうのが一番いいの」
女の店に着くと、扉の前で何人かの客が店が開くのを待っていたが、今日は休みだと女が追い払った。客は不満げだったが、ブランが後ろに立っているので何も言えずにすごすごと引き上げていった。女の振る舞いはかなり自侭なものだったが、この店は女のものだ。ブランに口を出す気はなかった。
「適当なところに座ってよ」
店に入ると女が言った。ブランが店の真ん中にある席に座ると、女は面白そうにブランを見た。
「真ん中に座る人は初めて見たよ。今までの男は、みんな扉が見える一番奥の席に座っていたからね」
そういうものかとブランは思った。自分も無意識に真ん中の席ながら扉が見えるところに座っている。
酒壷を抱え女が下がった店の奥から、かちゃかちゃと酒の用意をしているらしき音が聞こえる。女を送り届けたのだから、もう用は済んだはずなのだが、道中の会話から女が自分を新しい男だと決めているのをブランは感じていた。男にしようとしているのではない。もう決めているのだ。
女が抱えていた酒壷よりもっと小さな壷と、杯を2つ盆に乗せて持って来た。卓に置きブランに杯を持たせるとそれに注ぎ、自分も座った。
「俺の名は、ブランという。抱く女の名くらい、知っておきたい」
当たり前の事と落ち着いた口調で言い、ゆっくりと杯に口を付けた。
「あ。ごめんよ。アレットっていうの。ブラン」
早速、アレットは新しい男の名を呼んだ。風格すら感じさせる落ち着いたブランの仕草に、既に瞳が潤んでいる。その視線を受けても、ブランは落ち着きゆっくりと杯を傾けている。女など、飽きるほど抱いてきたという貫禄があった。
「なんか緊張しちゃうな。今までも女を泣かせて来たんだろ?」
ブランの落ち着いた振る舞いに、女の方は緊張しながら空になったブランの杯に代わりを注いだ。緊張で、杯に酒壷がカチカチとぶつかり音を鳴らす。
「いや。女は抱いた事がない」
「そうなの!?」
女が目を丸くした。今まで女が相手にしてきた、どんな経験豊富な男よりも落ち着いている。
「今まで、抱きたいと思った女に、会った事がない」
そう言って、杯に口を付ける。やはり落ち着いたその貫禄は女に関しても百戦錬磨に見える。だが、それだけにつまらぬ嘘を吐く男にも見えない。
そして事実、嘘ではない。美しいと思う女に会った事はある。大半はブランを恐れたが、中にはブランのような、獣気の強い男を好む女も多く誘われる事もあった。だがブランは相手にしなかった。その女は獣のような男に汚され、従わされる自分に被虐的な興奮を覚えた。だが、それは対等ではなくむしろブランを下に見ているという事だ。
無論、ブランは強靭な肉体を持つ男だ。当然、性欲はある。だが、たとえどんなに美しくとも、虎は豚と交わらない。同じ魂を持つ者以外とは肌を合わせる気は無いのだ。
「だが、お前は抱きたい」
この女が求めているのは、強い男の粗暴さでは無かった。強い男の優しさなのだ。
並みの男が言おうものなら鼻で笑われるブランの言葉に、アレットは心が満たされるのを感じた。やっと出会えたという思いと、今までの男達への感謝。それらがあって今の自分があるのだ。アレットの頬に涙が流れていた。
朝、ブランが目を覚ますと、アレットはまだ寝ていた。それは軍隊生活で朝早く目覚める習慣が身に付いたブランと、仕事は日が昇ってからという酒場の女主人との差ばかりではない。
アレットを起こす必要は無いと音を立てぬように身支度をし、扉に手をかけたところで動きを止めた。寝台≪ベッド≫に戻りアレットの頬に触れる。
「え……。なに?」
女が目を覚まし上半身を起き上がらせた。黒い髪は乱れて汗で乳房に張り付き、昨晩の情事の激しさを物語る。
「隊に戻る。また来る」
それだけ言うと背を向けた。その背を女の声が追いかける。
「起こしてくれてありがとう。起きた時、あんたが居なったら泣いちゃったよ」
ブランが振り向くと、アレットの微笑があった。
アレットと一夜を共にしてから数日が過ぎていた。また来ると言ったが、ブランの休暇の順番はまだまだ先だ。女の部屋に一晩泊まったので、ブランは1回分休暇を飛ばしたのだ。
「それが筋といえば、筋なのだが……」
リュシアンは、そこまでする必要は無いと考えたが、ブランは譲らなかった。仕方が無いのでリュシアンが休暇の日にアレットの酒場に行き、ブランが次に来るのはかなり先になると伝えた。アレットは、困った人ね、と苦笑した。
ブランがまた偵察に出た。今日は特に血が騒ぐと、虎牙槍を手に馬を駆けさせる。
「デル・レイやケルディラが動くとは、まだ聞いていないがな」
と言いながらもリュシアンが後に続く。
いつもの丘に登った。だが、その風景はいつも通りのものではなかった。遥か遠くに見える海に何か胡麻粒のような黒い点が無数に浮かんでいた。海と陸地の狭間から煙が昇っている。
「何か様子がおかしいな」
リュシアンが言ったが、ブランは無言のままだ。ブランの血がざわめいた。やっと来たか。そう思った。更に近づこうかとした時、向こうから土煙が上がり徐々に距離が縮まってきた。向こうから来るのなら、丘の上に居た方がその全貌が見渡せる。
広く低い土煙が近づいてくる。それは、間違いなくどこかの国の軍勢だった。
軍人であるブランは、隣国の軍旗、有力貴族の家紋の意匠を頭に叩き込んでいる。だが、近づいてきた軍勢に掲げられているそれらの旗はブランには見覚えのない物ばかりだった。
「お前は、分かるか?」
学問に励んでいた所為で、リュシアンの視力はブランより低い。ブランが聞いてしばらくしてから、リュシアンは愕然とした表情を見せた。
「まさか……」
「どこの軍勢だ?」
「バルバールだ。バルバールの軍旗だ……。しかし、まさかこんなところに……」
「何をそんなに、驚いている」
可能性は低いと考えていたが、来るとすればランリエル勢力の軍勢だ。海から来るのは予想外だったが、その一員たるバルバール軍なら想定内のはずだ。
「総帥旗がある……」
「総帥旗だと」
その言葉にブランも目を見開いた。
「バルバール軍総司令。フィン・ディアスのお出ましだ」