第47話:平穏な日々
その日、サルヴァ王子はランリエル軍総司令府の執務室に居た。最高級の樫で作られた机の上を膨大な報告書や資料が占領している。公式な地位こそランリエル軍総司令だが、実際のサルヴァ王子の守備範囲はそれを大きく超えている。ランリエル国内の内政は勿論、カルデイ帝国、コスティラ王国の統治、ベルヴァース王国、バルバール王国との折衝。それだけでも常人ならば気が狂いそうなほどの激務だが、更にケルディラ王国との戦後処理も抱え込んだのだ。
それらには担当の責任者を任命しているが、王子の性格上、物事を決行するには、それらの実現性や功罪、かかる対価を把握する為計画書に眼を通さなくては気が済まず、許可の判断をするには膨大な資料を読まなくてはならない。結果報告を受けるのも重要だ。
王子の執務室の前には決済を待つ者達が長蛇の列を作った。彼らは何とか自分の順番を早められないかと交渉に余念が無い。今日もランリエルとバルバールとを繋ぐ街道および宿場町の整備を担当する者と、カルデイ帝国内の独立国家群の監視を担当する者との間でやりとりがなされていた。
「資材を運搬する船の出港が迫っている。今日中に殿下の決済を頂かなくては、次の便を待つか、別の船を用意せねばならんのだ。そうなれば時間と経費が更に掛かってしまう。どうか、私に順番を譲って貰えまいか」
「他の者達にもそのように言われ順番を譲った挙句、既に3日も待たされているのだ。ご遠慮頂こう」
「た、確かに3日も待たされている貴公には同情するが、それとこれとは話が別で御座ろう。貴公の決済が今日中でなくても問題が無いならば、どうか聞き届けてはくれまいか」
街道担当者は懇願したが、独立国家担当は頑として首を縦に振らない。同様なやりとりがあちこちで見られた。
執務室では、書類に眼を通すサルヴァ王子の前で、ケルディラから得た領地の最前線となるテレス川沿いの砦群建設担当者が額と背中に冷や汗を流していた。既に最低限必要な砦は建設されているが、更に増強中なのだ。
「この資料を見る限り、行程に余裕が無いように思えるのだが問題は無いのか? 1つ躓き遅れが出れば、後の行程にも支障があろう」
「は!」
担当者は、急いで駆け寄り脇に抱えていた資料を王子の前に広げた。
「その部分の建設で御座いますが、それとほぼ同等の物をこの通り以前にも行っております。計画はそれを踏まえてのものですので、十分可能であります」
気弱に答えれば計画に懸念を持たれると、意識して断言した。
「なるほど。それならば了解した」
王子は頷き、担当者は胸を撫で下ろした。このような処理が幾人も繰り返された。王子の後ろに控えるウィルケスが、不敬にもランリエルの王様は何をやっているのかと思うほどだ。
もっとも国王を責めるのはお門違いである。一般的には、息子が父王の権力を奪っていると見られる状況であり、サルヴァ王子こそが非難される立場なのだ。その意味ではサルヴァ王子は明らかに暴走しているのだが、それを許すランリエル王は真に寛大と言うべきで、ウィルケスの感想は王子びいきと言わざるを得ない。
職務の合間に、貴族達がカード遊びをしながら食べられるようにと考案した、パンに肉や野菜を挟んだ物を口に入れつつ夜まで処理をした。
列を成す者達はまだ残っていたが、今日はここまでと追い返された。彼らは待ち続けた挙句今日中に処理して貰えなかったという不満を抱きつつも、とにかく宿に帰れると安堵の溜息を吐きつつ引き上げていく。
「お疲れ様でした」
「ああ」
労いの言葉をかけるウィルケスに王子が短く答えた。担当者達が引き上げたのを見計らって老執事が持ってきた葡萄酒を受け取ると、一気に飲み干す。空になった杯を受け取った執事が一礼し無言で立ち去る。その動きにはまるで機械仕掛けのように無駄が無い。
既に晩餐の時間は過ぎている。勿論、王子が一言言えば、宮廷料理人達は何時であろうと正餐を作るが、王子はそうはしなかった。
「お前も、もう下がれ」
ウィルケスに声をかけ執務室を後にした。だが、王子の足は私室を目指さない。このような時に、王子がどこに行くのかを知る副官は、野暮な問いかけはしなかった。
王子は一見無造作に大股で歩いているが、僅かにも足音は立てない。その姿を目にしなければ、誰も居ないかのようだ。目指した部屋の扉の前で足を止めると、その扉も音を立てずに開けた。
扉を叩くくらいして下さいと、部屋の主に何度も言われたが王子は守らない。他の多くの事に付いて、部屋の主の’いいつけ’を守る王子だが、これだけは守らなかった。誰かに、この部屋に入るのを知られたくないと考えていた。
「あら。殿下。こんな夜更けにいかが致したのです?」
予想外の声に王子が驚いた。入る部屋を間違えたのかと反射的に背を向けかけたが、求めていた者の姿を視界の角に捉え、足を止めた。
「あ。殿下……」
と、部屋の主の声に、なにやら気まずい雰囲気が部屋を包む。
状況を計りかね立ち尽くす王子と、間男を部屋に引き入れたところを夫に見付かったかのような後ろめたさを感じるアリシアの間で、コスティラ王国公爵令嬢ナターニヤは悠然とお茶を飲む。
先日のお茶会での一件以来、アリシアは、どうせ彼女も王子目当てで自分に接近しようとしているのだ、という先入観を除けば、親切な友人としての振る舞いを逸脱していないナターニヤに、色眼鏡で見過ぎていたかとも思い始めていた。
そして当のナターニヤは、アリシアの心の変化を見逃さず、それを橋頭堡として更に領土を拡張すべく日々アリシアの部屋に通っているのだ。
「つい遅くまでアリシア様とお話してしまいましたわね。まさか、殿下がアリシア様のお部屋に起こしになる日とは思いもよらず……。アリシア様も、そうならそうと仰って下さればよろしいのに」
ナターニヤの微笑を受け、王子とアリシアは言葉が無かった。通常、王子が寵姫の部屋を訪れる時には前もって伝え、寵姫は月の物や体調を考え返答する。そうしなければ、せっかく王子が部屋に足を運んだにもかかわらず追い返す事になりかねない。
王子の来訪の連絡を受けた寵姫は、夕刻までが期限と急いでお風呂に入り体中に香油を塗り、王子を持て成す準備に勤しむのだ。友人を部屋に招いてお茶をする時間など微塵も無く、当然、部屋で王子と他の寵姫が鉢合わせるなどありえないのである。
王子がアリシアの部屋に足を向ける時は、いつも連絡をしていないのだが、それでも今まで他の寵姫と鉢合わせなかったのは、アリシアが寵姫を部屋に招く事が無かったからだ。
王子が連絡をしないのは、アリシアは寵姫ではなく友人だから。少なくとも2人はそう考えているが、他の者にそれを話せば、いらぬ’誤解’を受けかねない。
「そ、そうですわね。ついうっかりとしておりました。今日は、殿下が起こしになるのでしたわ」
「そうでしたか。それでは私はお邪魔ですわね。退散いたします」
ナターニヤは、無駄の無い動作ですくっと立ち上がると、淑女の慎ましさに反しない程度の早足で扉に向かった。扉に手をかけ廊下に足を踏み出したところで振り返った。
「あ、アリシア様。それでは先ほどの件。よろしくお願い致します」
アリシアに微笑み、王子にも一礼すると今度こそナターニヤは部屋から姿を消した。寵姫としては、部屋の主が誰であろうと王子にこそ先に挨拶すべきだが、それだけにアリシアとの親しさを感じさせる。無論、王子がこの程度で腹を立てはしないとの計算もある。
アリシアも反射的に挨拶を返したが、頭には疑問符が浮かんだ。ナターニヤの言う、先ほどの件、が何を指しているのか分からない。アリシアとて、会話の全てを注意して聞いていた訳ではない。無意識に相槌を打ってしまったのかとも思う。なので王子から、
「先ほどの件とは何なのだ?」
と聞かれても、いえ、別に、と言葉を濁すしか出来なかった。
だが、アリシアの心を読めぬ王子にはそれが分からない。アリシアとナターニヤの間で、自分には話せぬ隠し事があると感じてしまう。そうなればナターニヤが気に掛かる。
「お前が部屋に他の寵姫を招くなど珍しいではないか」
「先日、ナターニヤ様のお茶会にお招き頂きました。そのご縁で親しくさせて頂いております」
リヴァルと兜の話をしたとは言わなかった。お茶会ではやむなく話したが、本来他人に話す事ではないのだ。他人に話したと知れば、王子は不快に、いや、傷付くのではないか。アリシアはそう感じていた。
「ほう。お前が他の寵姫と親しくか。珍しい事もあるものだ」
王子は率直に感想を述べた。王子のナターニヤの印象は決して良いものではないが、今までどの寵姫とも親しくしなかったアリシアが部屋に招いたとなると、改めて評価しなおそうかとも思えてくる。
「はい。とても親切なお方で、ご実家がコスティラ王国の公爵のお家ですので、ケルディラとの戦争の情報に詳しいと……。皆さんも殿下のお身が気がかりでしょうと、他の方々と共にお話を聞かせて下さったのです」
リヴァルと兜の件を隠したまま、ナターニヤと親しくなった理由を話そうとすれば彼女の人柄を褒めるしかない。そして、事実ナターニヤは親切なのだ。無論、計算ずくなのだが尻尾を見せない。この時2人は完全にナターニヤの術中に嵌っていた。
その後、しばらくナターニヤについて話したが、そもそも王子は晩餐を食べずにこの部屋に来たのだ。空腹は限界に来ていた。本人の意思にかかわらず、腹の虫が、ぐう、となったのは仕方ない。
30を過ぎた男が、育ち盛りの少年のように腹を鳴らした事にアリシアはつい噴出した。普段、臣下には隙のない振る舞いを見せる王子も、それだけにこの失態に赤面する。そしてアリシアは、王子が赤面した事に更にクスリと笑った。
「晩餐を食わずに働いていたのだ。仕方が無かろう」
決まり悪さを隠す為か、ことさら不機嫌に言う王子に、拗ねさせてしまったかとアリシアは笑いを収めたが、口元に微かに笑みが残って見えるのは王子の僻みばかりではない。
「少しお待ち下さい。何かご用意致しますわね」
まったく手の焼ける弟だわ。と、王子が知れば拗ねるどころではない事を考えながら、アリシアは奥へと向かった。寵姫の部屋に本格的な料理を作れる設備など無いが、王子を持て成す為のパンや酒などは常に用意されていた。宮廷料理人に頼めば作った料理を運んで貰う事も出来るが、あまりにも大仰に過ぎてアリシアは頼んだ事が無い。
「このような物しか有りませんけど」
数切れのパンとチーズ、葡萄酒を盆に乗せて来たアリシアが王子の前にそれを並べると、アリシアいわく’拗ねた’表情のまま王子が口に運ぶ。長身の部類に入る王子の食欲はそれに見合ったもので、用意したパンとチーズは瞬く間に無くなり、アリシアは再度奥に姿を消した。
戻ってきた時、お盆にはパンとチーズが山と積まれていた。どう見てもさっき持って来た量を遥かに超えている。
「さすがにそんなには食べきれないぞ」
と、育ち盛りの王子が、つい口に出してしまうほどだ。もっとも、それは王子の早とちりだった。
「いえ。私も頂こうと思いまして」
どんどんと王子の腹の中に消えるパンとチーズを見ているうちに、アリシアも食欲がそそられ自分も食べたくなったのだ。無論、アリシアは既に晩餐を食べている。
王子とアリシアは、しばらく無言でパンにチーズを乗せた物を口に運んだ。その時、なんとなく満たされた気分になった王子が、つい気が緩んだ。
「しかし、こんな夜更けにこれだけ食べては、太るかも知れんな」
パンに手を伸ばしたアリシアの手が、ぴたりと止まった。
「それは、私に言ってるのですか?」
と、王子を睨んだ。
「い、いや違う。自分に言ったのだ」
否定しつつも、失言に気付き王子は背中に冷や汗を流した。王子の言葉を信じていないのか、アリシアは王子を睨んだままだ。
「殿下」
「なんだ?」
「それは、女性には言ってはいけない言葉です」
「分かった。覚えておこう」
お前に言った訳ではないと思いながらも、逆らいがたいものを感じた王子が素直に頷いた。こうして、王子が守るべきアリシアのいいつけが、また増えたのだった。