第45話:夜動く
静かな夜だった。月が出ていた。上弦の月が夜空に浮いている。その下に一人の女が居た。
リンブルク王宮に仕える侍女が、ゆっくりと廊下を歩いていた。右手に明かりを持ち、左手で古びた書物を抱く。書物の角が胸に埋もれている。豊かで柔らかそうな胸である。
表情は硬い。無機質な人形のようである。襟までしっかりと閉じた紺の制服に身を包み、長い足を規則正しく動かしている。計ったように同じ歩幅を保っていた。
その時、風が横切った。長い黒髪が靡いて、豊かな胸をなでながら戻る。侍女は髪を纏めているものだ。だが、彼女は豊かな胸に流している。背中の方は腰の辺りまで伸びていた。
シモンは、リンブルク国王ウルリヒに命ぜられ部屋に向かっていた。その顔には何の感情も浮かんではいない。その表情のまま途中すれ違う当直の兵士達に軽く会釈し、切れ長の黒い瞳をまっすぐ前に見据え歩く。
大きな扉の前で足を止め、その扉を叩いた。
「うむ」
返事がし部屋に入る。
国王ウルリヒ・シュトランツは40歳を過ぎたばかりだが、老け込み50ほどに見えた。もっともこれでも’マシ’になったのであり、以前は50を遥かに越えて見えていた。肌の艶も以前より良い。
「王は夜毎、あの面を被ったような侍女を呼び何をしているのか」
臣下達は声を潜め噂した。王が以前から侍女を呼び書物を朗読させていると皆は知っていたが、それがいつしかシモンばかりとなり王の顔に精気が戻ってくると自然とそう囁かれた。
今では王が侍従長に命じるまでも無く、当たり前のようにシモンが王の部屋へと向かうまでになっている。
昼間、しっかりと髪を結い侍女として働いていると男達の嘲笑が聞こえた。
「あんな顔色一つ変えぬ女など、人形のようで面白くもあるまいて」
「いやいや、意外とあのような女が、良い声で鳴くのかも知れませんぞ」
男達には一瞥もくれなかった。存在せぬ者として淡々と仕事を進めた。反応せぬ侍女に男達は、
「やはり人形ではないか」
と捨て台詞を吐き去った。
部屋の中央に置かれた椅子に王が座していた。多くの明かりに照らされていたが昼間の明るさにはかなわず、顔に刻まれた皺の影を更に深くする。その顔は、やはり50を遥かに越えて見えた。
「おお。シモンよ。シュバルツベルク公よりの返事は持って参ったのであろうな」
待ちかねた王が、痩せた手をシモンに伸ばした。その腕には多くのシミがあった。
「はい。こちらに」
差し出したのは胸に抱いていた書物だ。人肌に温まったそれを手に取り、王は玩具を与えらた幼児の笑みを浮かべた。だが、うむ。うむ。と、いとおしげに書物をなでるその手つきは、なにやら淫猥さも感じさせる。
公からの手紙を書物に隠している訳ではない。その書物こそが手紙だった。古くところどころ汚れている、その汚れの部分の単語を組み合わせれば言葉となる。
無論、先頭から順番に汚れた部分を読めば良いといった、あからさまなものではない。どこにベルトラムの目が光っているとも限らぬ。事は秘匿を要するのだ。
書物には一遍の’しおり’が挟まれている。色とりどりの花々が描かれていた。花びらの数もそれぞれ違った。その花びらの数が、文章を形作る単語の場所を表している。
初めの花は、5枚の花びらを持っていた。次の花は4枚。5つ目の単語とそれから4つ目の単語を合わせるのだ。文章の終わりには、月桂樹が飾られていた。そしてまた花が続く。
その暗号を読み解くのは難しくは無いが手間はかかる。だが、暇を持て余す王は苦にならない。むしろ宝の地図を読み解くように嬉々として日々時間を費やしていた。シモンを呼ぶのはほぼ毎日だが、シュバルツベルク公とのやり取りは、その度にという訳ではないのだ。
王に渡した書物の代わりに前回渡した書物を受け取り、王からの返事は口頭で受けた。シモンはそれを完璧に暗記出来る。そうやって王と公は連絡を取っていた。
「して、ベルトラムを討つとの公の言葉、間違い無いのであろうな」
「はい。必ずや陛下のご期待に応えて見せます。との言葉で御座います」
「じゃが、いっこうにベルトラムを討つ気配を見せぬではないか」
王は苛立ち口調が強くなったが、シモンはまったく表情を変えぬ裏で溜息を付いた。そしてそろそろ10度目になろうかという同じ台詞を繰り返す。
「ベルトラムの首を取るのは難しくはありません。常に十数名の護衛を傍に置いておりますが、百人ほどで囲めば造作もない事。ですが問題はその後です。ベルトラムを討って、それでゴルシュタットの軍勢が消えてなくなる訳ではありません。ベルトラムの死を口実に、今度こそ完全にリンブルクが支配されてしまう可能性も高こう御座います。ベルトラムを討つのは、ゴルシュタットに手を出させない状況を作り出してから、で御座います」
「それはそうであろうが……」
「陛下。どうか今しばらくのご辛抱を」
シモンが王の足元に跪き、指が長く形の良い手を皺だらけの手に置いた。滑らかな手の平が、かさついた手の甲をなぞり、その後強く握り締められた。
「必ずや陛下を、このリンブルクの真の王の座にお迎えしてみせまする」
「信用して良いのであろうな」
「陛下。私は陛下の忠実な僕で御座います」
「その言葉、違うで無いぞ」
「この身にかけて。陛下」
「うむ」
「仔細は、いつも通り、暗号となっておりますので、この後ごゆるりと御読み下さい」
「分かっておる。公の忠誠うれしく思うぞ」
「陛下のお言葉、シュバルツベルク公にお伝え致します」
ウルリヒは、王としての威厳を持って頷いた。だが、次の瞬間にはその威厳も霧散する。
「では、今日も読み聞かせて貰おうか。座るが良い」
そう言って指し示した場所は、何と自分の膝の上である。顔も好色に弛緩し’崩れた’表情を浮かばせている。
「ご無礼致します」
シモンも、いつもの事と躊躇せず言われるままに王の膝の上に座った。細い腰に比べ、意外と肉付きの良い尻が、王の膝に重みを与える。
「前回の続き、第三章の初めからです。大臣が差し向けた軍勢から町を救った勇者が、王都を目指し町を出たとこ……ぁ。失礼しました。町を出たところからです」
「うむ」
言いながらウルリヒは止まることなくきっちりと留めたシモンの制服の中に強引に手を伸ばした。結び目のある背中から割って入り、敏感な脇を撫でる。王の手に、滑らかな肌とうっすらと浮き出た肋骨の感触を伝える。その肋骨にそって指がはうと、シモンの背がびくりと仰け反った。
「良いか。シモン。皆はお前が我が部屋に来るのは、情事の為と思っているそうな。ならば、そう思わせておくのが良いのじゃ。それでこそ真の秘密が守れると言うもの。そうであろう?」
「陛下の……。仰せの通りで御座います」
とは言うものの、情事を行うなら行うで普通にすれば良い。王は、人形のように表情を変えぬ侍女を嬲るのに加虐的な愉悦を感じていた。以前には、そのような趣味は無かった。しかしゴルシュタットに押さえつけられ、ベルトラムに侮られる日々が、王の精神を歪に変化させたのだ。
「では、続けよ」
と、シモンの制服の結び目を解き白い背中が肌蹴てゆく。
「はい。大臣の軍勢を町の者達と力を合わせ打ち破った勇者は、王都を目指し――」
シモンは平静を保ち読み進めようとするが、もはや話など聞いていない王は、むしろそれを邪魔する楽しみを覚え、侍女の身体をまさぐり続けた。制服の上から乳房を揉みしだき、足を強引に開かせる。あるところに指が達しシモンが朗読に詰まると、王は嬉々としてそこばかりを責めた。
「どうしたシモンよ。ちゃんと読まぬか」
王の顔に、虫を殺し喜ぶ幼児の残忍な笑顔が浮かぶ。その間にも王の指は動き責めた。
「申し訳ありません。……陛下」
男達を笑えぬ。老いた手を身体に感じながら、シモンは思った。
数時間の後、シモンは来た道を戻っていた。侍女の制服は、ところどころ皺があるものの汚れてはいない。嬲るだけ。それが老いた王の楽しみ方だった。だがそれゆえに行為は果てる事無く王が睡魔に耐えかねるまで続いた。東の空がすでに白みがかっている。
夜通し嬲られた身体で睡眠も僅かに早朝から侍女の仕事をこなした。普通の娘ならば倒れても不思議ではないが、彼女には何ほどでもない。他の者よりすばやく部屋の掃除を済ませ、周囲に神経を張り巡らせながら壁に寄りかかって身体を休ませる。それを数度か繰り返すだけで十分だった。
侍女長からの評価は、愛想は悪いが仕事は丁寧で働き者と良かった。無口なシモンに何かと話しかけ気を掛けてもくれた。もっとも、王からのお呼びが頻繁になるとそれも少なくなった。
その夜もシモンは廊下を歩いていた。やはり胸には書物を抱いている。前から来る当直の兵士から好色な視線を向けられたが一瞥もせず会釈する。兵士達の間にも、王とシモンの関係は有名なのだ。
だが、兵士から乳房と尻に視線を受けながらすれ違うと、常に変わらぬシモンの進みが遅くなった。足音の鳴る間隔は同じだが、歩幅は僅かなものだ。しかし足音は段々と小さくなる。兵士の耳にはシモンが歩き去っていくように聞こえたが、実際にはほとんど進んでいない。
お互いの足音が薄れ静寂が訪れると、ちょうど横にあった扉に吸い込まれるように姿を消した。この部屋に入る予定だったのを兵士とかち合ってしまったのだ。王の部屋に向かう事になっている。一旦通り過ぎてから戻って、その時にまた誰かとすれ違うと面倒だ。
「王は、どんなご様子であったか?」
部屋で待っていたのはシュバルツベルク公である。挨拶も無く用件を口する主人にシモンは礼儀正しく一礼した。
僅かな明かりに照らされたその顔は、公いう爵位から受ける印象とは違い意外と若く30歳にも満たぬ青年である。長身にこげ茶の髪を短く切りそろえ、身体つきもしっかりとし、公というより騎士と呼ぶのが相応しく見えた。先代の当主である父が昨年より病を得て病床に伏し、当主としての役目を果たせずと若き息子に爵位を譲ったのである。
シュバルツベルク公は幸運であった。傲慢で人を人とも思わず配下の者を酷使する。才もあるがそれ以上に部下に対する苛烈な要求が結果に結びつき、反ベルトラム陣営の首領の座を得ていた。だがその部下に対する酷使も公という爵位があってこそ。もし市井の一市民として生まれていれば、その性格は周囲から爪弾きにされるのが落ちであろう。だが事実彼は公あり、絶大な力を握っている。
また彼には行動力もあり、事が露見すれば命の無い博打に手を染めている自覚もあった。他には頼まず、自身でシモンに会いに来たのもその為である。
「いつになればベルトラムを討つのかと、ご懸念を抱いておいでです」
「何時もの通りか。自身は何もせず救って貰うだけを求める王としては、こちらの苦労など知りもしまい」
「シュバルツベルク公の忠誠をうれしく思う。とのお言葉も頂いております」
「ふっ言葉くらい幾らでもでよう」
鼻で笑うその言葉は、救国の首領にしては王への忠誠を感じさせなかった。シュバルツベルク公は、いうなればベルトラムに成り代わろうとしているに過ぎない。
ベルトラムによる独裁が、シュバルツベルク公による独裁に代わるだけ。そしてベルトラムに組したリンブルク貴族がそのお零れに預かっていたのが、シュバルツベルク公に組したリンブルク貴族がお零れに預かるのだ。何も変わりはしない。
王がそれに気付くのはいつであろうか。いや、それすら気付かず、救国の英雄をその見返りに宰相の座につけ、国家の再建という重責をも託した。そう自身を納得させ、幻の楽園に心を休ませるのか。シュバルツベルク公は、王の心をその道に誘導する計画であった。
「王は焦っておいでです。あまりお待たせすると、周囲の者にもなにやら漏らしかねないかと」
「それをさせぬのもお前の役目だ。王はお前に執着と聞く。精々王をたぶらかし、余計な事は考えさせぬようにするのだ」
「畏まりました」
シモンの返答は、公も気づかぬほど僅かに間があった。
「しかしお前は思わぬ拾い物であったな。連絡係にちょうど良いとリントナー男爵から譲り受けたが、まさか王がお前を求めるとは思いもよらなんだわ」
公は失笑を漏らした。シモンの顔には何の感情も浮かんではいない。
リントナー男爵とは、王に接近する3ヶ月ほど前にシュバルツベルク公らの勢力に加わった貴族である。公と連絡を取るのに家中の者を使者に差し向ければベルトラムに察せられると、王宮の侍女にシモンを送り込み、公が王宮に伺候した時を狙い近づいたのである。
「シュバルツベルク公爵。公爵にお会いしたいという方が控えの間にお待ちで御座います」
シモンはそういって公爵に声を掛け、別室へと誘った。王宮内は例え公爵といえど護衛は連れてはいけぬ。ベルトラムが護衛を連れているのはあくまで特例であった。
そして、王と連絡を取るのにもちょうど良いとシモンを譲り受け、シモンは公の’物’となった。少なくともシュバルツベルク公はそう認識していた。
「して、ベルトラムを討つのはいつごろとなりますでしょうか。王をご安心差し上げる為にも、差し支えなければお教え願います」
「差し支える」
公の返答は冷たく短かった。
もっとも問題もあった。事を起こすのは、ベルトラムを討つのはゴルシュタット軍に介入出来ない状況を作り出してからだ。その方法は2つ。1つはリンブルクへの侵攻をさせぬようにゴルシュタット軍に大打撃を与える事。もう1つはゴルシュタットにベルトラムを切り捨てさせる事だ。
ベルトラムを失脚させようとゴルシュタット王国へと手を伸ばしてはいるが状況は芳しくない。ベルトラムの政敵としてゴルシュタット宰相の座を狙う男に狙いを定め、資金を提供し活動を始めた。その矢先に事が露見し潰される。それを繰り返していた。
それが2人も続くと、3人目はまた断頭台に送られると恐怖にかられ、その動きはいかにも鈍い。公自身がいつになる事かといらだっている状態であった。それを、その場しのぎにいつまでには必ずや、と伝えたところで言を違える可能性が高く、そうなれば余計に王の不安を煽るだけであろう。
これ以上の問答は無用と、公は奥の部屋へと続く扉に向かった。王宮の部屋は複雑に繋がっており、更に進めば別の廊下へと出るのだ。シモンに掛ける言葉は無い。彼女は彼の道具であり、道具に挨拶するほど公爵は酔狂ではなかった。
部屋にはシモン一人が残された。感情を浮かべない顔。僅かも皺のよらない制服。白く長い指。細く形の良い脚。微動だにせず立っていた。人形のように立っていた。
不意に、声を立てずに笑った。